絹糸のしらべ

一絃の琴、きもの、文学etc…日本人のDNAが目を覚ます・・・

土曜スクール

2006年07月16日 21時46分08秒 | 子ども
去年からうちの学校は(うちの市では)2学期制をとっている。
前期は10月の初めの体育の日に連なる3連休前まで
その3連休を境に、後期が始まるのである。

去年まで、生活科や総合学習など、ほとんど遊び?のような内容
だったが、5年生になって、急に勉強らしい?内容になって
正直、びっくりしている。
とくに社会。去年の社会は、ほとんどこの自治体のごみ分別を
詳しく実践的にやったあと、リサイクル施設の見学などやって
1年の半分を費やした。
自分の頃と格段の相違があるのは、自分の頃は学習がまずデスクワーク
中心であり、「社会」などは自分の生活というより、日本全体を把握する
そういう観点で教育カリキュラムが作られていたということだ。
それによって、りんごの産地は知っていても自分の地域のことはよく知らない
というような弊害があっただろうことは否定できない。
日本全体を知ることも、自分の地域をよく知ることも大切なことなのに
どうしてこんなふうに、極端なことになってしまうのだろうか。

5年生の子どもたちが今やっている学習は、日本の地理を知った上で
成り立つものだが、果たして都道府県など全部わかるかどうか疑問だ。
また、算数では充分な問題の経験もなく、次の段階に移っていっている。
どの教科もそうだが、特に算数は土台となる部分がしっかりしていないと
その上に積み重ねることがなかなか難しくなる。
すでに今の段階でもう「お客さん」になってしまっている子どもが
ひとりやふたりではないことが、いままでの学習方法では立ち行かぬことを
物語っている。
こういう状況下でも、先生方にとくに危機感がないのは
私には理解できないことだが、きっと授業時数が足りないから仕方ない
というようなことで納得して?おられるのだろう。

この授業時数が足りない部分を補習授業という形で学習する
「土曜スクール」の実践が行われている地域がある。
それを担うのは、退職校長やボランテイアだ。
実施されているところでは、親だけでなく子どもたちにも好評のようだ。
ただ「勉強する」だけなら家でもできるだろうが
友だちと一緒に勉強するのが子どもたちにはうれしいのかもしれない。

学習にしろ生活にしろ、子どもをめぐる環境は激変している。
単純に昔と比べてみても詮無いことである。
しかし、教育を決定する『政治』も世論を無視しては行えないので
子どもの親たちは「政府が決めたのだから仕方ない」といわず、
思うところを声に上げていくべきではないかと、切に思う。

相互扶助のかたち

2006年07月16日 13時49分16秒 | Weblog
今朝の地元紙に↓の記事の「徳川・・・」を書いた篠田氏のコラムが
載っていましたね。教員の待遇についての意見でした。
(給与削減、免許更新制の話)

まあ、それとは関係ない話ですが
図書館や社会福祉などのボランティアをやっていて思うことは
(現代ではボランティアも多様化してはいますが)
かつては社会の枠組みにあった『相互扶助』が
いまは、意思はあるが関係性のない人々によってなされる時代
となったのではないかということです。

知り合いの中で頼みごとをするよりかは
仕組みの整ったところに依頼して、あらかじめ意思があると申し出てくれた人に
離れた場所からきてもらうほうが気が楽ということなんでしょうか?
また、ボランティアする側も、近場の人に頼られるより
「契約」に近い形で奉仕する方がやりやすいと思っているのでしょうか?
他者のために労力を提供したい人とヘルプを望む人とのコーディネイトは
いまのような形しかないのかと、ふと考えるのですが。。。