某合唱団の演奏会に出向いた。
4ステ、すべて暗譜、一度衣装替え、アンコールで、2曲演奏、会場の来場者との演奏が1曲。
1ステは、「難曲をトップで演奏できる合唱団は、そうそういない」との感想があった。
表情豊かで、少人数のなかでの演奏で、実力発揮と思わせる、安定した演奏で、聞きごたえがあった。
2ステは、人数が少し増え、ピッチが揃って、伸びのある、まあまあと思わせる出来。
3ステは、また人数が加わり、衣装もかわって、mcもあり、親しみが増す。
4ステは、混声で演奏した経験があり、同じ指揮者の演奏なので、ひときわ、聴くほうにも、様々な
思いが入る。人数もさらに増え、圧倒感さえあった。
かつて、注意されたこと、かつて、演奏に悩んだところ、かつて思いを入れ込んだお気に入りのところ。
そうした事柄が、演奏中、頭のなかを駆け巡る。
4ステ、すべて暗譜、そして休憩は2ステと3ステの間の15分だけ。
そのことが、たぶん4ステに現れているように感じた。
お疲れ様でした。
第一部=第1曲(来たれ、娘たちよ、われと共に嘆け)、捕縛の予告、・・・~捕縛、第29曲(人よ、汝の大いなる罪を悲しめ)について。
この演目、クラシック音楽に精通した観客(聴衆)なら、眼を閉じて甘美な旋律の合唱と演奏を堪能するのでしょうね。しかし、俄かファンの観客には日本語字幕・電光掲示板の存在が(事前に期待していなかっただけに)本当に、ありがたかったです。字幕のお蔭で、この作品の音楽性より、「台詞劇」「対話劇」「宗教劇」「(聖書の)朗読劇」としての側面が際立ち、臨場感と迫力が素晴らしかったからです。
まるで、今まさに眼前のステージ上でイエスが捕縛されようとする、スリリングな展開。イエスを見守る群衆も会場の聴衆も、第1コーラスと第2コーラスによる合唱の応酬(掛け合い)の中で、熱に浮かされ扇動されるように高揚していく一体感。 群集心理に翻弄されるように、イエスの運命が(捕縛と磔刑への)偶然から必然へ変質していく時の流れの前で、為す術もない我ら聴衆! そんな群衆や聴衆に、「ユダの強欲」や「ペテロの日和見」を弾劾する資格があるのでしょうか? 人間というものは、誰しも「ユダ」や「ペテロ」となり得る。それ故、「ユダ=お前」であり「ペテロ=あなた」なのだ、と。
魂に訴えかけてくるような、この日の演奏と合唱を聴いていると・・・学生時代、基督教青年会の門戸を叩いた日が頻りに思い出され、濃密で幸福な数時間でした。