BS1スペシャル・戦慄の記録『インパール』完全版を見ました。
インパール作戦については、その作戦のおろかさ、日本陸軍上層部の無責任体質、が何十冊もの本に書かれており、作戦を主唱した〈牟田口廉也〉だけでなく馬鹿な高級将官はいっぱいいます。ぼくも10冊以上は読みました。
番組を見て、いまさら何を言っても、どうしようもありませんが、保坂正康氏の渾身の著作『昭和陸軍の研究』インパールの項から引用してみます。
私は、これまで昭和陸軍の検証を志して何人もの将兵に会ってきた。いつとはなしに、ニューギニア戦線やガダルカナルに従軍した兵士と、インパール作戦にしたがった将兵には共通の言動があることに気づいた。平成という時代に入っても戦場の怒りを忘れていない。
彼らに共通する言動とは次のような内容である。
第一点は、第十五軍司令官の牟田口廉也中将の名を聞くと言葉をふるわせるのだ。第十五軍の第三十一師団にいた兵士は、私が「一兵士として牟田口をどう思っているか」と尋ねたときに、それまでの温厚な口ぶりは一変して、「あの男は許せない。戦後も刺しちがえたいと思っていた」と激高した。その変りようがあまりにも大きいので、私のほうが恐怖感を味わったほどだった。
私は断言するが、インパール作戦の生存兵士は、「牟田口廉也」という名を聞いただけで人格が一変する。それほど憎しみをもっている。「無謀な作戦」「補給なき闘い」「一高級軍人の私欲からの作戦」といった歴史的な評価を憤っているのではない。白骨街道(退却する何万もの兵士が飢えで道端に倒れて死んだ。雨季のジャングルではすぐに白骨になり、いつしかそう呼ばれるようになった)を退却する兵士、あるいは飢餓に倒れていく兵士たち、彼らは新しく投入されてきた後続部隊の兵士たちから「牟田口司令官は明妙(メイミョウ=戦場後方の地名)の司令部で栄華をきわめた生活をしている」と聞かされ、 …… われわれがこれほど苦労しているのに、なんということか、という怒りは消えていない。
第二点は、第十五軍の三個師団の師団長だった柳田元三、山内正文、佐藤幸徳の三人の中将や歩兵団長の宮崎繁三郎など各師団の連隊長などの評判がいいことだ。三人の師団長は、それぞれの立場で牟田口の作戦計画に反対し、作戦が始まってから罷免されたのは、兵士のことを思ってのことで、彼らは自らの軍歴が汚れることなど意に介さなかったと讃えるのである。第三点は、自らの戦争体験を語るときに数珠をもっている者が多い。それも手を丸めるようにしていて、相手には見えないように心配りをしているのである。第四点は、具体的に戦場での体験を語るときに五分も話しつづけると、だいたいが嗚咽する。あるいは、目に涙を溜めている元兵士がほとんどだった。
指揮官のなかには、第六十連隊の連隊長・松村弘のように戦後いっさいの職にづかず、千鳥ヶ淵の無名戦士の墓標を守りつづけた者もいる。あらゆる報酬を受けず、世におもねることなく、ひたすら兵士たちの供養にその後の半生を捧げ、指揮官の戦友会にはでないで、兵士たちの戦友会に出席し、「連隊長」と呼ばれると、「そのいい方はやめてほしい。もう『さん』づけのつきあいです」と制するのが常だった。
インパール作戦については、その作戦のおろかさ、日本陸軍上層部の無責任体質、が何十冊もの本に書かれており、作戦を主唱した〈牟田口廉也〉だけでなく馬鹿な高級将官はいっぱいいます。ぼくも10冊以上は読みました。
番組を見て、いまさら何を言っても、どうしようもありませんが、保坂正康氏の渾身の著作『昭和陸軍の研究』インパールの項から引用してみます。
私は、これまで昭和陸軍の検証を志して何人もの将兵に会ってきた。いつとはなしに、ニューギニア戦線やガダルカナルに従軍した兵士と、インパール作戦にしたがった将兵には共通の言動があることに気づいた。平成という時代に入っても戦場の怒りを忘れていない。
彼らに共通する言動とは次のような内容である。
第一点は、第十五軍司令官の牟田口廉也中将の名を聞くと言葉をふるわせるのだ。第十五軍の第三十一師団にいた兵士は、私が「一兵士として牟田口をどう思っているか」と尋ねたときに、それまでの温厚な口ぶりは一変して、「あの男は許せない。戦後も刺しちがえたいと思っていた」と激高した。その変りようがあまりにも大きいので、私のほうが恐怖感を味わったほどだった。
私は断言するが、インパール作戦の生存兵士は、「牟田口廉也」という名を聞いただけで人格が一変する。それほど憎しみをもっている。「無謀な作戦」「補給なき闘い」「一高級軍人の私欲からの作戦」といった歴史的な評価を憤っているのではない。白骨街道(退却する何万もの兵士が飢えで道端に倒れて死んだ。雨季のジャングルではすぐに白骨になり、いつしかそう呼ばれるようになった)を退却する兵士、あるいは飢餓に倒れていく兵士たち、彼らは新しく投入されてきた後続部隊の兵士たちから「牟田口司令官は明妙(メイミョウ=戦場後方の地名)の司令部で栄華をきわめた生活をしている」と聞かされ、 …… われわれがこれほど苦労しているのに、なんということか、という怒りは消えていない。
第二点は、第十五軍の三個師団の師団長だった柳田元三、山内正文、佐藤幸徳の三人の中将や歩兵団長の宮崎繁三郎など各師団の連隊長などの評判がいいことだ。三人の師団長は、それぞれの立場で牟田口の作戦計画に反対し、作戦が始まってから罷免されたのは、兵士のことを思ってのことで、彼らは自らの軍歴が汚れることなど意に介さなかったと讃えるのである。第三点は、自らの戦争体験を語るときに数珠をもっている者が多い。それも手を丸めるようにしていて、相手には見えないように心配りをしているのである。第四点は、具体的に戦場での体験を語るときに五分も話しつづけると、だいたいが嗚咽する。あるいは、目に涙を溜めている元兵士がほとんどだった。
指揮官のなかには、第六十連隊の連隊長・松村弘のように戦後いっさいの職にづかず、千鳥ヶ淵の無名戦士の墓標を守りつづけた者もいる。あらゆる報酬を受けず、世におもねることなく、ひたすら兵士たちの供養にその後の半生を捧げ、指揮官の戦友会にはでないで、兵士たちの戦友会に出席し、「連隊長」と呼ばれると、「そのいい方はやめてほしい。もう『さん』づけのつきあいです」と制するのが常だった。