古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

「特攻隊はつくらない」とみんなが決意すること。

2014年12月27日 02時11分35秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 特攻隊がどのようにしてできたか。読んでいくと東条英機(当時彼は首相/陸軍大臣/参謀長を兼任)まで行き着きます。

(昭和19年の)5月4日早朝、陸軍士官学校を抜き打ちに視察した東条(英機)は、生徒に「敵機は何で落とすか」と試問、機関砲で墜しますの答えに、「違う。敵機は精神力で落とすのである。従って機関砲でも落ちないときは、体当たり攻撃を敢行してでも撃墜するのである。即ち、精神力が体当たりという形になって現れるのである」と説諭した。   『特攻と日本人の戦争』より

 ネットで特攻隊批判を見ると、こんな一文もありました。

 陸軍第六航空司令官・菅原道大中将は「お前たちだけを行かせはしない。必ず最後の一機であとを追う」と特攻隊を送り出し、エンジン不調などで特攻機が戻ってくると、「卑怯者! 死ぬのが怖いか!」と殴り倒した。敗戦で参謀が自決をすすめると「死ぬだけが責任を取ることではない」と逃げ回り、…… 96歳で極楽往生。17歳で特攻戦死した少年航空兵はあの世でなんと思ってるでしょうネ。

 もう一つ特攻隊の設置では「陛下に責任が及ばないように(上官である自分たちにも責任が及ばないように)、あくまでも本人の意志で特攻隊として出撃させる」線を周到にめぐらしていることです。そんな責任逃れの軍隊内官僚主義がいまもこの国にはのさばっています。
「自分も死ねば言い訳が立つ」ことにはならない。自決しても免罪にはならない。「特攻という戦術を日本はこれから絶対に採らない」と日本人みんなが決意し、そんな事態が起こりそうになれば阻止に立ち上がる。その国民の意志がいま求められています。

 ぼくは退職してから『満蒙開拓青少年義勇軍』のことを調べ、体験された方々に聞き取りをしました。
 農家の二・三・四男を中心に「日本にいたら食い詰めてしまう」と満蒙開拓に志願した少年たち85000人が満州に渡りました。そして敗戦後の混乱に巻き込まれて死亡し、25000人の少年は日本に還れませんでした。
 生還できた少年たちも心に深い傷を負ってその後の人生を生きました。彼らは敗戦直前兵隊として狩り出され、爆弾を抱えてソ連の戦車の前に身を投げ出すよう訓練されました。そのとき日本軍は、鉄砲も行き渡らないような弱兵と開拓民をソ連軍と対峙する前線に残して、後退していました。棄民です。どれほど悲惨な地獄絵になったか。
 いつまでたっても、口を開けば彼らの苦境を訴えたくなります。ぼくの想像の何百倍もの「地獄絵の苦しみ」を抱えて長い人生を生きてこられた青少年義勇軍の方々の心を思うと、せめて日本国民みんなが「特攻隊や棄民はもう絶対にしません」と決心することです。     
 まとまりませんが結論はいつも同じです。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする