猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

法は 自分たちのためにあると実感できなければ 機能しない

2021-01-08 23:05:53 | 政治時評


きょうは金曜日、1週間の疲れがでて、老いた私の脳が働かない。

中国政府は、香港の「民主派」を中国の法でもって裁き、自国を法治国家という。
「法治国家」という定義には曖昧性があるようだ。文字で禁止事項とそれに違反した場合の刑罰が書かれていれば、「法治国家」というなら、人民にとって「法」は敵対するものになる。

「法治国家」は「恣意的な支配」を排除するためのものである。しかし、「支配」そのものの実態を問題にしないといけない。古代中国の統一国家、秦は、「恣意性のない一律」の支配を全国的に行政の末端まで貫徹させるため、「法」による支配を行った。そのために、秦は文字の統一と簡略化を行った。漢字の「隷書体」は、秦が「法治」のために作った書体である。

菅義偉は、韓国で行われた元慰安婦による日本政府への賠償金訴訟の判決は、国際法に違反するという。他国が主権国家を裁くのは、国際法に違反するという。国際法とは何かがわからない。国際法とは国と国との条約のことではないか。それが、人民が他国の政府を訴えることを禁じることができるのだろうか。近代の世界史が教えることは、国際法とは支配的国家がかってに作ったルールにすぎない。「法」は末端を縛るが、トップは「法」に縛られない。

私は外資系にいたので、輸出入を担当する同僚から、日本や中国の税関は恣意的な取り扱いをすると不満をよくぶつけられた。日本には、政令とか省令とかがあって、詳細を政令や省令で決めると、法律に書かれていることが多く、政府が詳細を恣意的に決めることができる。政令や省令が出されていればまだよくて、末端の役人の気持ちしだいになることもある。日本は「法治国家」でさえない。

しかし、米国(USA)もほめたものではない。米国は、自国の法律が他国でのビジネスにも通用するという信念を持っている。外資系にいると、米国の法律を守って日本でビジネスしないと、米国の本社が罰される。

「法」というものは、みんながそれを妥当なものと思っていて、社会体制がその法と整合性がとれているのではないと、信頼されない。

きのう、米国時間で1月6日、トランプ支持者のデモ隊が米国の国会議事堂に突入した。突入した4人が警備隊に撃たれて、殺されたという。1960年、日本でも、デモ隊が国会議事堂の前庭に突入し、一人が殺された。突入したデモ隊の一人ひとりにも言い分があるはずだ。トランプ支持者が「自由を回復した」と叫ぶ姿がテレビで流れている。

フランスでもイギリスでも、新型コロナ感染症対策のロックダウンに抗議する実力行使が起きている。

「法治」と言っても意味がない。

民主制が機能するためには、前例が何だとか、法が何だとか、そんなことを言っていてもだめで、社会の制度が自分たち みんなのためにあるという信頼を得なければいけないのだ。

きょうは、私の脳が疲れていて、機能しない。

菅義偉首相の非常事態宣言はとても残念なものであった

2021-01-07 22:39:14 | 新型コロナウイルス


きょう(1月7日)の菅義偉の非常事態宣言は、まことに、インパクトのないものであった。

おととい(1月5日)の新型コロナ感染症対策分科会の提言には、これまでの問題点として、つぎのように書かれていた。

〈特に比較的若い年齢層では、感染しても症状が軽い又は無いことも多く、気が付かずに家庭や高齢者施設にも感染を広げ、結果として重症者や死亡者が増加する主な要因の一つとなっている。また、この年齢層の一部にメッセージが伝わりにくく、十分な行動変容に繋がらなかった。〉

〈国民の更なる協力を得るためには、国と自治体、専門家との一体感のある強いメッセージ及び強力な対策が必須である。〉

ところが、菅のスピーチはこれをそのまま読み上げているようなものであった。提言をそのまま読み上げても、強いメッセージとならない。

菅は、まず、医療崩壊という危機的状況を国民に率直に伝えるべきである。政府として有効な感染症対策をもっていないから、一人ひとりの節度ある行動によって、感染症の広がりを抑えるのを助けてくださいと、国民にお願いすべきだ。本当に、菅は人間の心がわかっていない。

