☆ 荒れる特攻基地 - 自暴自棄と反発と
荒む隊員の意識は、士気の低下や規律の乱れとなって表れた。沖縄戦の頃には、基地を飛び立った飛行機から「バカヤロー」の無電が打たれ、あるいは離陸後司令官室めがけて突入の姿勢を示してから飛び去る特攻機もあったと伝えられる。目標海面に達しながら攻撃を行わず、まるで失神したようにふらふらと墜落する特攻機が米側に観察されている。故障と称して途中の離島に不時着する機も増加した(但し、器材や整備の不良から真の故障機も多かった)。特攻機を護ることよりも、その行動監視を目的に掩護機が随伴する場合もあった。引き返してきた特攻隊員が参謀に「卑怯者。命が惜しいか」と罵られ、殴られ、次の出撃ではたとえ敵を発見できずとも自爆し、基地に戻らなかった例も枚挙に尽きない。
隊員の意識変化は、次の川柳にも現れている。 (略) 別れ酒もう一杯と強い奴 / 特攻へ新聞記者の美辞麗句 / 特攻隊神よ神よとおだてられ / 帽を振る手のくたびれた整備員 / ジャズ恋し早く平和が来れば良い
これは特攻隊員となった海軍第十三期飛行予備学生四人(及川肇・盛岡高工、遠藤善雄・米沢高工、福知貴・東京薬専、伊熊二郎・日大)の合作川柳である。彼らは一九四五年四月、南西諸島方面で全員特攻死を遂げた。
☆ 特攻関係者の自決
大西の自刃に先立ち、玉音放送が流れた十五日の午後、陸軍航空本部長寺本熊市中将(元第四航空軍司令官)が本部長室で自決した。同夕には陸軍航空技術審査部総務部長の隈部正美少将(元四航軍参謀長)も自決したが、これは富永四航軍司令官の台湾逃亡に対する補佐責任を取っての自決といわれる。同じく一五日夕、第五航空艦隊司令長官の宇垣纏中将が沖縄に向け私兵特攻を敢行した。宇垣は七〇一航空隊大分派遣隊長中津留大尉(海兵七〇期、隻大尉と同期)に艦爆五機の用意を命じたが、彗星一一機、二二名が彼に従った。夕刻、中津留機に同乗した宇垣は沖縄に向けて大分を離陸。中津留機は沖縄本島伊平屋島の海岸に突入したと思われる。突入直前、機上から打電された訣別の辞には「過去半歳に亘る各隊の奮戦に拘らず驕敵を撃砕し神州護持の大任を果たすこと能はざりしは本職不敏の致すところなり……」とあった。既に終戦となった段階で若い将兵を死の道連れにした行為には、いまも強い批判がある。小沢治三郎連合艦隊司令長官も「自決するなら一人でやれ。若者を道連れにするな」と激怒した。しかし、特攻出撃の度毎に「あとに続く」と叫びながら、敗戦時、実際にそれを実行した海軍の特攻関係幹部が、指揮官、幕僚を合わせても大西と宇垣だけであったことも事実だ。
宇垣特攻出撃の報は第六航空軍にも忽ち伝わった。司令官菅原道大中将は沖縄作戦中、「最後の特攻機で自分も出撃するつもりだ」と日々繰り返し、陸軍特攻機一六七三機を送り出していた。最後の出撃によって死ぬ機会を与えてほしいと訴える搭乗員に押されて、高級参謀鈴木京大佐は重爆一機を用意するよう命じ、菅原軍司令官の部屋に向かった。参謀長川島虎之助少将と会話中であった菅原は、「重爆一機用意いたしました。鈴木もお供します」の申し出に動揺を露わにし、「死ぬばかりが責任を果たすことにならない。それよりも後の始末をするほうが大切だと思う」とこれを退けたという。
長い引用ですみません。wikipedia で「菅原道大」を調べたら、昭和58年(95歳)まで生きた人でした。次男の「父は自決すべきだったが、前途ある若者を道連れにしなかったことがせめてもの救い」というコメントが載っていました。
著者の筆は「多くの若者を死なせたのだからせめて自決せよ」という論調にも聞こえますが、死ねば申し訳が立つわけではありません。いや、そんな決着のつけ方で特攻をごまかしてはいけない。日本の国家が「特攻」という狂信状態に陥った。当時の戦況に流されるまま抵抗しなかった。最後は惰性だけで若者の命を道端に捨てた。
どうして特攻を止められなかったのだ! どうすべきだったのだ! この項おわりにします。
