(②からの続き)
最後に③の、終わりなき発展を前提とする、について。
プロ野球は、テレビ中継の視聴率が落ち、観客動員も伸び悩んでくると、クライマックスシリーズという制度を導入した。わずか数試合で優勝が決まるのであれば、ペナントレースの意味がない、との批判を受けているが、注目度が高く、お金につながるこの制度は、資本主義からしたら廃止はありえない。
チョコレートの消費を拡大したいと思えば、バレンタインデーというイベントを作る。この試みは、特に成功した方なのだが、いくら売り上げが伸びても、決して満足することを知らないのが資本主義なので、さらなる売り上げ増を画策する。かくして、「義理チョコ」「中間チョコ」「友チョコ」「逆チョコ」「自分用チョコ」等、様々な形式のチョコが生まれることとなる。
この資本主義の特徴の、最も厄介なのは、「終わりがない」という点である。常に成長を、常に発展を求める資本主義は、「成長の限界」を説かれても、「沈黙の春」が告発されても、それでも止まることがない。
福岡の市営の地下鉄が、路線を拡張したことがある。都市高速も、長い時間をかけて、高架を伸ばしていた。どちらも、利用者数があまり見込めない、と指摘されていた。でも、撤廃されることはなかった。建設されれば、土建屋を中心として、いろんな所にお金が落ちる。「作った後でどうなるか」とか「黒字運営できるか」は、二の次、三の次。とにかく、今仕事ができるか、今お金が回るか、なのだ。
小生は、開発によって変わりゆく風景を見ながら、
「なんか街並みが汚くなるなぁ、こんなモノ作らなきゃいいのに」
などと思っていたのだが、資本主義は景観なんぞ知ったこっちゃないのである。資本主義は、まさにやめられない止まらない、なのだ。
この資本主義の特徴を例えるならば、「ついてこいよ」と言って、徐々に速度を上げながら走り続けるマラソンのようなものだ。ウルトラマンの名言に、「僕たちがしているのは、血を吐きながら続ける悲しいマラソンさ」というのがあるが、正にそれである。速度は上がっていく一方なので、当然ついていけない人も出てくる。
資本主義の興りまでは、労働の現場は、牧歌的な姿をしていた(たぶん)。それが、資本主義以降は、他社との競争が眼目に据えられ、そのための様々な制度が導入され、決まりごとが増えていく。
この流れの中で、特筆すべきはフォード主義だろう。ベルトコンベアの導入による、流れ作業と分業化で、生産力を拡大させた。チャップリンの映画『モダン・タイムス』が、図象的に示しているように、労働者が、自分達はいくらでも取り換えがきく歯車の一部だと、強く意識するようになる(それまでは、人は歯車ではなかった、とまでは言わない。ただ、その実感が強まった、ということだ)。
このようにして、儲かるやり方が見つかれば取り入れられ、それは常識化してゆく。自分がうまいやり方を考え出せば、他社がそれを真似するし、他社が何か生み出せば、自分もそれを模倣する。そうやって、決まりごとはどんどん増えてゆく。その、どんどん増えてゆく決まりごとを、全部守らなければ、資本主義の現場では働けない。
コンビニを見たらわかりやすい。コンビニは、最初のうちは商品の販売しかしていなかった。だが、利便性を追求した結果、酒とタバコの販売解禁、宅配便、口座振込、通信販売の受け取り対応、ATMや自動チケット販売機の設置等々、ありとあらゆるサービスを吸収してきた。利用する側は便利でいいだろうが、従業員は、覚えねばならないことがどんどん増えてゆく。20年前と今とでは、覚えねばならない業務内容の量に、天と地ほどの差があるのではないだろうか。ホント、安い時給でよくやるよ、と思う。
どんどん速度を上げていくマラソンとは、そういうことだ。
最近はグローバル化のせいで、国内の競争相手のみならず、途上国の低賃金労働者とも張り合わねばならず、加速度はまた一段と、ギアチェンジしたかのように上がっている。
このマラソンから脱落した人は、ニートや、生活保護の不正受給者なんかになる。
新橋のサラリーマンは、ニートや不正受給者に、「ふざけるな」と言う。