菅は、感染症対策として訴えたことは、(1)飲食店の時短、(2)マスクをかけての会話、(3)テレワーク(出勤の7割減)、(4)午後8時以降の外出自粛である。

菅のスピーチは、政府の規制がゆるくて国民の生活に迷惑をかけないということに、強調点が置かれていた。

そして、最後に、「…とお願いして、わたしからの挨拶としてさせていただきます」と言って、菅はスピーチを終えた。これじゃ、後援会でのスピーチと同じじゃないか。

そうなんだ。菅のスピーチは自分の支持層にたいするメッセージで、ドイツのアンゲラ・メルケル首相、イギリスのボリス・ジョンソン首相と比べて、はるかに劣る。

緊急事態宣言はまず危機意識を国民全体が共有するものでなければならない。

そのうえで、国民にお願いしなければならないことをハッキリ言うことである。お願いすることは、人との接触を避けてくださいということである。感染症は人から人へとうつるからである。
しかし、社会は人と人との接触がなくては成り立たないものがある。それで、社会活動に優先順序をつけ、必要不可欠の活動、必要性が低いが人と人との接触が少ない活動、必要性が低く感染の危険度が高い活動があると明言すべきである。
みんなで飲み会をしなくても、みんなで会食をしなくても、みんなで旅行をしなくても、みんなで集まって騒がなくても、生きていけるのである。

ついで、行政側が責任をもって行う施策を、医療支援、検査体制、生活支援にわけて説明する。

菅は筋道をたてて概要を話すのでよく、詳細は担当者に説明させるので十分である。

[補足]
新型コロナ感染症は風邪のようなものでたいしたことがないという人がいる。
とんでもない。感染力が違うのである。感染力の違いが与える社会的影響を考えていない。

感染力が強いということは、患者数が急激に増えて、他の病気の治療体制に影響力を与えるのである。これが医療崩壊の中身なのである。

また、新型コロナの死亡率が低いといっても、年齢層によって、異なるのである。国民の20%の若者の死亡率が0.1%以下といっても、国民の20%の老人の死亡率は5%かもしれない。すると、爆発的に感染が増大すると、1億3千万人のうち、130万人の老人が死ぬことになる。

感染力が強いということは恐れるに充分あたいする。

何のために緊急事態を宣言し、なんのために特別措置法を改正するのか

2021-01-06 23:36:57 | 新型コロナウイルス


老いのためか、だんだん、もうろくして、わからないことが増えている。

菅義偉首相が、あす、緊急事態を宣言するという。早く宣言しろという声に押されて、宣言することになったというが、緊急事態を宣言して何をしたいのか、わからない。
菅は、これから特別措置法を改正して罰金を課したいというが、なんのために、何に罰金を課したいのか、わからない。
そして、それが憲法に定める人権と整合性がとれているのかも、わからない。

どうも、政治家もメディアも論理的に話をしていない気がする。もうろくしている老人にもわかるように話してほしい。論理的に話すとは、なんのために何をしたいのかを、筋道を立てて話すことだ。筋道を立てて話されれば、それが合理的か、ものごとの理屈に合っているかが、ぼけ老人にもわかる。

きのう(1月5日)の新型コロナウイルス感染症対策分科会の提言は、私にとって比較的わかりやすいものだったが、メディアはその要点を無視している。意図的なのだろうか、それとも、私以上にボケているのだろうか。

分科会の提言は現状を次のように言う。

〈東京都を中心とした首都圏(埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県)では、……、感染拡大が続き、重症者及び死亡者も増加し、通常の医療、保健、高齢者福祉にも深刻な支障が生じてきている。〉
〈したがって、東京都を中心とした首都圏については、今は感染対策の強化を優先事項として、短期間に集中すべき時期である。〉

分科会は、「経済と新型コロナ対策の両立」をはかる方向では、もはや、新型コロナの感染拡大を制御できないと言っている。これは、ハッキリ言えば、分科会が菅の政策GoToキャンペーンを新型コロナの感染拡大の要因だと言っているのだ。

