「ロックは死んだ」
ジョン・ライドンは言った。1978年1月のことだ。
本当に死んだのだろうか。
あるいは、そういう見方も成り立つかも知れない。人は、自分が愛するもの、理想とするものが様変わりした時、決定的な何かが失われ、それが「死んだ」と感じる。
だから、ある意味ライドンは正しい。でも、本当は死んではいない。
ロックは、その姿を変えただけで、なおも存在し続けていた。
「ロックンロールは僕自身」
忌野清志郎は、常々そう吹聴していた。
その清志郎が死んだ。2009年5月だった。
「ロックが死んだ」
あるいは、そんな言い方もできるかもしれない。
世界平和は見果てぬ夢なのだろうか?
ずっと世界平和を祈っていた清志郎。その実現を見ないまま、逝ってしまった。
ミュージシャンでは、ジョン・レノンを筆頭として、反戦平和主義を掲げるものは、とかく馬鹿にされがちだ。いわく「単純に平和を唱えているだけでは、真の平和など到来しない」と。
では、その単純ではない「現実的平和主義」とは如何なるものか。
それは、他国を、油断も隙もない狼と捉え、こちらが少しでも弱みを見せれば、すぐに付け込んでくる潜在的な敵である、と定義する。そして、その認識に基づいて、敵の侵略を許さないために、きっちりと軍備する。外交では、舐められないように、強気に接することも大事とされる。
これが「現実的平和主義者」の有り様である。
しかし、この考えに基づけば、軍事能力が他国よりも劣っていると侵略を許してしまうので、交戦する可能性がある国よりも、軍備を増強しなくてはいけなくなる。すると、当然相手国もそれに対抗して、軍備の増強を行うだろう。実際、米ソ冷戦の時代に、この傾向が顕著に現れ、延々と続いた軍拡競争は、人類を何十回も滅ぼしうるという、核兵器の配備に至った。
さて、これが本当に、あり得べき平和の姿と呼べるのだろうか。
確かに、「核の緊張」によって、戦争が起こりにくくなっている、という側面はある。しかし、「キューバ危機」はあった。あの時、もし幾つかのボタンの掛け違いが起こっていたら?そして、同じような事態が二度と起こらないという保証など、どこにもない。
ジョン・レノンの音楽のファンは、国境や人種や文明を、軽く飛び越えて繋がっている。彼らは、お互いのことを狼だなんて思っていないし、武装してもいない。「現実的な平和」なんて、考えてもいないだろうけど、仲良くやっている。これこそが、真の平和のあり方ではないだろうか。
それから、「人類にイノベーションをもたらした」という点で、戦争を評価する向きもある。
実際、インターネットがアメリカの軍事テクノロジーの転用であることは、よく知られている。缶詰は兵糧のために開発されたものだし、農薬は毒ガス研究の過程で生まれた。
現代社会を生きる我々は、それらイノベーションの恩恵に浴している。そのことは否定できない。
でも、どうしてもそれらが必要、というわけではない。
インターネットは楽しいし便利だ。できれば、手放したくない、と思う。でも、なくなったとしても、それならそれでまあ、やっていくことはできるし、仮に戦争によるイノベーションが起こらず、最初からネットが生まれなかったとしても、そのことで人類がどうにかなるわけではない。
戦争によるイノベーションは、なければないで構わないモノだ。
ましてやそれが、無数の人々の血で贖われた代物であれば、良識のある人は「なくていい」と言うだろう。
また、人類は、その誕生からほぼ恒久的に戦争状態にあり、戦争が止んでいた期間は、ほんのわずかしかない、という。「現実的平和主義者」もまた、戦争を完全に終結させることができずにいる。
この事実を持って、諦観をあらわにする人もいる。
「人間は、所詮戦争をする生き物なのだ」と。
冷笑主義的にそう断言することが、真にクレバーだと言わんばかりに。