でも、小生は「資本主義がそういうシステムでやってる以上、落伍者が出るのは避けられないんじゃないの?社会が払うべきやむを得ない代償だよ」と思う。
そしてもちろん、マラソンが続く限り、その速度が上がり続ける限り、落伍者は増え続けるだろう。ニュースで、毎年のように「生活保護受給者の数が過去最高を更新」と悲観的に伝えているが、小生は、「まあ、そりゃそうなるだろうね」としか思わない(高齢化の影響もあるんだろうけど)。
それと、日本では「週5日の8時間勤務、プラス残業とたまの休日出勤」という労働形態が普通だ。みんなこれを当たり前だと思ったいる。だが、この常識は、「人間の働き方として普通」というわけではなく、「これを普通にしましょう」という決め事に過ぎない。「できるだけ働かせて利益を上げたい資本主義」と「お金も稼がなくちゃいけないけど休息や余暇もとりたい労働者」との綱引きの結果として「週5日の8時間勤務」が決せられているわけだ。
よく言われていることだが、原始時代には、食料を確保したり、道具や住居を作ったりといった、生活のために行われていた労働時間は、1日約3時間程度であった。おそらく、現代において、それ以上の労働時間というのは、余剰な利益のために行われているのだろう。
さて、どうしてこんなことをつらつら書き綴ってきたかと言うと、それは小生がナマケモノだから、という一言に尽きる。
小生は、できるだけ働きたくないのである。
だから、ナマケモノの自分を正当化する理屈を構築したいし、さもなくば働かなくてもいい世の中を作りたい、と思っている。苦手なのに経済のことを考えているのは、そのためだ。
なんてアホなヤツだ、と思われたろうか。
でも、よく言われているように、現状の資本主義には限界があるし、このままだといつかは破綻してしまう。資本主義をなんとかしなくてはいけない、というのは、ナマケモノでない人にとっても了解事項のはずだ。だから、ナマケモノの立場からの、対資本主義の取り組みも、何かしらの実のある貢献ができるのではないだろうか。
いや、きっとできる。できるはずだ。絶対できる。うん。
ついでに言わせてもらうと、小生は「失われた20年」という言い方に賛同できない。
バブル崩壊後の日本社会は、「失われた10年」と呼ばれており、2010年頃からは、それが「20年」に変わった。「失われた」というのは、「得られて当然の何かがあった」という前提があっての認識である。その何かとは、言うまでもなく経済成長を指している。
だが、さんざん繰り返してきたことだが、経済成長し続けるのが、なぜ当たり前でなければならないのか。もっと言えば、この言葉には、得られるべきもの、手に入れるに値するものは経済的成功だけだ、という言外の含意がある。大切なのは経済だけ。家族や友人とのつながり、趣味や教養による私生活の充実、衣・食・住を豊かなものとすること…それらは、経済に資する範囲では評価するが、そうでなければ二の次、三の次。そんな意味が込められているのではないか。
だから小生は、「失われた20年」という視点に乗れないし、その言葉を常識として使いたくない。
それから、「時は金なり」という言葉も嫌いである。
これは、様々な価値を、お金という単一の尺度で換算しようという態度の発露であり、資本主義が孕む多くの問題の遠因となっていると思う。だから、この言葉を、ひとつの病的な時代に人類が取り憑かれていた忌まわしい妄言として、この世から追放したい、と考えている。「追放する」のは過激すぎる、というのであれば、過去の遺物として博物館に展示する、でもいい。
社会学者の見田宗介によれば、この箴言を発したベンジャミン・フランクリンは、自らの信条に反する生活習慣を有するアメリカの原住民達に手紙の中で触れ、一人残らず絶滅してしまえばいい、と書き記しているらしい(『社会学入門』)。まったく、度し難いヤツだ。
このベンジャミン・フランクリンは、百ドル紙幣の肖像になっている。グローバル・スタンダードを先導するアメリカの、世界の基軸通貨たるドル紙幣の、肖像。
フランクリンの思想は、世界中を染め尽くそうとしている。小生の声は、余りにも弱い。
万国のナマケモノよ、団結せよ!