感染対策を優先し、それを阻止しない形で経済を維持すれば良いのに、両立だと言って、会食を奨励し、感染増大の首都圏から地方への旅行を奨励すれば、感染が全国的に広がるのが当たり前だ。

菅は自分の非を認めないで、緊急事態宣言して、どうするつもりだろうか。菅は単に人権抑圧国家に変革するためのチャンス、「危機は変革の最大のチャンス」と考えているのではないか。

分科会は、これまでの経験でわかったこととして、次のように言う。

〈8月までは接待を伴う飲食店での感染が多かったが、その後、クラスターが多様化し、飲食の場を中心に「感染リスクが高まる「5つの場面」」が明確になってきた。さらにその後、飲酒の有無、時間や場所に関係なく、飲食店以外にも職場や自宅などでの飲み会「宅飲み」)や屋内でのクラブ活動など多様な場での感染が相対的に増えている。〉

飲食店に時短を要求すれば、解決するような、状態ではないと分科会は言っているのだ。

〈このことは、「三つの密」や大声、「感染リスクが高まる「5つの場面」」の回避が十分には行われてこなかったことが原因と考えられる。〉

「3つの密」とは密閉、密集、密接である。スーパーの混雑も、通勤電車の混雑も、感染の危険があるのだ。スーパーや通勤電車の混雑状態をライブ報道すれば、混雑度の時間的な偏りを解消できるのではないか。

分科会は、つぎの問題を指摘する。

〈特に比較的若い年齢層では、感染しても症状が軽い又は無いことも多く、気が付かずに家庭や高齢者施設にも感染を広げ、結果として重症者や死亡者が増加する主な要因の一つとなっている。また、この年齢層の一部にメッセージが伝わりにくく、十分な行動変容に繋がらなかった。〉

政治家自ら会食をしていて、若者が節制しない、享楽的であるとするのは、分科会は政治家に遠慮しすぎである。もともと、政治家が食べながら、飲みながら、話し合うのは徒党を組むためであって、政策を論理的に議論する場として向いていない。新型コロナとは関係なく、政治家の会食は、徒党を組むための悪だくみの場であって、4人以下なら良いが5人以上はだめとか言う問題ではない。

菅は12月14日に政治家5人とプロ野球球団会長の王貞治(80)、俳優の杉良太郎(76)、タレントのみのもんたさん(76)と会食した。愛知県の市会議員のある会派がコンパニオンを招いて忘年会をやったが、彼らはメディアを通して謝罪している。しかし、菅はなんの反省も示していない。

経済と感染対策の両立という馬鹿げたことを言う前に、特効薬がないあいだは、ワクチンが行き渡らないあいだは、国民一人ひとりの行動の節制をお願いするしかないという、現状を菅は理解していない。

分科会は「緊急事態宣言下に実施すべき具体的な対策」として次のようにいう。

〈東京都を中心とした首都圏
(1)飲食の場を中心に上述の感染リスクが高い場面を回避する対策
 (営業時間短縮の時間の前倒しや要請の徹底など)
(2)上記(1)の実効性を高めるための環境づくり
不要不急の外出・移動の自粛、行政機関や大企業を中心としたテレワーク(極力7割)の徹底、イベント開催要件の強化(例えば、収容率50%など)、大学や職場等における飲み会の自粛、飲食テイクアウトの推奨、大学等におけるクラブ活動での感染防止策の徹底など。〉

飲食の規制だけでは解決つかないと言っているのだ。しかも、要請しているのは、国民一人ひとりの行動の規制をもっと強化」せよと、分科会は言っている。

これに、呼応して、「緊急事態宣言を発出する意義」として、分科会は「知事が法的な権限を持って外出自粛要請などのより強い対策を打てるようになること」をあげている。

また、国がやるべき環境整備として、「事業者への支援や罰則、宿泊療養等の根拠規定など、感染対策の実効性を高めるための特措法や感染症法の早期改正」をかかげている。

じつは、特別措置法は、感染症の流行による社会的混乱、買い占めなどを規制することに眼目が置かれている。個人の行動規制を対象としていない。分科会は、飲食店の規制だけでは有効でないと分析しているのに、飲食店の規制に罰則つける改正に、本当に意義があるのだろうか。個人の行動規制は、各個人の了解にもとづいて行うべきで、罰則で強要すべきではないと思うが、ほかの人たちはどう思っているのだろうか。

