北朝鮮はきょう午後0時1分ごろ、少なくとも1発の弾道ミサイルを北東方向の日本海に向けて発射した。弾道ミサイルは最高高度100㌔、およそ1100㌔飛翔し、日本の排他的経済水域(EEZ)の外に落下した(6日付・防衛省公式サイト)。北朝鮮が弾道ミサイルを発射したのは2025年に入って初めて、去年11月5日以来となる。日本海側に住む者にとって、きな臭さが漂う1年の始まりとなった。
被災した金沢美大生が新聞をつくり発信した地震1年の記憶
震災と豪雨に見舞われた能登の復興に向けて新聞を創刊した若者がいる。金沢に住む知人が「アートとしても読み物としても、迫力があり、また被災者としての実感も生々しく表現されていて、とても印象に残る」と新聞を届けてくれた。紙面を読ませてもうらと、新聞のタイトルは「MEDIUM(FOR NOTO)」(2024年12月12日発行)=写真・上=、発行人は「坂口歩(さかぐち・あゆむ)」、金沢美術工芸大学でデザインを学ぶ女子学生だ。プロフィルには「能登町白丸出身」とある。去年元日、白丸地区は震度6強の揺れ、そして海岸沿いには4.7㍍の津波が押し寄せ、火災も発生した=写真・下、4月16日撮影=。面識はないが、「坂口さん」と呼ばせていただき、以下、20ページにまとめられた紙面を拾い読みした感想を。
新聞を広げると、見出し「あの日から1ヶ月」の見開きページに震災当時の様子がリアルにイラストと記事で描かれている。「午後4時10分」の地震発生当時、坂口さんは実家にいた。「地震がきて家から飛び出して裏の畑道に逃げた後、20分ほどしてから、林の向こうからバキバキと木が倒れるような音が聞こえてきました。車の盗難防止のプープーという音、ゴゴゴという地響き、津波だろうと近所の人は言ってました」「スマホのライトで真っ暗な道を照らしながら避難所までの道を歩きました」「津波にのまれて髪がびっしょりぬれている子や頭に切り傷がある子が毛布にくるまりながら泣いていて、これからどうなるのだろうと思った瞬間、緊張の糸がプツンと切れたように涙が出てきました」
坂口さんは6日間、避難所生活を送り、金沢に戻る。「2日目の夜には狭い公民館が150人以上もの人で溢れる『避難所』となり、このままでは水も食料も尽きてしまような状態でした。500mlのペットボトルの水を少しずつ大事に飲みました」「道路も寸断されていて、隣の地区の状況すら何も分からず、自分達の地区が1番酷いのでは・・・と不安に感じていました」。上記のようなメモ書きとは別にSNSで情報を発信していた。「”まだ余震つづいてます・・・。体は疲れて寝なきゃなのは分かってるのに、心がずっと威嚇モードで眠れない”」(1月3日付)、「避難所どんどん人が増え、大雪が来ないうちに、近所のお姉さんに乗せてもらって私だけ金沢に戻ることになりました。帰り道、自衛隊や支援物資のトラック、県外からのパトカー等、たくさん見ました、本当にありがとうございます、、、」(1月7日付)
ページを進めると、見出し「解体を待つ家」では家を解体することになった想いが綴られている。「家というものに対して、そこまで愛着はなったのだけれど、いざなくなると意識した途端、家で過ごした時間が全部なくなってしまうような気がして、自分自身の足がつかないような、存在が浮いてしまうような感覚になった。しばらくすると壊れてなくなってしまうこの空間に対して、どうやったら思いを残すことなくお別れができるのか」(10月12日付)
記事では、9月の奥能登豪雨についても書かれていて、この1年間の心情がドキュメンタリータッチで綴られている。「創刊にあたって」のコーナーでこう述べている。「能登にいないくせに何様だよと思う人もいるかもしれない。けれど、それでも私がなかったことにしたくないこと、忘れたくないと思うことをだけでも、私の地元で起きていることやその時私が感じたことを残しておきたい。残さないと消えてしまうから」
大学4年の坂口さんにとってこの新聞が卒業制作となった。新聞を知人に配っているほか、一部は書店でも販売している。第2号は「帰る」をテーマにことし12月に発刊する予定という。編集後記でこう述べている。「発信する行為は記録し発散する行為とも言えるのかもしれません。現代社会の新聞は誰かのために何かを伝えることがほとんどですが、自分のためにこのような新聞があることも一種の豊かさなのではないかと思います」と。確かに、SNSでは新聞の見開きのようなダイナミックなスペースでイラストや写真、記事を同時に掲載して発信することはできない。SNS情報は瞬時に流れていくが、新聞は手元に置け、発信したい人に手渡すことができる。坂口さんは地震を体感して、情報の新たな発信スタイルをつかみ取ったのだろう。
⇒6日(月)夜・金沢の天気 くもり
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