努力が報われて、成功するのは、感動がある。
サッカーのボールを、走るバスの窓に蹴り入れるという、番組があった。
当然のことながら、選手は、ボールの曲線をイメージ、周りの環境もかみして、イメージを
作る。
一蹴、二蹴、三蹴、と、少しづつ成功へ近づく。
やがてボールは何回かのうちに、綺麗な弧を描いて、バスの窓に吸い込まれていった。
成功して、ガッツポーズをする選手。
「試合より嬉しかった」とのコメント。
雨の中を傘をさしての観戦者からも満面の笑みと拍手が沸き起こった。
苦労を見ているから、感動も分かち合える。
苦労がわかるから、見ているものも、応援もしたくなるし、成功がわがことのように思えてくる。
努力の姿はいいもの。
努力が感じられるということが、より感動へつながる要因となるのかもしれない。
人は、感動するのも好き。
自分では、できそうもないから、人の努力にエールを送り、感動を分かち合いたいと願う。
努力が感じられないものは、感動も薄い。
感動するのに、自分の見抜く目も、養う必要があるというのも、面白いことかもしれない。
最近、スポーツの観戦をした観客から「感動をありがとう」というのが、定番になってきているのが
気にいらない。
本当にわかっているのかと、疑ってしまう。
本当の感動は、見ているものの、レベルにも、影響しているから、「感動を・・・・」といえるだけの
レベルにいるのかと、疑わしい者も、口にしている気がして、「感動」という言葉が浅い気になって、
気持ちが落ち込む。