分科会の提言でよく分からないのは、PCR検査を個人の意思ではなかなか受けられないという現状に言及していないことだ。

また、現在、PCR検査が簡易検査で終わっているが、その後、遺伝子解析(RNA配列決定)にまわし、変異種の出現を監視すべきではないか。民間や大学や研究所の利用を国が遺伝子解析のリーダシップをとって進めるべきではないか。

また、ワクチン接種は医療従事者が最優先で、つぎが老人たちだと政府はいう。しかし、テレワークできない仕事こそ、社会にとって不可欠の仕事である。例えば、清掃とか配達とか公共交通機関の担い手、工場の労働者などである。

老人ではなく、テレワークができない仕事をしている人たちを、医療従事者のつぎにワクチン接種で優先すべきではないか。また、感染のリスクの大きい彼らこそ、PCR検査が自由にうけられるようにすべきである。

保健所の過剰な負担を、保健所でなくてもできることは、他の役所の職員にまわして、疫学的調査に保健所の人的資源を集中すべきではないか。

菅のやっていることは馬鹿げているが、分科会の提言も突っ込み不足のように思える。メディアは、政府の施策と分科会の提言をもっと論理的に合理的に批判しないと、ジャーナリズムとしての社会的責任を果たせないと思う。

政治が、合理的な新型コロナ対策を忘れて、徒党を組んでの権力闘争に明け暮れていては、私にとって理解しがたいものになる。自民党議員のことを、とりわけ、菅義偉と二階俊博とを私は非難しているのだ。

どうして言葉を理解でき、言葉を話せるのか、『言語の起源』

2021-01-04 00:19:59 | 脳とニューロンとコンピュータ


1週間前に、ダニエル・L・エヴェレットの『言語の起源 人類の最も偉大な発明』(白揚社)を読み始めたが、むずかしすぎて、いま、読むのをやめている。つぎの人が待っているから1週間後に図書館にその本を返さないといけない。無理をして、これから読むしかない。

私は、発語か大変な子どもとか、どもりの子とか、ディスレクシアの子とか、自閉スペクトラム症の子とNPOでつきあっている。したがって、「言語とは何か」でなく、「どうして言葉を話せるのか」に私は興味をもっている。

私は、NPOで働く前は、定年になるまでITの会社の研究所にいた。だから、人間の脳とコンピューターとの違いには敏感である。ITの研究所で行っているAI(Artificial Intelligent)は、あくまで外から見れば、コンピュータ―が人間であるかのような知的な活動をして見せることである。コンピューターと人間の脳との稼働原理はまったく異なる。

1.コンピューターは言葉をビット列で処理するが、人間の脳にはビット列というものが存在しない。人間の脳で行われているのは、興奮の四方八方への伝達である。すなわち、興奮があるか否かである。
2.コンピューターにはアドレスでビット列がいつでも取り出せる記憶装置があるが、人間の脳にはそのような記憶装置がない。アドレスで記憶を取り出せないのである。

 

人間の脳は神経細胞(ニューロン)の集まりからできている。1つの神経細胞は、細胞体と一本の軸索と多数の樹状突起からできている。

軸索上の興奮は、細胞体から軸先の先端に一方向に、電圧の変化として伝わる。軸索は他の神経細胞の樹状突起と接していて、シナプス結合という。結合といっても10から20ナノメートルの隙間がある。原子が数十から百個ならぶ距離である。軸索上の興奮は、シナプス結合部で伝達化学物質を放出させ、樹状突起がそれを受け取ることで興奮が伝わる。

軸索上を興奮が走ることを発火という。樹状突起が伝達化学物質を受けとっても、受け取り側の神経細胞が発火するとは限らない。確率的現象と捉えてよい。確実に興奮を伝えるためには、2つの神経細胞間に いくつものシナプス結合を作ればよい。

また、複数の神経細胞から同時に興奮を受け取れば、発火の確率が高まる。軸索のシナプス結合から放出される化学物質によっては、受け取り側の発火を抑える。このことは、複数の神経細胞から同時に化学物質を受け取れば、興奮の演算が行われること意味する。

