ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸藩主・徳川斉昭の話あれこれ(17)

2023-11-29 20:59:53 | 水戸

好文亭全景(今年の梅まつり初日)

 

 8代徳川斉脩(なりのぶ)の存命中、支藩の藩主などを招いて、徳川斉昭(9代藩主)が熊坂という能を舞ったとき、佩いていた刀が抜け飛んでしまったそうです。どうなるかと人々が見守っていると、斉昭は「刀を使うことはないだろう」といい、相手の役者は「手で捕まえようと刀を捨てて」と応じたそうです。

 

 自分の嫁選びに関して、武田耕雲斎に書き送った斉昭の手紙があるそうです。家柄筋目は変わるものでないのでその確認があれば、容姿は十人並みでよい、とか、女は柔和で愛嬌があればよく、ツンとしているのはよくない、などといったことも書かれているそうです。斉昭の正妻・吉子は、有栖川宮(ありすがわのみや)家の生まれで、水戸徳川家初めての宮家出身の正室だそうです。

 

 好文亭の茶屋守に関しては下級武士の様子をよく知らないし、禄高によって使用人の数が違うであろうから、茶屋守の部屋の広さなどが分からないので、場所だけを指定しておく。建物の柱の場所など大工に言えば笑われるような素人が書いた図なのでその通りでなくてもよいといった注意書きが、斉昭自身が描いた好文亭図に書きこまれているそうです。好文亭建築での斉昭の係わり具合がよく分かります。写真は、弘道館と偕楽園(関孤円)にあった烈公(斉昭)筆の好文亭図です。

 

 得難い宝物の茶器ではなく、簡単に手にはいる茶器で茶を飲んでも恥じることがない者は、富貴でありながら貧賤な人とも交わることを示していると、斉昭筆の茶説にあるそうです。茶説は、茶室何陋庵(かろうあん)の手前にある、待合(まちあい)の壁にはめ込まれた茶に関する斉昭の3つある板額の1つです。写真は待合の内部です。右の横長額が茶説です。

 

 御殿医で、藩内に種痘を広く実施させた本間玄調が、弘道館の医学館へ自宅から駕籠で向かう途中、路上で苦しんでいる乞食を見て、駕籠から降りて薬を与えて救ったそうです。それを聞いた斉昭は、安政1年(1854)に玄調に救(すくい)という名を与えたそうです。写真は弘道館にあった玄調の肖像画です。

水戸藩主・徳川斉昭の話あれこれ(16)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 水戸の看板(13) | トップ | 水戸の縄 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

水戸」カテゴリの最新記事