浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

自我越えて肉の己れを
捨し時 神と我とは
一つなる知る

「講演集」より。

2014-11-21 00:39:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 二


     この世への執着や心の重さが成仏を妨げる


先の続き・・・

誰でもいいと言って探しかけて指をさされましたら、皆びっくりします。
そんな神様が、肩に乗せてほしいと言ってきたら、誰でもいい気はしません。
なるほど神と祀られて、一般の低級な拝み屋さんなどが見ますと、威圧的に
神の怖しさを見せるのです。
そして言うことは立派なことですので、ついに神様として祀ってしまうのですが、
その本質は違います。
よく人間の体に神懲りしていますが、ああいうのは、
自らの心を悟っていない霊が乗り移っているのです。
真の神の御心を知らない者、神の御心を日々の生活に実践できない者に、
どうして真の神が懲かられますか。
死んだ後に、強い思いを残してこの世に出る幽霊は、絶対に歓迎を受けません。
誰も皆、お金は大事だと思いますが、そのお金さえ幽霊が出てきて言えば、
もう要らないと言います。

これはこの近所の方の話です。
そのおばあちゃんは、「ちょっと三千円貸してくれるか」、
「ちょっと五千円貸してくれるか」と言って、
あちこちでたくさんの借金をしたままよそへ引っ越しされました。
借金の持ち逃げです。
「まあ、しょうがないわ」と、皆諦めていたのです。
するとある晩、そのおばあちゃんが、「こんばんは、
お前とこで借りたお金をまだよう返さないでいる。もうちょっと待っといてや」と言って、
一軒一軒借りた家を回って歩いたのです。
それで近所の人が、「あんなに長い間何も言わないでいて、急に来てあんなことを言って、
もうちょっと待ってと言うてる。あんたとこにも来たのかいな」と
いう話になっていたのですね。

その後、何日にかして、その家の若い息子さんと、近所の人が会った時に、
「えらい遠い所にいったというけど、この間おばあちゃんがこちらに来て何軒も尋ねて歩いた」と言うと、
「ええ?それはいつのことですか」とびっくりされたそうです。
そこで、何月何日だと言うと、その日はおばあちゃんはもう死んだ後だと言うのです。
それでびっくりした皆さんが、「もう銭は要らんから、おばあさんに二度と
こないように言うといて」と、家族の人にお願いしたそうです。
―――死んで出てきたら、金も要らなん、物も要らん、愛も要らん、
どうぞ二度と出て来ないようと言われるほど嫌われていたのです。


              ~ 感謝・合掌 ~



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