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浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

得るものも失うものも無き我れに
何を恐れん我れ神の中

「ブッダのことば」より。

2017-05-16 23:40:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

                  14、迅速

921、〔質問者いわく〕、「眼を開いた人は、みずから体験したことがら、
        危難の克服、を説いてくださいました。
        ねがわくば、正しい道を説いてください。
        戒律規定や、精神安定の法をも説いてください。
 
922、〔師いわく〕、「眼で視ることを貪ってはならない。
        卑俗な話しから耳を遠ざけよ。
        味に耽溺してはならない。
        世間における何ものをも、
        わがものであるとみなして固執してはならない。

923、苦痛を感じることがあっても、修業者は決して悲嘆してはならない。
        生存を貪り求めてはならない。
        恐ろしいものに出会っても、慄(ふる)えてはならない。


                ~ 感謝・合掌 ~



※ ご報告:当ブログの開設(2008年11月11日)より
   本日現在(2017年5月16日)の期間中における
    トータル延べ訪問者数:220,648人
    トータル延べ閲覧数:715,339回
    たくさんの訪問、並びに閲覧を心より深く感謝申し上げます。
    恩師(故)長尾弘先生も大変喜んで頂いていることと思います。
    今後とも宜しくお願い申し上げます。





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「ブッダのことば」より。

2017-05-15 22:51:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

                  14、迅速

918、これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。
        『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。
        いろいろな質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。

919、修行者は心のうちが平安となれ。
        外に静穏を求めてはならない。
        内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。
        どうして捨てられるものがあろうか。

920、海洋の奥深いところでは波が起こらないで、
        静止しているように、静止して不動であれ。
        修行者は何ものについても欲念をもり上がらせてはならない。


                ~ 感謝・合掌 ~


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「ブッダのことば」より。

2017-05-14 23:47:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

     
               第四 八つの詩句の章 

                  14、迅速

915、〔問うていわく、――〕
       「太陽の裔である偉大な仙人(ブッダ)、あなたに、
       遠ざかり離れることと平安の境地とをおたずねします。
       修業者はどのように観じて、世の中の何ものをも執することなく、
       安らかにいるのですか?」

916、師(ブッダ)は答えた、
      「〈われは考えて、有る〉という
      〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。
      内に存するいかなる妄執をもよく導くために、
      常に心して学べ。

917、内的にでも外的にでも、
      いかなることがらをも知りぬけ。
      しかしそれによって慢心を起こしてはならない。
      それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。


                ~ 感謝・合掌 ~



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「ブッダことば」より。

2017-05-13 23:59:30 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

     
               第四 八つの詩句の章 

              13、並ぶ応答――長篇

913、過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、
       欲におもむかず、執着して論ずることもない。
       賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく、
       自分を責めることもない、

914、見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、
       賢者は一切の事物に対して敵対することがない。
       かれは負担をはなれて解放されている。
       かれははからいをなすことなく、
       快楽に耽ることなく、求めることもない。
       ―――師はこのように言われた。


               ~ 感謝・合掌 ~


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「ブッダのことば」より。

2017-05-13 00:12:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

     
               第四 八つの詩句の章 

              13、並ぶ応答――長篇

910、(「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、
        みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易でない。
        自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)
        清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。

911、バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない。
        見解に流されず、知識にもなずまない。
        かれは凡俗のた立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。
        ――他の人々はそれに執着しているのだが、――

912、聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、
        論争が起こったときにも、党派にくみすることがない。
        かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、
        執することがない。
        ――他の人々はそれに執着しているのだが。――


                ~ 感謝・合掌 ~


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「ブッダのことば」より。

2017-05-11 23:41:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

   
               第四 八つの詩句の章 

              13、並ぶ応答――長篇

907、(真の)バラモンは、他人に導かれことがない。
         また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。
         それ故に、諸々の論争を超越している。
         他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

908、「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」
         という見解によって清浄になることができる。
         と或る人々は理解している。
         たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。
         かれらは、正しい道を踏み外して、他人によって清浄となると説く。

909、見る人は名称と形態とを見る。
         また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。
         見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。
         真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは
         説かないからである。


                ~ 感謝・合掌 ~


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「ブッダのことば」より。

2017-05-11 00:13:23 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

     
               第四 八つの詩句の章 

              13、並ぶ応答――長篇

904、かれらは自分の教えを「完全である」と称し、
        他人の教えを「下劣である」という。
        かれらはこのように互いに異った執見をいだいて論争し、
        めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。

905、もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、
        諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。
        けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、
        他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

906、かれらは自分の道を称賛するように、
        自己の教えを尊重している。
        しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。
        かれらはそれぞれ清浄となるからである。


               ~ 感謝・合掌 ~


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「ブッダのことば」より。

2017-05-10 00:08:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

              13、並ぶ応答――長篇

901、あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、
      あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、
      声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、
      移り変わる種々なる生活のうちにある。