でも、本当にそう言い切ってしまっていいのか。
まだ幼い子供が、爆撃の巻き添えをくって命を失うことを。子供を亡くした母親が、悲しみの涙に眩れることを。若くして戦場に駆り出され、抱いていた夢を実現させることなく露と消える魂を。高揚した兵士に、どさくさ紛れに強姦され、父親のいない子を宿した娘が、精神を病むことを。人の命が、営々といとなまれてきた暮らしが、咲き誇ってきた文明が、緑豊かな風土が、一瞬にして灰燼に帰すことを。
本当に、やむを得ない事だと言い切ってしまっていいのか。
俺は嫌だ。
確かに、可能性を言うのであれば、人類は戦争をなくすことができないかもしれない。人類は様々な取り組みを行いましたが、結局戦争をなくせないまま滅びてしまいました…という事は、ありえる話ではある。
でも、だからと言って、諦めてしまっていいのか。
可能性は低いかもしれない。でも、ゼロではないはずだ。
なにより、戦争によって起こる悲劇を、やむを得ないものとして受け入れていいはずがない。
俺は嫌だ。戦争の悲劇を、失われる命を、流れる涙を、消滅する営為を、汚される自然環境を、やむを得ないことだなんて、死んでも言いたくない。
清志郎、アンタもそうなんだろ?
今、世界は、大規模な戦争にまでは至っていない。だが、テロリズムがいたる所で頻発しているし、ISISのような、厄介な存在も生まれてしまった。中東には紛争の火種がくすぶっており、アメリカとロシアの思惑も交錯している。第三次世界大戦の興りを示唆する声もある。
事態は、「現実的平和主義者」の主張に傾き、「単純な平和主義者」の言葉には、耳を貸さなくなっているらしい。現状は、ますます世界平和から遠のきつつあるようだ。
だから、清志郎、俺は“何度でも何度でも”アンタにアンコールを叫び続けるよ。
アンタの世界平和の夢を、確実に引き継いでゆくために。
アンタの歌声が、戦場の銃声にかき消されてしまわぬように。
ジョン・ライドンは言った。1978年1月のことだ。
本当に死んだのだろうか。
あるいは、そういう見方も成り立つかも知れない。人は、自分が愛するもの、理想とするものが様変わりした時、決定的な何かが失われ、それが「死んだ」と感じる。
だから、ある意味ライドンは正しい。でも、本当は死んではいない。
ロックは、その姿を変えただけで、なおも存在し続けていた。
「ロックンロールは僕自身」
忌野清志郎は、常々そう吹聴していた。
その清志郎が死んだ。2009年5月だった。
「ロックが死んだ」
あるいは、そんな言い方もできるかもしれない。
世界平和は見果てぬ夢なのだろうか?
ずっと世界平和を祈っていた清志郎。その実現を見ないまま、逝ってしまった。
ミュージシャンでは、ジョン・レノンを筆頭として、反戦平和主義を掲げるものは、とかく馬鹿にされがちだ。いわく「単純に平和を唱えているだけでは、真の平和など到来しない」と。
では、その単純ではない「現実的平和主義」とは如何なるものか。
それは、他国を、油断も隙もない狼と捉え、こちらが少しでも弱みを見せれば、すぐに付け込んでくる潜在的な敵である、と定義する。そして、その認識に基づいて、敵の侵略を許さないために、きっちりと軍備する。外交では、舐められないように、強気に接することも大事とされる。
これが「現実的平和主義者」の有り様である。
しかし、この考えに基づけば、軍事能力が他国よりも劣っていると侵略を許してしまうので、交戦する可能性がある国よりも、軍備を増強しなくてはいけなくなる。すると、当然相手国もそれに対抗して、軍備の増強を行うだろう。実際、米ソ冷戦の時代に、この傾向が顕著に現れ、延々と続いた軍拡競争は、人類を何十回も滅ぼしうるという、核兵器の配備に至った。
さて、これが本当に、あり得べき平和の姿と呼べるのだろうか。
