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川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

Ainu History ④

2008年07月19日 | 川柳

 

川柳北海道散歩      アイヌの歴史 ④

こうして生活基盤を奪われたアイヌの中には、生きる望みを失う者も出てくる。生活は困窮し、肺結核や和人が持ち込んだ梅毒が多くのアイヌの生活を蝕んでいった

アイヌの悲惨な生活状況を「改善」させるという名目で、明治政府は1899年、北海道旧土人保護法を公布・施行した。しかしこの法律はアイヌを徹底的に差別し、アイヌの民族性と文化を著しく損なうものでもあった。法律により設立されたアイヌ子弟のための小学校にしても、目的は天皇制国家の忠実な「臣民」となるよう、アイヌ文化やアイヌ語を「撲滅」させることに重点が置かれたようだ。この法律はまた、農業を営もうとするアイヌは優遇したが、漁業などの生業を営もうとするアイヌにはいっさい援助は出なかった。

ただ、大正期に入ると、明るい兆しも見えるようになる。和人による不当な弾圧・差別に抗議するアイヌの魂の叫びが、本の出版などを通じて取り上げられるようになったからだ。これに伴い、アイヌの文化や言語を守ろうとする動きも出てきた。

こうした動きは戦争で中断されるが、太平洋戦争で天皇制帝国主義が崩壊すると、再びアイヌ解放運動の機運が高まる。世界五大叙事詩のひとつであるともされるアイヌのユーカラも筆録(「金成まつユーカラ集」など)され、人類の貴重な文化遺産はかろうじて「撲滅」を免れた。

さて、時代を少し遡る。

アイヌがクナシリ・メナシの戦いで最後の抵抗を示していたころ、同じような先住民に対する迫害が18世紀のオーストラリアでも始まる。1788年、1044人(大半は流刑囚)の乗ったイギリス船団がオーストラリアに到着、先住民であるアボリジニの土地への侵略と徹底した迫害を白人たちが開始したのだ。

ちょうど和人がアイヌに対してやったように、白人入植者たちはアボリジニを「野蛮人」(本当は白人こそ野蛮人であった)と見下し、抵抗するものは虐殺しながら、入植地を増やしていく。白人が持ち込んだ天然痘のような病気や梅毒によってもアボリジニの人口は激減した。

インディアン、アボリジニ、アイヌといった誇り高き民族がこのころ、地球上で相次いで迫害、虐殺されていたわけだ。

 

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Ainu History ③

2008年07月19日 | 川柳
川柳北海道         アイヌの歴史 ③



1789年、妻を和人に殺されたマメキリを頭にして国後(クナシリ)のアイヌが蜂起、同様に過酷な労働を強制されていたメナシ(アイヌ語で東方の意)アイヌもこれに加わり、交易所や交易船を次々と襲撃、和人71人を殺害した。これに対し松前藩は、総勢260余人の鎮圧隊を派遣、アイヌ軍と対峙した。

事態を収拾するため、国後アイヌの長老ツキノエらがほう起したアイヌに武器を置くよう説得し、交渉による穏便な解決をめざした。ところが松前軍は和人を殺害に加担した38人を特定させ、逃亡した一人を除く37人を見せしめのため処刑、斬首した。このときさらに多くのアイヌが虐殺されたとの説もある。

これがクナシリ・メナシの戦いと呼ばれるアイヌ最後の抵抗であった。これ以後、アイヌは徹底的に管理・弾圧され、山歩きに必要な山刀(タシロ)も取り上げられたという。

当時のアイヌに対する差別と虐待の有様は、旅行家松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』などに詳しく書かれている。そのほか貴重なアイヌ見聞録としては、菅江真澄の紀行文『菅江真澄遊覧記2』の中の「えぞのてぶり」がある。

アイヌは1871年の戸籍法公布とともに「平民」に編入されるが、戸籍には「旧土人」と記載され、事実上「二級国民」扱いされた。翌72年にはアイヌの文化や風俗も取り締まり対象となり、女子の入れ墨や男子の耳輪が禁ぜられた。アイヌの土地も大半は剥奪されたうえ、古来の生業である狩猟や漁業も明治政府により事実上禁止され、違反すれば「密漁」として罰せられることになった。

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Ainu History ②

2008年07月19日 | 川柳

川柳北海道              アイヌの歴史 ②

 

