猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

優先すべきは経済性か人間愛か、ケアの現場

2019-10-17 00:31:01 | こころ

きょう(10月16日)の朝日新聞《オピニオン&フォーラム》に『薬減らして運動 仲間と楽しい時間 自信を取り戻せる』という、精神科医の岡村武彦のインタビュー記事がのった。同じ日の夜、NHKの《クローズアップ現代》で『身近な病院でも!なぜ減らない“身体拘束”』という座談会が再放送された。前者は精神疾患の患者を扱い、後者は認知症患者を扱っている。が、これらには相通じる問題がある。

優先すべきは経済性か人間愛か、責任は家族かケアをする現場か、の問題である。

認知症患者の身体拘束は直接的でわかりやすいかもしれない。

私の父も認知症患者として病院のベッドに縛り付けられた。入院の前は、自分で食事ができ、歩くことができた。すなわち、徘徊老人である。町を徘徊して帰ることができなくなるのだ。弟夫婦が父の面倒を見ていたが、徘徊に疲れ果てて入院させた。

父が可哀そうだと母が強く訴え続けたので、母と弟の嫁で父を連れて帰った。連れて帰ったときは、歩けなくなっていた。しゃべれなくなっていた。自分で食事ができなくなっていた。介護ヘルパーの助けを借りて、母が父の面倒を見た。そのうちに車いすも使用できず、寝たきりになって、死んだ。

父が可哀そうだと言っていた母も、心筋梗塞を起こし倒れ、ステントを入れて、一時 元気になったが、医師つきの老人ホームにいれられてから1年半で死んだ。

認知症患者にとって身体拘束がいいはずがない。

NHKの座談会では、看護師たちを二手に分け、身体拘束の不要派と容認派との討論の形をとった。容認派の看護師たちは、人手が足らず、患者の身体拘束がなければ、労働強化になる、と言っていた。また、認知症患者が動き回って自傷したり、死亡したりすると、自分たちが家族に訴えられる、家族は認知症患者の世話をしない、とも言っていた。

NHKだからヤラセだと思うが、容認派を気の毒に思った。「人手が足らず」は看護師たちの責任ではない。身体拘束をしないのが患者のこころとからだの健康に良いのに決まっている。「人手が足りない」のは経済性の問題で、経営者と日本政府に討論に参加してもらう必要がある。

また、身体拘束を不要とする病院の経営者と医師とに参加してもらって、なぜ、身体拘束を不要とできたのか、その秘訣を明らかにしてもらった方が良い。

認知症患者に良いことは、経済性の問題が解決されれば、みんながとりいれる。経済性が人間愛を後押しすれば、精神論におちいらないで済む。

朝日新聞のインタビュー記事では、岡村武彦がつぎのように言う。

「日本の精神医療は以前から薬を出しすぎる多剤大量処方が問題となっていました。そこで薬を適切な量に減らすと、副作用も減り、動けるようになった患者さんから『サッカーやフットサルがしたい』という声が相次ぎました。」

この「薬を減らすと動けるようになった」に注目したい。

医療哲学者のレイチェル・クーパーは、精神科医療で使う薬を「化学的拘束衣」タイプ、「標的症状」タイプ、「魔法の弾丸」タイプに分ける。感染症治療に使う抗生物質は「魔法の弾丸」タイプだが、精神科医療には「魔法の弾丸」タイプの薬はない。しかも、「化学的拘束衣」タイプと「標的症状」タイプの境目は曖昧なのだ。

統合失調症に使われる薬の多くは、神経細胞のドーパミンの放出や受容を抑えるものである。この薬を使うと幻聴が収まる。ところが、からだを動かす運動系の神経細胞はドーパミンの放出・受容で信号を伝える、たとえば、パーキンソン病患者では、ドーパミンの不足で、動けなくなる。

だから「薬を減らすと動けるようになった」はあたりまえのことである。適切な量でなければ、「化学的拘束衣」タイプの薬になってしまう。多剤大量処方が日本で多いのは、やはり、人手が足りないから、患者の管理が容易な「化学的拘束衣」タイプの薬が、経営者によって好まれたのだ。

さて、重度の障害者施設でも、外からカギがかけられた部屋の中に利用者が閉じ込められる。3年前の「津久井やまゆり園殺傷事件」では部屋が外からカギをかけられていたから、元職員の究極の暴力から逃げることができなかった。園の経営者と行政の監視責任者の責任を問うことも必要だと思う。

いろいろなケア活動に、優先すべきは経済性か人間愛か、責任は家族かケアをする現場か、の問題がつきまとう。


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