久しぶりに友人とあってアフタヌーンティーにしました。贅沢。何か月ぶりかな。
正岡子規「墨汁一滴」読了。
昔夏目漱石の現代語訳が出ると聞いた時、夏目漱石で?とびっくりしましたが。その時点でも旧字は当用漢字に直してあったしフリガナは降ってありました。元の文章で入れてある全集を見たとき読みづらいと思いました。ましてや正岡子規は文語調。しかも晩年の病床で書いた随筆らしい。読みづらいよ暗いよ。でもどこかに金魚の描写があるらしいと情報を得て挑戦(どこで仕入れたの?)。いつか出て来る金魚のために。...あれ意外と楽しい。あっちが痛いこっちが痛いという描写はありますが、客観的でこっちまで気がふさぐというものでもありませんでした。梶井基次郎ののんきな患者くらい。ボヤキは多いですが。それに俳句や短歌に対しての評が面白いです。プレバトの夏井先生の言葉を聞いているみたい。ものすごい数の句を見ているのでしょうね。間違いやすい漢字から季語の勘違いなどいろいろ書きつけてあります。あまりに平凡な句ばかり出て来る季語についてはこの季語が使ってあるのをまとめて落としたいとか。後ろの方に昔の試験の思い出がありました。英語でわからない言葉があったので悩んでいると隣の男が「幇間」だと教えてくれたので意味が通じないまま訳したら実は「法官」だったとか。あれ、坂の上の雲だったかな、ドラマでそのシーンを見たぞ。香川照之さんが子規でした。これからとっていたのか。
金魚はまず四月十五日に
ガラス玉に金魚を十ばかり入れて机の上に置いてある。余は痛みをこらへながら病床からつくづくと見て居る。痛いことも痛いが綺麗な事も綺麗ぢや。
五月二十二日
遠洋に乗り出して鯨の群を追い廻すのは壮快に感ぜられるが佃島で白魚船が篝火焚いて居る景色などは甚だ美しく感ぜられる。太公望然として百本杭に鯉を釣つて居るのも面白いが小い子が破れた笊を持つて蜆を掘っているのも面白い。しかし竹の先に輪をつけて臭い泥溝をつついてアカイコ(東京でボウフラ)を取つては金魚の餌に売るという商売に至っては実に一点の風流気もない。それでも分類するとこれもやはり漁業といふ部に属するのだそうな。
六月一日
ガラス玉に十二匹の金魚を入れて置いたら或る同じ朝に八匹一所に死んでしまつた。無惨。
やはり金魚は美しいのね。ボウフラ取りが漁業に納得できないも何となくわかります。前にドジョウを飼い始めたときまだ飼い方の本がなかったから図書館で古い本を借りてきました。それが水産業の養殖の本でしたから。水辺の生き物を捕るのはボウフラといえど漁業なのよね。そして六月に三分の二死んでしまったのね。残った子のその後はわかりません。誰かが引き取ってくれていたらいいのですが。