古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆蘇我氏の出自

2016年12月06日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 さて、蘇我氏の出自の議論になった時に必ず出てくる説がもう一つある。それは蘇我氏が朝鮮半島由来の氏族であるとする門脇禎二が唱える説である。14世紀後半に成立した諸氏族の系図をまとめた「尊卑文脉」などをもとに蘇我氏の直系をたどると以下となる。

 満智→韓子→高麗→稲目→馬子→蝦夷→入鹿 

 この説は「満智」を百済紀に登場する百済の高官「木満致(もくまんち)」と同一人物とすることに根拠を求める。二代目、三代目の「韓子」「高麗」ともに朝鮮半島を思わせる名前であることもそれを表しているという。今となっては否定的に語られることが多い考えであるが、天皇の祖先が中国からやってきたと考える私には必ずしも的外れなことを言っているようには思えない。
 先に書いたように、蘇我氏本貫地は大和国曽我であったと考えているが、神武天皇や崇神天皇がそうであったように、蘇我氏も他の地から大和にやってきて曽我に拠点を置くようになったのではないだろうか。門脇氏の説はそのことを示唆していると言える。しかし、当時、百済との間に外交関係があって両国間で要人の往来があったことは葛城襲津彦の活躍などからも理解できるところであるが、朝鮮半島から大和にやって来た人物がすでに権力構造が出来上がっている日本の国でわずかの間に大きな権力を手にすることは可能なのであろうか。そうでないとすると蘇我氏はどこからやってきたのだろうか。歴史作家の関裕二氏は蘇我氏と出雲のつながりを指摘する。関氏の論拠に私の考えも加えて蘇我氏と出雲のつながりを見ると次のようになる。 

①入鹿神社の祭神
 奈良県橿原市曽我町のすぐ近くの小網町に入鹿神社という神社がある。この神社には不思議なことに蘇我入鹿と素戔嗚尊が同時に祀られている。この二柱の神がなぜ同じ神社に祀られているのか、小網町文化財保存会が運営する公式サイトをみてもその理由はわからない。社伝によると「乙巳の変で中大兄皇子に斬られた入鹿の首が飛んできたのを祀った」となっているが事実ではあるまい。
 同サイトでは「明治時代に皇国史観に基づいて逆心である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、祭神をスサノオに、社名を地名からとった『小網神社』に改めるように政府から言われたが、地元住民がそれを拒んだ」とあり、この町では入鹿は崇敬を集めているという。蘇我氏の本貫地と考えられる曽我町の近くに蘇我氏本宗家の入鹿を祀る神社があり、昔から住民に親しまれていることにあまり違和感はないが、同時に素戔嗚尊を祀る理由がわからない。境内には廃寺となった真言宗のお寺の本堂である正蓮寺大日堂があり本尊として大日如来が祀られている。入鹿神社は元はそのお寺の鎮守社であったと伝えられているが、お寺に祀られているのが大日如来であれば神社に祀られているのが天照大神というなら理解できるが、それが素戔嗚尊というのは何とも理解しがたい。全国で蘇我入鹿を祀る神社はここだけで、その入鹿神社に素戔嗚尊が祀られていることは蘇我氏と素戔嗚尊の間に何らかの関係があると考えざるを得ないのではないか。

②出雲大社摂社の「素鵞社」
 出雲大社本殿の真裏に素鵞社(そがのやしろ)という摂社がある。パワースポットとして有名で、また肩こりにも効くらしく、摂社ではあるが参拝者が絶えないようである。この素鵞社の祭神は素戔鳴尊である。出雲の地で「そが(素鵞)」と素戔鳴尊がつながっているのである。「素鵞」はおそらく最初は「すが」と読んでいたのだろうが、いつしか「そが」に変化したと考えられる。それを想定させるのが次の③④である。

③素戔嗚尊の最初の宮
 書紀によると、素戔鳴尊が八岐大蛇を退治した後、奇稲田姫と結婚するのに良い場所を求めて出雲の「清地」というところにたどり着いた。素戔鳴尊が「私の心は清々しい」と言ったのでこの地を「清地」と呼ぶようになったという。「清地」の読み方について書紀の原文には「清地此云素鵝」と書かれており「素鵝」は「すが」と読むことがわかる。「鵝」と「鵞」は「嶋」と「嶌」の関係と同様で、つまり同じ漢字である。ということは「素鵞」も「素鵝」も同じことを表していることになるので先の素鵞社はもともとは「すがのやしろ」であったと考えられる。いずれにしても、「素鵝(すが)=素鵞(そが)」で、それは出雲で素戔鳴尊とつながっている。
 この清地の場所は、四隅突出型墳丘墓のところで触れたように、江の川を遡った広島県安芸高田市の清神社か、あるいは島根県雲南市の須我神社であろうか。後者は素戔鳴尊が八岐大蛇退治後に初めて設けた宮であることに因んで「日本初之宮」と呼ばれていることもあり、一般的にはこちらの可能性が高いと考えられている。

④素戔鳴尊の子
 書紀の一書によると、素戔嗚尊と奇稲田姫の間にできた子の名が「清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠(すがのゆやまぬしみなさるひこやしましの)」という。ここでも「清(すが)」と素戔鳴尊がつながる。前述の須我神社に祀られる祭神は素戔鳴尊、奇稲田姫ともう一柱、それが子の清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠である。但馬国一之宮の粟鹿神社に伝わる古文書「粟鹿大明神元記」には、素戔嗚尊の子として「蘇我能由夜麻奴斯禰那佐牟留比古夜斯麻斯奴」の名が見られるという。ここにははっきりと「清」を「蘇我」と書いている。やはり「すが」は「そが」であり、「そが」は出雲で素戔鳴尊とつながっている。

⑤石舞台古墳
 石舞台古墳は奈良県高市郡明日香村にある古墳時代後期の方墳で蘇我馬子の墓といわれている。封土がすべて剥がされて石室が露出している為にもとの墳形は正確にはわからないが、基壇部が1辺51mの方形であることから、上部の形はともかくとして方墳と考えて問題ない。この方墳は出雲において顕著に見られる墳形である。弥生時代に多く築かれた四隅突出墳丘墓の流れを汲んでいると考えられるが、前方後円墳が主流となった古墳時代においても出雲では独自の墓制を続けたと言えよう。蘇我氏はその出雲独自の墓制を明日香に持ち込んだと考えられる。
 蘇我稲目の娘である堅塩媛は第29代欽明天皇の妃となり、第31代用明天皇と第33代推古天皇を生んだ。また同じく稲目の娘である小姉君も欽明の妃として第32代崇峻天皇を生んでいる。この3人の天皇の陵はそれぞれ春日向山古墳、山田高塚古墳、赤坂天王山古墳と呼ばれ、いずれもが方墳である。第10代崇神天皇以降、第30代の敏達天皇まではほぼ全ての天皇陵が前方後円墳であったのだが、蘇我氏系の天皇だけが出雲独自の墓制と言っても過言ではない方墳となっている。出雲と関わりのある蘇我氏の影響と考えてよい。

