さて、蘇我氏の出自の議論になった時に必ず出てくる説がもう一つある。それは蘇我氏が朝鮮半島由来の氏族であるとする門脇禎二が唱える説である。14世紀後半に成立した諸氏族の系図をまとめた「尊卑文脉」などをもとに蘇我氏の直系をたどると以下となる。
満智→韓子→高麗→稲目→馬子→蝦夷→入鹿
この説は「満智」を百済紀に登場する百済の高官「木満致(もくまんち)」と同一人物とすることに根拠を求める。二代目、三代目の「韓子」「高麗」ともに朝鮮半島を思わせる名前であることもそれを表しているという。今となっては否定的に語られることが多い考えであるが、天皇の祖先が中国からやってきたと考える私には必ずしも的外れなことを言っているようには思えない。
先に書いたように、蘇我氏本貫地は大和国曽我であったと考えているが、神武天皇や崇神天皇がそうであったように、蘇我氏も他の地から大和にやってきて曽我に拠点を置くようになったのではないだろうか。門脇氏の説はそのことを示唆していると言える。しかし、当時、百済との間に外交関係があって両国間で要人の往来があったことは葛城襲津彦の活躍などからも理解できるところであるが、朝鮮半島から大和にやって来た人物がすでに権力構造が出来上がっている日本の国でわずかの間に大きな権力を手にすることは可能なのであろうか。そうでないとすると蘇我氏はどこからやってきたのだろうか。歴史作家の関裕二氏は蘇我氏と出雲のつながりを指摘する。関氏の論拠に私の考えも加えて蘇我氏と出雲のつながりを見ると次のようになる。
①入鹿神社の祭神
奈良県橿原市曽我町のすぐ近くの小網町に入鹿神社という神社がある。この神社には不思議なことに蘇我入鹿と素戔嗚尊が同時に祀られている。この二柱の神がなぜ同じ神社に祀られているのか、小網町文化財保存会が運営する公式サイトをみてもその理由はわからない。社伝によると「乙巳の変で中大兄皇子に斬られた入鹿の首が飛んできたのを祀った」となっているが事実ではあるまい。
同サイトでは「明治時代に皇国史観に基づいて逆心である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、祭神をスサノオに、社名を地名からとった『小網神社』に改めるように政府から言われたが、地元住民がそれを拒んだ」とあり、この町では入鹿は崇敬を集めているという。蘇我氏の本貫地と考えられる曽我町の近くに蘇我氏本宗家の入鹿を祀る神社があり、昔から住民に親しまれていることにあまり違和感はないが、同時に素戔嗚尊を祀る理由がわからない。境内には廃寺となった真言宗のお寺の本堂である正蓮寺大日堂があり本尊として大日如来が祀られている。入鹿神社は元はそのお寺の鎮守社であったと伝えられているが、お寺に祀られているのが大日如来であれば神社に祀られているのが天照大神というなら理解できるが、それが素戔嗚尊というのは何とも理解しがたい。全国で蘇我入鹿を祀る神社はここだけで、その入鹿神社に素戔嗚尊が祀られていることは蘇我氏と素戔嗚尊の間に何らかの関係があると考えざるを得ないのではないか。
②出雲大社摂社の「素鵞社」
出雲大社本殿の真裏に素鵞社(そがのやしろ)という摂社がある。パワースポットとして有名で、また肩こりにも効くらしく、摂社ではあるが参拝者が絶えないようである。この素鵞社の祭神は素戔鳴尊である。出雲の地で「そが(素鵞)」と素戔鳴尊がつながっているのである。「素鵞」はおそらく最初は「すが」と読んでいたのだろうが、いつしか「そが」に変化したと考えられる。それを想定させるのが次の③④である。
③素戔嗚尊の最初の宮