…って、しないか。ナマケモノだもの。
オススメ関連本 ヘンリー・ハズリット『世界一シンプルな経済学』日経BP社
最後に③の、終わりなき発展を前提とする、について。
プロ野球は、テレビ中継の視聴率が落ち、観客動員も伸び悩んでくると、クライマックスシリーズという制度を導入した。わずか数試合で優勝が決まるのであれば、ペナントレースの意味がない、との批判を受けているが、注目度が高く、お金につながるこの制度は、資本主義からしたら廃止はありえない。
チョコレートの消費を拡大したいと思えば、バレンタインデーというイベントを作る。この試みは、特に成功した方なのだが、いくら売り上げが伸びても、決して満足することを知らないのが資本主義なので、さらなる売り上げ増を画策する。かくして、「義理チョコ」「中間チョコ」「友チョコ」「逆チョコ」「自分用チョコ」等、様々な形式のチョコが生まれることとなる。
この資本主義の特徴の、最も厄介なのは、「終わりがない」という点である。常に成長を、常に発展を求める資本主義は、「成長の限界」を説かれても、「沈黙の春」が告発されても、それでも止まることがない。
福岡の市営の地下鉄が、路線を拡張したことがある。都市高速も、長い時間をかけて、高架を伸ばしていた。どちらも、利用者数があまり見込めない、と指摘されていた。でも、撤廃されることはなかった。建設されれば、土建屋を中心として、いろんな所にお金が落ちる。「作った後でどうなるか」とか「黒字運営できるか」は、二の次、三の次。とにかく、今仕事ができるか、今お金が回るか、なのだ。
小生は、開発によって変わりゆく風景を見ながら、
「なんか街並みが汚くなるなぁ、こんなモノ作らなきゃいいのに」
などと思っていたのだが、資本主義は景観なんぞ知ったこっちゃないのである。資本主義は、まさにやめられない止まらない、なのだ。
この資本主義の特徴を例えるならば、「ついてこいよ」と言って、徐々に速度を上げながら走り続けるマラソンのようなものだ。ウルトラマンの名言に、「僕たちがしているのは、血を吐きながら続ける悲しいマラソンさ」というのがあるが、正にそれである。速度は上がっていく一方なので、当然ついていけない人も出てくる。
資本主義の興りまでは、労働の現場は、牧歌的な姿をしていた(たぶん)。それが、資本主義以降は、他社との競争が眼目に据えられ、そのための様々な制度が導入され、決まりごとが増えていく。
この流れの中で、特筆すべきはフォード主義だろう。ベルトコンベアの導入による、流れ作業と分業化で、生産力を拡大させた。チャップリンの映画『モダン・タイムス』が、図象的に示しているように、労働者が、自分達はいくらでも取り換えがきく歯車の一部だと、強く意識するようになる(それまでは、人は歯車ではなかった、とまでは言わない。ただ、その実感が強まった、ということだ)。
このようにして、儲かるやり方が見つかれば取り入れられ、それは常識化してゆく。自分がうまいやり方を考え出せば、他社がそれを真似するし、他社が何か生み出せば、自分もそれを模倣する。そうやって、決まりごとはどんどん増えてゆく。その、どんどん増えてゆく決まりごとを、全部守らなければ、資本主義の現場では働けない。
コンビニを見たらわかりやすい。コンビニは、最初のうちは商品の販売しかしていなかった。だが、利便性を追求した結果、酒とタバコの販売解禁、宅配便、口座振込、通信販売の受け取り対応、ATMや自動チケット販売機の設置等々、ありとあらゆるサービスを吸収してきた。利用する側は便利でいいだろうが、従業員は、覚えねばならないことがどんどん増えてゆく。20年前と今とでは、覚えねばならない業務内容の量に、天と地ほどの差があるのではないだろうか。ホント、安い時給でよくやるよ、と思う。
どんどん速度を上げていくマラソンとは、そういうことだ。
最近はグローバル化のせいで、国内の競争相手のみならず、途上国の低賃金労働者とも張り合わねばならず、加速度はまた一段と、ギアチェンジしたかのように上がっている。
このマラソンから脱落した人は、ニートや、生活保護の不正受給者なんかになる。
新橋のサラリーマンは、ニートや不正受給者に、「ふざけるな」と言う。
