ジョー・バイデンが11月初めの大統領選でかろうじてドナルト・トランプに勝った。バイデンが勝てたのは、これまで投票しなかった人々が投票したからであって、トランプは前回の大統領選より多くの投票数を得ている。
けさの朝日新聞《耕論》で『トランピズム 続くのか』の特集をしており、中山俊宏、中村圭志、伊藤潤がインタビューに答えていた。「トランピズム」という言葉まで できたのかと思ったが、意外だったのは、数年前に流行した「反知性主義」という言葉がどの論者からも出てこなかったことだ。
私は「反知性主義」という切り口が今でも有効だと思う。
「反知性主義」という言葉は、1963年のリチャード・ホーフスタッターの『Anti-intellectualism in American Life(アメリカの反知性主義)』(日本語訳はみすず書房)に初めて出てきたのではないか、と思う。「反知性主義」とは、権力から疎外されている民衆が知的エリートに対してあがらうことである。ホーフスタッターは「反知性主義」を批判する立場から本書をだした。
トランプは、明らかに、知的エリートへの不信を利用して、政治の場に出てきた。
しかし、この言葉を日本で広めたのは、森本あんりの『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)ではなかろうかと思う。森本は「反知性主義」に同情的で、そこにアメリカの民主主義の土壌を見いだしている。
(昨年4月21日の私のブログ『森本あんり、「反知性主義」は民主主義の原点』を参照のこと)
知的エリートへの不信はいまに始まったことではない。古くは、新約聖書の「福音書』の中に見られる。日本語聖書で「律法学者」と訳されているものは、「律法」とも「学者」とも無関係で、“γραμματεύς”、すなわち、読み書きできる者をいう。
イエスの生きた時代では、祭司の家系以外に生まれた者が、社会的評価をうけるには、勉強して、読み書きできる者になるしかなかった。だのに、底辺の民衆から、読み書きできる者が民衆から憎まれたのである。知的エリートは民衆の味方と思われなかったのである。
今日、弁護士という職業がある。法治国家というが、普通の人が「六法全書」を読んでも何を言っているかわからない。法治国家とは、何かわからない「言葉の檻」である法に人を閉じ込めているにすぎない。「法」によって、弁護士は金儲けをして、私たち民衆を搾取している。そういうふうに、民衆から見えているのだ。
「学者」である私の兄は大阪で死にかけている。その娘は、40代半ばだが、6年前に夫に出ていかれ、先日、家裁から、離婚調停への出頭命令が来て、パニックにおちいっている。娘の母は精神を患って数年前に死んでおり、弟は田舎で職を失って引きこもり状態である。娘はコロナ騒ぎで飲食店の仕事を失うかもしれないという状態にある。
相談先がないということで、電話を受け会ったのだが、夫には弁護士がついていて自分は困窮のどん底に落とされると思いこんでいた。離婚調停には、直接、弁護士が登場してくるのではないから、弁護士の力に頼らなくても、なんとかなるはずだ。パニックになる必要がない。
彼女だけでなく、知的エリートという者は、金のために動き、貧乏人の味方になってくれないと思っている人たちが多い。
本当は、ハンセン病患者の訴訟を引き受けた徳田靖之のように、東大法学部を卒業しても まともな人もいる。したがって、学歴だけで人をレッテル貼りする「反知性主義」ではいけない。日本学術会議任命拒否事件で、「叩き上げ」の菅義偉を支持するのは、レッテル貼りの「反知性主義」である。
いっぽう、火のないところに煙は立たない。高等教育を受けたものの多くが、自分の生活しか考えていないのも事実だろう。高校を中退して中卒の資格しかない息子は、毎日毎日、博士号をもっている私の前で、高学歴の者の悪口を言っている。
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