 ①から⑤で見たように、蘇我氏は素戔嗚尊の後裔として出雲から大和の曽我にやってきた可能性が高いと言えよう。そして葛城氏の活躍を目の当たりにして、交通の一大要衝である葛城の地を押さえれば大きな影響力を持てることをよく理解していた蘇我氏は、葛城氏の没落後に何とかしてこの地を手に入れようと様々な策を施したのだ。稲目は葛城に通い、おそらく葛城氏に属する女を娶って子を設けた。その子である馬子は葛城に出自を持つことを理由に推古天皇に葛城県割譲を迫った。さらに馬子の子、蝦夷は祖廟を葛城の高宮に立てて天皇だけに許されたと言われる舞を舞った。それだけでなく、今木の地(葛城の東、現在の吉野郡大淀町今木)に蝦夷自身と子である入鹿の墓を生前に築造した。このように蝦夷・入鹿の時にはすでに飛鳥において絶大な権力を得ていたが、葛城へのこだわりは続いていたようだ。
 そして蘇我氏は葛城との関係を作為するためにさらなる策を施した。それが「葛城の神々を出雲由来の神々に仕立てること」であった。つまり葛城を自らの出身地である出雲の神々が宿る土地に仕立てようとしたのだ。葛城には鴨三社があり、高鴨神社には味耜高彦根命(迦毛大御神)、鴨都波神社には積羽八重事代主命(事代主神)、葛木御歳神社には御歳神がそれぞれに祀られていて、これら葛城の神々は鴨氏や葛城氏の祖先神であることはすでに書いたとおりである。しかし、記紀や出雲国風土記などではいずれもが出雲の神として描かれている。それによって、これらの神々は出雲から葛城に遷されたと考えられており、そのことが出雲から大和に移った集団があることの根拠にもされている。これはまさに蘇我氏の術中にはまっていると言えよう。新任の出雲国造が天皇に対して奏上する出雲国造神賀詞にも「大穴持命(大国主命)が自分の子である阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の社に鎮座せしめ、事代主命の御魂を宇奈提(うなで)に坐させ、、、」と書かれており、現存する史料からは「出雲の神が大和に遷った」との理解になるのはやむを得ないことであるが、私は逆の考え方をしている。前述のように蘇我氏はもともと葛城で祀られていた神々が出雲から遷ってきたように装った。それは葛城の神々がより古い時代に出雲に存在したことを示すことで可能になる。そのためにはそういう伝承を作り出して喧伝すればいいのだ。蘇我氏はそのことを天皇記・国記でやってのけたのではないか。天皇記・国記は蘇我馬子が編纂責任者である。いずれも現存しないので確認のしようがないが、藤原氏が自分達に都合よく日本書紀を編纂したのと同様に、天皇記・国記は蘇我氏が蘇我氏に都合のいい内容に仕立てることができた。出雲神話の中に阿遅須伎高孫根命や事代主命を登場させ、素戔嗚尊や大国主神の系譜に組み込んだのだ。そしてその写本を作成して天皇のみならず、出雲や大和の氏族にも読ませてプロモーション活動をしたことだろう。その結果、記紀も出雲国風土記も、そして出雲国造神賀詞もそれを常識として描くようになった。記紀や風土記の編者はまんまと蘇我氏の罠にはまってしまったのだ。



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◆蘇我氏の考察

2016年12月05日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 神武東征を論証している途中であるが寄り道をして葛城氏について考えてきた。ここではさらに寄り道をして蘇我氏について考えてみたい。

 書紀によると蘇我馬子は推古天皇に対して「葛城県は元々はわたしが生まれた本拠地なのでその県を姓名(かばねな)にした。その県をわたしが治める県にしたい」と、葛城の地を蘇我氏に割譲するように申し出た。この地は既に見てきたように水運、海運ネットワークの要衝の地であり、葛城氏が繁栄する礎でもあった。推古天皇は蘇我馬子の妹、堅塩媛(きたしひめ)の子であり、天皇にとっては叔父にあたる馬子の依頼であった。それまで天皇は強い権力を手にした叔父の願いを全て聞き入れてきたが、今回だけは聞けないと断ったという。葛城の地がそれほど重要な地域であったことの証である。そしてこのとき馬子は葛城の地が自らの生誕の地であると言っている。馬子が葛城の地名を姓名にしたことについては、平安時代前期の歌人である藤原兼輔が917年に編纂した聖徳太子の伝記である『聖徳太子伝暦』に「蘇我葛木臣」と記されていることもあり、おそらく事実であったのだろう。また、吉村武彦氏がその著「蘇我氏の古代」において「葛城氏の没落後、おそらく稲目の前後に、蘇我氏が葛城の一部地域に政治的勢力を培い始めた」と指摘しているが、葛城氏の没落に合わせて蘇我氏が歴史の表舞台に立ち始めた事実を考え合わせたときにこの指摘は妥当であると言えよう。蘇我稲目が葛城に進出し、葛城の女と結ばれて馬子が生まれた、というのは十分にあり得る話である。
 では、蘇我氏が稲目の頃に葛城に進出したとしたら、それ以前はどこにいたのだろか。蘇我氏の本貫地については一般的に次の3つの考え方がある。

 ①大和国高市郡曽我(奈良県橿原市曽我町)
 ②大和国葛上郡(奈良県御所市)
 ③河内国石川郡(大阪府富田林市及び南河内郡の石川流域)

 ②は先に見た通り、馬子の本居(生まれたところ)があったことには蓋然性があり、その父である稲目が葛城に出入りしていたことは確かであろう。さらに書記には馬子の子である蝦夷が「己が祖廟を葛城の高宮に立てて」という記述もあり、馬子、蝦夷の二代に渡って葛城に関わりがあったことがわかるが、稲目まで含めて考えてもこの三代に限った話であり、蘇我氏の本貫地が葛城にあったことを伺わせる証左が他にないことから②は疑わしいということになろう。
 ③は六国史のひとつである日本三代実録にある石川朝臣木村の言として記された「始祖は大臣武内宿禰の男宗我石川、河内国石川別業に生まれ、故に石川を以て名とす」という記事が根拠とされる。石川朝臣の始祖が宗我石川で、その宗我石川は河内国石川の別業で生まれたのでその居地を氏名にしたということだ。また、古事記にも建内宿禰の子である蘇賀石河宿禰が蘇我臣の始祖であると記されている。蘇我氏は河内の石河(石川)を出自として稲目の時代に葛城に移った可能性は考えられる。
 ①については土地の名を氏族の名に冠するケースが多いことを考えると、蘇我氏は大和の曽我の地を本貫とした可能性は十分に考えられる。古事記において建内宿禰(武内宿禰)の9名の子のうち地名を冠すると考えられるのは波多、許勢、平群、木、久米、葛城に加えて蘇賀があり、この蘇賀を曽我と考えることに異論はない。この曽我の地には宗我坐宗我都比古神社がある。神社由緒によると「式内宗我坐宗我都比古神社は大同元年(八〇六)大和国内に神封三戸を寄せられ(新妙格勅符妙)、天安三年(八五九)一月二七日に従五位下より従五位上に昇叙、同六年六月十六日には正五位下となった(三代実録)。当社の創祀について、「五群神社記」には推古天皇の時に蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀ったとある。」となっており、少なくとも806年には蘇我氏ゆかりの神社として存在したことがわかる。この神社の存在は曽我の地と蘇我氏の縁の深さを感じさせる。

 私は蘇我氏の本貫地は現在の橿原市曽我町、つまり①の説が妥当であると考える。現在の大阪府富田林市の石川周辺や奈良県御所市の葛城を訪ねても蘇我氏を感じさせる痕跡がまったく見られないのだ。私は現在、富田林市に住んでいるが地元民からそのような話を聞いたことがない。詳しい調査をすれば根拠となる史料や伝承が出てくるのかもわからないが、少なくとも地元で生活していてそれを感じたことがない。また、富田林から竹内街道を経由して奈良の葛城へもよく足を運ぶが、葛城氏のゆかりを感じることはあっても蘇我氏のそれを感じたことがなかった。その一方で、古くからゆかりのある神社が存在し、町の名前として現代まで受け継がれている事実を考えると、この曽我町が蘇我氏の本貫地であったと考えるのが自然ではないかと思う。


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◆葛城氏の盛衰

2016年12月04日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 これまで見てきたように葛城氏は、①天皇家と強いつながりを築いたこと、②畿内・瀬戸内海から朝鮮半島への水運・陸運を統率していたこと、③これによる外交を一手に握っていたこと、の3点により5世紀に絶大な勢力を持つに至り、大いに栄えた。それにしてもなぜ天皇家と強いつながりを作ることができたのであろうか。私はこれまで述べてきたことをもとに次のように考えている。神武天皇が東征を果たして大和で即位するまでの苦難の道を支えたのは各地で活躍する隼人系の海洋族たちであった。それが宇佐、安芸、三島、吉備、大伴、紀、尾張、鴨などの一族である。そして大和での即位後、天皇家は葛城の地を拠点にしたことから、この一帯を治める鴨族の貢献は他のどの一族よりも絶大で、第9代の開化天皇まで続く神武王朝は鴨族のお陰で政権を継続できた。葛城氏は4世紀後半頃にその鴨一族から出た氏族であり、紀氏などとの関係を通じて各地の海洋族に対して影響力を持つようになり、5世紀の葛城襲津彦のときに全盛期を迎える。当時の天皇家である応神王朝、とくに安康を除く仁徳から雄略に至る天皇がその葛城氏と協力関係を強化しようとするのは必然であった。その結果、葛城氏から次々と后妃を迎え入れたのだ。その襲津彦の墓が全国18位の規模を誇る葛城最大の前方後円墳である宮山古墳である。竪穴式石室に全体が朱で塗られた長持形石棺が納められ、朝鮮半島からの伝世品と推測される船形陶質土器や高さ1.2メートルの大型家形埴輪などが出土した。また、盗掘にあっているものの刀剣11口、三角縁神獣鏡片・甲冑片・刀剣片、革綴短甲残片などが副葬品として見つかっている。その規模を含めてまさに王の墓と言ってもよさそうである。

