猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

新型コロナ非常事態宣言の4週間延長を機に思うこと

2021-02-02 22:39:52 | 新型コロナウイルス
 
1月7日の菅義偉の非常事態宣言がたよりないもので心配したが、各人の努力で、新型コロナ感染の拡大が抑えられ、減少傾向がみられ、安堵している。きょう、3月7日までの4週間の延長が決まったが、行動変容が維持され、徹底的に新規感染者数を減らしたいと願っている。
 
この間、いろいろと気になったことがあったが、そのうちの2点をここに記したい。
   ☆    ☆    ☆
1つめは、政治が儀式化していることである。官邸で実施案をさきに決め、それを権威化するために、新型コロナ対策分科会を開き、国会の報告をやり、記者会見をやる。しかし、その過程に討議がない。
 
民主政では、民衆が自己決定するために、政治に参加するのであって、官邸も民衆も対等でなければならない。テレビ見ると、大きな部屋で、多数の人が集まって、新型コロナ対策の会議をやっている。それでは討議できない。儀式である。また、討議内容は、国民に共有されるために、公表されなければならない。
 
討議とは結論の承認ではなく、結論を形成することである。結論の形成過程に国民が参加できなければ、儀式になる。日本は、まだ、儀礼を政治の骨幹に置いた儒学から抜け出られていない。
   ☆    ☆    ☆
2つめは、いまだ、菅義偉や自民党公明党議員の一部は、“GoToキャンペーン”の夢を捨てきれないようである。
 
飲食店や商店やスーパーを細々と営業するのでよいのでは、と私は思っている。キャンペーンをして店内を満員にしなくてもよいのではないか、と私は思っている。
 
満員にしないと経営できない日本社会は狂っているのでは、と思う。働かないでお金を得るオーバヘッドの人たちが多いのではないか。店のオーナがオーバヘッドなのか、建物のオーナがオーバヘッドなのか、銀行がオーバヘッドなのか、建設業界がオーバヘッドなのか、全部狂っているのか、とにかくオーバヘッドを抑えないといけない。
 
学校で中世を暗黒時代のように教えているが、確かに身分制の問題があるが、意外と自由で充実した生活があったとエーリッヒ・フロムはいう。
 
日本も、この際、競争競争、お金お金の狂騒から卒業し、スローライフに移るべきである。
 
また、起業が飲食店経営やIT企業しかないという状況からも抜け出ないといけない。観光立国、ギャンブル立国の施策を国はやめないといけない。
 
人間が必要としているものは、昔も今もそんなに変わらない。昔ながらのものを作ったり、売ったりしても生活できる社会に切り替えないといけない、と思う。

アナキズムと民主主義とは同一で、キリスト教の遺産なのだ

2021-02-02 01:46:36 | 民主主義、共産主義、社会主義
 
けさ(2月1日)の朝日新聞に『(文化の扉)見直されるアナキズム 分断の社会批判、「一丸でバラバラに生きろ」』という記事があった。この記事は、つぎではじまる。
 
〈反逆と暴力とユートピア。そんなイメージが強かったアナキズムが、再発見されている。〉
 
しかし、この書き出しのわりには、具体性の欠けたものであった。
 
私は、アナーキー(anarchy)をエイブラハム・リンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治 (government of the people, by the people, for the people)」だと思っている。アナキズムこそ民主主義(democracy)だと思っている。したがって、政府(government)は国民へのサービス機関であって統治機関ではないと私は考える。
 
17世紀のトマス・ホッブズは『リヴァイアサン』で、主権者が誰かで政治体制を3つに分類した。“monarchy”、“oligarchy”、“anarchy”である。順に、主権者が、ひとり、少数の人からなる集団、上が誰もいない全員となる。
 
“archy”は「かしら」とか「トップ」という意味のギリシア語からくる。 “monarchy”には“mono”がつくから「トップ」が ただひとりの政治体制である。「君主政」という訳語より、「独裁政」が適当であろう。この言葉を嫌うものは“tyranny”(専制政治)と呼ぶと、ホッブズはいう。
 
“oligarchy”の“oligo”はギリシア語で「少数」という意味である。日本語では「寡頭政治」と訳されている。これをホッブズは“aristocracy”とも呼ぶとしている。日本ではこの“aristocracy”を「貴族政」とも訳すが、古代ギリシアのプラトンは「優秀者政治」という意味で使っている。
 
“anachy”の“an”は否定詞で上下関係(支配―被支配)のない政治体制を意味する。まさに「人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」である。日本語では「無政府主義」と訳されている。これをホッブズは“democracy”(民主政)とも呼ぶとしている。“demo”はギリシア語“δῆμος”からきて、「大衆」とか「下層民」という意味である。古代ローマ帝国でこれに当たるのがプロレタリアートである。
 
M. I. フィンリーは『民主主義 古代と現代』(講談社学術文庫)で、200年にわたって古代アテナイで民主政が続いたという。政府も、統治者もいなかったという。プラトンの嫌う文字も読めない大工や革職人や農民が集まる民会(ἐκκλησία、エクレーシア)で政治決定がなされた。
 
このエクレーシアは、ギリシア語新約聖書(原本である)で、「キリスト教徒の集会」という意味で使われる。日本語新約聖書では「教会」と訳しているが、意図的な誤訳である。
 
プラトンと同じく、19世紀の哲学者フリードリヒ・ニーチェは、大衆を、民主主義を嫌った。ニーチェは、『善悪の彼岸』(岩波文庫)でつぎのようにいう。
 
〈民主主義の運動(die demokratische Bewegung)はキリスト教の運動の遺産なのだ。しかし、そのテンポが人並みに以上の短気者や、上述の本能の病人だの狂人にとってなお遥かに遅すぎ、眠気を催させるものだということは、いまやヨーロッパ文化の裏町を彷徨う無政府主義者の狗ども(der Anarchisten-Hunde)がいよいよ暴れ狂って吠え立て、いよいよあらわに歯をむき出しているのを見ればわかることだ。(略)(これが進むと、「主人」と「奴隷」という概念をすらも拒斥するに至る――《神もなく、主もなし》というのが1つの社会主義的方式だ――)。〉(断章202)
 
ニーチェは、民主主義だけでなく、キリスト教、科学をも嫌った。
 
19世紀のヨーロッパで、大衆を政治に巻きこむようになったのは、ナポレオンの成功をまねて、国民を戦争に総動員するためであった。
 
また、ニーチェが民主主義、アナキズムをキリスト教の遺産としたのは、根拠がある。新約聖書の『マルコ福音書』10章42-44節につぎのようにある。
 
〈あなたがたも知っているように、諸民族の支配者と見なされている人々がその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。〉 
〈しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、〉 
〈あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。〉
 
すなわち、もともとのキリスト教では、エクレーシアは「教会」ではなく「上下のない集会」であったのである。
 
アナキズムは共産主義(共同体主義)と同じく 長く はぐくまれてきた人間の理想である。
 
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