徳丸無明のブログ

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ヘイトスピーチのある風景・前編

2015-10-18 20:12:56 | 雑文
在日の人達に対するヘイトスピーチを見ていると、一体、いつからこんなことになってしまったのか、と思う。
「日本から出て行け」などと叫んでいるのを聞くと、思わず「お前は地球から出て行け」(by.オードリー若林)と言いたくなる。でも、それじゃあきっとダメなんだ。排外的な言葉に、排外的な言葉を持って応じると、同じ穴のムジナになってしまう。ヘイトスピーカーに、在日が気に食わないというだけの理由で「出て行け」と言える権利がないのと同様、いくらヘイトスピーカーが気に食わないからといって、「出て行け」と言える権利は、小生にはない。
ちなみに、これに関しては、小説家の高橋源一郎が、「売国奴と他人に向かって言うやつの方が結果として売国奴になる問題」という名称で、端的にまとめて説明している。


「日本がもし100人の村だったら」としますね。そのうちの、「二十人」ほどを、「売国奴!」と呼び続ける。(中略)さて、「二十人」が離脱したとして(しないだろうけど)、残りの「八十人」で仲良くできるかというと、これが違うのである。その中に、また、絶対気に食わない連中が出てくる。なので、最初に「売国奴!」と叫んだ人は、次の「二十人」に向かってまた「売国奴!」と叫ぶようになるのである。(中略)
最後に「二人」しか残らなくても、その最後の「二人」もまた、お互いに「売国奴!」もしくは「クズ!」あるいは「カス!」と罵り合うことになるのである。
(内田樹・編『街場の憂国会議』晶文社)


だから、在日の人達だけでなく、ヘイトスピーカーもまた同時に救う、というやり方を目指すべきだ。でも、どうやって?
「冬のソナタ」をきっかけとした韓流ブームが起きた時、日本の対韓感情は、極めて良好であった。
当時、某大型書店が年末のカレンダーコーナーを設けており、その一角に、韓国タレントのカレンダーが置いてあった。50代くらいのおばさま2人が、誰々がどうのと、小生には1人もわからない韓国人タレントの名前を挙げながら、楽しげにカレンダーを物色していた。その光景をぼんやり眺めながら、「いい時代になったな」と感じたものだった。
日本には、昔から朝鮮人に対する差別がある。差別には、よく「陰湿な」という修飾語が付くが、朝鮮人に対するそれは――関東大震災の時の虐殺において劇的に現れたそれは――陰湿さすら感じさせないほど大っぴらに、当たり前のように行われていた。
もちろん、差別を完全になくすことは難しいし、韓流ブーム華やかりし頃にも、全く差別がなかったわけではない。だが、差別が恥ずべき感情であるとの共通理解は、拡く行き渡っていたはずだ。
今本屋に行けば、「〇韓論」(〇の中には侮蔑的な言葉が入る)などという本が、数多く平積みされており、陰鬱な気持ちになる。最近では「ヘイト本」なる総称があるらしい。
大体、ネトウヨなんかもそうだけど、ヘイトスピーカーの人達は、「日本人」と「朝鮮人」の違いについて、突き詰めて考えたことがあるのだろうか。
「〇〇人」という区分は、国粋主義が発露されている場合には、「血筋」とか「遺伝子」というものに根拠を求められがちだ。では、「血筋」や「遺伝子」は、明確に「日本人」と「朝鮮人」を分かつ根拠となるのか。
ご存知のとおり、日本人というのは、おもに大陸から移り住んできた人々を先祖に持つ。移住が行われたのは、ただの一度きりではない。歴史の中で、何度も何度も半島を通じて、大陸からの移住者を受け入れている。また、北方から来た人達や、南の島から訪れた人達もいる。それら、いろんな時代に、いろんな所からやってきた人達は、それぞれ独自の文化を保ったまま、バラバラに暮らしていたわけではない。歴史の過程で、混交が起こっている。そして、半島から列島に移住する人がいただけでなく、列島から半島に移り住む人だっていた。
もしも、列島への入植が、過去に一度だけ行われ、その後は一切の移住が行われぬまま、今日まで来ているというのであれば、あるいは、日本列島に生息する猿が、進化して人間になり、それが大陸であれ南の島であれ、よその土地の人々と一切交わることなく、今の日本人に至っている、というのであれば、「血筋」において日本人は純粋である、と言える。だが、そうじゃない。
「血筋」や「遺伝子」という観点において、純粋な日本人など、ただのひとりも存在しないのである。
もちろん、このことは朝鮮人にも言える。
「〇〇人」の分類方法を、「どの文明に属しているか」に求めるやり方もある。
だが、文明の交わりは原始時代から起きてるし、特に、この高度情報化社会、グローバル・スタンダードの時代において、明確に文明の独自性を保つことなど不可能だ。キムチを作る日本人もいるし、空手を愛好する朝鮮人もいる。また、ジャパニメーションにしても、韓流ドラマにしても、それぞれの国において作られた、という独自性は尊重するだろうが、メディアを通じて日々いくらでも鑑賞することができる以上、国境を越えた親しみをお互い感じているはずで、そこに明瞭な境界線を引くことはできないだろう。
じゃあ、はっきりと「〇〇人」と呼べる根拠はどこにあるのか、と言えば、それはもう「国籍」しかない。
現代社会は、「国民国家」という国の形式を採用している。国民国家とは、領土、領海、領空を持ち、中枢にある国家機関がそれを統治する、というものだ。この、国家に属している者を国民と呼ぶが、それを規定するのが国籍である。
国民国家の歴史は浅い。1648年に締結された、ウェストファリア条約に基づいているわけだが、人類の長い歴史の中では、ごく最近生まれたばかりである。で、文明という観点でなく、この国民国家という観点から見ると、日本国の誕生は1868年(国籍法の制定は1899年)、韓国、及び北朝鮮の誕生は1948年である。どちらも、つい最近出来たばかりだ。
そして、国民国家は、永久不変の形式ではない。これまで、いろんな形式の国が、現れては消えていったのと同様、いつの日か、違う形式に取って変わられるものだ。実際、国民国家の制度疲労を指摘する声は、既にいくらでもある。
また、「帰化」という制度もある。これは、国によっていろいろ条件があるだろうが、そんなに難しいものでもない。日本に帰化した朝鮮人が大勢いるのは、誰でも知っているだろう。
そんな、歴史の浅い、いつ無くなるかもわからないような、薄弱な制度が保証する、変更することも可能な、「国籍」なるものに基づいて、「韓国人め」「日本人め」などと罵り合っているのである。
こんなに馬鹿馬鹿しいことがあろうか。

