とらえるところの世間とは何か、世の中とは何か、これが日本語で難しいところだろう。むずかしいところという、そのところはどこかとなる。せけん という読みにこの語のニュアンスがある。にんげん 人間という語との関連を思わせる。間は、あいだのこと、音は、かん である。この文字はまた、日と月である、その意味を表す要素を持つ。無間とか仲間とか、世間はどこを見るか。場所、領域が原語の意味にあってそれを翻訳して、生き物のいるところ、、山河台地のところ、さらに五陰世間を総称するらしい。仏教の世間となる。五陰また五蘊とは、存在を構成する要素らしい。それは有情世間と器世間にあるらしいが、中国語では世間と人間であったらしい。それをそのまま日本語の入れたのではなさそうで、世間は世の中になり、人間は人である。 . . . 本文を読む
週刊日本語教育批評第21号まで、2012年8月に発行された、メルマガである。SF空間は大きく分けて、批評とは何か、という問いかけと、日本語教育の教師についての研究と教育にある。日常活動にあるメルマガの主宰者の目覚ましさは注目を浴びる。いわば恵まれた中での批評はそのテーマ起こしにある。そして顔の見える批評のあり方を、批評という活動で議論する。ある種、文体にもよるところがある。批評家の文のスタイルであるが、それを文芸に求めているわけでもないので、批評内容の分析に議論は落着するだろう。批評とは何かを問いつづけることはメルマガの編集にかかってくることである。研究デザインと研究活動デザインの評はよくわからない。実践者の経験が見えないからである。研究計画とどう違うか、この語の内実はプランのスケジュール化となるので、さきの研究デザインはその名のごとく実践モデルが意匠となる。研究活動そのものがデザインであるということは、形の良さだけを求めることになりかねない。 . . . 本文を読む
語の論と語彙の論とがあって語論は何をあつかい語彙論は何をあつかうかを述べる。語論は一つの語について述べる。語彙はその語の集合を述べる。その違いはあるか。おそらく語彙論となる前は、文法論にかかわる語構成の論があってそれが語論を作り、単位としての語を見れば語の論として成立していた。いまも語論は文法研究の一部門であり、単語の形態、用法、種類を研究する、あるいは単語の構成、活用、品詞性など種々の文法的な働きについてのものという辞書の解説がある。したがって語彙をとらえるときに一つの語とほかの語との関係をはじめ、それをまた語のグループとして全体を見るようなことになる。語彙が一つの語の語の論から始まってもよいだろう。さてその語であるが、もともと日本語でこの字義から語ると読むのでひとつの語だけを指すものでもない。単語というようになったのは語を数え立てるようなことからだから、日本語というようにこの語は複数の単語を指している。そう考えると、語彙と翻訳したのはなかなかに日本語の妙である。 . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 837 もうすぐで卒業だ を例題にしている。動詞にかかる副詞を例題に見ている。国文法で、辞書を確かめてみると、すぐだ という形容動詞の用法だとわかる。辞書では、すぐに という副詞を項目とする。コラムの解説は、すぐ を副詞としているが、それはそれでよいとして、すぐ そのものを名詞とする解説があって、形容動詞の すぐだ すぐで すぐに という語を認めていない。おかしなことである。活用の用法で、連用形の副詞的用法を持つ。なお、もうすぐで卒業します もうすぐで卒業です という微妙な言い回しに、もうすぐ卒業します もうすぐ卒業です というような表現法の違いが日本語にはあって、それぞれ場面や文脈により意味合いがあるだろうと考えられる。 . . . 本文を読む