902、ねがいを求めるには欲念がある。
      また、はからいのあるときには、おののきがある。
      この世において死も生も存しない者、
      ―――かれは何を恐れよう、何を欲しよう。

903、或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、
      他の人々は、「下劣なものである」と称する。
      これらのうちで、どれが真実の説であるのか?
      ―――かれらはすべて自分らこそ神理に達した者であると
      称しているのであるが。


                ~ 感謝・合掌 ~



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「ブッダのことば」より。

2017-05-09 00:03:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

   
               第四 八つの詩句の章 

               13、並ぶ応答――長篇

898、戒律を最上のものと仰いでいる人々は、
      「制戒によって清浄が得られる」と説き、誓戒を受けている。
      「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られでしょう」といって、
      〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

899、もしもかれが戒律や誓戒を破ったならば、
      かれは(戒律や誓戒の)つとめにそむて、おそれおののく。
      (それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」と称えて
      望みを求めている。
      たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、
      家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

900、一切の戒律や誓いをも捨て、
     (世間の)罪過あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、
     「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、
     それらにとらわれずに行え。
     ―――安らぎを固執することもなく。


               ~ 感謝・合掌 ~


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「ブッダのことば」より。

2017-05-08 00:20:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

              13、並ぶ応答――長篇

895、これらの偏見を固執して、
       「これのみが真理である」と宣説する人々、
       ―――かれらはすべて他人からの非難を招く。
       また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。

896、(たとい称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、
       平安を得ることはできない。
       論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。
       この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、
       論争をしてはならない。

897、すべて凡俗の徒のいだく、
       これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。
       かれは、見たり聞いたりしたことがらについて
       「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。
       かれはそもそもどんなこだわりに赴くのであろうか?


               ~ 感謝・合掌 ~



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「ブッダのことば」より。

2017-05-07 01:15:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~


               第四 八つの詩句の章 

              12、並ぶ応答――小篇

893、自分の道を堅くたもって論じているが、
       ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。
       他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、
       かれはみずから確執をもたらすであろう。

894、一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、
       さらにかれは世の中で論争をなすに至る。
       一辺の(哲学的)断定を捨てたならば、
       人は世の中で確執を起こすことがない。


                ~ 感謝・合掌 ~





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「ブッダのことば」より。

2017-05-06 00:05:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

   
               第四 八つの詩句の章 

              12、並ぶ応答――小篇

890、もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、
        愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。
        また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、
        諸々の<道の人>のうちに愚者は一人も存在しないことになる。

891、「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、
        清浄に背き、〈不完全な人〉である」と、一般の諸々の異説の徒は
        このようにさまざまに説く。
        かれらは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。

892、ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、
        他の諸々の教えに清浄がないと言う。
        このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執着し、
        かの自分の道を堅くたもって論ずる。


               ~ 感謝・合掌 ~









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「ブッダのことば]より。

2017-05-05 00:06:36 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

              12、並ぶ応答――小篇

887、偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思や、
       これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)
       断定的結論に立って喜びながら、
       「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。

888、反対者を<愚者>であると見なすととも、
       自己を<真理に達した人>であるという。
       かれはみずから自分を<真理に達した人>であるという。
       かれはみずから自分を<真理に達した人>であると称しながら、
       他人を蔑視し、そのように語る。

889、かれは過った妄見を以ってみたされ、
       驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、
       みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。
       かれのその見解は、(かれにはよれば)
       そのように完全なものだからである。



              ~ 感謝・合掌 ~







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「ブッダのことば」より。

2017-05-04 00:02:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

     
               第四 八つの詩句の章 

              12、並ぶ応答――小篇

884、真理は一つであって、第二のものは存在しない。
       その(真理)を知った人は、争うことがない。
       かれらはめいめい異った真理をほめたたえている。
       それ故に諸々の<道の人>は同一の事を語らないのである。

885、みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、
       何故に種々異った真理を説くのであろうか?
       かれらは多くの種々異った真理を(他人から)聞いたのであるか?
       あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?

886、世の中には、多くの異った真理が永久に存在しているのではない。
       ただ永久のものだと想像しているだけである。
       かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、
       「(わが説は)真理である」
       「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。


                   ~ 感謝・合掌 ~


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「ブッダのことば」より。

2017-05-03 00:03:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       ~ 恩師の御講演「ブッダのことば」より ~

    
               第四 八つの詩句の章 

              12、並ぶ応答――小篇

881、またもしも自分の見解によって清らかとなり、
       自分の見解によって、真理に達した人、
       聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者は
       だれもいないことになる。
       かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。

882、諸々の愚者が相互に他人に対して言う言葉を聞いて、
       わたくしは「これは真実である」とは説かない。
       かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。
       それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。

883、或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、
       他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。
       このようにかれらは異なった執見をいだいて論争をする。
       何故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのであろうか?


               ~ 感謝・合掌 ~



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