 ところが、である。この葛城襲津彦はその活躍とは裏腹に書紀にはヘマばかりしている様子が描かれる。先述した話であるが、神功皇后の時に新羅王の使いが人質を取り返しにきたので襲津彦が新羅へ届けることになっていたが、途中の対馬で使いの者たちに騙されて人質を逃がしてしまった。同じく神功皇后の時、新羅討伐のために派遣されたが、美人に目がくらんで新羅ではなく加羅国を攻撃してしまった。応神天皇の時には百済から来日しようとした弓月君一団が新羅に邪魔されて加羅国に留まっているのを助けるために派遣された襲津彦は3年経っても帰国しなかった。仁徳天皇の時には、無礼を働いた百済王族を襲津彦が連行して帰国したが途中で逃がしてしまった。このように、現地に赴いて外交を一手に引き受けていたものの、さしたる成果もなく、むしろ失敗が強調されている。これはどういうことであろうか。

 葛城襲津彦に始まる葛城氏は雄略天皇のときに眉輪王(まよわおう)の変をきっかけに滅亡したと言われている。したがって一族の記録や系譜が残されていないため、間接的な資料や伝聞をもとに書かれたものと思われるが、それにしてもこの書かれ方は作為を感じざるを得ない。私は記紀の原資料となった天皇記・国記の時点でこの作為が施されていたと考える。もちろん蘇我氏によるものである。葛城氏は現代においても古代最大の豪族と言われている。時代が下るとはいえ蘇我氏も同様に権力を欲しいままにした豪族であった。しかし、そうであるがゆえに自身の権力を誇示するために葛城氏の経歴は蘇我氏にとっては邪魔であった。蘇我氏を越えるヒーローは不要だったのだ。



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◆畿内環状ルート

2016年12月03日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 仁徳天皇の后に葛城襲津彦の娘である磐之媛(いわのひめ)がいる。あるとき天皇は、皇后が紀国の熊野岬に出かけた隙に八田皇女(やたのひめみこ)を娶って宮中に召し入れた。皇后はそれを知って嫉妬し、難波の堀江まで戻っていたが宮(難波高津宮)に帰らなかった。 天皇は自ら難波の大津に出向いて皇后の船を待っていたが皇后は大津に泊まらず、さらに川を遡って山背を巡って大和に向かった。那羅山を越えて葛城を望んで「つぎねふや 山代川を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯倭を過ぎ 我が見が欲しく国は 葛城高宮 我家のあたり(難波の宮を過ぎて山代川を上り、私が登っていくと、奈良を過ぎて小楯と倭を過ぎて私が見たかった葛城の高宮の我家の辺りです)」と歌を詠んだ。皇后は山背に帰って筒城岡(つつきのおか)の南に宮を作って住んだという。 
 この話の内容はさておき、磐之媛が辿ったルートを取り上げると「熊野→難波→山背→那羅山→山背」となる。熊野から難波は神武東征とは逆のルートであり、難波からは淀川、木津川を遡って現在の木津川市あたりで船を降りて徒歩で少し南下すると平城山(ならやま)へ至る。そこで歌を詠んで再び山背へ引き返した。また実際に通過はしていないが、歌の中で奈良から小楯、倭を過ぎると葛城の我が家が見えるとあることから、少し標高の高い「山の辺の道」を歩くことを想定した情景であると思われる。そうすると葛城を起点として「葛城→風の森峠→紀ノ川→紀伊水道→大阪湾→河内湖→難波→淀川→木津川→山城→平城山→奈良→山の辺の道→葛城」という古代の畿内環状ルートが浮かび上がる。しかもこれは葛城出身の磐之媛が実際に通った、あるいは通ることを想定したルートであることから、葛城氏がこの環状ルートを押さえていたと考えることができる。紀ノ川から紀伊水道を経て大阪湾へ至る水路は先に見た葛城から朝鮮半島へのルートと同じで、ここは紀氏が押さえていた。淀川、木津川はどうであったろうか。

 大阪府茨木市、淀川と並行する安威川の近くに溝杭神社がある。主祭神は玉櫛媛命、すなわち事代主神が鰐に化けて通っていた三島溝杭の娘である。また、溝杭神社からすぐ近くの淀川沿いには三島鴨神社があり、大山祇神と事代主神が祀られている。大山祇神はもちろん瀬戸内海大三島の大山積神社に祀られる神である。一説によれば大三島よりもこちらのほうが先に創建されたとも言われている。さらにこの2つの神社から少し北には大山積を祀った鴨神社がある。このようにこの三島地区一帯に鴨氏の存在が認められる。またそれが瀬戸内海の大三島とつながっていることも重要である。
 木津川周辺を見ると、現在でも山城町として山背の地名が残り、また隣接する加茂町には岡田鴨神社があり、鴨氏の祖である鴨建角身命を祀っている。山城国風土記逸文には、鴨建角身命は神武天皇を先導したあと大倭の葛木山に宿り、しばらくのちに山代国の岡田の賀茂に至り、その後に山代川を下って葛野川と賀茂川が合流する所に至った、とある。ここ木津川沿いにも鴨氏がいたのである。以上のように、淀川・木津川ルートは鴨氏が押さえていたことがわかる。葛城氏は紀氏と鴨氏を統率することによって隼人系海洋族とも関係を構築し、瀬戸内海から朝鮮半島へのルートおよび畿内環状ルートの運営を握っていたと考えられる。

 和歌山県有田郡に吉備町と言う町があった。町村合併により現在は有田郡有田川町となっているが、古くは和名類聚抄が記す紀伊国在田郡吉備郷である。この町は吉備国の吉備海部と呼ばれた海人たちが移り住んだのでこの名を持つ。また、少し北の和歌山市から海南市にかけての沿岸地域には明治22年に廃止されるまで海部郡があった。前述の仁徳天皇と八田皇女の話では磐之媛が紀国の熊野岬まで出かけたと記されていた。紀伊半島の西沿岸は吉備一族と関係の深い紀氏の勢力範囲であったからこそ、紀氏を統率する葛城氏の娘である磐之媛は熊野まで遊行することができたのである。時代は遡るが、神武天皇も同様に隼人系海洋族の拠点がこの紀伊半島の各地にあったからこそ熊野への迂回を判断したのではないだろうか。


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◆葛城氏の考察

2016年12月02日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 葛城氏は武内宿禰の後裔とされ、その始祖は葛城襲津彦と言われている。記紀によれば、襲津彦の娘である磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の后となり、履中、反正、允恭の3人の天皇を生み、同じく襲津彦の子の葦田宿禰の娘である黒媛は履中天皇の后となり市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)を生んだ。その市辺押磐皇子の妃で顕宗天皇、仁賢天皇の母であるハエ媛は襲津彦の孫である蟻臣(ありのおみ)の娘とされる。さらに同じく襲津彦の孫である円大臣(つぶらのおおおみ)の娘の韓媛は雄略天皇の后となった。このように仁徳から雄略までの9人の天皇のうち安康を除いた8人の天皇が葛城氏の娘が后妃あるいは母となっていることから、葛城氏は5世紀において天皇家の外戚として絶大な勢力を誇った。
 ただし、書紀には武内宿禰と葛城襲津彦の関係を示す記述はなく、古事記において建内宿禰の子として葛城長江曾都毘古が挙げられているので、これが書紀に見える葛城襲津彦であると考えられている。また書紀では、武内宿禰は、景行天皇が紀伊国に遣わした屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)が紀直の祖先である菟道彦(うじひこ)の娘の影媛を娶って生まれた子となっており、葛城氏と紀氏は武内宿禰を介してつながっていることになる。古事記は建内宿禰の子に木角宿禰(きのつののすくね)を挙げており、これが紀氏を指していると思われる。つまり、葛城氏は紀氏との関係をもとに、奈良盆地から紀ノ川を下って大阪湾、瀬戸内海へ出る水路を押さえていたと考えることができる。
 