(後編に続く)


オススメ関連本・加地伸行『儒教とは何か』中公新書 

お金と乳房の相関関係

2015-10-17 19:56:12 | 雑文
石井光太の『世界「比較貧困学」入門』を読んでの気付き。
石井は以前、ミャンマーのヤンゴンで、靴磨きをしている人と知り合った。
その人から、こう言われたという。
「前に日本人から雑誌をもらったんだ。そしたら、女の子のおっぱいばかりを強調する写真がたくさんあった。なんで日本人は胸にばかり興味を抱くんだ?ミャンマーの男性は女性のお尻が好きなんだよ。ちゃんと安全に子供を産むことのできる女性がモテるんだ。その代わり、胸にはあんまり興味がないかな。胸が大きくたって、出産には役に立たないからね」
なるほど、と思った。
男が、女性のどこに魅力を感じるか、というのは、容姿や人格に対してでもあるが、丈夫な子供を産めるか、という点も大きい。
日本とミャンマーの違いは何か。なぜ、女性への興味の対象が、おっぱいとお尻という違いに現れるのか。(石井は、日本人の男性が、女性の体のどこに魅力を感じるか、というアンケートも紹介している。一位が胸、二位が胴体、三位がお尻だったそうだ)
出産というのは、母子ともに危険を伴う。医療水準がある程度高ければ、帝王切開等により、安全な出産が期待できる。しかし、そのような技術が整っていない国もある。
医療技術が高ければ高いほど、男は安産型のお尻を求める必要がなくなり、興味の対象がお尻以外に移っていくだろう。もちろん、脚やらおヘソやらに魅力を感じる男もいるだろうが、「お尻以外」ということであれば、やはり一番はおっぱいだろう。
で、医療水準は、その国の経済力とほぼイコールなので(キューバのような例外もあるが)、「お金持ちの国の男ほどおっぱいが好き」という法則が成り立つだろう。言い換えれば、「巨乳好きは裕福な国に許された贅沢」だということ。
世界一の経済大国のアメリカにおいて、極端に胸の大きい女性が――本当に、異常なくらい巨乳の女性が――脳天気に喜ばれる理由が、これでわかった。
もう一歩踏み込んで考えると、安産型のお尻を求めない、というのは、見た目がさほど大事ではなくなる、という事だから、裕福な国の男ほど、女性に対して「見た目よりも人格」を重視するようになるのかもしれない。
しかし、一つの国の中においても経済格差はあるわけで、例えば今の中国なんかだと、超富裕層と下層民の間では、好まれる女性に違いが出てくるのだろうか。