こうした不当な搾取と圧制に、アイヌは再び怒りを爆発させる。1669年、日高のシペチャリ川(現在の静内川)に城砦を構えたアイヌの統領シャクシャインは、東西のアイヌ二〇〇〇余人とともに一斉蜂起。和人の交易船などを襲いながら、道南へと攻め入った。アイヌの弓に対し松前藩は鉄砲で応戦。攻勢に転じたのを機にアイヌに和議をもちかけ、酒宴を開いた。その酒宴の夜、酔ったシャクシャインは斬られ、アイヌは敗北する。

この結果、松前藩によるアイヌへの搾取と圧制は一段と厳しくなる。アイヌは絶対服従を強いられ、事実上の「奴隷」として使われるようになる。アイヌから収奪されたイリコ(ホシナマコ)などの産品は、中国への貴重な交易品となった。

18世紀半ばになると、帝政ロシアが千島列島に進出。通商を求めて根室地方にやって来た。北方からの脅威を感じた幕府は、蝦夷地調査隊を派遣。その調査結果をもとに、幕府内では全国の「(エタ)」7万人を移住させ、北海道を開拓すべきだとする計画が立案されたが、推進派の老中・田沼意次の失脚もあり、計画そのものが消滅した。

18世紀後半、和人の圧制に対するアイヌ民族による最後の組織的蜂起が起きる。その背景には、国後島や根室地方など北海道東部の交易権や漁業権を松前藩から手に入れた商人・飛騨屋による、先住民アイヌに対する暴虐・非道があった。飛騨屋の現場監督は、アイヌ女性を犯したり、命令に従わないアイヌは打ち殺したりした。

 

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Ainu  History  ①

2008年07月18日 | 川柳

川柳北海道           アイヌの歴史①

658年に阿部比羅夫による「蝦夷征伐」があったことが知られているが、古くからエゾやアイヌは「まつろわぬ民」として、繰り返し攻撃の対象とされてきた(エゾとアイヌの関係については、同一であるという説と異なるという説がある。いずれにせよ、東北地方にアイヌ語の地名が多く残っていることから、両者は密接な関係があったと思われる)。

 15世紀になると、奥羽地方北部の諸豪族が津軽海峡を渡って北海道に移り住むようになる。和人豪族とその家来、商人らは北海道南部の松前や函館に「道南十二館」と呼ばれる12の砦を築く。

移住してきた和人は、アイヌに鮭、昆布、熊や鹿の毛皮などを獲らせ、それを本州に運んで利益を上げていた。しかし和人はアイヌを脅したり、だましたりして搾取するようになったため、和人とアイヌの間でしばしば抗争が起きるようになった。

 蝦夷地全島(北海道)の支配権を認可された松前の和人豪族蠣崎慶広は、天下を取った家康にもうまく取り入った。松前藩とし、1604年に家康から「蝦夷地に出入りする商人その他の者は松前藩の許可が必要であり、これを破る者は松前藩の手で処刑してもよい」というお墨付きを得る。

松前藩は道南を「和人地」に指定、アイヌを辺境の「蝦夷地」へ封じ込めた。だが、和人たちはその蝦夷地をも侵食しはじめる。初めは友好を装っていた和人は、アイヌに対し極端に不平等な産物交換を強要するようになる。アイヌ側が強制された数量の物産を納入できないと、罰としてさらに不当な交換を強いて、それも達成できないとアイヌの子供を質に取ったりもしたという。 next →

 

☆ 昨晩、二風谷の萱野れいこさん(故萱野茂氏夫人)から、お電話をいただきました。   

過日、一宿一飯のお世話になった御礼に、手紙とお菓子を送った「お返し」のお電話でした。

「萱野です」と、お声を聞くなり、涙も鼻水も大洪水になった私です。

   なぜかわからない・・・大きなすばらしい魂を感じてしまうのです。

「れいこさん・・・私は、今まで生きてきて、出逢った女性の中でれいこさんがいちばん素晴らしい女性だと思います!また今度、二風谷へうかがいますから!」と、自然に思ったまま、そのままお伝えしました。

