にんげん じんかん ひとま と読みがある。音読みは呉音、漢音となる。漢字が伝わった時期と地域をあらわしている。仏教語に世間 せけん、人間 にんげん、となる。漢詩に人間 じんかん の語がつかわれる。よく引かれる、人間到処有青山 人間到る処青山あり は、その出典を江戸時代にする。唐代の白詩に人の語が見える。にんげん という語が定着したのは、漢字移入の早い時期ととらえられるが、一方で、ひととひとのあいだを意味する用法がその後にあって、じんかん そのものの読みは限られた。いま使う人間の意味には、時代を下げている。 . . . 本文を読む
批評について、翻訳語である。もとの意味するところは、クリティークcritiqueである。その語源はギリシア語のクリノkrinōに由来する。判断する、裁く、となっている。平凡社百科事典の引用する哲学事典の説明では、次のようである。A.ラランドの《哲学辞典》によれば、批評とは、ある一つの原理または事実を評価するために検討することである、と見える。その精神についても言う。批評的精神とは、いかなる命題も、みずからその命題の価値を検討することなしにはけっして受け入れない精神である、とある。この自らの命題の価値を検討することなしに、というのが難しいだろう。それは内的批評critique interneにあり、問題の命題の起源について行われるときには外的批評critique externeという。翻訳語は、批判をも使う。批判は哲学の議論というイメージが強く、批評は論文というエッセイに使われる。論文を批判する、文芸を批評する、などと言うので、この語の用い方が広がって、真偽、善悪、是非の内容を詰める批判の語が正しさを追求するあまり欠点や短所の不足を言うことのように捉えられている。
批評はやはり議論文をもって行われるところ、小論文のような語を生み出してさまざまに言葉を作っている。辞書の載せる語句から、批評に近い言葉として、芸術批評、批評家、批評眼、裁断批評、本文批評、文芸批評、文明批評、外在批評、内在批評、主観的批評など、批判で置き換えて、文献学にある本文批判ぐらいのことが妥当する。批判の語が哲学でもっぱら議論の対象とともにあって、その概念で英語、フランス語に道具となって、文章に表された経緯が日本語の翻訳語としてのクリティークである。critique という単語は、ギリシャ語の kritiki 、κριτική,何らかのモノの価値についての、洞察ある判断の語に由来すると説明するが、英語から日本語になった、クリティック、criticは、 批評家、批判者となり、いっぽうで、クリティシズム、criticismが批評、批判とするようである。この語を難しくするのはまた、このように英語由来の用い方の向こう側にフランス語での用いられ方があって、そこでの同じようなものが違って見えてしまう日本語である。
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日本語誤百科 35 ページ 通過となります駅 を、例題にしている。通過となります駅は~です この車内放送を表題にしている。解説では2つの誤りがあるそうだが、はて。ものが動作にならない、つまり、駅が通過となる というふうには言えないと解説する。この表現は、~となる 変化、帰結などを表す。駅を通過します というのを、この列車がその駅を通過対象とします というように意味内容を持って、駅が通過すると言っているのでなくて、駅が~となります 通過か、停車か、そのいずれかをアナウンスしている。解説はさらに、なります駅 の言い方をおかしいとする。丁寧体の表現で、話しことばでよく聞くことのある言い方だ。また形容詞節と説明している。ここでの名詞修飾を指してのことらしいが、通過となる駅 というのは、いわば連体修飾の用法であって形容詞の働きではない。駅が通過となります、その駅は~です、と言っていることを了解できるから、これはこれでよい。 . . . 本文を読む
アイランド The Island 2005年のアメリカ映画 監督 マイケル・ベイ 脚本 カスピアン・トレッドウェル=オーウェン アレックス・カーツマン ロベルト・オーチー 原案 カスピアン・トレッドウェル=オーウェン 製作 マイケル・ベイ イアン・ブライス ウォルター・F・パークス 製作総指揮 ローリー・マクドナルド 出演者 ユアン・マクレガー スカーレット・ヨハンソン BS放送で鑑賞。もう8年も前の作品にして楽しめるSF映画だった。臓器提供の会社などが現実味を帯びる。逃避行となるのだけれど、ここがいまいちよくわからないところで、出てくる車のデザインや交通の空中レールみたいなのや飛ぶ車のような、それを轟音とともに楽しんでいたら、スピーカーがうるさいと言われてしまった。 . . . 本文を読む
日本語誤百科 34 ページ パソコンを立ち上げる を、例題にしている。ブログで言及があるので、紹介しておこう。
表題は、日本語の表現として定着している。PCを起動することで、パソコンが立ち上がる パソコンを立ち上げる いずれも使う。動詞の組み合わせで、が格 を格 いずれが前項また後項の動詞にかかるかによる。PCにある自動回路を承知するのでこの表現には違和感がない。むしろ日本語らしい表現である。会社や企業の、起業にも、会社を立ち上げる会社が立ち上がる となって、まさに会社が起つのである。なかに文学全集を立ち上げるについての意見も見られて、著名な方による編集になると、全集が起つのであろう・・・ . . . 本文を読む