荒む隊員の意識は、士気の低下や規律の乱れとなって表れた。沖縄戦の頃には、基地を飛び立った飛行機から「バカヤロー」の無電が打たれ、あるいは離陸後司令官室めがけて突入の姿勢を示してから飛び去る特攻機もあったと伝えられる。目標海面に達しながら攻撃を行わず、まるで失神したようにふらふらと墜落する特攻機が米側に観察されている。故障と称して途中の離島に不時着する機も増加した(但し、器材や整備の不良から真の故障機も多かった)。特攻機を護ることよりも、その行動監視を目的に掩護機が随伴する場合もあった。引き返してきた特攻隊員が参謀に「卑怯者。命が惜しいか」と罵られ、殴られ、次の出撃ではたとえ敵を発見できずとも自爆し、基地に戻らなかった例も枚挙に尽きない。
隊員の意識変化は、次の川柳にも現れている。 (略) 別れ酒もう一杯と強い奴 / 特攻へ新聞記者の美辞麗句 / 特攻隊神よ神よとおだてられ / 帽を振る手のくたびれた整備員 / ジャズ恋し早く平和が来れば良い
これは特攻隊員となった海軍第十三期飛行予備学生四人(及川肇・盛岡高工、遠藤善雄・米沢高工、福知貴・東京薬専、伊熊二郎・日大)の合作川柳である。彼らは一九四五年四月、南西諸島方面で全員特攻死を遂げた。
☆ 特攻関係者の自決
大西の自刃に先立ち、玉音放送が流れた十五日の午後、陸軍航空本部長寺本熊市中将(元第四航空軍司令官)が本部長室で自決した。同夕には陸軍航空技術審査部総務部長の隈部正美少将(元四航軍参謀長)も自決したが、これは富永四航軍司令官の台湾逃亡に対する補佐責任を取っての自決といわれる。同じく一五日夕、第五航空艦隊司令長官の宇垣纏中将が沖縄に向け私兵特攻を敢行した。宇垣は七〇一航空隊大分派遣隊長中津留大尉(海兵七〇期、隻大尉と同期)に艦爆五機の用意を命じたが、彗星一一機、二二名が彼に従った。夕刻、中津留機に同乗した宇垣は沖縄に向けて大分を離陸。中津留機は沖縄本島伊平屋島の海岸に突入したと思われる。突入直前、機上から打電された訣別の辞には「過去半歳に亘る各隊の奮戦に拘らず驕敵を撃砕し神州護持の大任を果たすこと能はざりしは本職不敏の致すところなり……」とあった。既に終戦となった段階で若い将兵を死の道連れにした行為には、いまも強い批判がある。小沢治三郎連合艦隊司令長官も「自決するなら一人でやれ。若者を道連れにするな」と激怒した。しかし、特攻出撃の度毎に「あとに続く」と叫びながら、敗戦時、実際にそれを実行した海軍の特攻関係幹部が、指揮官、幕僚を合わせても大西と宇垣だけであったことも事実だ。
宇垣特攻出撃の報は第六航空軍にも忽ち伝わった。司令官菅原道大中将は沖縄作戦中、「最後の特攻機で自分も出撃するつもりだ」と日々繰り返し、陸軍特攻機一六七三機を送り出していた。最後の出撃によって死ぬ機会を与えてほしいと訴える搭乗員に押されて、高級参謀鈴木京大佐は重爆一機を用意するよう命じ、菅原軍司令官の部屋に向かった。参謀長川島虎之助少将と会話中であった菅原は、「重爆一機用意いたしました。鈴木もお供します」の申し出に動揺を露わにし、「死ぬばかりが責任を果たすことにならない。それよりも後の始末をするほうが大切だと思う」とこれを退けたという。
長い引用ですみません。wikipedia で「菅原道大」を調べたら、昭和58年(95歳)まで生きた人でした。次男の「父は自決すべきだったが、前途ある若者を道連れにしなかったことがせめてもの救い」というコメントが載っていました。
著者の筆は「多くの若者を死なせたのだからせめて自決せよ」という論調にも聞こえますが、死ねば申し訳が立つわけではありません。いや、そんな決着のつけ方で特攻をごまかしてはいけない。日本の国家が「特攻」という狂信状態に陥った。当時の戦況に流されるまま抵抗しなかった。最後は惰性だけで若者の命を道端に捨てた。
どうして特攻を止められなかったのだ! どうすべきだったのだ! この項おわりにします。