書紀によると、素戔鳴尊が八岐大蛇を退治した後、奇稲田姫と結婚するのに良い場所を求めて出雲の「清地」というところにたどり着いた。素戔鳴尊が「私の心は清々しい」と言ったのでこの地を「清地」と呼ぶようになったという。「清地」の読み方について書紀の原文には「清地此云素鵝」と書かれており「素鵝」は「すが」と読むことがわかる。「鵝」と「鵞」は「嶋」と「嶌」の関係と同様で、つまり同じ漢字である。ということは「素鵞」も「素鵝」も同じことを表していることになるので先の素鵞社はもともとは「すがのやしろ」であったと考えられる。いずれにしても、「素鵝(すが)=素鵞(そが)」で、それは出雲で素戔鳴尊とつながっている。
この清地の場所は、四隅突出型墳丘墓のところで触れたように、江の川を遡った広島県安芸高田市の清神社か、あるいは島根県雲南市の須我神社であろうか。後者は素戔鳴尊が八岐大蛇退治後に初めて設けた宮であることに因んで「日本初之宮」と呼ばれていることもあり、一般的にはこちらの可能性が高いと考えられている。
④素戔鳴尊の子
書紀の一書によると、素戔嗚尊と奇稲田姫の間にできた子の名が「清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠(すがのゆやまぬしみなさるひこやしましの)」という。ここでも「清(すが)」と素戔鳴尊がつながる。前述の須我神社に祀られる祭神は素戔鳴尊、奇稲田姫ともう一柱、それが子の清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠である。但馬国一之宮の粟鹿神社に伝わる古文書「粟鹿大明神元記」には、素戔嗚尊の子として「蘇我能由夜麻奴斯禰那佐牟留比古夜斯麻斯奴」の名が見られるという。ここにははっきりと「清」を「蘇我」と書いている。やはり「すが」は「そが」であり、「そが」は出雲で素戔鳴尊とつながっている。
⑤石舞台古墳
石舞台古墳は奈良県高市郡明日香村にある古墳時代後期の方墳で蘇我馬子の墓といわれている。封土がすべて剥がされて石室が露出している為にもとの墳形は正確にはわからないが、基壇部が1辺51mの方形であることから、上部の形はともかくとして方墳と考えて問題ない。この方墳は出雲において顕著に見られる墳形である。弥生時代に多く築かれた四隅突出墳丘墓の流れを汲んでいると考えられるが、前方後円墳が主流となった古墳時代においても出雲では独自の墓制を続けたと言えよう。蘇我氏はその出雲独自の墓制を明日香に持ち込んだと考えられる。
蘇我稲目の娘である堅塩媛は第29代欽明天皇の妃となり、第31代用明天皇と第33代推古天皇を生んだ。また同じく稲目の娘である小姉君も欽明の妃として第32代崇峻天皇を生んでいる。この3人の天皇の陵はそれぞれ春日向山古墳、山田高塚古墳、赤坂天王山古墳と呼ばれ、いずれもが方墳である。第10代崇神天皇以降、第30代の敏達天皇まではほぼ全ての天皇陵が前方後円墳であったのだが、蘇我氏系の天皇だけが出雲独自の墓制と言っても過言ではない方墳となっている。出雲と関わりのある蘇我氏の影響と考えてよい。
①から⑤で見たように、蘇我氏は素戔嗚尊の後裔として出雲から大和の曽我にやってきた可能性が高いと言えよう。そして葛城氏の活躍を目の当たりにして、交通の一大要衝である葛城の地を押さえれば大きな影響力を持てることをよく理解していた蘇我氏は、葛城氏の没落後に何とかしてこの地を手に入れようと様々な策を施したのだ。稲目は葛城に通い、おそらく葛城氏に属する女を娶って子を設けた。その子である馬子は葛城に出自を持つことを理由に推古天皇に葛城県割譲を迫った。さらに馬子の子、蝦夷は祖廟を葛城の高宮に立てて天皇だけに許されたと言われる舞を舞った。それだけでなく、今木の地(葛城の東、現在の吉野郡大淀町今木)に蝦夷自身と子である入鹿の墓を生前に築造した。このように蝦夷・入鹿の時にはすでに飛鳥において絶大な権力を得ていたが、葛城へのこだわりは続いていたようだ。