 話は少し横道にそれるが、菟道彦は以前にも触れた通り、神武が東征を開始してすぐに一行に加えた珍彦、すなわち椎根津彦のことである。珍彦が一行に加わったのは神武が日向を出て宇佐に到着する直前の豊予海峡においてであり瀬戸内海の西端にあたる。そこから宇佐、そして関門海峡を通過して筑紫、瀬戸内海へ戻って東進、途中で安芸、吉備に寄港、安芸と吉備の間には大三島があり、安芸、吉備、大三島はいずれも瀬戸内海航路を押さえる隼人系海洋民族の拠点であることは先述した。椎根津彦は瀬戸内海を西から東へ、これらの海洋民族とコンタクトをとりながら神武一行を難波まで先導し、さらに南進して紀ノ川河口に至った。このルートを逆に見れば紀ノ川から瀬戸内海へ出て西へ進み、関門海峡を経て玄界灘へ至り、その先は対馬海峡を渡れば朝鮮半島である。椎根津彦の後裔にあたる紀氏は大和から朝鮮半島へ至る海路を押さえていたのだ。このように考えると紀氏も隼人系の海洋族であったと言えよう。実は古事記では神武が亀の背に乗る槁根津日子(椎根津彦)に出会って一行に加えたのは吉備を出た後となっている。神武が椎根津彦を一行に加えた場所が記紀で違っているのは、一方が正解で他方が間違いということではなく、椎根津彦は吉備とも関係が深い一族であった可能性を示唆している。

 葛城氏は襲津彦のときに隆盛を極める。神功皇后の時、新羅王の3人の使いが人質を取り返しにきた。皇后は3人の遣使と人質を新羅に戻すために襲津彦を派遣し、襲津彦は必ずしも役目を全うできなかったものの、新羅から漢人の祖を連れて帰国した。皇后はその後も新羅討伐に襲津彦を派遣している。また、応神天皇の時には秦氏の祖である弓月君が百済からやってきて、人民を来日させようとしているのに新羅が邪魔をして加羅国に留まっていると訴えたのに対して襲津彦が加羅国に派遣されている。仁徳天皇の時には、紀角宿禰(木角宿禰)を百済に遣わしたときに百済王族が無礼を働いたので襲津彦が連行して帰国した。これらの記事から襲津彦は朝鮮半島との外交を担っていたと考えられているが、それも前述の海路を紀氏とともに押さえていたことが大きな理由であろう。天皇家による朝鮮半島経営は葛城氏の力を借りなければ成り立たなかったのだ。


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◆事代主神

2016年12月01日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 事代主の「コトシロ」は「言知る」の意で、事代主神は託宣を司る神のことである。古代においては「言(言葉)」と「事(出来事)」の区別がないため「言」とも「事」とも書く。書紀において事代主神が登場する場面を確認してみる。

 まず第1に、有名な国譲りの場面に登場し、高皇産霊尊の命を受けた経津主神と武甕槌神から国譲りを迫られた大己貴神(大国主神)は自分の子である事代主神に相談してから回答することにした、とある。結果は国を譲るのがよいと答えたあと、海の中に姿を消してしまった。
 次に、朝鮮半島討伐を促した神託に逆らって熊襲を討とうとした仲哀天皇が崩御したときに、神功皇后が自ら神主となって仲哀天皇をそそのかした神の名を知ろうとした場面で、そのなかの一人に天事代於虚事代玉籤入彦嚴之事代主神(あめにことしろしらにことしろたまくしいりびこのいつのことしるのかみ)がいることを告げられる。長い名がついているが要するに事代主神のことである。
 第3に、神功皇后が朝鮮半島遠征を終えた後、筑紫で生まれたばかりの誉田別皇子(応神天皇)を連れて大和に凱旋すべく瀬戸内海を東進したとき、船が前に進まなくなったために占いを試みたところ、天照大神、稚日女尊(わかひるめのみこと)のお告げに続いて事代主尊が「吾をば御心の長田国に祀れ」と告げたため、葉山媛の弟である長媛に祀らせた、とある。
 第4に、壬申の乱の場面で、金綱井(かなづなのい)が軍を起こした時、高市郡大領の高市県主許梅(こめ)は突然、口を閉じて何も言えなくなり、その三日後に神掛かって「吾は高市社に居る、名は事代主神だ。神日本磐余彦天皇の陵に馬と種々の兵器を奉れ。」と言ったという。

 いずれの場面においても事代主神が託宣を司る神であることを伺い知ることができる。政治と祀りが限りなく近い古代において、神のお告げを利用しながら政治を行うことは日常的に行われた。言い換えると、政務者は自身の考えを神に語らせることでその政策を正当化していた。そのように考えると託宣を行なう人は時の政権の中枢に極めて近い存在であったはずである。現代の日本に当てはめると、首相をサポートする側近中の側近であり、政府のスポークスマンでもある官房長官のような存在であろうか。

 鴨都波神社に祀られているのは鴨一族の祖先であり、代々の鴨一族の首長であった。鴨の首長家は4世紀後半に葛城氏となり、政権中枢で天皇の側近中の側近として権勢を誇るに至り、その祖先神が事代主神として祀られるようになったと考える。

 奈良県御所市森脇に葛城一言主神社がある。主祭神は葛城之一言主大神であるが、書紀では「一事主」、古事記では「一言主」と表記され、「言」と「事」の区別がないことがここでもわかる。一言主神(ひとことぬしのかみ)は事代主神と同一であるとされ、記紀において雄略紀に現われる。書紀では、雄略天皇が葛城山中で狩をしていたときに、同じ姿をした人が現われたので名を問いかけたところ、「自分は現人神であるので後で名乗ろう」と答えた。天皇が名乗ったところ「自分は一事主神である」と名乗り、二人は一緒に狩を楽しんだという。天皇と同じ姿をして対等に言葉を交わし、狩を共にする葛城に住む一事主神こそ葛城氏を表していると考えられる。つまり、一事主神=事代主神=葛城氏、ということになる。書紀には先の4つのほかにも次の場面で事代主神が登場する。

 5番目の場面では、大己貴神が国作りを終えたあと、自らの幸魂奇魂を三諸山(三輪山)に祀った話の別伝として、事代主神は八尋熊鰐(やひろのくまわに)となって三嶋の溝クイ姫、別名を玉櫛姫(たまくしひめ)という姫のところに通って出来た子が姫蹈鞴五十鈴姫命であり、この姫は神日本磐余彦(神武天皇)の后となった、とある。
 6番目は、神武即位後に前述の内容を裏付ける記述として、天皇は皇后を迎えようと思って相応しい人物を広く求めたところ、ある人が「事代主神が三嶋溝クイ耳神の娘の玉櫛媛を娶って生んだ子が媛蹈鞴五十鈴媛命といい容姿が優れている」と申し出たので、天皇はたいそう喜んで媛を皇后に迎え入れた、とある。
 7番目は、神武天皇崩御の場面で、第二代の綏靖天皇は神武天皇の第三子であることを記した上で、その母は媛蹈鞴五十鈴媛命といい、事代主神の長女であると紹介している。
 8番目は、第三代安寧天皇の紹介場面で、安寧天皇は綏靖天皇の嫡子で、 母は五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)で事代主神の次女であるとしている。
 最後に、第4代懿徳天皇の紹介場面で、懿徳天皇は安寧天皇の第二子で、母は渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)といい、事代主の孫の鴨王(かものきみ)の娘である、としている。

 これら一連の記述からは、鴨氏あるいは葛城氏とつながる事代主神は三嶋溝クイ(以降、三島溝杭と記す)と関係があること、事代主神と三島溝杭の娘の間にできた二人の娘が第2代・第3代の天皇の后になっていること、両者の孫が鴨王と呼ばれ、その娘が第4代の天皇の后となっていること、がわかる。これらの天皇の時代は奈良盆地の南半分、とくに葛城地方周辺が拠点となっており、出雲系とのつながりは見られない。それにもかかわらず、この由緒ある事代主神がなぜ書紀では出雲の大国主神の子とされたのか。高鴨神社に祀られる味耜高彦根神も同様で、地元の農耕神であるはずのこの神がどうして大国主神の子になっているのか。葛木御歳神社の御歳神も、神社由緒にあるように稲の神、五穀豊穣をもたらす神がどうして出雲の素戔嗚尊の系譜になるのか。私は高鴨神社の味耜高彦根神と葛木御歳神社の御歳神はともに鴨一族であると考えている。大国主神の子という同じ扱いで味耜高彦根神と兄弟とされている事代主神も加えた3人の神々は鴨族の首長家の人物であったと考える。鴨都波神社には鴨一族の代々の首長が祀られていたが、一族の最盛期を築いた事代主神を祀るに至って、この神社は事代主神の社となった。そして、それよりも少し前の時期に一族の繁栄に貢献した味耜高彦根神と御歳神を分祀してそれぞれ高鴨神社、葛木御歳神社として祀るようになった。高鴨神社が最も高い位置に祀られていることから味耜高彦根神がもっとも古い祖先神であったのだろう。だからこそ「迦毛大御神」とも言われるようになった。このように鴨三社は高鴨神社の由緒に書かれているのとは逆の順序で下から上へと祀られて行ったのである。

 事代主神や味耜高彦根神、御歳神がなぜ出雲の神になったのかを見ていくが、それを明らかにする前にそれらの神々と関係があったと鴨一族、とりわけ葛城氏の盛衰について簡単に確認しておこう



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◆古代の葛城地方

2016年11月30日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 葛城地方を広範囲にとらえると葛城・金剛連山の東側一帯、おおむね現在の奈良県北葛城郡、香芝市、葛城市、大和高田市、御所市を合わせた範囲になるが、葛城氏の本拠と考えられる地域は奈良盆地南西の最深部にあたる葛城市、御所市の一帯である。西へは葛城山と金剛山の間の水越峠を越えると河内に通じ、南へは風の森峠を越えて紀ノ川に出て、川を下れば大阪湾を経て瀬戸内海へ、紀ノ川を上れば吉野へ、さらに吉野から伊勢や熊野にも通じる交通の要衝である。葛城川から大和川を経て河内、難波へ出るルートもある。
 古代の奈良盆地には湖(仮に奈良湖と呼ぶ)があったとされている。周辺の山々から流入する水が溜まった巨大な盆地湖があったと言うのだ。奈良盆地は比較的平坦な盆地であり、現在は初瀬川、富雄川、飛鳥川、高田川など、枝分かれた150余の小河川が張り巡らされており、そのどれもがやがては大和川に合流し、亀の瀬と言われる生駒山系と葛城・金剛山系の切れ目から河内平野に流れ込んでいる。亀の瀬は200万年前の二上火山の噴火に伴う地形変化でできた裂け目で、これによって奈良湖の水が流れ出すことになった。さらに縄文後期から弥生時代にかけて地底の隆起や大和川からの流出増などにより水位が下がり続け、やがては干上がって消滅してしまったと言われている。
 奈良盆地に見られる縄文遺跡は例外なく標高45m以上の微高地に検出されており、それより低いところでは見つかっていない。そして稲作農耕を主体とする弥生時代になってからの遺跡は標高40mでも見つかるようになる。この事実は、縄文後期から弥生時代にかけて徐々に奈良湖の水位が下がり、湖畔の湿地帯が肥沃で稲作に適した土地になっていき、弥生人が定住し始めたことの証拠であると言われる。このようにして豊葦原瑞穂国の風景が生まれた。
 葛城氏の本貫である現在の葛城市や御所市の盆地部は標高が70mから100mで南から北へなだらかに下るほぼ平坦な土地であり、奈良湖の影響を受けない地域であった。したがって奈良盆地においては早くから人が住み始めたと考えられ、縄文時代後期から弥生時代前期にかけての重要な遺跡がいくつも見つかっている。

■秋津遺跡
 秋津遺跡は御所市大字條・池之内にある遺跡で、京奈和自動車道建設に伴う一連の発掘調査で古墳時代前期の大型建物や、それを取り囲む方形区画施設群が検出され、さらにその最下層の縄文時代晩期の層から流路と樹根、土器や石器、土製品(土偶)等がまとまって見つかり、水辺利用に伴う遺物の廃棄箇所も確認された。さらに驚くことに、この流路南岸付近で翡翠製の管玉が単独で出土した。この管玉は両端に平坦面があり、胴部の径がそれより大きい中ぶくれの柱状で、長さが3.84cm、幅2.03cm、厚さ1.55cm 、重さは 21.84g となっている。縄文時代の管玉は前期に出現するが、盛んに製作されるのは後期から晩期にかけてのことで、日本全国に出土例があるが、長さ 2cm 前後、直径 1cm 前後のものが多く、長さが3cm以上になる例は縄文時代晩期に限れば極めて少ない。現在まで周辺に縄文時代晩期の集落の発見はないが、流路岸辺の遺物の量が少なくないことから、この玉の持ち主が生活を営んだ集落は、近隣に未発見のまま残されている可能性が高いと考えられる。以上は橿原考古学研究所発表資料を参考に整理したが、縄文晩期にすでに有力者がいた可能性が高いということは、同時にまとまった集団がいたということをも物語っている。このことを間接的に裏付けるのが次の中西遺跡である。

■中西遺跡
 中西遺跡は前述の秋津遺跡の南西に広がる弥生時代前期の水田跡である。畦によって4m×3mほどの小さな区画に仕切られた水田が約850枚、広さは2万平米を上回り、日本最大規模の水田跡遺跡となる。これほど大規模な水田が開発されたということは、水田の開発と運営という一大事業を指揮する統率者の存在と、高い技術力と労働力を備えた集団の存在が想定できる。あわせて、ここから収穫される大量の米を消費する人々がいたことも想定される。前述の通り、残念ながらその集団の居住跡は発見されていないが、秋津遺跡の翡翠製菅玉から想定される有力者とあわせて考えると、この葛城には縄文晩期から弥生前期にはすでに有力者が統率する大きな集団が生活していたことがほぼ確実といえる。
 奈良湖の水位が下がって水辺に葦が茂るようになり、湖畔に近いところに大規模な水田を設けて水を張って田植えをする。水と共に生きる人々が鴨の姿に似て、この地に暮らす一族をいつしか鴨族と呼ぶようになったのだろうか。さらに想像を進めると、神武天皇から八咫烏、すなわち賀茂建角身命に与えられた論功行賞はこの一帯の土地だったのではないか。そのことは八咫烏がこの地で鴨族の首長となったことを意味する。