「自分の中の日本人がやっと、見えてきました。アイヌの方々のおかげです!」

「函館は近いのだから、いつでも来てください!・・・あなたのあのお料理の味は忘れてはいませんよ。」れいこさん。

    かくしゃくとして、凛として、愛が大きい強い女性なのだ。

            お鼻と目がとても、可愛いいのです。

          今度、友人達と日高へ向けて・・・GO!なのだ。

☆川柳っていいね!北海道散歩は只今、アイヌの歴史の小路をちょっと、散策中 です。

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声・・・宇梶静江さん・・・追想。

2008年07月17日 | 川柳
結婚後はふたりの子どもに恵まれ、しばらく平穏な生活が続いた。大学に進みたいという夢ももち続け、家事・育児と仕事の合間を縫って高校に通い続けた。

しかし絵や詩を愛し、文学や政治について考えることが好きな静江さんと、男としての面子や沽券にこだわる仕事人間の夫との間にある溝があらわになり、次第に深まっていった。

夫との価値観の違いに苦しむ静江さんは、長い間封じ込めていた「アイヌとしての自分」と向き合わざるを得なかった。

 
          夫は体裁ばっかり考える人でした。

    夫に限らず、和人は本質よりも体裁や大義名分を大事にしますね。


   目下の人を人間扱いしなかったり、いいところをなかなか取り上げない。


和人の社会のなかで和人の価値観に合わせて生きていくほど、自分が汚れていくという気がしました。


      かといって、アイヌとして生きているとはとても言えない。


街でアイヌだろうと思われる人とすれ違っても、お互いに声をかけることもせず、むしろ目をそらすわけです。


 和人の社会での生活に疲れた末に、わたしは故郷から遠く離れて東京にいるアイヌ同士が集まって、支えあったり仲よく先祖供養をする場をつくりたいと考えるようになりました。

そして朝日新聞に、その思いを同胞に呼びかける投稿をしたのです。

反響は大きかったですよ。

だけど多くは市民活動や政治活動をやっている和人でした。

逆にアイヌからは「寝た子を起こすな」と怒られました。

 それでもわたしを頼ってきたアイヌも少なからぬ人数でした。

仕事のない人も多いから、2トントラックを借りて日曜日に廃品回収をやりました。

小学5、6年生の子どもから30歳ぐらいまで10人ほど集まって、主に団地を回るんです。

「いきなりドアを叩くとビックリされるから、『アイヌです! 新聞回収に来ました』と言うべし」と教えてね。

そしたらどんどん出してくれました。

ガソリン代や車代をひいて残ったお金を、子どももおとなも平等に折半しました。

    みんなが喜ぶのがうれしくて、毎週のように回りましたよ。

 アイヌでありながらアイヌとして生きてこられなかった自分と同胞(ウタリ)たちのために、静江さんは経済的にも精神的にも負担の多い活動を続けた。

しかし無理がたたって静江さんは体を壊し、思春期の子どもたちは常に人が出入りする家庭にとまどい、時には反発した。

息子は次第に家に寄りつかなくなった。夫は97年に亡くなった。

  3歳ぐらいから14、5歳ぐらいまでのアイヌの子どもたちが、しがみつくように頼ってきましたよ。

ご飯の時、子どもたちはお箸でおかずをつまむ前に、わたしの顔を上目遣いで見るんですよ。

「この子たちは食べるということから大変な思いをしてきたんだ」と思うとたまらなかった。

周りを気にせずに食べるようになるまで、わたしが下を向いて食べました。そういった子どもたちが何人もうちから卒業していきました。


    でも、こんなことはアイヌの社会ではごく普通なんです。

わたしも、親たちが同胞といたわりあって生活していたのを見ていたからやれたと思う。

けれども私が無理したぶん、自分の子どもたちにはしわ寄せがいってしまいました。

ただ、わたしに対する信頼は感じていたし、それがあったからこそ強く生きてこられました。




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(C) ニューメディア人権機構 info@jinken.ne.jp

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誇りあるアイディンティティに杭打たれ。(ainu)

2008年07月16日 | 川柳

        誇りあるアイディンティティに杭打たれ


        二風谷で出逢ったアイヌの方々の誇り。

         私たち日本人の誇りって何でしょう?

      沢山ありすぎて見失っているのかも知れない現代。



         自然と一体であろうする強い魂が


    祖先から脈々と受け継がれていることにとても敬服しました。


         誇りあるアイディンティティをとり戻すことが


        私たち日本人のこれからの課題ではないかしら?