確かに、「核の緊張」によって、戦争が起こりにくくなっている、という側面はある。しかし、「キューバ危機」はあった。あの時、もし幾つかのボタンの掛け違いが起こっていたら?そして、同じような事態が二度と起こらないという保証など、どこにもない。
ジョン・レノンの音楽のファンは、国境や人種や文明を、軽く飛び越えて繋がっている。彼らは、お互いのことを狼だなんて思っていないし、武装してもいない。「現実的な平和」なんて、考えてもいないだろうけど、仲良くやっている。これこそが、真の平和のあり方ではないだろうか。
それから、「人類にイノベーションをもたらした」という点で、戦争を評価する向きもある。
実際、インターネットがアメリカの軍事テクノロジーの転用であることは、よく知られている。缶詰は兵糧のために開発されたものだし、農薬は毒ガス研究の過程で生まれた。
現代社会を生きる我々は、それらイノベーションの恩恵に浴している。そのことは否定できない。
でも、どうしてもそれらが必要、というわけではない。
インターネットは楽しいし便利だ。できれば、手放したくない、と思う。でも、なくなったとしても、それならそれでまあ、やっていくことはできるし、仮に戦争によるイノベーションが起こらず、最初からネットが生まれなかったとしても、そのことで人類がどうにかなるわけではない。
戦争によるイノベーションは、なければないで構わないモノだ。
ましてやそれが、無数の人々の血で贖われた代物であれば、良識のある人は「なくていい」と言うだろう。
また、人類は、その誕生からほぼ恒久的に戦争状態にあり、戦争が止んでいた期間は、ほんのわずかしかない、という。「現実的平和主義者」もまた、戦争を完全に終結させることができずにいる。
この事実を持って、諦観をあらわにする人もいる。
「人間は、所詮戦争をする生き物なのだ」と。
冷笑主義的にそう断言することが、真にクレバーだと言わんばかりに。
でも、本当にそう言い切ってしまっていいのか。
まだ幼い子供が、爆撃の巻き添えをくって命を失うことを。子供を亡くした母親が、悲しみの涙に眩れることを。若くして戦場に駆り出され、抱いていた夢を実現させることなく露と消える魂を。高揚した兵士に、どさくさ紛れに強姦され、父親のいない子を宿した娘が、精神を病むことを。人の命が、営々といとなまれてきた暮らしが、咲き誇ってきた文明が、緑豊かな風土が、一瞬にして灰燼に帰すことを。
本当に、やむを得ない事だと言い切ってしまっていいのか。
俺は嫌だ。
確かに、可能性を言うのであれば、人類は戦争をなくすことができないかもしれない。人類は様々な取り組みを行いましたが、結局戦争をなくせないまま滅びてしまいました…という事は、ありえる話ではある。
でも、だからと言って、諦めてしまっていいのか。
可能性は低いかもしれない。でも、ゼロではないはずだ。
なにより、戦争によって起こる悲劇を、やむを得ないものとして受け入れていいはずがない。
俺は嫌だ。戦争の悲劇を、失われる命を、流れる涙を、消滅する営為を、汚される自然環境を、やむを得ないことだなんて、死んでも言いたくない。
清志郎、アンタもそうなんだろ?
今、世界は、大規模な戦争にまでは至っていない。だが、テロリズムがいたる所で頻発しているし、ISISのような、厄介な存在も生まれてしまった。中東には紛争の火種がくすぶっており、アメリカとロシアの思惑も交錯している。第三次世界大戦の興りを示唆する声もある。
事態は、「現実的平和主義者」の主張に傾き、「単純な平和主義者」の言葉には、耳を貸さなくなっているらしい。現状は、ますます世界平和から遠のきつつあるようだ。
だから、清志郎、俺は“何度でも何度でも”アンタにアンコールを叫び続けるよ。
アンタの世界平和の夢を、確実に引き継いでゆくために。
アンタの歌声が、戦場の銃声にかき消されてしまわぬように。