それから、おっぱいとお尻の話から離れるけど、この本の中に結構大切なことが書いてあるので、紹介する。
よく、貧しい国が言われる「なんで貧しいのに子供をたくさん産むの?元々お金がないはずなのに、よりお金が必要になるじゃない」という疑問がある。これを、疑問ではなく「だから貧しいのは自業自得なんだよ」という非難として口にする人もいる。
だが、事実はどうなのか。
貧しい国には、年金や、保険・福祉制度が整ってないことが多い。であれば、歳を取って働けなくなった時、家族や友人、知人に頼るしかない。その中でも、自分が年老いた時に、最も稼ぎ手となるのは、子供、もしくは孫の世代だろう。だから、老後の事を考えると、子供をたくさん設けざるを得ない。
貧しい国において、人間関係は、なにより、セーフティーネットとして機能する。老後だけでなく、病気や事故などで働けなることだってあるが、そんな時にも、親戚や友人など、コミュニティーの誰かしらが助けてくれる。助ける人にしたって、皆貧しい人ばかりだ。しかしそれでも、明日は我が身。いつか自分も病気や事故などで、収入を得られなくなってしまうかもしれない。だから、いくら金銭的に苦しくても、コミュニティーの中に困っている人がいれば、必ず助ける。それが、貧しい国のセーフティーネット間における、不文律であるという。
そして、子供というのは、いずれ結婚をするわけだが、そうなれば、結婚先の家族が、新たなセーフティーネットとなる。つまり、子供の数が多ければ多いほど、ほかの家族と繋がりを持つことができ、セーフティーネットをより拡大することができるのである。
つまり、「子沢山だから貧しい」のではなく、「貧しいから子沢山になる」のである。話の順接が逆なのだ。
それ以外にも、貧しい国が子沢山になる理由がある。避妊具がなかったり、そもそも避妊という概念がなかったりする。
また、女性の場合、国によっては、結婚して、あるいは子供を設けて、やっと一人前扱いしてもらえるという、男女差別の問題もある。
貧しい国に対しては、正しい理解が必要だ。「貧しいのは自業自得だ」という認識がはびこっていれば、経済支援などの、行われて当然の援助が、行われなくなってしまう。
彼らが貧しいのは、我々の無理解が一因でもある。
(とは言え、ウィリアム・イースタリーが『傲慢な援助』で提示したような問題もある。なかなか一筋縄ではいかない)


オススメ関連本 ジョン・パーキンス『エコノミック・ヒットマン――途上国を食い物にするアメリカ』東洋経済新報社

お金の話を巡る、ある種の欺瞞について

2015-10-16 21:50:26 | 雑文
前回の論考で主張したかったのは、「お金が全てではない。お金以外にも大切なものがある」ということでもある。
これには多くの人が賛成してくれると思う。ただ、この手の言明には、注意しなくてはならない所がある。
「お金持ちが必ずしも幸せだとは限らない」という言葉がそれである。
この言葉は、不遇の身にある貧乏人に対して、貧乏であることを慰めるために発せられることが多い。
確かに、言葉の表面上の意味だけを読むならば、そのとおりである。不幸なお金持ちもいる。
しかし、最低限のお金がないと、保証されない幸せがある、というのもまた事実である。この言葉は、貧困が抱える問題から目を逸らしてしまうという、欺瞞を孕んでいる。目を逸らした上で、貧困に関する話を終わらせ、思考を停止させてしまう。
だから、「お金持ちが必ずしも幸せだとは限らない」と言うだけでは、不十分である。
そのあとに、「だが、お金がないことで不幸になる人もいる」と付け足さねばならない。
そして、そこで話を終わらせるのではなく、そこから話し始めねばならない。奇麗事を言って、本質から目を背けてはならない。


オススメ関連本・安冨歩『経済学の船出――創発の海へ』NTT出版

資本主義はベンジャミン・フランクリンの夢を見るか?③

2015-10-15 22:16:06 | 雑文
(②からの続き)