       そんなことを痛切に感じさせてくれた、彼らです。


   記事抜粋より

今、アイヌ民族の若者たちを中心に、これまでのアイヌ文化をアレンジし新たな表現を創造しようという動きが活発になっている。

彼らに共通するのは「このままではいけない」という危機感。

伝統のアイヌ文化の後継者は高齢化が著しい。

だが伝統を守るだけでは、自分たちの世代に響かない。伝統と自分たちの表現の狭間で迷いながら、彼らは自分たちのやり方でアイヌとしてのアイデンティティーを模索し、アイヌとして生きていこうとしている。

同世代の若い日本人に、ダンスや音楽を通じてアイヌ文化を知ってもらいたいと活動するのは、酒井厚司(27)さん・美直さん(24)兄妹を中心に、首都圏に住むアイヌの若者たちが作ったパフォーマンスグループ、AINU REBELS(アイヌ・レブルス)。

伝統の踊りをヒップホップの音楽にのせて踊りながら、アイヌの精神や文化を伝えるステージを作り演じている。11月には初めて埼玉の高校生の前で演じた。彼らのメッセージは届いたのか。


アイヌの聖地をエコツアーでめぐり、文化と雇用を結びつける取り組みを始めた、結城幸司さん(43)。

幸司さんの父は、差別や偏見を告発しアイヌ民族の権利獲得のために先頭に立って運動した著名な活動家だった。

幸司さんは父とは別のやり方で、自分たちのアイデンティティーをどのように表現できるか模索している。

アイヌ文化振興法が制定されて10年、アイヌを好意的にとらえる見方は広がりつつある。

しかしアイヌの人たちが、誇りを持って自らのアイデンティティーを形成していくことができる社会には、まだなっていない。

そうした中、アイヌであることを宣言し、アイヌとして生きる彼らは、どのような葛藤を抱え、どのような未来を夢見ているのだろうか。彼らの今を見つめる。


              WEBサイトより抜粋


    川柳北海道散歩は、川柳を通じすばらしい人々を紹介しています。


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声・・・宇梶静江(命を表す糸)

2008年07月15日 | 川柳
ETV特集
「ある人間(アイヌ)からの問いかけ
~萱野茂のメッセージ~
少数者の声に対して「日本」はどう向き合ってきたか?」


              宇梶静江さん聞き書き

                「命を表す糸」


私は1933年に北海道の浦河町のアイヌの一家に生まれました。木にも川にも、山にも空にも、熊にも鳥にも神様がやどると教わり、父母といっしょに農業をしながら育ちました。和人からの差別がひどく、アイヌ同士が避けあって暮す時代でした。

 その頃は、私は、「日本」の中で生きることが当然と思っていた。でも、集団就職で上京すると、そこでもいろんな差別を経験し、いつも私は緊張して生きづらかった。和人は理詰めで生きている。アイヌのお年寄りは知らないこどもでも、すっと心で抱擁してくれます。緊張を強いられる生活のなかで、私は次第に思うようになりました。親から伝えられたものを追求していこう、他のアイヌとつながろう、と。自分はアイヌとして生きないと人間になれない、と思うようになったのです。

 アイヌとはアイヌ語で「人間」の意味です。自分はアイヌの文化で育てられた。親たちはすばらしい育て方をしてくれた。貧しくたって、心は本当に豊かでいられる。私にとってアイヌは人間であり、親そのもののイメージなんです。

 今は英語よりわからないことばになってしまったアイヌ語の中には、「平和に生きる」ことがぎっしり詰まっています。

 シャケが自然にのぼってくる場所がアイヌ語に残っています。その場所を大切に守らなくてはいけない。それを壊すと、シャケが迷う。そうすると人間も迷う。地球上のあらゆる場所に同じことがいえるでしょう?アイヌ語には大切にする場所が記憶されているんです。そして、頂いた命を大切にするしきたりがことばとして残っているんです。

 例えば蝉(蝉も神様です)の泣き声が弱弱しいと、天変地異を告げていると知ったものでした。沢山の蝉が鳴きたてると、今年は豊作だと分かりました。生き物も、草や木も、メッセージを送ってくれている。それがみんな、アイヌの物語に残っているんです。子どもたちを大切にする。授かった命、みんなアイヌなのだから、と。それがアイヌの文化なんです。