このように、神経細胞の集団は興奮を伝える回路を作っており、神経細胞の1つ1つはコンピューターの演算素子に当たると言える。1つの神経細胞がもつシナプス結合の数は数千から数万といわれる。コンピューターと異なり、脳は非常に複雑な回路を作っている。

神経細胞をもつ生物、人間などの長期記憶は、シナプス結合で作られる回路を書き換えることでなされる。人間の脳の回路は書きかえ可能であるが、コンピューターの回路は書きかえできない。コンピューターは、電気をためる素子(コンデンサー)の集まりで、内部にビット列を保管する。これを記憶装置と呼ぶ。

ここまでくると、つぎの疑問がわく。異なる神経細胞から同時に興奮を受け取らないと、神経細胞は演算素子として機能しない。どうして、それが可能なのか。

脊椎動物では、爬虫類の脳といわれる大脳基底核の神経細胞が、脳での時計の役割を果たし、同時性に寄与している。これらの神経細胞が、他からの刺激がなくても、一定のリズムで、自律的に発火する。これらが大脳皮質の神経細胞の発火を制御している。

それでも、脳の中にビット列が存在しないのに、どうやって情報処理をしているのか、という疑問がわく。感覚器官からきた1つの興奮が脳全体に広がり、時間差をおいてきた次の興奮、あるいは別の感覚器官からきた興奮の広がりと広域に演算を行うことで、脳の情報処理が行われる。すなわち、興奮が四方八方に広がることで、ビット列の代わりをしている。このためには、興奮を神経細胞の局所的集団で持続させるメカニズムが必要となる。

このように考えると、人間の言語理解の機構は、音声と書物とは異なるのではないか、と思う。ここで、エヴェレットの議論についていけなくなる。文法の議論は、書物の言語の世界である。文法の議論は、「どうして言葉を話せるのか」や「どうして言葉を理解できるか」に答えてくれない。再帰構造にしろ、階層構造にしろ、コンピューターの言語処理に意味があるかもしれないが、生身の人間が脳の中でやっていることと関係しない。

人間は過去の長期記憶(脳の回路)にもとづいて理解していくが、脳に入力された刺激はつぎとつぎと脳の中で興奮として広がり、その興奮の広がり同士が干渉しあって、言葉を理解していくのではと思う。すると単語はつぎの単語の解釈に、あるいは、それ飛び越えて後にくる単語の解釈に影響していくのであって、再帰とか階層とかとはまったく関係ない世界ではないかと私は思う。

人間は、書くという手段を獲得して、はじめて、論理的思考ができるようになったのだ、と私は思っている。だから、書いて自省しない限り、人間は論理的思考はできないとも、思っている。

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神の呼び方がヘブライ語聖書の編集痕跡の指標になる?

2021-01-02 00:06:29 | 聖書物語

私には、細部にこだわる習性がある。E.オットーの『モーセ 歴史と伝説』(教文館)を読んで以来、神をどう呼んでいるかが気になって、ヘブライ語聖書をしらみつぶしに調べ始めた。

ヘブライ語聖書は39文書からなるが、それぞれは、イスラエル王国、ユダ王国が滅んだあと、政治的意図をもって、異なる集団によって、異なる時代に、書かれたものである。

神をどう呼んでいるかをしらべると、どういう集団がいつ関与したか、少しわかるのではと思ったからである。

ヘブライ語聖書(旧約聖書)で神を表わす語は3系統に分けられる。エル(אל)、エロヒム(אלהים)、ヤハウェ(יהוה)に分けられる。ヘブライ文字に母音記号ができたのは、紀元後10世紀なので、紀元前にどう発音していたかは、本当はわからない。

これらの語が組み合わせられてヘブライ語聖書にあらわれる。しかも、文書によって組み合わせ方が偏ってあらわれるので、ヘブライ語聖書の成立過程解明の助けになるかもしれない。