最後に③の、終わりなき発展を前提とする、について。
プロ野球は、テレビ中継の視聴率が落ち、観客動員も伸び悩んでくると、クライマックスシリーズという制度を導入した。わずか数試合で優勝が決まるのであれば、ペナントレースの意味がない、との批判を受けているが、注目度が高く、お金につながるこの制度は、資本主義からしたら廃止はありえない。
チョコレートの消費を拡大したいと思えば、バレンタインデーというイベントを作る。この試みは、特に成功した方なのだが、いくら売り上げが伸びても、決して満足することを知らないのが資本主義なので、さらなる売り上げ増を画策する。かくして、「義理チョコ」「中間チョコ」「友チョコ」「逆チョコ」「自分用チョコ」等、様々な形式のチョコが生まれることとなる。
この資本主義の特徴の、最も厄介なのは、「終わりがない」という点である。常に成長を、常に発展を求める資本主義は、「成長の限界」を説かれても、「沈黙の春」が告発されても、それでも止まることがない。
福岡の市営の地下鉄が、路線を拡張したことがある。都市高速も、長い時間をかけて、高架を伸ばしていた。どちらも、利用者数があまり見込めない、と指摘されていた。でも、撤廃されることはなかった。建設されれば、土建屋を中心として、いろんな所にお金が落ちる。「作った後でどうなるか」とか「黒字運営できるか」は、二の次、三の次。とにかく、今仕事ができるか、今お金が回るか、なのだ。
小生は、開発によって変わりゆく風景を見ながら、
「なんか街並みが汚くなるなぁ、こんなモノ作らなきゃいいのに」
などと思っていたのだが、資本主義は景観なんぞ知ったこっちゃないのである。資本主義は、まさにやめられない止まらない、なのだ。
この資本主義の特徴を例えるならば、「ついてこいよ」と言って、徐々に速度を上げながら走り続けるマラソンのようなものだ。ウルトラマンの名言に、「僕たちがしているのは、血を吐きながら続ける悲しいマラソンさ」というのがあるが、正にそれである。速度は上がっていく一方なので、当然ついていけない人も出てくる。
資本主義の興りまでは、労働の現場は、牧歌的な姿をしていた(たぶん)。それが、資本主義以降は、他社との競争が眼目に据えられ、そのための様々な制度が導入され、決まりごとが増えていく。
この流れの中で、特筆すべきはフォード主義だろう。ベルトコンベアの導入による、流れ作業と分業化で、生産力を拡大させた。チャップリンの映画『モダン・タイムス』が、図象的に示しているように、労働者が、自分達はいくらでも取り換えがきく歯車の一部だと、強く意識するようになる(それまでは、人は歯車ではなかった、とまでは言わない。ただ、その実感が強まった、ということだ)。
このようにして、儲かるやり方が見つかれば取り入れられ、それは常識化してゆく。自分がうまいやり方を考え出せば、他社がそれを真似するし、他社が何か生み出せば、自分もそれを模倣する。そうやって、決まりごとはどんどん増えてゆく。その、どんどん増えてゆく決まりごとを、全部守らなければ、資本主義の現場では働けない。
コンビニを見たらわかりやすい。コンビニは、最初のうちは商品の販売しかしていなかった。だが、利便性を追求した結果、酒とタバコの販売解禁、宅配便、口座振込、通信販売の受け取り対応、ATMや自動チケット販売機の設置等々、ありとあらゆるサービスを吸収してきた。利用する側は便利でいいだろうが、従業員は、覚えねばならないことがどんどん増えてゆく。20年前と今とでは、覚えねばならない業務内容の量に、天と地ほどの差があるのではないだろうか。ホント、安い時給でよくやるよ、と思う。
どんどん速度を上げていくマラソンとは、そういうことだ。
最近はグローバル化のせいで、国内の競争相手のみならず、途上国の低賃金労働者とも張り合わねばならず、加速度はまた一段と、ギアチェンジしたかのように上がっている。
このマラソンから脱落した人は、ニートや、生活保護の不正受給者なんかになる。
新橋のサラリーマンは、ニートや不正受給者に、「ふざけるな」と言う。
でも、小生は「資本主義がそういうシステムでやってる以上、落伍者が出るのは避けられないんじゃないの?社会が払うべきやむを得ない代償だよ」と思う。
そしてもちろん、マラソンが続く限り、その速度が上がり続ける限り、落伍者は増え続けるだろう。ニュースで、毎年のように「生活保護受給者の数が過去最高を更新」と悲観的に伝えているが、小生は、「まあ、そりゃそうなるだろうね」としか思わない(高齢化の影響もあるんだろうけど)。
それと、日本では「週5日の8時間勤務、プラス残業とたまの休日出勤」という労働形態が普通だ。みんなこれを当たり前だと思ったいる。だが、この常識は、「人間の働き方として普通」というわけではなく、「これを普通にしましょう」という決め事に過ぎない。「できるだけ働かせて利益を上げたい資本主義」と「お金も稼がなくちゃいけないけど休息や余暇もとりたい労働者」との綱引きの結果として「週5日の8時間勤務」が決せられているわけだ。
よく言われていることだが、原始時代には、食料を確保したり、道具や住居を作ったりといった、生活のために行われていた労働時間は、1日約3時間程度であった。おそらく、現代において、それ以上の労働時間というのは、余剰な利益のために行われているのだろう。
さて、どうしてこんなことをつらつら書き綴ってきたかと言うと、それは小生がナマケモノだから、という一言に尽きる。
小生は、できるだけ働きたくないのである。
だから、ナマケモノの自分を正当化する理屈を構築したいし、さもなくば働かなくてもいい世の中を作りたい、と思っている。苦手なのに経済のことを考えているのは、そのためだ。
なんてアホなヤツだ、と思われたろうか。
でも、よく言われているように、現状の資本主義には限界があるし、このままだといつかは破綻してしまう。資本主義をなんとかしなくてはいけない、というのは、ナマケモノでない人にとっても了解事項のはずだ。だから、ナマケモノの立場からの、対資本主義の取り組みも、何かしらの実のある貢献ができるのではないだろうか。
いや、きっとできる。できるはずだ。絶対できる。うん。