 60歳を過ぎる頃まで、アイヌ文化を表現することが困難な日本社会でした。生活のために、こどもを育てながらいろんな仕事をしてきました。もうだめだ、と思うことが何回もありました。ホームレスになろうかなぁ、なんて思ったこともありました。ただ、私は寒さに弱くて、冬に野宿はできない。あぁ、ホームレスにもなれないのかなぁ、と。

 そんな中、63歳で改めてアイヌ刺繍を勉強しなおし、古い布を絵の具がわりにした布絵の制作を始めたのです。アイヌの魂を布絵で表現しよう、と思ったんです。

小さい時から、絵を描いたり、針仕事をしたりするのが大好きでした。昔は女の子が絵なんぞ描いていたら、嫁の貰い手がなくなると怒られたものです。だから、野良仕事の休み時間に、納屋の陰にかくれて、絵を地面に描いたりしていました。みつかるとこっぴどくしかられましたっけ。

1997年、自分の思いの集大成として、初めて出身地浦河町で、その布絵の展覧会を開きました。人に見せようというより、自分のために、自分のこれまでをまとめるために開いたんです。それが思いがけず評判になり、マスコミの取材が相次いで、いわば一夜で、私は有名になっていました。


「萱野茂さんのこと」

 その展覧会の3年前、1994年11月9日、アイヌ民族から初めて国会議員になった萱野茂さんが、国会で最初の質問に立ちました。その前から、私もアイヌの同胞(ウタリ)とつながろうとして活動を続けてきたので、沢山の同胞とともに傍聴席で固唾を呑んで、始まりを待ちました。

 演説が始まりました。アイヌ語が聞こえてきました。そのときの気持ちは、なんとも形容できません。アイヌ語で話したのは私の親の世代まで。私は聞けるけど、うまく話せません。萱野先生の口から流れ出るアイヌ語を聞くうちに、私は、話しているのが萱野先生だけではなく、遠くから、見えない祖先が先生につながって話している!と感じました。祖先だけでなく、そこにいる私たちも、そこにいない同胞たちも、みんな先生につながって話しているんだと感じました。アイヌの魂が議事堂に流れて広がっているのです。

 アイヌ民族は、長い間和人に侵略されてきました。明治32年発令の「北海道旧土人法」が最後の打撃でした。でも、萱野先生のアイヌ語を聞きながら、私は実感したのです。100年や200年では、私たちの心は壊れないんだ。馬鹿にされても、心は汚れないでいるんだ。戦いの道具を持つことを拒否したアイヌの伝統は脈々とつながっているんだ、と。

 差別はわずらわしいものです。教育も受けられないできました。でも、私たちは「援助される人」ではない。自らの生き方がどうであれ、人権を持って、このすばらしい文化を自主的に伝えたい。団子ひとつ作るのでも、大事に作りたい。その思いがふつふつと沸いてきました。

 あの演説は、アイヌ理解の始まりでした。他の議員さんの顔を見ると、わかった、という表情が見えました。今も忘れません。あの瞬間から、どれほどのアイヌが生き生きと活動を始めたか。民族のエネルギーが、あの瞬間から、私を今も生かしてくれているんです。私だけでなく、多くの同胞にそのエネルギーがつながっているんです。

 それまでの気張った気持ちが楽になりました。自然になり、開放されました。でもまだ、苦しんでいる人たちもいます。自分ひとりが解放されても意味がない。同胞がみな、解放されて始めて喜びがあります。愛は強くなくては愛ではありません。