語彙論はさまざまな日本語の現象を明らかにした。その分析によってわたしたちの日常生活の語が捉えられる。用語として、理解語彙と使用語彙、これはまた発表語彙でもある。学習語彙として、基礎語彙、基本語彙など、具体的なことがらがわかるようになった。日本人の成人が持つ日本語の語彙量はどれだけであるかが、この時代にあってのことであるが、調査によって推測できるようになった。語を語彙項目にしてひとつひとつ、数えることから計算機の処理によって統計手法において示される。基本語彙の説明で、基礎語彙の解説に合わせて世界大百科事典 第2版の解説には、単語の使用度数などを調査し、ときにはこれに主観的な増減を加えて、一定限度の語彙を選び出すことがある、このようなものを〈基本語彙〉と呼び(ときには〈制限語彙〉ともいう)、日本の英語教育でも中学・高校の〈必修語彙〉が定められている、というように解説する。語の使用頻度を確かにすることで、重要語を選定する。このことは、それまでの基礎語彙が研究者、教育者によって主観的に学習語彙として選定されるのを統計データで明らかにするといえよう。 . . . 本文を読む
よのなか、この語は仏教語の世間からできたようである。世を、よ 間を、なか と訓んだ。現世また今世であるが、来世と前世であわせて三世となる考え方がある。翻訳語としてそれを日本語読みをする、その移入された思想はどう広まったか。物語文学の用例を確かめることになる。なかでも、よのなか とする異性間の関係、男女の愛情を解釈する使い方は人間の世界のことであった。日本国語大辞典の語義解釈を見ると、〔一〕この世に生きる人間の構成する社会。また、その社会でのさまざまな人間関係。(1)前世・来世に対して、現世。この世。(2)出家悟道の世界に対して、凡俗の住む世界。俗世。俗世間。娑婆(しゃば)。(3)人が他と関係し合いながら生活する場。社会。世間。また、世間での生活やならわし。(4)国。天下。世界。5)勢力の及ぶ範囲。力を発揮できる領分。天下。(6)世の常であること。世間普通であること。(7)社会の情勢。世相。世情。(8)社会での境遇。世間の待遇。また、世間の評価。(9)生計。世渡り。(10)男女の情。夫婦仲。〔二〕時の流れの一区切り。(1)人の一生。生涯。寿命。また、人生。(2)統治者の在位期間。天皇の治世。(3)当節。当世。その時分。〔三〕人間界をとりまく自然環境。(1)世間をとりまく空間的なひろがり。外界の様子。四方の自然。あたり。(2)天候。気候。(3)農作物、特に稲の作柄。また、豊作。
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燃費がガソリン、リッターあたり30キロを超える。これは軽自動車が実現した。この数値はエンジンの性能を上げるコストと価格の限界でもあるようだから、ガソリン車に望めるのはこれまでだ。とすると小型車にもこの数字が走りの目安となると言えるだろう。いまその主流にあったガソリン車を上回ってHV車が販売占有率を半数以上、占めている。ハイブリッドヴィークル、ハイブリッドカー、ハイブリッド車は、異なる動力源を2つ以上、持つ自動車のことだが、略称はHV、Hybrid Vehicleとなる。その仕組みがそれぞれさまざまでわかりにくい。PHV、plug-in hybrid vehicle などと言うのもある。自動車メーカーがしのぎを削って技術改発をしているのだから、わたしたちにわかりにくいのは当然か。日本での車は、内燃機関と電動機を動力源として備えたHEV、hybrid electric vehicle である。それで、内燃機関と電気モーターが2つあって、分離して、また結合して走るらしい。 . . . 本文を読む
日本語誤百科 33 ページ 困難な選択肢に迫られる を、例題にしている。~に迫られる という慣用表現の捉え方である。困難な情況としてせまりくるのは、選択肢である。ここの解説のように、必要にせまられる のは、せまりくるのが必要である。その必要を作り出す状況があるのであるから、必要な状況が迫るのである。表題は日本語としての主語に、わたしに困難な選択肢が選ぶことを迫る となり得るか、わたしが困難な選択肢について選ぶことをせまられる というように、困難な選択肢がせまる というように、言いうるかどうかである。これは、いわば 困難な選択肢についてわたしが選ぶことを迫られる のであるから、表題の言い方が行われる。必要に迫られるものがお金であるなら、お金について必要に迫られる というふうに言うか、必要なお金がいるということに迫られる、となるのである。 . . . 本文を読む
語彙の論はどのように行われるか。日本語のある範囲をとって基準を設定してそこに現われる語彙の項目を計算する。その総量を語彙量という。文学作品を例にすると古典文学作品の源氏物語はその作品を対象とする範囲で、ひとつの調査によると、語彙量が20万7800語となる。源氏物語の作品を使ってすべての自立語を数えた場合である。延べ語数である。これに対して作品中に使われている語を一つずつ数えて、同じ語の使用については2回以上は数えない場合には、そこに現われる語数は、1万1423語となる。異なり語数である。こうして文学作品に現われた日本語語彙は幾つかの古典文学で明らかにされている。古典文学のシリーズが1967年までに日本古典文学大系が編まれたが、作品について索引の作成が研究者によって行われた。また2005年までに新日本古典文学大系として新たに岩波書店から出版されるなどして、日本の古典文学を対象とした全集ではデジタル化をすすめてこのような調査の語彙論が進められている。 . . . 本文を読む