ついでに言わせてもらうと、小生は「失われた20年」という言い方に賛同できない。
バブル崩壊後の日本社会は、「失われた10年」と呼ばれており、2010年頃からは、それが「20年」に変わった。「失われた」というのは、「得られて当然の何かがあった」という前提があっての認識である。その何かとは、言うまでもなく経済成長を指している。
だが、さんざん繰り返してきたことだが、経済成長し続けるのが、なぜ当たり前でなければならないのか。もっと言えば、この言葉には、得られるべきもの、手に入れるに値するものは経済的成功だけだ、という言外の含意がある。大切なのは経済だけ。家族や友人とのつながり、趣味や教養による私生活の充実、衣・食・住を豊かなものとすること…それらは、経済に資する範囲では評価するが、そうでなければ二の次、三の次。そんな意味が込められているのではないか。
だから小生は、「失われた20年」という視点に乗れないし、その言葉を常識として使いたくない。
それから、「時は金なり」という言葉も嫌いである。
これは、様々な価値を、お金という単一の尺度で換算しようという態度の発露であり、資本主義が孕む多くの問題の遠因となっていると思う。だから、この言葉を、ひとつの病的な時代に人類が取り憑かれていた忌まわしい妄言として、この世から追放したい、と考えている。「追放する」のは過激すぎる、というのであれば、過去の遺物として博物館に展示する、でもいい。
社会学者の見田宗介によれば、この箴言を発したベンジャミン・フランクリンは、自らの信条に反する生活習慣を有するアメリカの原住民達に手紙の中で触れ、一人残らず絶滅してしまえばいい、と書き記しているらしい(『社会学入門』)。まったく、度し難いヤツだ。
このベンジャミン・フランクリンは、百ドル紙幣の肖像になっている。グローバル・スタンダードを先導するアメリカの、世界の基軸通貨たるドル紙幣の、肖像。
フランクリンの思想は、世界中を染め尽くそうとしている。小生の声は、余りにも弱い。
万国のナマケモノよ、団結せよ!
…って、しないか。ナマケモノだもの。


オススメ関連本 ヘンリー・ハズリット『世界一シンプルな経済学』日経BP社

資本主義はベンジャミン・フランクリンの夢を見るか?②

2015-10-14 22:17:23 | 雑文
(①からの続き)

