自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★この判決はオワコンか

2017年12月10日 | ⇒メディア時評
   大学で学生たちとメディア論の話をしていて、「NHK」の言葉に過敏に反応する学生たちが何人かいた。「なぜ」と尋ねると、彼らの話はこうだ。先日、NHKの契約社員という中年男性がアパ-トに来て、「部屋にテレビがありますか」と聞いてきたのでドアを開けた。「テレビはありません」と返答すると、さらに「それでは、パソコンやスマホのワンセグでテレビが見ることができますか」と聞いてきたので、「それは見ることができます」と返答すると、「それだったらNHKと受信契約を結んでくださいと迫ってきた」と。学生は「スマホでNHKは見ていませんよ」と言うと、契約社員は「ワンセグを見ることができればスマホもテレビと同じで、NHKを見ても見なくても受信契約が必要です」と迫ってきた。学生が「親と相談しますから、帰ってください」と言うと、契約社員は「契約しないと法律違反になりますよ」とニコッと笑ってドアを閉めた。「本当に気分が悪くなった」

    実はこのたぐいの話は毎年学生から聞く。上記の学生は親と相談して、受信契約を結ぶことにした。親は「法律を犯すことはない」と契約を勧めたという。でも、本人は今でも「スマホでちょっとテレビを見るだけなのに」と納得はしていない。NHK受信料制度が契約の自由を保障する憲法に違反するのかどうかが争われた裁判で、最高裁大法廷は合憲と判断した(6日)。選挙速報や異常気象、災害、地震の情報など民放では速報できないニュースを、NHKがカバーしており、その公共性の高さを考えれば、放送法64条にあるテレビが自宅に設置されていれば、受信料契約ならびに支払いは社会的にも認められると考える。

    問題は、最高裁判決がどこまでテレビとするのか「テレビの概念」にまで踏み込まなかったことだ。最高裁は「お茶の間のテレビ」を対象として支払い義務があるとの判断が下されたにすぎない。では、ワンセグ付きのスマホ(携帯電話)はどうのか。電話にテレビの受信機能があるだけでテレビと言えるのか。64条では「受信設備を設置した者は受信契約をしなければならない」と定めている。NHKは「設置」には「携帯」の意味も含まれてと主張していてい、冒頭の学生に契約社員は「法律違反になる」と契約を迫った。ところが、社会通念としても、個人的な感覚としても「茶の間のテレビ」は視聴が目的、「スマホのワンセグ」は機能の一部にすぎない。

    ワンセグのNHK受信料をめぐる裁判では、2016年8月26日のさいたま地裁判決で「受信契約の義務はない」との判断を、ことし5月25日の水戸地裁では「所有者に支払いの義務がある」と判断している。もし、今回の最高裁判決で「ワンセグはテレビ」あるいは「ワンセグはテレビではない」のどちらかの判断が示されていたら、ひょっとして画期的な裁判になったかもしれない。示されなかったことで、今回の最高裁判決はオワコン(終わったコンテンツ)と呼ばれても仕方ない。

⇒10日(日)午前・金沢の天気    くもりのちはれ
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☆そこにブログがあるから

2017年12月07日 | ⇒ドキュメント回廊

            ブログ「自在コラム」を元に構成した出版した『実装的ブログ論 日常的価値観を言語化する』(幻冬舎ルネッサンス新書)の帯封に書かれている「ニュースはいつも自分のなかにある」は出版社が考えたチャッチフレーズだが、まさに私が言いたいことのポイントだ。

    日常には多彩なニュースであふれていると思って、周囲を観察するとさまざなことが見えてくるのだ。それをニュースとしてブログにする。雪の日の朝のご近所さんとの会話から、街の除雪のルールや金沢人の季節感を描くことできる。庭に咲く花から、茶道の文化を語るきっかけになることもある。冬型の気圧配置が続いている日本海の荒波が押し寄せてる能登の海岸を眺めれば、国際ニュースにもなっている北朝鮮の木造漁船はさらに転覆軒数が増えるのではないかと不安がよぎる。それはまさに自分の中にあるニュースだ。

    私が大学のプログラムで通っている能登を眺めれば、少子高齢化や若者の農業・地方離れといった多くの地方が抱える問題がそのまま見えてくる。この問題は能登だけでなく東南アジアや欧米でも起こっているのだ。グローバルな課題が能登で見えるではないか。だったら、「課題先進国」ニッポンとして、世界に向けて問題解決へのアプローチをいち早く提案してもよい。その取り組みが実施にそこで行われているのだから。

