本というよりは、読書について

 今となっては前世紀も随分と遡った頃の話しではあるが、学生時代にこんなことを言われたことがある。

 「趣味は何かと聞かれても、大学生たるもの決して『読書』などと答えてはならぬ」と。大学生が本を読むのは当然のことであるから、もし「読書」と答えたいのであれば、続けて愛読書は波多野精一と和辻哲郎です、くらいの事を言わねばならぬのだと、老教授は言われた。

 ようするに小説などは「読んでいる」分には入らぬという訳である。今となっては訊ねるすべもないが、当時、たとえば小説ならどのあたりまでなら大学生の読書として許される範囲なのか訊ねてみなかった事が惜しまれる。鴎外は、川端はどうだろう。三島由紀夫や遠藤周作を読む事について、果たして件の教授はなんと答えたであろうか。

 老教授にとっての三島や遠藤は、いまで言えば村上春樹や吉本ばななのようなものであったのかもしれない。ならばいま、大学生が、たとえば村上春樹を読むことはどのように評価されるべきなのだろうか。

 村上春樹の作品は実に現在的であり、所謂「純文学」に分類することには、一部の作品を除いては郷秋<Gauche>としては抵抗が大きい。無論、村上の作品の価値が低いと言っているわけではなく(郷秋<Gauche>は村上作品のファンであると自認している)、谷崎潤一郎賞を受賞した『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)はその構成の斬新・秀逸さをもって20世紀終盤を代表する作品といっても良いのではないかとさえ思っている。

 しかし、「世界の終り~」以外の作品はと言えば、彼の実質的なデビュー作である『風の歌を聞け』(1979年)で作り上げた彼自身の世界を打破しているとは言いがたく、ただただ「村上春樹ワールド」を楽しませてくれるエンターテイメントであるとするのは言い過ぎであろうか。

 文学作品の多くが、発表された時点では実にその時点での現代的な作品であるわけで、それらの作品のごく一部がその時代のとりわけ優れた作品であると認められ、更に後世に至っても読み継がれていくことになる。その時々における構成の斬新さ、時代を捕らえたストーリー、心の深淵を探る筆致など、書き手側の様々な要素とそれぞれの時代を背景とした読み手側の反応が複雑に絡み合ってその作品に対する評価が決定付けられるのであろう。

 村上の作品も、ただ読んでいると言うだけではその行為が価値のあるものとは認められにくいことであろう。しかしである、趣味は読書ですと言った後に、たとえば「現代日本文学における村上春樹作品のポジショニングについて興味があります」あるいは「村上春樹の作品における『比喩』について研究しています」と言葉を続けたとすれば、趣味の一つとして言い古された「読書」という言葉の意味が、多少は違って聞えて来るかもしれない。 

 別に気取って言う訳ではないが、読書とは単に本を読む事ではなく、本を読むという行為を通して過去を知り今を理解し未来を予見する事であり、また、他者を知り己を知り世界の成り立ちを知る行為なのではないだろうか。単に本を読む行為は漫画本を読む行為と大差はない。無論娯楽としての読書を否定しているわけではないが、「読書」という言葉に隠された本来の意味に思いを致す時、いま少し心して読まねばならぬと自戒するこの頃の郷秋<Gauche>なのである。



世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド
村上春樹著 1985年6月15日初版発行 新潮社刊
現在は新潮文庫に収められている模様です。2度目の
ハードカバー改装版が2005年9月16日に刊行されます。
(予価:2,520円)


 本稿はblog化以前の「独り言」に2003年10月27日に掲載した記事に加筆・修正したものです。
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