次に、②の、適度な貧困感を燃料とする、について。
日本は、ついこの間までGDPが世界第二位で、現在でも三位である。
しかし、長いこと二位だった時代もだし、今もそうなのだが、「自分は貧乏だ」と言う人がすごく多い。
これは何故なのか。
理由としては、経済活動の規模と純利益の違いだとか、ベースアップが実現し、所得が増えても、インフレが起こる(こともある)ので、豊かさが実感されにくいとか、税制と福利厚生の問題だとか、最近よく言われる格差が原因だとか、もしくは、日本人の特質たる謙虚・謙遜の表れだとか、いろんなことが指摘できると思う。
小生がひとつ思うのは、「資本主義の要請がある」ということ。「資本主義の要請があって、貧しいと感じている」ということだ。正確には「感じている」のではなく、「感じさせられている」と言うべきか。
どういうことかと言うと、資本主義は、とにかく人々に働いてもらう必要があるわけで、そのためには「稼ぎたい」という動機が不可欠である。で、「稼ぎたい」と思うのは、その根本に「自分は貧しい」という自覚がなければならない。
要するに、資本主義は、自らを稼働させる燃料として、「適度な貧困感」を必要としているのである。
この、「適度な貧困感」という言葉に、よくよく注意してもらいたい。「貧困」ではなく、「貧困感」である。実際に貧しいかどうかではなく、貧しいという自覚がある、ということだ、また、「適度な」というのは、あまりに貧しさの感覚が強すぎると、働くことをハナから放棄してしまったり、自暴自棄になって犯罪に走ったりしてしまうので、その感覚は、ほどほどでなければならない、というワケだ。
日本は資本主義というシステムを採用している。
なので、日本列島は「資本主義の空気」にスッポリと覆われている。
列島に住まう者は皆、この空気を吸って生きていかざるを得ない。資本主義は、日本国民に、空気を読むことを要請する。
「自分は貧乏だ」という揚言は、資本主義の空気を正しく読んでいることの表れなのである。日本人は、資本主義によって、自分は貧乏だと思い込まされている。
「日本は豊かだし、自分もそれなりに裕福だ。働かなくてもなんとかやっていける。仕事よりも、私生活を大事にしよう」
そんなことを多くの国民が考えるようになったら、資本主義は動力を失ってしまう。だから、言葉を変えて言うと、資本主義は、国民に豊かさを感じることを許さない。この先、いくらGDPが伸びていこうとも、資本主義という経済体制が変わらぬ限り、日本人は、自分のことを貧乏だ、と言い続けるだろう。
小生は、アメリカや中国で「貧乏じゃないのに自分を貧乏だという人」が、どれほどいるのかよく知らない。知らないので、比較論を軽々しく語るべきではないだろうが、日本人はとりわけ「空気を読む」ことに長けている、あるいは、日本というのは、「空気を読まないとやっていけない」、同調圧力の高い国だということが言えるかも知れない。(その辺の理屈を詳しく知りたい人は、山本七平の『空気の研究』でも読んどくれ)
新橋の駅前で、サラリーマンに「ニートをどう思いますか?」と質問したとする。
20年、30年とコツコツ働いてきたサラリーマンは、ほぼ全員否定的な答え方をするだろう。そして、その理由を尋ねると、「国の経済が立ち行かなくなる」とか「年金制度が崩壊する」とか、尤もらしい説明をする。
だが、サラリーマンのおじさんたちは、そんなことを本気で心配しているわけではない。20年、30年とサラリーマンをやっている、ということは、資本主義の空気を正しく読んでいる、ということである。それに対して、ニートは空気を読んでいない種族だ。
空気を読めないことをKYと呼ぶが、ニートは「資本主義的にKY」なのである。
「俺はきちんと空気を読んで、真面目にコツコツ働いているのに、ニートときたら何だ。許せん。空気読めよ」
それがサラリーマンの本音である。
空気というのは、喩えとして言い得て妙で、それは目に見えない。見えないから、意識することが難しく、それが自分自身にどのような影響を与えているか、その影響によって、どんな建前を語らされているか、建前抜きの、自身の本音とは如何なるものか、に、自分でも気づかなかったりする。
サラリーマンは、日本経済全体のことや、お年寄りの老後の暮らしなど、本気で心配しているわけではない(少しは気にしてるだろうけど)。ただ、ニートのことが、感情的に気に食わないだけである。
そんな本音に、自分で気づいていないから――もしくは、気づいていたとしても、感情論を語るのは憚られるから――御国の行く末がどうのこうのと、経世済民としての、利いた風な理屈をこねるのである。
ニートは、おそらくこの空気が見えている。そしてその上で、空気を読むこと――資本主義の要請に従うこと――のバカらしさを感じているのだろう。だから、働かない。
サラリーマンとニート、どちらが正しいのか、どちらがあり得べき姿なのか。ここで言わんとしているのは、そんな単純な二元論ではない。ただ、ニートの視点を通すと、見えてくるものがあるわけで、資本主義を相対化して考えるためには、そのような視点も必要になってくる、ということだ。

(③に続く)


オススメ関連本・間宮陽介『ケインズとハイエク――「自由」の変容』中公新書