■鴨都波遺跡
 秋津遺跡・中西遺跡から少し離れるが2キロほど北には鴨都波神社があり、先に見たとおり、神社周辺には弥生時代前期から古墳時代後期にかけての集落遺跡が広がり、その出土物からみて早くから稲作が行なわれていたことが想定されている。秋津遺跡、中西遺跡との関係は明らかではないが先に想定した集団の一部が居住した村であった可能性が高い。同時に遺跡西側において弥生時代中期の方形周溝墓2基、弥生時代終末期の土壙、古墳時代前期(4世紀)の古墳2基・木棺墓5基、古墳時代中期の木棺墓が検出された。時代の経過に伴って継続的に墓が形成されており、この地域の有力者の墓域であることが確認できる。なかでも4世紀中頃の築造と見られる一辺20m弱の方墳である鴨都波1号墳からは三角縁神獣鏡4面、鉄剣、鉄刀、翡翠製の勾玉など豊富な副葬品が出土し、この墓の主の権力の大きさを物語っており、同時に中西遺跡の南にある5世紀初頭の築造で、記紀に登場する葛城襲津彦(そつひこ)の墓とも言われる宮山古墳とのつながりをも想起させる。加えて、翡翠製品の出土は秋津遺跡との関連も考えられる。
 遺跡の上に乗っかる形で鴨都波神社があることから、この集落に居住していたのが鴨一族であり、先の墓域は鴨一族の代々の長の墓域だったと考えられる。鴨族はこの集落に居住し、中西遺跡を含む一帯の水田で稲作を行った。鴨族の首長は次第に富を蓄えて4世紀中頃に鴨都波1号墳を築造するに至り、さらにこの鴨族の首長が葛城氏の祖となって5世紀に宮山古墳を築造するに至った、と考えるのは飛躍が過ぎるだろうか。鴨都波神社は鴨一族がその祖先を祀る神社であり、葛城氏の祖先を祀る神社でもある。すなわち、祭神である事代主神は鴨氏の祖先神であり葛城氏の祖先神でもある、と考えたい。一族が葛城氏と鴨氏に分かれ、その鴨氏の一部が京都の山城へ移動、この葛城の地に残った人々がこの神社を守り続けてきたのである。ここに祀られる事代主神とはどんな神だったのだろうか。


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◆鴨三社

2016年11月29日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 八咫烏から賀茂氏へと話が展開する中で触れないわけにはいかないのが鴨三社である。三社とも訪ねたことがあるのでその時の印象を含めて順に確認しておこう。

■高鴨神社
 高鴨神社は奈良盆地南西部の御所市鴨神にあり、主祭神として阿治須岐高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)またの名を迦毛之大御神(かものおおみかみ)、事代主命、阿治須岐速雄命(あじすきはやおのみこと)、下照姫命、天稚彦命の5神を祀っている。少し長くなるが、高鴨神社の公式サイトにある由緒を引用する。(明らかな誤字等は訂正した。)

 この地は大和の名門の豪族である鴨の一族の発祥の地で本社はその鴨族が守護神としていつきまつった社の一つであります。
 『延喜式』神名帳には「高鴨阿治須岐詫彦根命(たかかもあじすきたかひこねのみこと)神社」とみえ、月次・相嘗・新嘗の祭には官幣に預かる名神大社で、最高の社格をもつ神社でありました。清和天皇貞観元(859)年正月には、大和の名社である大神神社や大和大国魂神社とならんで従二位の御神階にあった本社の御祭神もともに従一位に叙せられましたが、それほどの由緒をもつ古社であります。
 弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめました。また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります。
 このほか鴨の一族はひろく全国に分布し、その地で鴨族の神を祀りました。賀茂(加茂・賀毛)を郡名にするものが安芸・播磨・美濃・三河・佐渡の国にみられ、郷村名にいたっては数十におよびます。中でも京都の賀茂大社は有名ですが、本社はそれら賀茂社の総社にあたります。
『日本書紀』によると、八咫烏(やたがらす)が、神武天皇を熊野から大和へ道案内したことが記されています。そして神武・綏靖・安寧の三帝は鴨族の首長の娘を后とされ、葛城山麓に葛城王朝の基礎をつくられました。
 この王朝は大和・河内・紀伊・山城・丹波・吉備の諸国を支配するまでに発展しましたが、わずか九代で終わり、三輪山麓に発祥した崇神天皇にはじまる大和朝廷によって滅亡しました。
 こうした建国の歴史にまつわる由緒ある土地のため、鴨族の神々の御活躍は神話の中で大きく物語られています。高天原から皇室の御祖先である瓊々杵(ににぎ)尊がこの国土に降臨される天孫降臨の説話は、日本神話のピークでありますが、その中で本社の御祭神である味耜高彦根(あじすきたかひこね)神・下照比売(したてるひめ)神・天稚彦(あめわかひこ)、さらに下鴨社の事代主(ことしろぬし)神が、国造りの大業に参劃されています。
 御本殿には味耜高彦根神を主神とし、その前に下照比売神と天稚命の二神が配祀され、西神社には母神の多紀理毘売(たぎりびめ)命が祀られています。古くは味耜高彦根神と下照比売神の二柱をまつり、後に神話の影響を受けて下照比売の夫とされた天稚彦、また母神とされた多紀理毘売を加え、四柱の御祭神となったものと考えられます。
 (引用終わり)

 鴨族はおそらく弥生時代以前より海のないこの葛城の地に定住して農耕中心の生活を始めたと思われる。阿治須岐詫彦根命の「阿治須岐」とは美しい農具で開墾することを表す形容詞であり、農耕の神として祀られたものと言われている。また、阿遅鋤高日子根神とも表記され、「鋤」の字が含まれることからも農耕神であることがわかる。この神は記紀で大国主神の子、すなわち出雲系の神とされる。鴨氏(賀茂氏)と出雲、葛城の関係についてはあとで整理してみる。

 それにしてもこの由緒には大胆なことが記されている。神武天皇が建てた王朝(葛城王朝)はその後の8人の天皇を経た後、崇神天皇の大和朝廷によって滅ぼされたとある。これは歴史家や研究者が述べることであって神社の由緒としては適切ではないように思うが、この文章からは神武を助けて葛城王朝の建国に大きな貢献を果たし、その後も天皇家外戚となったプライドと、崇神によってそれを挫かれたことに対する怨念すら感じてしまう。従一位に神階を得たこと、有名な上賀茂・下鴨の両社をも従える全国賀茂神社の総社であること、なども強い意志をもった主張を行間に感じる。祭神についても「主祭神の阿治須岐高日子根命は亦の御名を迦毛之大御神と申され、この大御神と名のつく神様は天照大御神・伊邪那岐大御神と三神しかおられず、死した神々をも甦えらせる事ができる御神力の強き神様であります。」と説明されている。古来より高貴なプライドが脈々と受け継がれてきたのだろう。

■鴨都波神社
 鴨三社の2つめが鴨都波神社。主祭神は積羽八重事代主命(つわやえことしろぬしのみこと)と下照姫命。高鴨神社の由緒には、弥生中期に鴨族の一部は葛城東麓の丘陵地から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめた、とある。一般には高鴨神社に対して下鴨社と呼ばれている。なお、積羽八重事代主命は事代主神と同一であると考えられている。
 この一帯は弥生時代前期から古墳時代後期にかけての集落遺跡である鴨都波遺跡があり、この神社はその遺跡の上にある。弥生中期後半の灌漑施設と考えられる大規模な護岸水路が見つかり、ここで稲作農耕が行われていたことが明らかとなった。この集落遺跡が弥生前期からのものであること、この近くにも京奈和自動車道の建設に伴って発見された国内最大規模となる2万平米にもわたる弥生前期の水田跡である中西遺跡があること、などから考えると、高鴨神社由緒にある「弥生中期に丘陵地から移ってきた」というのが本当であったかどうかが疑わしい。順番はむしろ逆ではないかと考える。

 それにしても、出雲の国譲りの場面で大己貴神(大国主神)の子として登場し、大己貴神に代わって国譲りを承知した事代主を祀るとはどういうことだろうか。高鴨神社に祀られる味耜高彦根神も同様に大国主神の子であった。この葛城一帯にいた鴨氏と京都山城の賀茂氏はまったく別の氏族であるとも考えられているが、やはり鴨氏(賀茂氏)と葛城、出雲の関係を解いていかねばならない。

■葛木御歳神社
 3つめが葛木御歳神社。祭神は御歳神(みとしのかみ)。神社由緒によると、「歳」は「トシ」であり、穀物、特に稲またはその実を意味する古語で、御歳神は稲の神、五穀豊穣をもたらす神だったという。高鴨神社と鴨都波神社の中間に位置することから、中鴨社と呼ばれている。高鴨神社由緒によると「東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入った」とある。古事記には、須佐乃男命と神大市比売(かむおおいちひめ、大山津見神の娘)の子である大年神(おおとしのかみ)と香用比売(かよひめ)の間に産まれた子、すなわち須佐乃男命の孫であるとされる。書紀にはこれに該当する記述はないが、ここでも出雲との関わりが確認される。

