1月7日の菅義偉の非常事態宣言がたよりないもので心配したが、各人の努力で、新型コロナ感染の拡大が抑えられ、減少傾向がみられ、安堵している。きょう、3月7日までの4週間の延長が決まったが、行動変容が維持され、徹底的に新規感染者数を減らしたいと願っている。
この間、いろいろと気になったことがあったが、そのうちの2点をここに記したい。
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1つめは、政治が儀式化していることである。官邸で実施案をさきに決め、それを権威化するために、新型コロナ対策分科会を開き、国会の報告をやり、記者会見をやる。しかし、その過程に討議がない。
民主政では、民衆が自己決定するために、政治に参加するのであって、官邸も民衆も対等でなければならない。テレビ見ると、大きな部屋で、多数の人が集まって、新型コロナ対策の会議をやっている。それでは討議できない。儀式である。また、討議内容は、国民に共有されるために、公表されなければならない。
討議とは結論の承認ではなく、結論を形成することである。結論の形成過程に国民が参加できなければ、儀式になる。日本は、まだ、儀礼を政治の骨幹に置いた儒学から抜け出られていない。
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2つめは、いまだ、菅義偉や自民党公明党議員の一部は、“GoToキャンペーン”の夢を捨てきれないようである。
飲食店や商店やスーパーを細々と営業するのでよいのでは、と私は思っている。キャンペーンをして店内を満員にしなくてもよいのではないか、と私は思っている。
満員にしないと経営できない日本社会は狂っているのでは、と思う。働かないでお金を得るオーバヘッドの人たちが多いのではないか。店のオーナがオーバヘッドなのか、建物のオーナがオーバヘッドなのか、銀行がオーバヘッドなのか、建設業界がオーバヘッドなのか、全部狂っているのか、とにかくオーバヘッドを抑えないといけない。
学校で中世を暗黒時代のように教えているが、確かに身分制の問題があるが、意外と自由で充実した生活があったとエーリッヒ・フロムはいう。
日本も、この際、競争競争、お金お金の狂騒から卒業し、スローライフに移るべきである。
また、起業が飲食店経営やIT企業しかないという状況からも抜け出ないといけない。観光立国、ギャンブル立国の施策を国はやめないといけない。
人間が必要としているものは、昔も今もそんなに変わらない。昔ながらのものを作ったり、売ったりしても生活できる社会に切り替えないといけない、と思う。