そして蘇我氏は葛城との関係を作為するためにさらなる策を施した。それが「葛城の神々を出雲由来の神々に仕立てること」であった。つまり葛城を自らの出身地である出雲の神々が宿る土地に仕立てようとしたのだ。葛城には鴨三社があり、高鴨神社には味耜高彦根命(迦毛大御神)、鴨都波神社には積羽八重事代主命(事代主神)、葛木御歳神社には御歳神がそれぞれに祀られていて、これら葛城の神々は鴨氏や葛城氏の祖先神であることはすでに書いたとおりである。しかし、記紀や出雲国風土記などではいずれもが出雲の神として描かれている。それによって、これらの神々は出雲から葛城に遷されたと考えられており、そのことが出雲から大和に移った集団があることの根拠にもされている。これはまさに蘇我氏の術中にはまっていると言えよう。新任の出雲国造が天皇に対して奏上する出雲国造神賀詞にも「大穴持命(大国主命)が自分の子である阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の社に鎮座せしめ、事代主命の御魂を宇奈提(うなで)に坐させ、、、」と書かれており、現存する史料からは「出雲の神が大和に遷った」との理解になるのはやむを得ないことであるが、私は逆の考え方をしている。前述のように蘇我氏はもともと葛城で祀られていた神々が出雲から遷ってきたように装った。それは葛城の神々がより古い時代に出雲に存在したことを示すことで可能になる。そのためにはそういう伝承を作り出して喧伝すればいいのだ。蘇我氏はそのことを天皇記・国記でやってのけたのではないか。天皇記・国記は蘇我馬子が編纂責任者である。いずれも現存しないので確認のしようがないが、藤原氏が自分達に都合よく日本書紀を編纂したのと同様に、天皇記・国記は蘇我氏が蘇我氏に都合のいい内容に仕立てることができた。出雲神話の中に阿遅須伎高孫根命や事代主命を登場させ、素戔嗚尊や大国主神の系譜に組み込んだのだ。そしてその写本を作成して天皇のみならず、出雲や大和の氏族にも読ませてプロモーション活動をしたことだろう。その結果、記紀も出雲国風土記も、そして出雲国造神賀詞もそれを常識として描くようになった。記紀や風土記の編者はまんまと蘇我氏の罠にはまってしまったのだ。
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満智→韓子→高麗→稲目→馬子→蝦夷→入鹿
この説は「満智」を百済紀に登場する百済の高官「木満致(もくまんち)」と同一人物とすることに根拠を求める。二代目、三代目の「韓子」「高麗」ともに朝鮮半島を思わせる名前であることもそれを表しているという。今となっては否定的に語られることが多い考えであるが、天皇の祖先が中国からやってきたと考える私には必ずしも的外れなことを言っているようには思えない。
先に書いたように、蘇我氏本貫地は大和国曽我であったと考えているが、神武天皇や崇神天皇がそうであったように、蘇我氏も他の地から大和にやってきて曽我に拠点を置くようになったのではないだろうか。門脇氏の説はそのことを示唆していると言える。しかし、当時、百済との間に外交関係があって両国間で要人の往来があったことは葛城襲津彦の活躍などからも理解できるところであるが、朝鮮半島から大和にやって来た人物がすでに権力構造が出来上がっている日本の国でわずかの間に大きな権力を手にすることは可能なのであろうか。そうでないとすると蘇我氏はどこからやってきたのだろうか。歴史作家の関裕二氏は蘇我氏と出雲のつながりを指摘する。関氏の論拠に私の考えも加えて蘇我氏と出雲のつながりを見ると次のようになる。
①入鹿神社の祭神
奈良県橿原市曽我町のすぐ近くの小網町に入鹿神社という神社がある。この神社には不思議なことに蘇我入鹿と素戔嗚尊が同時に祀られている。この二柱の神がなぜ同じ神社に祀られているのか、小網町文化財保存会が運営する公式サイトをみてもその理由はわからない。社伝によると「乙巳の変で中大兄皇子に斬られた入鹿の首が飛んできたのを祀った」となっているが事実ではあるまい。