    ところが、ニュースは新聞やテレビにお任せになっている。ニュースは視聴するものだ、読むものだという感覚に私たちは慣れ切ってしまっている。しかも、マスメディアは東京目線のニュースの価値付けに偏っている。東京にばかり目を向けず、しっかりと日常や地方にも目を向ける必要がある。もちろん、地方には新聞社もテレビもある。ニュースはマスメディアにお任せではなく、自分のニュースを発信しようという発想でなのだ。そこにブログがある。これを使わない手はない。

    話は少々くどくなるが、本作のタイトルにもある「日常的価値観の言語化」はごく簡単に言えば、自ら日頃考えていること、思うことを言葉として伝えることである。つまり、ブログのように文章化して、読み手に自分の考えを伝えることだ。文書の構成は起承転結でなくてもよい。結論を先に持ってくる逆ピラミッド型もありだ。問題は読み手に伝える技術である。言葉に皮膚感覚や、明確な事実関係の構成がなければ伝わらない。実際に見聞きしたこと、肌で感じたこと、地域での暮らしの感覚、日頃自ら学んだことというのは揺るがないものだ。

    それらは日常で得た自らの価値観なのである。その価値観を持って、思うこと、考えることを自分の言葉で組み立てることが「実装」なのだ。ブログを書く作業は、他のSNS と違って実に孤独だ。ただ、誰にも気兼ねせず、邪魔されずに自分の価値観を言語として実装するには最高の場でもある。

⇒7日(木)夜・金沢の天気   くもり

 

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★ブログを書籍化するきっかけ

2017年12月05日 | ⇒ドキュメント回廊
    ブログ「自在コラム」を始めたのが2005年4月なので、丸12年になる。ことし2月に出版社から誘いを受けた。「近年は研究書の枠に収まらず、生活に役立つ実用書やドキュメンタリー風に仕上げた書籍もよく売れていて、そうしたお話しにご興味をお持ちでしたら…」とのことだった。メールでのやり取りだったので、3月に出版社(東京)に出向き編集者と面談して、ブログ論をテーマとすることにした。「自在コラム」は1000回を超えていて、その文章に込めた思いを書籍というカタチで表現してみたかったからだ。その後、コンセプトを巡るやり取り、ブログから原稿のチョイス(選択)、著書のタイトル、原稿の校正と10ヵ月を経て、きょう5日にようやく出版にこぎつけた。

   幻冬舎ルネッサンス新書『実装的ブログ論 日常的価値観を言語化する』。基本的にはここ4年間のブログの中から編集者が読んで面白いと思ってくれたものを原稿にした。自分としては1時間あれば読み切れるものにとの思いがあったので140ページにした。これは学生たちへのメッセージだと思っている。「日ごろ思っていること、感じていること、それを言葉にしてごらん、文章にしてごらん」と薦めたいのである。以下、前書きの抜粋。

                 ◇

   今日ほどインターネット上のソーシャルメディアが注目されている時代はないだろう。情報発信のツールとして認知され、政治家や芸能人、スポーツ選手がブログやSNS(Social Networking Service)のFacebook やTwitter で意見や近況を書きこむ、あるいは動画を掲載すると、それをマスメディア(新聞やテレビ、週刊誌など)が取り上げる。NHKや民放局、新聞社ではネット上からニュースのネタ(主に事件や事故)をリサーチする専門チームも編成されている。そんな時代だ。

   私自身がブログを書き始めたのは2005年4月、金沢大学に再就職したときだった。きっかけは、テレビ局時代から懇意にしていた秋田県の民放テレビ局の番組プロデューサーから、「宇野ちゃんは元新聞記者だから、書き始めるときっとはまるよ」と勧められ、こちらも軽い乗りでブログの世界に片足を突っ込んだ。あれから12年。ブログのアップロード回数も1160を超えた(2017年10月現在)。勧めてくれたプロデューサー氏はブログからミクシィ、Twitter、Facebook と乗り換えている。その意味では、どっぷり12年のブログ歴というのは確かに「はまった」のかもしれない。

