先日、日本の文科省がインクルーシブ教育に真面目に取り組んでいないとの報告書を国連が出したという記事が新聞にのった。インクルーシブ教育とは、障害者を集団教育の場から除外しないということである。この障害には、肉体的障害だけでなく、知的や精神的障害を含む。
私はインクルーシブ教育に賛成であるが、その実施に関しては、教授陣にかなりの能力が要求される。文科省がかなり本気になって教師をサポートしなければ、実施できないだろう。インクルーシブ教育は理念であって、教育技術として実装するにはまだまだ試行錯誤と研究がいるように思える。
いっぽうで、ギフテッドに対する学校における指導・支援には文科省は熱心であるように見える。ここでのギフテッド教育とは、音楽やスポーツほどには才能教育が確立していない分野において、天才教育をしたいということらしい。
私はギフテッドなるものは存在しないと思っている。
ギフテッドといわれるものは、人間がつくった文化のある制限された領域に対し、年齢以上の能力を発揮するものをいっているにすぎない。しかも、音楽やスポーツの天才教育を見ていると、多くの場合、ある程度の潜在的能力を持っていれば、早くから仕込めば、他の人より能力を発揮できる、といった程度の理屈である。それって、人類にとって何の意味があるのだ。歌舞伎役者の子が歌舞伎役者になるのが、何がいいのか。芸を仕込まれるサーカスのライオンや馬と同じではないか。
大学の数学ができる小学生の話を読んだが、そんなもの、普通以上の頭を持っていれば、教えればできるようになる。それが、どうしたというのだ。大学の教えていることは、過去において研究され、基本的知識として体系化されたことにすぎない。天才といわれるには、これまで知られていない真理、真実を発見することである。
私は今年からNPOでギフテッドといわれる小3の子の指導をしている。いろいろなことを知っているし、書かせば、大人並みの論理的構成の文章を書く。大気中の炭酸化ガスの濃度を知っているのにはびっくりした。しかし、教えているうちに、立体図形の問題に弱い、数パズルが解けないことがあるのに、気づいた。どうも、母親が教えることのできる分野が得意らしいことに気づいた。
この子の本当の才能は何なのか。1つはしつこく試行錯誤できることである。ディオファントス方程式タイプの数パズルは、初等的には試行錯誤で解くことになる。ここで試行錯誤を減らす工夫がいる。それに気づいていないようだ。
魔法陣の1つの数をいろいろと変えて、縦横斜めの和が与えられた数にする問題は、この子が解ける。しかし、2つの数を同時変えての試行錯誤が求められる問題を解けない。線型のディオファントス方程式では、独立な方程式の数が未知数の数より少なければ、その差の数の未知数を試行錯誤の対象にする必要がある。ここで、どの未知数を試行錯誤の出発点にするかが、試行錯誤を減らすのに重要である。
小3とすれば、難しい言葉を知っているし、文章構成力がある。しかし、自分の哲学を切り引けるか、自分の政治理論を打ち立てるか、といえばそうではない。ただ、プレゼンテーションや企画書作りの技術を知っているだけである。
そうすると、この子の能力は、成功体験の蓄積から得た成功への「試行錯誤のしつこさ」であると思う。今後は、バカな大人にたよらず、自分で自分の道を切り開かないといけないと悟ることが近い将来必要になるだろう。さもなければ、昔は神童、いまは凡人となる。大人を驚かすだけのギフテッドは、バカな大人に若くして到達できるだけである。
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