歌人、穂村弘さんを知ったのはもう20年近く前になります。
その時、第一歌集『シンジケート(SYNDICATE)』を読みました。
普段、短歌、俳句などは全く読まないのですが、
「現代短歌」(といっていいのでしょうか?)とは面白いなあと感じました。
★子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」
★ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は
★桟橋で愛し合ってもかまわないがんこな汚れにザブがあるから
当時、とても心に染みました(今読んでもそうです)。
こんなのも好きです。
★「猫投げるくらいがなによ本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ」
★「酔ってるの?わたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
★サバンナの像のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
(穂村弘『シンジケート(SYNDICATE)』沖積舎)
その後も歌集を数冊読みましたが、最近はご無沙汰しておりました。
本屋で待ち合わせをしている時にこの『世界音痴』が目に留まり、
思わず買ってしまいました。
「自分が見ているのとは違う世界」を見せてくれる作品が好きだと常々書いておりますが、
"詩の世界"、詩人(歌人や俳人も含む)が見ている世界というのは、
そういうこととは少し違うかな、と感じていました。
確かに、自分と同じ世界に住んでいても、見ているところが違う、目の付け所が違う、
とは感じますが、それよりも「言葉の選び方」の方が重要なのかな、と・・・。
穂村弘さんの『世界音痴』を読んでいると、それともちょっと異なります。
この方は、私たちが住んでいる"この世界"に違和感を感じています。
穂村さんは「自然さ」を持てない・・・といってます。
例えば、寿司屋で注文する時、板前さんに「自然に」声をかけるのが、
飲み会では、両隣の人とのバランスを気にしすぎて「自然に」話をするのが、
場が盛り上がってきて、ほかの席に「自然に」移動するのが・・・。
決して"非社交的"な方ではない、人と接したり話をしたりするのが
嫌いな人ではないと思われますが、「自然に」することが苦手だ、と。
この感覚は何となくわかる気がします(穂村さんほど極端ではありませんが)。
「自然さ」を奪われたものは世界の中に入れない。
同じ世界に住み同じ世界を見ていながら、その世界に入れていない。
その違和感、"入れなさ"を作品にしているのだな、と感じます。
例えば穂村さんは、毎年半袖に着替えるのが人より一日だけ遅れる、と言います。
他の人達が半袖に着替えたのを発見してから自分も半袖を着るからだと。
私もこの季節、出勤の際にいつまでコートを着るかに悩みます。
もちろん、朝のニュースでその日の天気や気温を確認したり、
自分自身の気温に対する感覚(暑がり、寒がりなど)を頼りにするわけですが、
それとは別に、「コートを着ている人が少なくなったなあ」といった"反応"も気にします。
私だけではなく他の人もおそらく同じでしょう。
でも私(や他の人)はそれを「自然に」行えています。「不自然」だと感じたことはありません。
だから私は、世界の中に入れています。
「音痴」という言葉を辞書で引くと、
・音程や調子が外れて歌を正確にうたえないこと
・あることに関して感覚が鈍いこと
などの説明があります。
後者の例として「方向音痴」「運動音痴」「味音痴」などがあります。
「自然さ」を奪われたものは世界の中に入れない。
世界の中に入れない、上手に"世界"が出来ない・・・それを称して『世界音痴』という・・・。
この、言葉の選び方に感動します。
その時、第一歌集『シンジケート(SYNDICATE)』を読みました。
普段、短歌、俳句などは全く読まないのですが、
「現代短歌」(といっていいのでしょうか?)とは面白いなあと感じました。
★子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」
★ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は
★桟橋で愛し合ってもかまわないがんこな汚れにザブがあるから
当時、とても心に染みました(今読んでもそうです)。
こんなのも好きです。
★「猫投げるくらいがなによ本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ」
★「酔ってるの?わたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
★サバンナの像のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
(穂村弘『シンジケート(SYNDICATE)』沖積舎)
その後も歌集を数冊読みましたが、最近はご無沙汰しておりました。
本屋で待ち合わせをしている時にこの『世界音痴』が目に留まり、
思わず買ってしまいました。
「自分が見ているのとは違う世界」を見せてくれる作品が好きだと常々書いておりますが、
"詩の世界"、詩人(歌人や俳人も含む)が見ている世界というのは、
そういうこととは少し違うかな、と感じていました。
確かに、自分と同じ世界に住んでいても、見ているところが違う、目の付け所が違う、
とは感じますが、それよりも「言葉の選び方」の方が重要なのかな、と・・・。
穂村弘さんの『世界音痴』を読んでいると、それともちょっと異なります。
この方は、私たちが住んでいる"この世界"に違和感を感じています。
穂村さんは「自然さ」を持てない・・・といってます。
例えば、寿司屋で注文する時、板前さんに「自然に」声をかけるのが、
飲み会では、両隣の人とのバランスを気にしすぎて「自然に」話をするのが、
場が盛り上がってきて、ほかの席に「自然に」移動するのが・・・。
決して"非社交的"な方ではない、人と接したり話をしたりするのが
嫌いな人ではないと思われますが、「自然に」することが苦手だ、と。
この感覚は何となくわかる気がします(穂村さんほど極端ではありませんが)。
「自然さ」を奪われたものは世界の中に入れない。
同じ世界に住み同じ世界を見ていながら、その世界に入れていない。
その違和感、"入れなさ"を作品にしているのだな、と感じます。
例えば穂村さんは、毎年半袖に着替えるのが人より一日だけ遅れる、と言います。
他の人達が半袖に着替えたのを発見してから自分も半袖を着るからだと。
私もこの季節、出勤の際にいつまでコートを着るかに悩みます。
もちろん、朝のニュースでその日の天気や気温を確認したり、
自分自身の気温に対する感覚(暑がり、寒がりなど)を頼りにするわけですが、
それとは別に、「コートを着ている人が少なくなったなあ」といった"反応"も気にします。
私だけではなく他の人もおそらく同じでしょう。
でも私(や他の人)はそれを「自然に」行えています。「不自然」だと感じたことはありません。
だから私は、世界の中に入れています。
「音痴」という言葉を辞書で引くと、
・音程や調子が外れて歌を正確にうたえないこと
・あることに関して感覚が鈍いこと
などの説明があります。
後者の例として「方向音痴」「運動音痴」「味音痴」などがあります。
「自然さ」を奪われたものは世界の中に入れない。
世界の中に入れない、上手に"世界"が出来ない・・・それを称して『世界音痴』という・・・。
この、言葉の選び方に感動します。