 以上、鴨三社を順に見てきたが、私にはいくつもの疑問が生じた。奈良盆地の南西、盆地の最深部といっていい葛城の地になぜ出雲と関わりのある神々が祀られているのか、この神々を祀る鴨族(鴨氏)は何者で、葛城氏とどんな関係だったのか、そもそも葛城氏とは何者か、そして高鴨神社由緒に書かれていることはどこまでが事実なのか、などなど。神武東征を順に追いかけてきたが、ここでさらに寄り道をしてこれらの疑問(古代史の最大の謎と言えば言い過ぎか)を探ってみたい。



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◆八咫烏と日臣命

2016年11月28日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 熊野から紀伊半島を縦断して大和を目指すことになった神武一行の先行きを案じた天照大神は八咫烏を使わせて道案内をさせることにした。そして一行は大伴氏の祖先である日臣命(ひのおみのみこと)が大来目(おおくめ)を率いて、烏の向かう所を探して追いかけ、ついに菟田下県(うだのしもつこおり)に到達することができた。ここでは八咫烏と日臣命が新たに登場する。まず日臣命から見ていこう。

 日臣命は天忍日命(あめのおしひのみこと)とされ、書紀第九段の一書(第4)における天孫降臨の場面では来目部(久米部)の遠祖である天クシ津大来目(あめのくしつのおおくめ)を率いて、矢を入れる筒である天磐靫を負い、防具として稜威高鞆(いつのたかとも)を腕につけ、手には天梔弓(あめのはじゆみ)と天羽羽矢(あめのははや)を持ち、音の出る鏃である八目鳴鏑(やつめのかぶら)も持ち、頭槌劍(かぶつちのつるぎ)を腰に差し、天孫の前に立って先導して地上に降りた、とある。天孫降臨と神武東征のいずれにおいても来目部を率いて先導役を果たす重要人物である。神武はこの先導役を評価して日臣を道臣(みちのおみ)と改名した。書紀においては日臣命、すなわち道臣命は大伴氏の遠祖であり、天忍日命は大伴連の遠祖となっている。特に天孫降臨における天忍日命は完全武装の姿で先導役を果たしていることから大伴氏は軍事担当であることがわかる。そして大伴氏が率いる部隊が久米一族である。道臣命は大和に入ってからも菟田県(現在の宇陀)の首長である兄猾を討ち、国見丘で来目部を率いて八十梟帥の残党を討っている。次に八咫烏について詳しく見ていく。

 書記において八咫烏はこの熊野山中での先導役として登場した後、2ケ所に記される。2度目の登場は磯城彦を攻めようとする場面で、神武は兄磯城(えしき)に使者を送ったが返答がなかったので次に八咫烏を遣わした。兄磯城は八咫烏の要請にも応えず弓を射た。八咫烏はいったん退却して弟磯城(おとしき)のところに向かい、弟磯城を味方につけることに成功した。弟磯城は兄の反抗の企みを暴露したが神武軍は尚も話し合いを続けようとして弟磯城を説得役に任じた。ところが、兄磯城は弟磯城の説得にも応じなかったため、ついに神武軍は戦いを決意し、椎根津彦の作戦により勝利を治めることとなった。余談であるが、このときに弟磯城に続いて説得役の控えとして兄倉下(えくらじ)、弟倉下(おとくらじ)の2名が選任されている。私は「倉下」を名に持つこの2名は高倉下の一族、すなわち尾張氏の系列ではなかったかと考えている。
 八咫烏の3度目の登場は、神武が即位後に東征の論功行賞を行った場面。道臣命、大来目、椎根津彦、弟猾、弟磯城、剣根(つるぎね)らとともに八咫烏も賞に入ったとあるが、他の者と違って賞の内容が記されていない。また、八咫烏の子孫が葛野主殿県主(かどののとのもりあがたぬし)であるとしてその正体が明かされているものの、書紀ではそれ以上のことは語られていない。

 平安時代初期に編纂された古代の氏族名鑑である「新撰姓氏録」には、山城国神別の項目に鴨県主について「賀茂県主と同祖である」として「神魂命(かむたまのみこと、神皇産霊尊のこと)の孫である鴨建津之身命(かもたけつぬみのみこと、賀茂建角身命あるいは鴨建角身命とも呼ばれる)は神武東征の際、神日本磐余彦天皇(神武天皇)が大和に向かう道中で、山があまりに険しくて道に迷ったとき八咫烏に化身して空を高く飛んで導いた。天皇はその功を喜んで特に厚く褒賞した。天の八咫烏の称はこれが始まりである。」と記している。八咫烏、すなわち賀茂建角身命は賀茂県主および鴨県主の先祖であるという。とすると、葛野主殿県主は賀茂県主あるいは鴨県主のことであると考えて差し支えないだろう。
 さらに「山城国風土記」逸文によると、八咫烏は先導役として神武に仕えた後、大和から山城を経て現在の賀茂に移ったとある。京都には上賀茂神社と下鴨神社があるが、前者には賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)が、後者は賀茂建角身命と玉依媛命が祀られている。玉依媛命には、川で用を足しているときに上流から流れてきた丹塗矢を床において眠っていたときに懐妊し、神の子である賀茂別雷命を生んだという逸話がある。下鴨神社は賀茂別雷命の母である玉依姫命と玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀るために「賀茂御祖神社」とも呼ばれている。


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◆尾張氏と大海氏

2016年11月27日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 私は尾張氏が丹後へ移る際、神武に服従して葛城に定住していた大海氏を同行させたと考えている。つまり大海氏はこのときに里帰りを果たすこととなった。大海氏は葛城に定住したあと、尾張氏と非常に近しい関係になっていった。だから尾張氏は丹後へ移る際に大海氏を頼ることができた。大海氏の本貫地は丹後国の加佐郡(現在の京都府舞鶴市)にある凡海郷(おおしあまのさと)である。勘注系図によると、饒速日命は大和に遷って登美屋彦(とみやひこ)の妹の登美屋姫を娶って可美真手命(うましまでのみこと)を設けた後、丹波国に戻っている。やはり、大海氏は饒速日命の系譜にあったと言えるのではないか。
 一方、葛城に残った大海氏から出た尾張大海媛が崇神天皇の妃となる。この媛の名はまさに尾張氏と大海氏の親密な関係を表している。神武王朝は崇神王朝との対立を解消するために腹心の部下である尾張氏と大海氏との間にできた娘を差し出したのではないだろうか。この媛、天孫本紀によると別名を葛木高名姫命という。葛城に住み、高貴で美しく名の通った媛であったのだろう。

 書紀の崇神紀には尾張大海媛と同じく崇神天皇の妃として紀伊国の荒河戸畔の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくはしひめ)が登場する。その注記(一伝)として大海宿禰の娘であることが記されており、葛城に近い紀伊国に大海氏がいたことがわかる。また、時代が下った飛鳥時代、凡海麁鎌(おおあまのあらかま)なる人物がいて、大海人皇子(後の天武天皇)の養育に関わったとされ、大海人皇子の名は凡海(おおあま)氏の女性が皇子の乳母であったことから付けられたとされている。その縁からか、大海氏と親密な関係にあった尾張氏が壬申の乱にて大海人皇子の味方に付き、天武天皇即位に尽力している。また、686年にその天武天皇が崩御した際の殯において故人と縁のあった者が順に誄(しのびごと)を述べる儀礼が行われたが、最初に誄を述べたのが大海宿禰麁鎌であった。このように大海氏(凡海氏)はその後も一定の勢力を維持し、神武王朝の流れを汲む天武天皇から重宝される存在となっていった。

 さて、丹後に移った尾張氏と大海氏であるが、尾張氏は丹後国造として丹波氏を名乗った一族と、丹後からさらに愛知に移って尾張国造として勢力を拡大した一族に分かれた。国造本紀に、成務朝のときに天火明命の十三世孫(勘注系図では十世孫または十一世孫、先代旧事本紀にある尾張氏系図には記載なし)の小止与命を尾張国造に定めたことと、尾張国造と同祖の建稲種命の4世孫にあたる大倉岐命を丹波国造に定めたことが記されているのは先に見た通りである。一方の大海氏であるが、こちらは地元で海部氏を名乗り、丹後国一之宮である籠神社の神職(社家)として丹波国造を支えながら連綿とその系譜を継いでいった。勘注系図によると、饒速日命は丹後に戻った後、最後は高天原で娶った佐手依姫命(さでよりひめのみこと)とともに養老三年に籠宮に天降ったことになっている。また、尾張氏が尾張国造として丹後から愛知に移る際に海部氏や丹波氏を同行させたことが想定される。現在の愛知県西部には「海部郡」や「あま市」があり、これらは海部氏が居住した地であろう。また、丹波氏は愛知で丹羽氏(尾張丹羽臣)となった。
 なお、丹後国は大和葛城の神武王朝と同盟関係にあったと書いたが、神武王朝と敵対する崇神王朝はその丹後を支配しようとして四道将軍のひとりである丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)を派遣している。