同サイトでは「明治時代に皇国史観に基づいて逆心である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、祭神をスサノオに、社名を地名からとった『小網神社』に改めるように政府から言われたが、地元住民がそれを拒んだ」とあり、この町では入鹿は崇敬を集めているという。蘇我氏の本貫地と考えられる曽我町の近くに蘇我氏本宗家の入鹿を祀る神社があり、昔から住民に親しまれていることにあまり違和感はないが、同時に素戔嗚尊を祀る理由がわからない。境内には廃寺となった真言宗のお寺の本堂である正蓮寺大日堂があり本尊として大日如来が祀られている。入鹿神社は元はそのお寺の鎮守社であったと伝えられているが、お寺に祀られているのが大日如来であれば神社に祀られているのが天照大神というなら理解できるが、それが素戔嗚尊というのは何とも理解しがたい。全国で蘇我入鹿を祀る神社はここだけで、その入鹿神社に素戔嗚尊が祀られていることは蘇我氏と素戔嗚尊の間に何らかの関係があると考えざるを得ないのではないか。
②出雲大社摂社の「素鵞社」
出雲大社本殿の真裏に素鵞社(そがのやしろ)という摂社がある。パワースポットとして有名で、また肩こりにも効くらしく、摂社ではあるが参拝者が絶えないようである。この素鵞社の祭神は素戔鳴尊である。出雲の地で「そが(素鵞)」と素戔鳴尊がつながっているのである。「素鵞」はおそらく最初は「すが」と読んでいたのだろうが、いつしか「そが」に変化したと考えられる。それを想定させるのが次の③④である。
③素戔嗚尊の最初の宮
書紀によると、素戔鳴尊が八岐大蛇を退治した後、奇稲田姫と結婚するのに良い場所を求めて出雲の「清地」というところにたどり着いた。素戔鳴尊が「私の心は清々しい」と言ったのでこの地を「清地」と呼ぶようになったという。「清地」の読み方について書紀の原文には「清地此云素鵝」と書かれており「素鵝」は「すが」と読むことがわかる。「鵝」と「鵞」は「嶋」と「嶌」の関係と同様で、つまり同じ漢字である。ということは「素鵞」も「素鵝」も同じことを表していることになるので先の素鵞社はもともとは「すがのやしろ」であったと考えられる。いずれにしても、「素鵝(すが)=素鵞(そが)」で、それは出雲で素戔鳴尊とつながっている。
この清地の場所は、四隅突出型墳丘墓のところで触れたように、江の川を遡った広島県安芸高田市の清神社か、あるいは島根県雲南市の須我神社であろうか。後者は素戔鳴尊が八岐大蛇退治後に初めて設けた宮であることに因んで「日本初之宮」と呼ばれていることもあり、一般的にはこちらの可能性が高いと考えられている。
④素戔鳴尊の子
書紀の一書によると、素戔嗚尊と奇稲田姫の間にできた子の名が「清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠(すがのゆやまぬしみなさるひこやしましの)」という。ここでも「清(すが)」と素戔鳴尊がつながる。前述の須我神社に祀られる祭神は素戔鳴尊、奇稲田姫ともう一柱、それが子の清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠である。但馬国一之宮の粟鹿神社に伝わる古文書「粟鹿大明神元記」には、素戔嗚尊の子として「蘇我能由夜麻奴斯禰那佐牟留比古夜斯麻斯奴」の名が見られるという。ここにははっきりと「清」を「蘇我」と書いている。やはり「すが」は「そが」であり、「そが」は出雲で素戔鳴尊とつながっている。
⑤石舞台古墳
石舞台古墳は奈良県高市郡明日香村にある古墳時代後期の方墳で蘇我馬子の墓といわれている。封土がすべて剥がされて石室が露出している為にもとの墳形は正確にはわからないが、基壇部が1辺51mの方形であることから、上部の形はともかくとして方墳と考えて問題ない。この方墳は出雲において顕著に見られる墳形である。弥生時代に多く築かれた四隅突出墳丘墓の流れを汲んでいると考えられるが、前方後円墳が主流となった古墳時代においても出雲では独自の墓制を続けたと言えよう。蘇我氏はその出雲独自の墓制を明日香に持ち込んだと考えられる。