われながら、こだわりが強いと思うが、とにかく、時間をかけて一通り調べ終わった。私が調べた結果は、8285事例になった。もちろん、手違いがあると思うが。

エル、エロヒムは普通名詞なので、先頭に冠詞ハ(ה)がついたり、語尾に所有を表わす人称代名詞がついたりできる。ヤハウェは神の名(固有名詞)なので、冠詞や人称代名詞がつかない。(私が調べた結果では、ヤハウェに冠詞がついた語が『エレミヤ書』8章19節に1例あった。)

ヘブライ語のヤハウェを「主」と訳すのは、誤訳というより、確信犯的違訳である。「主人」にはヘブライ語のアドウン(אדון)が別にある。

「エロヒム」は複数形だが、ヤハウェを指していると思われるときは「神」と訳し、そうでないときは「神々」と訳するのが、日本語聖書の慣例である。「エロヒム」の単数形はエロウハ(אלוה)で、『ヨブ記』に集中的に現われる。

ヘブライ語聖書には、単語単位でカウントすれば、「ヤハウェ」が一番多く、6218カ所にあらわれる。しかし、ヤハウェもエルもエロヒムなども現れない文書が2つある。『雅歌』(ソロモンの歌)と『エステル記』である。

神が現れない文書が2つもあるとは、ヘブライ語聖書は宗教書というより、アレクサンダー大王の遠征以来の地中海時代に、ユダヤ人が自分たちの文化と歴史の古さを誇るための書であったと考えられる。

『コヒレトの言葉』では「ヤハウェ」という単語が現れない。

モーセの五書の『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』はそれぞれ特徴ある神の呼び名が現れる。

ヘブライ語の最初に置かれる『創世記』では、神がいろいろな言葉で呼ばれる。これは、『創世記』が作られる過程で、いろいろな集団によって書き加えられたことを示唆していると思う。

よく知られている通り、『創世記』には2つの人間創造の物語がある。1章1節から2章3節までは、神は単に「エロヒム(אלהים)」と記され、2章4節から3章23節まで「ヤハウェ・エロヒム(יהוה אלהים)」が使われる。ただし、3章1-5節にふたたび「エロヒム」が使われる。「ヤハウェ・エロヒム」は、モーセの五書では『出エジプト記』の1例を除いては、上記の範囲にしか現れない。

『出エジプト記』9章30節に「ヤハウェ・エロヒム」が現れるが、その前後では単に「ヤハウェ」と神を呼んでいるから、9章30節は後からの挿入である。

「ヤハウェ・エロヒム」は『サムエル記下』、『列王記下』、『エレミヤ書』、『ヨナ書』でそれぞれ1例づつ、『詩編』で3例、『歴代誌上』、『歴代誌下』でそれぞれ4例づつである。「ヤハウェ・エロヒム」は一般的な神の呼び名ではない。

『申命記』では「わたしの神ヤハウェ」「あなたの神ヤハウェ」「我々の神の神ヤハウェ」「あなたがたの神ヤハウェ」が頻繁に現われる。ヘブライ語で順番にしるすと、つぎのようになる。
 ヤハウェ・エロハイ(יהוה אלהי)
 ヤハウェ・エロヘカ(יהוה אלהיך)
 ヤハウェ・エロヘヌゥ(יהוה אלהינו)
 ヤハウェ・エロヘケム(יהוה אלהיכם)
『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』ではこれらの言葉が現れない。

冠詞ハ(ה)が一般名詞の神につく表現は、『創世記』『出エジプト記』『士師記』『列王記』『歴代誌』『コヘレトの言葉』によく現れる。

特徴的なのは、日本語で「万軍の主」と訳される「ヤハウェ・ツァバオウト(יהוה צבאות)」である。これは、モーセの五書には出てこないが、『イザヤ書』『エレミヤ書』や十二小預言書に頻繁にでてくる言葉である。モーセ五書とその他を区分する語となる。

「ツァバオウト(יצבאות)」は兵士の集まり、軍隊という意味である。モーセの五書を創作・編集した人たちは、ヤハウェを戦争の神と見られることを望んでいなかったかもしれない。

「アドナイ・ヤハウェ(אדני יהוה)」も特徴的で、『エゼキエル書』に集中的現れる。『出エジプト記』『レビ記』『民数記』には現れない。「アドナイ」は「私のアドウン」で、「ヤハウェ、私の主」という意味である。