わたしたちが世界を見るというときに、その世界は漢訳仏典からできた語であることを知る。インドのサンスクリット語にその淵源を持つ語である。説明を求めると、その語の持つ意味はは、空間また林間地、木のないところ、空き地、であるようだ。訳語となったときに、漢字の意味である、世 と、界 があてられて、子の構成には漢訳の語として、時間と空間とを組み合わせたようだ。ローカダートゥ loka-dhaatu は、命あるものが生存し、輪廻する空間で、一仏が教えを広める空間を意味する、と解説がある。世界を用いて中国の漢詩の表現では意味の拡大が起こったようだ。仏の教えのための空間が、人々世の中、世間の意味になって、それを日本に伝えたともある。 . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 836 鶏チャーシュー を、例題にしている。鶏焼豚、になる語の意味を求めている。チャーシューの作り方は、フリー百科事典ウイキペディアによると、「焼」という字が用いられているように、本来は豚バラ肉などのブロックにタレや蜂蜜などの調味料を塗って、さすまたなどに刺して炙り焼いたものである、ということから、鶏肉はそのようにできないから、この語は不適切だと、コラムは解説する。日本での焼豚の製法には、煮て作る叉焼、中国で日本式チャーシュー 日式叉焼と呼ぶ、というのもあるから、チャーシューというのが、焼豚の代名詞のようにもなる。例題が鶏肉で作られ、その製法が焼豚を作るように、作られるということだろう。製法がそのまま、呼び名になっていが、鶏肉を使ってのチャ-シューというのは、これはこれでよい。 . . . 本文を読む
社会心理学における構成概念のひとつに、帰属がある。>何か事象が起こったときに、原因がどこにあったのかを求めようとする心理作用を「帰属」といいます。 >二つの主要なタイプは、内的帰属と外的帰属である。簡単にいえば、人柄のせいにするのが内的帰属であり、事情のせいにするのが外的帰属である。内的帰属では、行動の原因は、個人の性格や態度や特質や気質のせいであるとされる。外的帰属では、行動の原因は、行動が行われた周囲の状況であるとされる。この二つのタイプのいずれを選択するかにより、行動を行った個人に対して、全く異なった見方が導かれる。 フリー百科事典ウイキペディア . . . 本文を読む
語彙は vocabulary の訳語として定着した。語彙論の語彙に付いて文字づかいがむずかしい。当用漢字のときに制限されて、語い論のように表記が試みられたが、かえって分かりにくくしていたので、語囲などの当て字をしようとしたこともあるが、いずれもさいようされていないままに、常用漢字の目安使用で、語彙が許されるようになった。この彙字を説明すると用語の語彙がわかりよい。すなわち文字の成り立ちで、中国の説文解字に、集也 と解釈している。文字そのものは毛の堅い多くの針のように持つ生き物をさしているようだ。それで語彙とは何かとその定義を専門用語として説明することからはじめてもよいし、あなたはいくつの語彙を知っていますかと、質問ふうに始めてもよい。この質問には、答えられないくらい多いとか、わからないとか、答えがあるので、日本語の語彙は一つになり、日本語の単語をいくつ知っていますかと、聞くのと、語いをいくつ持っているかと聞くというのと、違うよと話し始める。 . . . 本文を読む
語彙論に扱う語の集まりと語のまとまりのアプローチがある。言い換えると、語の集合と語の体系である。いずれも語彙をとらえる。語彙は語のひとつひとつがあって日本語の語彙というと日本語で全体をとらえる考え方になる。英語の語彙、中国語の語彙というように、語彙は語の集合また語の体系を見ることになる。これは語の集計が計算言語学で進められて語彙論としての手法が成果を出して議論することができるようになったことによる。たとえば日本語の日常的に使用する語の数はいくつあるかというふうに、ひとつの語彙について問う。それを語の集合としてみると語の全体を見渡して語数を特定する計算処理できるようになる。語彙論は1950年代以降、統計処理が行われてさまざまに語彙としての研究が行われた。 . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 835 どん底のスランプ を例題にしている。スランプのどん底 になると、ことばの順序から使えるようだ。用例を検索すると、例題の表現はヒットする。コラムの解説はどん底であればそれはスランプにほかならないと言うが、必ずしもどん底がスランプ状態を意味しない。スランプの意味には、心身の調子が一時的に不振になっている状態を指すが、また、実力が発揮できず、成績などが一時的に落ち込んでいる状態をも言う。さらに、相場の急落、不景気などもある。どん底の状況が何であるか、それによるスランプである。どん底は、最も好ましくない結果またワーストにあって、そこで最低、最悪、最下にスランプが加わるということだ。。 . . . 本文を読む