○川柳のテーマは「いのち」です。

こんなに、がんばって必死に生きてきたアイヌの方々に出会ってから、日増しにその体験が自分自身を豊かにして下さっているのが感じられます。

○私たち日本人は、「先住民族として認めて欲しい」という生き方を知りません。
 こんなに近くにいたはずのアイヌの方々の苦しみを理解することさえ知りませんでした。

○自国のことを良く知らなければ、国際人などとはいえないものです。
 反省・反省です。

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声・・・宇梶静江さん・・・お疲れ様でした。

2008年07月14日 | 川柳
               宇梶静江さん


        東京のアイヌの母と呼ばれているそうです。


        故萱野茂宅で、ご一緒させていただきました。

書籍コーナーを担当させていただいたとき、「ありがとうございます」「ありがとうございます」と何度もおっしゃっておられました。

 各国の方々へ、すばらしいご自分の布刺繍絵本を贈呈されておられました。

  すばらしい、布刺繍の童話集は国際的に評価されておられるようです。

                ○


    宇梶静江さん 「先住民族サミット」の共同代表(毎日新聞)より


       宇梶静江さん 「先住民族サミット」の共同代表

        心と体が宙に舞う。そんな感覚がまだ続く。

  アイヌの人々を先住民族と認めるよう政府に求めた今月6日の国会決議。

     先祖が受けた苦しみを思いながら、傍聴席で涙をぬぐった。

 北海道洞爺湖サミットに先立ち、平取(びらとり)町二風谷(にぶたに)と札幌市で開かれる「先住民族サミット」(7月1~4日)に共同代表として臨む。

海外から約20人の先住民族を招いて環境や権利回復などの提言をまとめ、各国首脳にアピールする。

「アイヌは明治時代の同化政策で自分たちの権利だけでなく、自然そのものも失った」

          北海道浦河町生まれ。家は農業。

「兄と姉、3人の弟がいて生活は苦しかったけれど、集落ではみんなが助け合った」。

  外に出れば「アイヌか和人(日本人)か」で人々は態度を変えた。

         23歳で上京し、日本人と結婚。

2人の子どもが小学生だった38歳のとき「ウタリ(同胞)よ、手をつなごう」と新聞の投書欄で呼びかけ、関東圏のアイヌ復権運動の草分けの一人になった。

        いつの間にか「長老」と呼ばれる存在だ。

  思春期に反発していた長男の剛士さん(45)は俳優として個性を発揮。

 子や孫の世代が歌や踊りを通じて「多文化共生」をしなやかに表現している。

 アイヌの先住地を舞台にする二つのサミット。

「私にとっては民族の誇りと荒廃の道をたどってきた自然を取り戻すためのもの」

【明珍美紀】

 【略歴】宇梶静江(うかじ・しずえ)さん 千葉県鴨川市在住。現在はアイヌの伝統刺しゅうを古布にほどこす古布絵作家として活動。75歳。

毎日新聞 2008年6月14日 

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声・・・アイヌレブルズ酒井美直さんは超すてき!

2008年07月14日 | 川柳
決 意

「堂々と、民族の血を誇りに」

虐殺…世界の現状に絶句



国連部会に参加

9日は「国際先住民の日」

 七月二十七日、帯広出身の大学生、酒井美直さん(19)=神奈川県在住=は、スイス・ジュネーブの国連欧州本部にいた。「人権小委員会先住民族作業部会」で意見を述べる、日本の先住民族アイヌの代表の一人として。
 広い会議室。百人以上の世界の先住民たちを前に、同じアイヌ民族の若い仲間が「日本の政治家が相次ぎ、『アイヌの同化』や『単一民族』などと発言。十五年前の中曽根首相(当時)の時と何ら変わっていない」との声明文を読み上げている。その様子を横で見て胸が熱くなった。「私にはアイヌ民族の血が流れている。これからは堂々と、民族として生きていく」。心の中で静かに決意していた。


場内で、ほかの先住民の主張を聞く酒井さん。発表内容は英語などで同時通訳される(スイスジュネーブ国連本部で)



◆------◆

 国連では、世界の先住民が直面している人権、環境、開発、教育などの諸問題の解決を国際的に協力し推進していこうと、一九九四年に「世界先住民の国際十年」を制定した。そして、最終年までに「先住民族の権利宣言」を策定しようと、世界の先住民の声を聞く場として、定期的に作業部会を開いている。今回は十九回目でアイヌ民族から十、二十代の女性三人のほか、沖縄からも参加していた。

 作業部会へは今春、大学進学のため上京し、直後に入会した関東圏のアイヌ民族団体「レラの会」の仲間に誘われ、参加することになった。「自分、そしてアイヌ民族のことをもっと知りたい」。ただ、その一心だった。

◆------◆

 五歳の時に死んだアイヌ民族の父(衛さん)は、民族の権利獲得のため東京で活動していた。自身も帯広時代、「とかちエテケカンパの会」(民族の子供たちの勉強会)に小学三年生から参加、民族の古式舞踊などを学んではいた。だが、文化全般や言語、精神性など体系的な知識はほとんどなかった。