   ブログはもともとウェブログ(Web Log)の略で、ウェブサイトにログ(記録)すること、つまり「書き溜め型」のソーシャルメディアであり、不特定多数のネットユーザーに情報発信をするものだ。これに対し、Facebook やTwitter などのSNSは人とのつながりをベースに会話するかのように使われるコミュニケーション型のソーシャルメディアだ。私はパソコンに向かって新聞記事を書くように、投稿した記事を積み上げている。まるで、炭焼き窯に向かう職人のように黙々と。仕上がりは充足感、いや自己満足かもしれない。SNSのような会話風の楽しみとは異なる喜びだ。社交的なプロデューサー氏がブログからSNSの世界に入ったのと対比すると、その分岐点は性格の違いにあったのかもしれない。

   では、12 年も地道にパソコンに向かって何を書き続けてきたのか。過去の心象にこだわって随筆風に書き溜めてきた訳ではない。日々のニュースを綴ってきたと説明した方が分かりやすいかもしれない。日常生活や職場である金沢大学での個人的なニュースから、政治や経済など世の中のニュース、紛争や外交など世界のニュースなど。要は自分がニュースだと感じたことをその都度、ブログで表現してきた。別の言い方をすれば、日頃の自らの感性や思考をニュースだと発想して、それを文字で表現した。さらに詰めて、「日常的価値観の言語化」と言ってよいだろう。

   最近、何年も前にアップロードした自らの記事が検索エンジンでヒットすることがある。書いたことすら忘れてしまっている記事がいきなり検索画面に表れてくると、「記事は生きている」と実感する。インターネットの普及期に読んだ、立花隆著『インターネットはグローバル・ブレイン』(1997)を思い起こす。著書名の通り、地球を生命体と見立てればインターネットは頭脳であり、私のブログサイトはその神経細胞の一つかもしれないというものだ。その細胞を活性化させることは、いかにして質の高い記事をアップロードし続けるかにある。ブログ=日常的価値観の言語化とは、パーソナル・ブレーンを生き生きとさせるツールでもあるのだ。

   私は、その自身のパーソナル・ブレーンを多くの人に共有してもらいたいという気持ちから、今回の出版を決めた。

⇒5日(火)夜・金沢の天気   あめ
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☆北の難破船、いつまで続く

2017年12月02日 | ⇒メディア時評
   北朝鮮による新型ICBM(大陸間弾道ミサイル)の発射、そして、日本海沿岸に次々と流れ着く転覆した木造船、今後さらに何が日本海で起きるのか。金沢大学の能登学舎(珠洲市三崎町)で同僚たちと北朝鮮問題について話す機会も多いのだが、すぐ目の前の海に「北の船」が現実に現れたのには驚いた。

    先月27日午前8時40分ごろ、同市三崎町の小泊漁港500㍍沖で木造船が浮いているのが発見された。七尾海上保安部と珠洲警察署などが捜索。報道によると、木造船は全長12㍍、幅2.6㍍で、船内に人影はなく、船内からは網などの漁具のほか、ハングル文字で書かれたタバコの箱やビニール袋などが見つかった。能登半島沖300㌔の好漁場、大和堆あたりで漁をしていて、難破したものと見られる。

   漂着した北朝鮮の漁船の写真を提供いただいた。船の前方にはすでに藻がこびりついていて、「556—60268」という数字が書かれている。木造の船体はいかにも古そうで、荒れた海では波をまともにかぶりそうだ。

   今回特徴的なことは、遺留品にハングル文字で「264軍部隊」と文字が記されたカードがあったことだ。漁民が軍から船を借り受けた際に与えられた証明書との見方がなされている。さらにここから深読みすると、軍から船を借りてまで日本のEEZ(排他的経済水域)に向かう国家の現状だ。北朝鮮の慢性的な食糧不足は想像に難くない。いわゆる国策として漁業を奨励し、「冬季漁獲戦闘」と鼓舞して波の高い冬場も無理して船を出しているようだ。報道によると、朝鮮労働党機関紙「労働新聞」(電子版、11月7日付)の社説 で「漁船は祖国と. 人民を守る軍艦であり、魚は軍と人民に送る銃弾・ 砲弾と同じだ」と出漁を呼びかけている。

   北朝鮮は沿岸付近の漁業権を中国企業に売却しており、漁師たちは遠洋に出ざるを得ない状況に置かれていると一部報じられている。それにしても、冬型の気圧配置で、北風で波が高くなるこの時期、いくら食糧確保のためとはいえ、古い木造船で出漁を煽るとは、難破の悲劇をわざわざつくり出しているようなものだ。これが北朝鮮の現実なのだ。漂流や漂着、どこまで続くのか。(※写真提供:一般社団法人能登里海教育研究所 浦田慎氏)

⇒2日(土)夜・金沢の天気   はれ
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