日々是気の向くままに

日々是好日(口実)いろんな分野を気ままに書いていきます。

嘉謝伝風節に確定(琉球古典音楽悪戦苦闘の日々 137)

2019年03月14日 | 日記
カジャディフウ節の語源を見つけました。
琉球大学附属図書館のホームページ「デジタルアーカイブ」で「伊波普猷文庫」「琉歌百控乾柔節流(嘉慶七年)」という古い書物の写しが掲載されていて、その13ページ(中央部分)にはっきりと「嘉謝伝風節」とあり、歌詞が「安多嘉報の附す夢やちやうん見ぬ嘉謝手報のつくへ混と附(ここで文字が消えている)」とあります。
他のページを見ると、「作田節」などなど今の工工四に掲載されている題名が目白押しです。
これはもう確定です。「かぎやで風節」と書くのはやめて、全て「嘉謝伝風節」に統一しましょう!

嘉慶七年=1802年(当時の琉球では清の元号を使用)

伊波 普猷=1876年(明治9年)3月15日~1947年(昭和22年)8月13日:沖縄県那覇市出身 民俗学者、言語学者、沖縄学の父と称される

続「恩納節」(琉球古典音楽悪戦苦闘の日々 136)

2019年03月13日 | 日記
恩納節は、カジャディフウ節と並んで、「御前風五節」のひとつであることは、言うまでもありませんが、その歌詞が少し不思議です。
つまり「御前風五節」とは「首里城の城主」である琉球国王の「御前」で演奏されるもの。しかしその歌詞の内容は、(少しアレンジしてありますが)
「いつも皆が集まって夜パーティーする恩納村役場前の松の木の下に、何やら私には字が読めないけど禁止令らしき札が立てられた。まさか恋愛まで禁止しているわけではないでしょうね。」というもの。
こんな歌詞で国王陛下の前で演奏されていたのでしょうか。
こんれが本当だとしたら、ずいぶん「くだけた」国王陛下だったのですね。
(追加:大昔の当時は士族と呼ばれるような上流階級の男性しか読み書きは習ってなかったでしょう。それは日本本土も琉球も似たような状況だったと思われます。歌詞の後半は「恋しのぶまでの禁止や無いさめ」となっているので、女性の立場で歌を詠んでいるようで、このような解釈としました。女性の立場で男性がものを書くというのは昔よくあったようで、「男もすなる日記というものを女もすなる」という平安時代の紀貫之『土佐日記』などは、まさにそのいい例ですね。琉球古典音楽に出てくる歌詞も女性の立場で書いてあるのが多いですが、全て男性作でしょう。琉球古典音楽のような宮廷音楽は当時の役所の仕事だったわけで、昔は琉球舞踊も男性のみだったようです。)

恩納節(琉球古典音楽悪戦苦闘の日々 135)

2019年03月11日 | 日記
かじゃでぃ風節の次は「恩納節」です。
この恩納節は、他の曲にはあまり見られない素晴らしい構造があります。
つまり、三線が伴奏だけでなくメロディーを担当している部分があるのです。
その間、歌の方はずっと同じ音を伸ばしていて、三線の音と見事に調和しています。
こんな曲、現在の私のレベルでは、古典に関しては他に思い当たりません。

かぎやで風(琉球古典音楽悪戦苦闘の日々 134)

2019年03月09日 | 日記
かぎやで風節(カジャディフウブシ)を漢字で書くとどうなるのか?
諸説あるのですが、
「嘉謝伝風節」
「鍛冶屋手風節」
「斯ん迄報節」
「冠者手風節」
などがあります。
これらを見ても「かぎやで」という発音にはなりません。
「かぎやで」は、あくまでも「かじゃでぃ」と発音するのです。

謎が多い(琉球古典音楽悪戦苦闘の日々 133)

2019年03月09日 | 日記
さて、「かじゃでぃふう節」の語源には諸説あり、未だに本当の意味がわかりません。
つまり「カジャディ」という言葉は漢字で書くとどう書くのかが、完全には解明されていないのです。
もし仮に工工四に、最初から「ひらがな」ではなく漢字で書いてあれば、こんな問題にはならなかったのでしょう。
あと、過去の忌まわしい戦争で旧日本軍が首里城に本拠地を構えたため、米軍に破壊され、貴重な資料が失われたからでしょう。
うらめしや。