絹糸のしらべ

一絃の琴、きもの、文学etc…日本人のDNAが目を覚ます・・・

日経新聞 プラス1

2006年07月22日 22時18分02秒 | 子ども
毎週土曜日にこの新聞には特集版がついてくる。
いつも楽しみにしているのだが、今日は中の記事に
子どものお子遣いについて書かれていた。
読まれた方もあるかと思う。
「国家の品格」がベストセラーになり、なんとか
品位ある国にならんものかと、有識者たちも奮闘しているが
このお小遣いの記事を読んだなら、みながっくりくるだろう。

わかりやすく、イラストなど入れて、
子どものお金の使い方や、子どもへの与え方などを書いているのだが
その一方法として、会社の給与のように明細で区別して与えていた。
たとえば「基本手当て」「勉強がんばり手当て」「お手伝い手当て」…
のように。
いくつくらいの方の案なのだろう?これを読んで
もう、自分は小学生の親として彼女らとは断絶の世代であると確信した。

もともと古臭い考え方と自覚しているが、
現役の母親たちは、こんなふうに子育てをしていたのか。。。。。
自分の周りには、この手の人はいないように思うが
それはもう、少数派ということなのか。。。

「お手伝い」にお駄賃、くらいはかわいらしいが、
これが毎月手当てとして加算されて小遣いが支給?されるなんて。。。
「自分のために」する勉強を、そのがんばり具合がお金になるなんて。

家庭のど真ん中に「お金」があるんですね、いまや。
そうなのか…お手伝いは家族の一員として当然のことで
それをお金に換算したりしないのが自分の考え方だったけど
もう、そんな話はどこにも通用しないとみた…

児童会がない

2006年07月22日 02時11分48秒 | 子ども
小学校つながりで思い出しましたが
うちの学校には児童会がありません。

前々校長の時代に「人気投票になっている」という理由で
廃止になったそうです。(ほんとにこの理由かなあ…?)
ちょっと異常な感じがします。(これも「独自の理論」てやつかも?)

ですから、子どもたちは民主主義の一番低レベルの形式すら経験できずに
小学校を終わります。(嘘のようなホントの話!)
社会で議会政治とか習っても、「話し合い」によって決定していくことや
意見を闘わせることがどのように実際行われるのか、経験しないわけですから
ほんとに、『絵空事』に過ぎないことになります。

子どもたちが自分自身で考え行動する、ということを世の中をあげて
言っていると思うのですが、現実にはこんな小学校が存在します。
仕組みとして、子ども自ら、ということを排除しているわけですから
そんな自主的な人を育てられるわけもありません。

また、3年前には、運動会においての紅白応援合戦も
廃止されました。
6年生の子どもが応援団長になって、紅白それぞれエールを送るものです。
これも、意味がない、ということで無しになりました。
こういう場面で、俄然張り切る子どもとかいると思いますが
活躍の場は失われました。(目立つことはいけないこと?)

学校も、口で言っていることと実際の行動が合致していない世界です。
ある種独特の理屈で回っている、それで済んでいく(特に小学校)
そういう社会であります。(多かれ少なかれ)
立ち行かなくなるのは『上』(市教委、県教委)がでてきたときだけです。

新聞の「ひろさちや」氏の記事に、「ほんとうのことはいうな」と書かれていて
「真実を言うことは相手を傷つける」とありました。
ほんとうにそうなのか?どんな場合も「真実は人を傷つける」だけなのか?
私には理解不能であります。。。
現実にこんな学校が存在し、自分の子どももそこで育つのです。
(学校とは、だれのために存在するのでしょう?)
ほんとうにこのままでいいのでしょうか?


スープカレー(名物じゃないよ)

2006年07月22日 01時30分30秒 | 子ども
キャンプのカレーで思い出すのは、水が多すぎて
しゃぶしゃぶの、スープのようなカレーが出来てしまったことだ。
子どもが火起こしのことを心配しているので
いっしょにしおりを見ていて思い出した。

以前、この5年生のPTA行事でカレー作りがなくなったことを書いた。
本部役員の「カレー以外にものに」という意向が反映されたが、そのとき
校長先生の『むしろ練習などしないほうがよい、そのときのいろいろな
失敗も思い出になるから』等々の発言があって、結局陶芸になったようだった。

行事は「カレー」でなくても良かったが、
この「ぶっつけ本番」主義には正直驚いてしまった。
なにごとも練習どおりには行かないものだが、「練習不要論」で考えるなら
教育そのものが不要となるのではないかと思う。
なぜなら、いわばさまざまなことの「練習」を教育の場で行っていると
思うからだ。

「芯のあるご飯」ができてしまった班、「スープのようなカレー」に
なった班、などなど、一生懸命同じ時間をかけてやっても
出来上がったものが明らかに失敗になってしまったとき
「それもよき思い出」と子どもは感じるのか?
・・・答えは否!である。

失敗も思い出のうち、などと言えるのは当事者でないものの気持ちだ。
現実に上手く出来上がった班だけが「やったー!」という
達成感を得ることができ、
失敗作の班の子どもは「こんなのになっちゃった。。。」と
何がいけなかったか、わからぬうちに食事が終わるのである。

あのとき、ひどいご飯だったね!…と笑って言えるのは、
もっと時が経ち、そのときの落ち込みが消え去ってからのことなのだ。
校長先生も、もう大人の時間を過ごしすぎて(50過ぎ)
子どもだった頃の気持ちを忘れてしまったのかな、などと思う。
(小さかった頃、自分はどんなふうにものごとを考え、感じていたか
もう覚えていないのか…)
子どもの目線って、小学校の先生にはとくに忘れてほしくないけど
「子ども時代の自分」をもう持っていない先生方ばかりのようだ。。。