 会議では、どうしても言いたいことがあった。若いアイヌの人たちが「アイヌ」であることに誇りを持って自由に生きられる社会にしたい、と。「本来、『アイヌ』とはアイヌ語で『人間』を指し、とても立派な言葉。その言葉が、侮辱や否定的に使われている現状がある」。多くの人の前で、こう訴えたかった。

◆------◆

 ジュネーブに来て、何度も涙を流した。時間の関係で自身の宣誓文を会場で読み上げられなかったこと、手続きミスから古式舞踊を披露できなかったこと-。ただ、一番衝撃だったのは、世界的にいまだ虐殺される状況に置かれている先住民がいると知った時だった。インドネシアのある先住民の代表者は、生首を群衆の前につるすなど、同胞が虐殺されている写真などを場内で配り、一生懸命、訴えていた。「私たちは幸せな方なのか…」。絶句した。

 「アイヌに生まれたくて生まれたわけではない。けれど、だれでもアイヌとして生きられるわけではない。アイヌの私だからできることがあるはず。もう迷わない。もっとアイヌ、そして世界の先住民について知りたい」。生きるべき道が定まった。

◇------◇

 「アイヌ文化法」が制定されて四年。アイヌ民族を取り巻く状況は確実に変わりつつある。だが、根底にある民族差別などが完全に解消されたとは言い切れず、心の傷は深い。民族であることをいまだ声高らかに言えない人も多い。八月九日は国連が定めた「国際先住民の日」。

帯広出身のアイヌ民族の女性として、国連の作業部会に初めて参加した酒井さんにスポットをあて、民族への目覚めなどを二回にわたり紹介する。(佐藤いづみ)(01.8.8)



〇この記事から7年後彼女は、今年7月1日から4日まで北海道日高二風谷で開催  された「先住民族サミット」アイヌモシリ(アイヌ北海道)の代表呼びかけ人  代表のひとりとしてその責務を果たされておりました。


音楽活動を通じ「アイヌレブルズ」というグループをお兄さん、ご主人そして、アイヌの仲間の方々と共に活動されています。

「たおやかで、透き通るような美しさ」は、初対面の方ならどなたでも感じること でしょう。

            私も魅了されたひとりです。


         映画「TOKYOアイヌ」にも出演しています。


             今製作中だそうです。

    川柳北海道散歩。川柳を通じすばらしい人々を紹介しています。

           

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声・・・AINU

2008年07月13日 | 川柳

 

アイヌ長老からのメッセージ

 


 
遠山サキ

 

 

 

わしは、

 

この

 

 

80歳の年寄りになって

 

 

このアイヌに生まれて

 

 

差別されながら死んでいくと思ったら、

 

 

 

本当に

 

 

 

空に向いてうわーっっと

 

 

 

叫びたいくらいの

 

 

 

気持ちで

 

 

 

一杯です。

 

 


くやしくて

 

 

情けない想いをして

 

 

 

歯を食いしばって

 

 

暮らしてきたんだ!!

 

 

 

「どうしてアイヌという人間がいるんですか?」

 

 

 

って言われてきた。

 

 

 

差別。差別がどれほど人を傷つけるか。

 

 

 

アイヌは今でも何もいえないで、

 

 

 

まるでゴミのように

 

 

 

扱われて暮らせば、

 

 

 

それでよいのか!

 

 

 

この日本の国の政府が一番良くない。

 

 

 

日本政府が

 

 

 

アイヌを先住民族として認めてくれるのならば、

 

 

 

すべては変わる。

 

 

 

これからの若い人たちも

 

 

 

 

アイヌはアイヌなんだから、

 

 

 

 

和人になったつもりしないで、

 

 

 

 

アイヌはアイヌのやり方で頑張って欲しい。

 

 

 


日本政府も

 

 

 

この日本にちゃんと、

 

 

 

アイヌという先住民族がいるんだという事を

 

 

 

認めて欲しい。

 

 

 

「今年6月6日アイヌ民族を先住民族として認めよ」

 

 

ということを全会一致で決議されました。)

 

 

決議されたというだけで、

 

 

 

法整備などはまだ未定です。

 

 


    2008・Indigenous Peoples Summit in Ainu Mosir

 

 

資料集より

 

川柳北海道川柳北海道川柳北海道

 

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