結婚後はふたりの子どもに恵まれ、しばらく平穏な生活が続いた。大学に進みたいという夢ももち続け、家事・育児と仕事の合間を縫って高校に通い続けた。
しかし絵や詩を愛し、文学や政治について考えることが好きな静江さんと、男としての面子や沽券にこだわる仕事人間の夫との間にある溝があらわになり、次第に深まっていった。
夫との価値観の違いに苦しむ静江さんは、長い間封じ込めていた「アイヌとしての自分」と向き合わざるを得なかった。
夫は体裁ばっかり考える人でした。
夫に限らず、和人は本質よりも体裁や大義名分を大事にしますね。
目下の人を人間扱いしなかったり、いいところをなかなか取り上げない。
和人の社会のなかで和人の価値観に合わせて生きていくほど、自分が汚れていくという気がしました。
かといって、アイヌとして生きているとはとても言えない。
街でアイヌだろうと思われる人とすれ違っても、お互いに声をかけることもせず、むしろ目をそらすわけです。
和人の社会での生活に疲れた末に、わたしは故郷から遠く離れて東京にいるアイヌ同士が集まって、支えあったり仲よく先祖供養をする場をつくりたいと考えるようになりました。
そして朝日新聞に、その思いを同胞に呼びかける投稿をしたのです。
反響は大きかったですよ。
だけど多くは市民活動や政治活動をやっている和人でした。
逆にアイヌからは「寝た子を起こすな」と怒られました。
それでもわたしを頼ってきたアイヌも少なからぬ人数でした。
仕事のない人も多いから、2トントラックを借りて日曜日に廃品回収をやりました。
小学5、6年生の子どもから30歳ぐらいまで10人ほど集まって、主に団地を回るんです。
「いきなりドアを叩くとビックリされるから、『アイヌです! 新聞回収に来ました』と言うべし」と教えてね。
そしたらどんどん出してくれました。
ガソリン代や車代をひいて残ったお金を、子どももおとなも平等に折半しました。
みんなが喜ぶのがうれしくて、毎週のように回りましたよ。
アイヌでありながらアイヌとして生きてこられなかった自分と同胞(ウタリ)たちのために、静江さんは経済的にも精神的にも負担の多い活動を続けた。
しかし無理がたたって静江さんは体を壊し、思春期の子どもたちは常に人が出入りする家庭にとまどい、時には反発した。
息子は次第に家に寄りつかなくなった。夫は97年に亡くなった。
3歳ぐらいから14、5歳ぐらいまでのアイヌの子どもたちが、しがみつくように頼ってきましたよ。
ご飯の時、子どもたちはお箸でおかずをつまむ前に、わたしの顔を上目遣いで見るんですよ。
「この子たちは食べるということから大変な思いをしてきたんだ」と思うとたまらなかった。
周りを気にせずに食べるようになるまで、わたしが下を向いて食べました。そういった子どもたちが何人もうちから卒業していきました。
でも、こんなことはアイヌの社会ではごく普通なんです。
わたしも、親たちが同胞といたわりあって生活していたのを見ていたからやれたと思う。
けれども私が無理したぶん、自分の子どもたちにはしわ寄せがいってしまいました。
ただ、わたしに対する信頼は感じていたし、それがあったからこそ強く生きてこられました。
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(C) ニューメディア人権機構 info@jinken.ne.jp
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しかし絵や詩を愛し、文学や政治について考えることが好きな静江さんと、男としての面子や沽券にこだわる仕事人間の夫との間にある溝があらわになり、次第に深まっていった。
夫との価値観の違いに苦しむ静江さんは、長い間封じ込めていた「アイヌとしての自分」と向き合わざるを得なかった。
夫は体裁ばっかり考える人でした。
夫に限らず、和人は本質よりも体裁や大義名分を大事にしますね。
目下の人を人間扱いしなかったり、いいところをなかなか取り上げない。
和人の社会のなかで和人の価値観に合わせて生きていくほど、自分が汚れていくという気がしました。
かといって、アイヌとして生きているとはとても言えない。
街でアイヌだろうと思われる人とすれ違っても、お互いに声をかけることもせず、むしろ目をそらすわけです。
和人の社会での生活に疲れた末に、わたしは故郷から遠く離れて東京にいるアイヌ同士が集まって、支えあったり仲よく先祖供養をする場をつくりたいと考えるようになりました。
そして朝日新聞に、その思いを同胞に呼びかける投稿をしたのです。
反響は大きかったですよ。
だけど多くは市民活動や政治活動をやっている和人でした。
逆にアイヌからは「寝た子を起こすな」と怒られました。
それでもわたしを頼ってきたアイヌも少なからぬ人数でした。
仕事のない人も多いから、2トントラックを借りて日曜日に廃品回収をやりました。
小学5、6年生の子どもから30歳ぐらいまで10人ほど集まって、主に団地を回るんです。
「いきなりドアを叩くとビックリされるから、『アイヌです! 新聞回収に来ました』と言うべし」と教えてね。
そしたらどんどん出してくれました。
ガソリン代や車代をひいて残ったお金を、子どももおとなも平等に折半しました。
みんなが喜ぶのがうれしくて、毎週のように回りましたよ。
アイヌでありながらアイヌとして生きてこられなかった自分と同胞(ウタリ)たちのために、静江さんは経済的にも精神的にも負担の多い活動を続けた。
しかし無理がたたって静江さんは体を壊し、思春期の子どもたちは常に人が出入りする家庭にとまどい、時には反発した。
息子は次第に家に寄りつかなくなった。夫は97年に亡くなった。
3歳ぐらいから14、5歳ぐらいまでのアイヌの子どもたちが、しがみつくように頼ってきましたよ。
ご飯の時、子どもたちはお箸でおかずをつまむ前に、わたしの顔を上目遣いで見るんですよ。
「この子たちは食べるということから大変な思いをしてきたんだ」と思うとたまらなかった。
周りを気にせずに食べるようになるまで、わたしが下を向いて食べました。そういった子どもたちが何人もうちから卒業していきました。
でも、こんなことはアイヌの社会ではごく普通なんです。
わたしも、親たちが同胞といたわりあって生活していたのを見ていたからやれたと思う。
けれども私が無理したぶん、自分の子どもたちにはしわ寄せがいってしまいました。
ただ、わたしに対する信頼は感じていたし、それがあったからこそ強く生きてこられました。
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