きょうの朝日新聞の書評欄に戸邉秀明が、飯田未希の『非国民な女たち 戦時下のパーマとモンペ』(中公選書)を、「おしゃれを貫きひそやかに抵抗」という見出しで紹介していた。その紹介によれば、戦時中に、「贅沢は敵だ」と言われた時代に、女たちはパーマをかけ、洋装をし、おしゃれをしたそうである。
この「贅沢は敵だ」は、1937年の日中戦争がはじまった年の「国民精神総動員」のスローガンである。
そのとき、私がとっさに思ったのは、女たちとはだれか、すなわち、当時の若者だけか、ということである。
私の母の話によれば、縫製業をやっていた母の兄が、戦時下の街を自転車でかけめぐっていたとき、女たちが地味な服をきて歩いているのを見て、体全体を包むエプロンを作って売ることを思いついたそうだ。エプロンをつけて外にでれば、下におしゃれをしても気づかれない。そうして、実際に作って売り出したところ、飛ぶように売れて、金持ちになったとの話である。
ここでの女たちは主婦である。
母の話を聞けば、少女時代は竹久夢二の大正ロマンの抒情画にあこがれ、うら若き女になってからはダンスに通ったということである。私の父の妹は、向かいの八百屋のインテリお兄さんに恋をし、駆け落ちし、満州に渡ったという。母の兄弟でも、金儲けをした兄のすぐ上の兄は、やはり、駆け落ちし、福岡市で所帯をもったという。
欧米文化の流入で、明治の終わりから昭和の初めまでに、40年以上にわたる日本人の意識の変革があったのだと思う。主婦になってもおしゃれをするという心は、女たちの個人という意識に呼応しているのだと思う。
こう考えると、「おしゃれを貫きひそやかに抵抗」とあるが、女たちの個人という意識が男たちの国家主義に対決する力をもたなかったということのほうが気になる。「ひそやかに抵抗」したのではなく、単に、大正ロマンの甘い自由の雰囲気をひきずっていただけではないかとも思う。
政治的な力を発揮できなかったことは、女たちが選挙権をもっていなかったこともあろう。しかし、戦後、女たちが娘の教育で保守的であった、良い収入の男に嫁がそうとしたことは、本当に「ひそやかな抵抗」であったか、の疑念をもたらす。
もちろん、個人差があることであり、上野千鶴子のいう、戦後、女たちが娘に保守的な教育をした、というのも極論かもしれないが。