自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆政治と憲法のはざま

2015年09月18日 | ⇒メディア時評
   安保法制をめぐる動きで、気になるのか言葉の質の低下である。衆院本会議で安保法案が可決された7月16日、新聞紙面を拾ってみると、こんな言葉があった。以下。

   本会議の採決を退席した民主の議員は「これほど国会の中の光景と、国会の外の国民の声がかけ離れて聞こえた経験はない」と語った。議員は審議を振り返り、「総理は何をしてもいいとお考えなら、勘違いされているのでは」(7月17日付・朝日新聞)

   この議員は世論がこれだけ安保法制に国民世論が異議を唱えているのになぜ法案成立へと突き進むのか、と言いたいのだろう。しかし、これは政治家の言葉だろうか。世論を味方につけるという政治手法はあるが、この安保法制はそのレベルの議論なのだろうか、と思ってしまう。

   憲法を守る立場に政治家が改憲という正式な手続きを踏まずに、中身だけを変える、いわゆる解釈改憲をするのは、憲法に対するクーデターであり、民主主義の危機だと法案に強く反対する声がある。その声の背景をさらに突き詰めると、国際法との解釈と連動してくる。集団的自衛権は国連憲章でも例外的に認めている。が、実際には自衛というより、軍事的に優位なアメリカが自国の権益や利権を守るために武力を行使するための「口実」にすぎない。今回の安保法制は、アメリカの世界戦略のために自衛隊とアメリカ軍の一体化を進める狙いが透けて見える。だから、反対という立場だ。

   これに対し政治の論理がある。まとめると、戦後の日本の平和は憲法9条で守られてきたというのは現実的はない。日本とアメリカの安全保障条約があったがゆえに戦後の平和も守られてきた。では、なぜこれまで日本は集団的自衛権に踏み込んでこなかったというと、アメリカとソビエトの冷戦時代があり、一方に組すると米ソが全面戦争になった場合、その戦争に参画さぜるを得なくなる、それは9条にも反し、余りに危険というのが政治の立場だった。ところが現在は全面戦争ではなく、地域紛争の時代である。たとえば南シナ海といった海域で、中国とフィリピンの有事があれば、中国との尖閣問題を抱える日本にもその影響は及ぶ。そのときに、自衛の手段が集団的か個別的かという議論をしている場合でなない。東アジアの国々と紛争の平和的解決に向けて連帯的に行動を取る必要がある。

   周囲に地域紛争の可能性がなければ、ときの政権が9条の立憲の精神を見直して安保法制を破棄すればよい。つまり、9条というのは政策目標であるべきで、日本の平和を守るために、世界の政治の動きを見ながら、集団的自衛権に組する、しないを判断すればよい。そう考えるのだが。

⇒18日(金)朝・金沢の天気     くもり
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