自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★「教師は聖職」揺らぐ信頼

2021年04月10日 | ⇒ニュース走査

    半世紀ほど前、教育論をめぐる議論が政界であった。田中角栄が人とモノの流れを巨大都市からに地方に分散させると著書『日本列島改造論』でぶち上げ、1972年に総理の座に就いた。列島改造ブームによる高度成長で民間給与は上昇した。一方で労働運動も高まり、社会党と日教組は教師は労働者であり、労働に正当な評価と報酬を堂々と要求すればよいと組織を拡大した。これに対し、田中内閣は「教師は聖職だ」と述べて真っ向から対立し、教師の給与改善で日教組の切り崩しを図った。

   その後も教師の聖職論をめぐっては議論が続くことになる。教育現場の多忙さから、教師は教育的な仕事のみに専念できるようにすべきという「本務論」が出る。すると、本務以外に雑務労働を設けることは職業における差別構造をもたらすといった議論が起きる。さらに、教師は聖職であり労働者でもあるという「教育専門家」の定義づけも出てきた。今でも自民党は教師を聖職、社民党は労働者、共産党は教育専門家とそれぞれ違った教師像を描いている。

   ただ、社会的な目線はやはり「聖職」なのかもしれない。これは自身が感じたことだ。2005年にそれまでの民放テレビ局を辞して、金沢大学で職を得た。当初は地域ニーズと大学の研究シーズをマッチィングする「地域連携コーディネーター」という職だった。その後、「特任教授」に任命され、講義を担当すると、途端に「先生」と呼ばれるようになった。民間企業で働いていた身とすると、「先生」と呼ばれこそばゆい思いをしたのものだ。そして、「先生」に資する振る舞いや言葉遣い、教育的な指導をしなければならないと自覚するようなった。「先生」という言葉には社会の期待感が込められていると実感した。

   きょう述べようとした考察から大幅にずれた。読売新聞Web版(4月10日付)によると、教員による児童生徒らへのわいせつ行為が後を絶たない中、文部科学省は9日、SNSの私的なやりとりの禁止や密室状態での指導の回避などの「対応指針」をまとめ、全国の教育委員会に通知した。通知では、通信アプリ「LINE」などで私的なやりとりを交わしているうちに親密になり、わいせつな行為に及ぶケースが多いとして、教員と児童生徒のSNSの私的なやりとりの禁止を明確化するよう各教委に求めた。

   教師と生徒のLINEさえも禁止される事態。2018年度の公立学校(小中高校)の教職員によるわいせつ行為・セクハラによる懲戒処分の件数は過去最多の282人となった(文科省公式ホームページ)。これは、保護者や本人から学校や教委、警察に申し立てがあって発覚したものだ。言い出せない、あるいは秘されているケースは一体どれほどあるだろうか。

   また、行為は「ホテル・自宅・自家用車」といった校舎外だけではなく、使われなくなった「空き教室」など校舎内でのケースも目立つ。職場での行為だ。ほとんどが男性教員によるものだが、このような事態が続けば教師という職業そのものの信頼性が揺らぐ。いや、もう揺らいでいる。

   国はどのような対策を取るべきなのか。厳罰による「抑止効果」しかないだろう。文科省はこの4月から懲戒免職となった教員について、「18歳未満や児童生徒に対するわいせつ行為」「それ以外のわいせつ行為」「交通違反や交通事故」「職務に関連した違法行為」「その他」の5つに分類し、氏名を官報に記載する新制度を始めている。今回の指針では、懲戒処分歴を隠して応募することがないよう、処分歴の記載のある応募書類の作成を各教委に指示。さらに、処分前に依願退職させないことも盛り込んでいる(4月10日付・読売新聞Web版)。

   文科省はわいせつ行為・セクハラを絶対に許さないという「強硬姿勢」をかざすしかないだろう。聖職たるもの、情けない話ではある。

⇒10日(土)午後・金沢の天気      はれ

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