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水戸藩初代・徳川頼房の話あれこれ(5)

2023-09-20 20:18:37 | 水戸

 

 3代将軍・徳川家光は、叔父である1歳年上の徳川頼房を長幼の序をもって、酒を飲みあったそうです。酒だけでなく、兄弟同様の付き合いを望んでいたようです。同じことを御三家の尾張藩や紀州藩にはしなかったそうです。写真は、市立博物館で見た頼房奉納の東照宮釣灯籠です。

 

 島原の乱で、その鎮圧にあたり、鍋島勝茂父子が先駆けをしたために軍律違反と言うことで、家光は改易を決定したそうです。それに対し頼房は、先駆けは古来から多くあることで、処罰はすべきでないと諌めたそうです。

 

 寛永3年(1626)、家光の上洛に際して、頼房は、従三位・権中納言になったそうですが、同日に加賀藩主・前田利家や、仙台藩主・伊達政宗なども従三位・権中納言になったそうです。これに頼房は不満を持ったそうで、翌年早々に正三位にひきあげられたそうです。これによって以降、水戸徳川家は、正三位・権中納言になったそうです。

 

 松平志摩守の家来を、頼房臣下の熊岡左平太が手討ちにしたそうです。志摩守は熊岡を踏み潰すと激怒したそうです。これを聞いた頼房は志摩守を招き、一理はあるが、左平太は我が家来であるので、我も又、左平太の報復をすることになるのかと言って事を収めたそうです。

 

 関ヶ原の戦いの前、伏見城の総大将だった鳥居元忠は、豊臣方の雑賀重朝に討たれたそうです。雑賀家に伝わった鳥居の甲冑等を子孫の雑賀重次が、鳥居元忠の子・忠政に贈ったそうです。忠政は、泣いてそれを受け取って拝礼した後に、重次に返したそうです。その後、忠政は、重次に小袖を毎年贈ったそうです。雑賀重朝は頼房に仕えたので、甲冑の話を聞いた頼房は感じ入り、重次の使者が来訪するときには、あらかじめ道橋を修理して、使者を饗応する糧にと魚鳥などを忠政に与えたそうです。

水戸藩初代・徳川頼房の話あれこれ(4)

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