蘇我稲目の娘である堅塩媛は第29代欽明天皇の妃となり、第31代用明天皇と第33代推古天皇を生んだ。また同じく稲目の娘である小姉君も欽明の妃として第32代崇峻天皇を生んでいる。この3人の天皇の陵はそれぞれ春日向山古墳、山田高塚古墳、赤坂天王山古墳と呼ばれ、いずれもが方墳である。第10代崇神天皇以降、第30代の敏達天皇まではほぼ全ての天皇陵が前方後円墳であったのだが、蘇我氏系の天皇だけが出雲独自の墓制と言っても過言ではない方墳となっている。出雲と関わりのある蘇我氏の影響と考えてよい。
①から⑤で見たように、蘇我氏は素戔嗚尊の後裔として出雲から大和の曽我にやってきた可能性が高いと言えよう。そして葛城氏の活躍を目の当たりにして、交通の一大要衝である葛城の地を押さえれば大きな影響力を持てることをよく理解していた蘇我氏は、葛城氏の没落後に何とかしてこの地を手に入れようと様々な策を施したのだ。稲目は葛城に通い、おそらく葛城氏に属する女を娶って子を設けた。その子である馬子は葛城に出自を持つことを理由に推古天皇に葛城県割譲を迫った。さらに馬子の子、蝦夷は祖廟を葛城の高宮に立てて天皇だけに許されたと言われる舞を舞った。それだけでなく、今木の地(葛城の東、現在の吉野郡大淀町今木)に蝦夷自身と子である入鹿の墓を生前に築造した。このように蝦夷・入鹿の時にはすでに飛鳥において絶大な権力を得ていたが、葛城へのこだわりは続いていたようだ。
そして蘇我氏は葛城との関係を作為するためにさらなる策を施した。それが「葛城の神々を出雲由来の神々に仕立てること」であった。つまり葛城を自らの出身地である出雲の神々が宿る土地に仕立てようとしたのだ。葛城には鴨三社があり、高鴨神社には味耜高彦根命(迦毛大御神)、鴨都波神社には積羽八重事代主命(事代主神)、葛木御歳神社には御歳神がそれぞれに祀られていて、これら葛城の神々は鴨氏や葛城氏の祖先神であることはすでに書いたとおりである。しかし、記紀や出雲国風土記などではいずれもが出雲の神として描かれている。それによって、これらの神々は出雲から葛城に遷されたと考えられており、そのことが出雲から大和に移った集団があることの根拠にもされている。これはまさに蘇我氏の術中にはまっていると言えよう。新任の出雲国造が天皇に対して奏上する出雲国造神賀詞にも「大穴持命(大国主命)が自分の子である阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の社に鎮座せしめ、事代主命の御魂を宇奈提(うなで)に坐させ、、、」と書かれており、現存する史料からは「出雲の神が大和に遷った」との理解になるのはやむを得ないことであるが、私は逆の考え方をしている。前述のように蘇我氏はもともと葛城で祀られていた神々が出雲から遷ってきたように装った。それは葛城の神々がより古い時代に出雲に存在したことを示すことで可能になる。そのためにはそういう伝承を作り出して喧伝すればいいのだ。蘇我氏はそのことを天皇記・国記でやってのけたのではないか。天皇記・国記は蘇我馬子が編纂責任者である。いずれも現存しないので確認のしようがないが、藤原氏が自分達に都合よく日本書紀を編纂したのと同様に、天皇記・国記は蘇我氏が蘇我氏に都合のいい内容に仕立てることができた。出雲神話の中に阿遅須伎高孫根命や事代主命を登場させ、素戔嗚尊や大国主神の系譜に組み込んだのだ。そしてその写本を作成して天皇のみならず、出雲や大和の氏族にも読ませてプロモーション活動をしたことだろう。その結果、記紀も出雲国風土記も、そして出雲国造神賀詞もそれを常識として描くようになった。記紀や風土記の編者はまんまと蘇我氏の罠にはまってしまったのだ。
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