でも、小生は「資本主義がそういうシステムでやってる以上、落伍者が出るのは避けられないんじゃないの?社会が払うべきやむを得ない代償だよ」と思う。
そしてもちろん、マラソンが続く限り、その速度が上がり続ける限り、落伍者は増え続けるだろう。ニュースで、毎年のように「生活保護受給者の数が過去最高を更新」と悲観的に伝えているが、小生は、「まあ、そりゃそうなるだろうね」としか思わない(高齢化の影響もあるんだろうけど)。
それと、日本では「週5日の8時間勤務、プラス残業とたまの休日出勤」という労働形態が普通だ。みんなこれを当たり前だと思ったいる。だが、この常識は、「人間の働き方として普通」というわけではなく、「これを普通にしましょう」という決め事に過ぎない。「できるだけ働かせて利益を上げたい資本主義」と「お金も稼がなくちゃいけないけど休息や余暇もとりたい労働者」との綱引きの結果として「週5日の8時間勤務」が決せられているわけだ。
よく言われていることだが、原始時代には、食料を確保したり、道具や住居を作ったりといった、生活のために行われていた労働時間は、1日約3時間程度であった。おそらく、現代において、それ以上の労働時間というのは、余剰な利益のために行われているのだろう。
さて、どうしてこんなことをつらつら書き綴ってきたかと言うと、それは小生がナマケモノだから、という一言に尽きる。
小生は、できるだけ働きたくないのである。
だから、ナマケモノの自分を正当化する理屈を構築したいし、さもなくば働かなくてもいい世の中を作りたい、と思っている。苦手なのに経済のことを考えているのは、そのためだ。
なんてアホなヤツだ、と思われたろうか。
でも、よく言われているように、現状の資本主義には限界があるし、このままだといつかは破綻してしまう。資本主義をなんとかしなくてはいけない、というのは、ナマケモノでない人にとっても了解事項のはずだ。だから、ナマケモノの立場からの、対資本主義の取り組みも、何かしらの実のある貢献ができるのではないだろうか。
いや、きっとできる。できるはずだ。絶対できる。うん。
ついでに言わせてもらうと、小生は「失われた20年」という言い方に賛同できない。
バブル崩壊後の日本社会は、「失われた10年」と呼ばれており、2010年頃からは、それが「20年」に変わった。「失われた」というのは、「得られて当然の何かがあった」という前提があっての認識である。その何かとは、言うまでもなく経済成長を指している。
だが、さんざん繰り返してきたことだが、経済成長し続けるのが、なぜ当たり前でなければならないのか。もっと言えば、この言葉には、得られるべきもの、手に入れるに値するものは経済的成功だけだ、という言外の含意がある。大切なのは経済だけ。家族や友人とのつながり、趣味や教養による私生活の充実、衣・食・住を豊かなものとすること…それらは、経済に資する範囲では評価するが、そうでなければ二の次、三の次。そんな意味が込められているのではないか。
だから小生は、「失われた20年」という視点に乗れないし、その言葉を常識として使いたくない。
それから、「時は金なり」という言葉も嫌いである。
これは、様々な価値を、お金という単一の尺度で換算しようという態度の発露であり、資本主義が孕む多くの問題の遠因となっていると思う。だから、この言葉を、ひとつの病的な時代に人類が取り憑かれていた忌まわしい妄言として、この世から追放したい、と考えている。「追放する」のは過激すぎる、というのであれば、過去の遺物として博物館に展示する、でもいい。
社会学者の見田宗介によれば、この箴言を発したベンジャミン・フランクリンは、自らの信条に反する生活習慣を有するアメリカの原住民達に手紙の中で触れ、一人残らず絶滅してしまえばいい、と書き記しているらしい(『社会学入門』)。まったく、度し難いヤツだ。
このベンジャミン・フランクリンは、百ドル紙幣の肖像になっている。グローバル・スタンダードを先導するアメリカの、世界の基軸通貨たるドル紙幣の、肖像。
フランクリンの思想は、世界中を染め尽くそうとしている。小生の声は、余りにも弱い。
万国のナマケモノよ、団結せよ!
…って、しないか。ナマケモノだもの。
オススメ関連本 ヘンリー・ハズリット『世界一シンプルな経済学』日経BP社