徳丸無明のブログ

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バイト敬語が排斥される時代に

2015-10-12 19:22:03 | 雑文
ひところ、「バイト敬語」が問題視されたことがある。
バイト敬語とは、「ご注文は〇〇のほうでよろしかったでしょうか」や「こちら〇〇になります」など、主に接客業の場面で使われる、文法の誤った言葉使いのことだ。学生アルバイトがこの手の言い回しを行っていたので、「バイト敬語」と呼ばれるようになった。
小生はここで、バイト敬語の何が問題か、を問おうとしている。
一体、何が良くないのか。
この問題に怒っていた人達は、何に対して腹を立てていたのか。
怒っていたのは、主におじさん達だった。おじさん達の、怒りのポイントは何か。
それは、「間違った日本語を使うな」というものだった。正しい言葉を使わないのは失礼だ、と。
理屈としてはよくわかる。しかし、彼らは本当に失礼なのだろうか。
なぜ、彼らがバイト敬語を使うのか、をよくよく考えて欲しい。
彼らは、日本語の文法がよくわかっておらず、語彙も貧しい。その、乏しい知識を総動員して、その中で出来るだけ丁寧な言葉使いを、と考えた末に、バイト敬語を使うに至ったのではないか。
彼らは、言葉使いは貧しいが、礼儀正しくあろうとはしている。礼儀を蔑ろにしようとして、敢えてそのような言葉使いをしているのではない。彼らなりに礼儀を追求しようとした結果として、そうなっているのである。本当に礼儀をわきまえていないのであれば、もっとぞんざいな、敬語すら使わない話し方をしているはずである。
言葉使いは間違っているが、敬意を払おうとはしている。
バイト敬語を非難するおじさんは、そんな彼らの態度を見ようとはせず、言葉の、厳密な意味での正しいか否かだけを掴まえて「失礼だ」と言い募っている。
さて、どちらの方が問題なのだろう。
言葉というのは難しいものだ。特に日本語は複雑怪奇だとよく言われる。百パーセント正確に理解した上で使いこなしている人など、皆無であろう。誰であっても、言葉の間違いを犯しうる。バイト敬語に腹を立てているおじさんだってそうだ。自分自身、日本語を百パーセント理解しているわけではないのに、あたかも日本語を知り尽くしているかのような顔をして、一方的に若者の言葉遣いを叱責する、という図式は、おかしくないだろうか。
問題は、言葉遣いだけにとどまらない。
もっと拡く、マナーと呼ばれる領域全体に及ぶ。
主に、仕事の場面において問われるマナー。「社会人としての常識が備わっているか」をテストするテレビをたまに見る。出題されるマナーは、様々な局面に及び、回答者は必ずと言っていいほど「知らなかった」と口にする。
なんだか、最近になって急に耳にするようになったものが多い気がする。
エレベーターの中にも上座がある。上司と一緒に階段を登る時、自分は先に行くべきか、後から来るべきか。電話に出る時には、呼び出しの回数に応じて、言葉を換えるべき……。
マナーというのは、守られてしかるべきものであるが、「知らなかった」という人が、決して少なくないのはなぜか。
相手に対して失礼がないようにルールとされるのがマナーである。ならば、人が自然な感情で「失礼だ」と感じる事柄が、多数決で結集されることによって、「マナー」へと昇華する、というのが、その成り立ちであろう。これは言うならば、「下からのマナー」である。
一方で、多くの人が知らないマナーが存在する。と言うことは、世の中に、「無闇にマナーを決めたがる人」がいるということだ。この手合いは、自分ひとりの発案でもって、「この場面には、このような対応を取ることをマナーとしましょう」と言いだす。それなりに理論的なルールなので、説得力はある。しかし、これは人々が「失礼だ」と感じる、自然な感情が元になっているわけではない。まず、ルールありき。「こういう時はこうしましょう」と、人々に啓蒙することによってもたらされる、つまりは「上からのマナー」である。
マナーであれば、なんでもかんでも良いもの、何が何でも守らなければならないもの、と思い込んでいる人もいるかもしれないが、この「上からのマナー」には問題点があって、それは、元々誰もそれを失礼だとは感じていなかったのに、マナーとされたことによって失礼なことになってしまう、という事だ。
「失礼だ」と感じるからマナーになるのではなく、「マナーになって」いるから失礼だと感じてしまう、という倒錯が起こるのである。
気にしなければ何でもないことが、「マナー」という視点を当てはめられることによって、失礼な行為に転落してしまう。実に不毛なことだと思う。
よく考えてもらいたいのだが、「エレベーター内の上座」が守られなかったからといって、それがどれほどの問題なのか。そのことで本気で不愉快になる人などいるのか。例えば、一つのビルを所有している会社であれば、エレベーターが停止し、中の人間が入れ替わるたびに、誰がどの位置に立つべきかを確認して移動を行う、というのが本当に正しいのか。そんなちまちましたしち面倒臭い事をやらないと、上司は不愉快になるし、会社はダメな会社ということになるのか。
このような傾向が今後も進んでいけば、我々の生活は、ありとあらゆる場面がマナーで埋め尽くされ、いついかなる時も「今どうしなければいけないか、この場面におけるマナーは何か」を意識せねばならなくなる。そして、意図的に非礼に振舞おうとしたわけでなく、マナーがあることを知らなかった、というだけで「無礼者」呼ばわりされるという、息の詰まる世の中になってしまうだろう。
「無闇にマナーを作りたがる人」には、黙ってもらわねばならない。マナーが何かを決めるのは、マナーに知悉してると自称し、人々を先導しようとする彼らではない。人々の、自然な心、自然な感情がマナーを決めるのである。


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