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◆尾張氏と丹波

2016年11月13日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 まず、丹波氏あるいは丹波国造について確認してみる。世界大百科事典第二版にて丹波氏を見ると「丹波国を本拠とした古代の大族。丹波地方は畿内と南で接し、丹波道が早くから開けたため、大和政権とのつながりも古くから成立したらしく《日本書紀》開化紀に丹波之大県主の名が見え、崇神紀にも丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)を四道将軍の一人として丹波に遣わす話がある。また垂仁紀は、道主の5人の娘が宮廷に入り、その一人皇后日葉酢姫(ひばすひめ)の子を景行天皇とするなど、伝承は天皇系譜との親密な関係を物語る。丹波氏の成立について、《国造本紀》は丹波国造を成務朝にあてている」となっている。
 この「国造本紀」が収録された先代旧事本紀は偽書であるとの考えがあるものの、巻五の「天孫本紀」の尾張氏系譜や巻十の「国造本紀」については史料価値があるとする意見もあるので参考にしたい。
 その国造本紀によると、成務天皇のときに尾張国造と同祖の建稲種命(たけいなだねのみこと)の4世孫にあたる大倉岐命(おおくらきのみこと)を丹波国造に定めたとなっている。そして同じく先代旧事本紀の天孫本紀には、その建稲種命の子の尾綱根命(おづなねのみこと)のときに尾治連の姓を賜ったとある。それ以降、尾治氏(尾張氏)が続く。また国造本紀には、成務朝のときに天火明命の十三世孫の小止与命(おとよのみこと)を尾張国造に定めたともある。小止与命は建稲種命の父にあたる。これらのことから、国造本紀と天孫本紀によれば丹波氏と尾張氏は祖を同じくすることが分かる。天孫本紀に従ってこの系譜をさかのぼると、天火明命の三世孫に天忍人命(あめのおしひとのみこと)、天忍男命(あめのおしおのみこと)、忍日女命(おしひめのみこと)の名が見られ、このなかの天忍男命の子である四世孫として瀛津世襲や世襲足媛が登場する。ここで天孫本紀と記紀がつながる。そして先に見たとおり、記紀ではこの瀛津世襲を尾張連の祖としているのである。系譜を整理すると次のようになる。
 
  
 
 さらに丹後の海部氏の系譜が記された海部氏勘注系図を見ると、そこには天孫本紀にある尾張氏の系譜と一致する部分が見い出せる。たとえば、始祖の天火明命、その子である天香語山命、さらにその子である天村雲命(あめのむらくものみこと)までの直系三世代の系譜が前述の天孫本紀と一致する。そして勘注系図では天村雲命の子、すなわち直系の三世孫として海部氏につながっていく倭宿禰命(やまとのすくねのみこと)を記すが、傍系の系譜として天忍人命、天忍男命、忍日女命の三人の名を記している。この三人は前述の天孫本紀尾張氏系譜に登場する三人と一致すると考えてよいだろう。天忍人命は葛木出石姫と、天忍男命は葛木加奈良知姫と婚姻関係を持ってそれぞれ系譜をつないでいる。つまり勘注系図によると、尾張氏は葛木(葛城)氏と姻戚関係にあったということだ。
 先に書いたように、私は尾張氏の本貫地を葛城の高尾張邑と考えている。したがって、尾張氏と葛城氏がつながっているのは当然であると考えるのであるが、その尾張氏が丹波氏(丹波国造)とも同系の関係にあったことは前述の通りである。尾張氏、葛城氏、丹波氏の三氏に関係性が見出されるのであるが、それについて次のように考えたい。まず、神武東征に随行してきた高倉下が高尾張邑に定着して尾張氏の礎を築いた。その後裔が葛城氏と婚姻によってつながった。そして尾張氏の傍系一族が丹波へ移って丹波国造となった。ではなぜ、葛城の尾張氏が丹波へ移ったのか。それは丹波が天孫族と同じ中国江南由来の海洋一族の国であった、すなわち神武王朝と同系一族であったことに加えて、饒速日命の故郷が丹波(丹後)であったことから、神武王朝は丹波国と同盟関係を築いていたと考える。尾張氏は葛城と丹波を頻繁に往来していたのだろう。世界大百科事典にも「丹波地方は畿内と南で接し、丹波道が早くから開けたため、大和政権とのつながりも古くから成立した」とある。なお、葛城氏については神武東征の終盤で触れるのでそちらに回したい。

 論証する材料に乏しい為、推測の域を出ないのであるが、それにしても「海部氏勘注系図」に丹波氏(丹波国造)が登場するのは良しとして、尾張氏や葛城氏(葛木氏)が登場するのは何故だろうか。海部氏、尾張氏、葛城氏に何らかの関係があったと考えられるのではないか。そしてここで意味を持ってくるのが気にしたい点の2つ目、尾張氏と大海氏の関係である。傍系尾張氏が葛城から丹後に移った理由は神武と同じ中国江南系の国であり、饒速日命の国であり、同盟関係にあったからと考えたが、そもそも饒速日命が丹後から大和に遷るときに随行した一族に大海氏がいたのではないだろうか。そして饒速日命が神武に服従したとき、大海氏も神武に仕えることになり、尾張氏と同じ葛城に定住することとなったのではないか。さらに言うと、この大海氏は海部氏と同族であり、大海氏こそが饒速日命であったのかもしれない。古代から中世を経て絶やすことなく系譜をつなぎながら一貫して歴史を見てきた海部氏がこれらの経過をすべて自らの系図に取り込んで出来上がったのが勘注系図である。次に尾張氏と大海氏について考える。



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◆尾張氏の考察

2016年11月12日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 尾張氏についてもう少し詳しく見ておきたい。尾張氏の祖について記紀は以下のように記している。(各人物の読み方についてはまとめて下段に記す。)

 ●日本書紀
 ①火明命は尾張連の遠祖である(第9段)
 ②天忍穂耳尊の子である天火明命の子の天香山は尾張連
  の遠祖である(第9段一書第6)
 ③孝安天皇の母である世襲足媛の姉の瀛津世襲は尾張連
  の遠祖である(孝安紀)
 ●古事記
 ①神武武天皇の子である神八井耳命は尾張丹羽臣等の祖
  である
 ②孝昭天皇の后である余曽多本毘売命の姉の奥津余曽は
  尾張連の祖である
 ③崇神天皇の妃の意富阿麻比売は尾張連の祖である
 ④孝元天皇の子である比古布都押之信命が尾張連等の祖
  である意富那毘の妹の葛城の高千那毘売と結婚して生
  まれた子が味師内宿禰である

  天香山(あめのかぐやま)
  世襲足媛(よそたらしひめ)
  瀛津世襲(おきつよそ)
  神八井耳命(かむやいみみのみこと)
  余曽多本毘売命(よそたらひめのみこと)
  意富阿麻比売(おおあまひめ)
  比古布都押之信命(ふこふつおしのまことのみこと)
  意富那毘(おおなび)
  味師内宿禰(うましうちのすくね)

 まず古事記の④において、尾張連の祖である意富那毘の妹、高千那毘売が葛城にいたことがわかり、尾張氏が葛城の氏族であることが想定される。また、尾張氏の女性が皇族に入ったこともわかる。次に、書紀の①と②は同じことを言っており、火明命が尾張氏の祖先であること、すなわち尾張氏が天孫族の後裔であることを表している。書紀の③と古事記の②も同じことを言っており、瀛津世襲が尾張連の祖先であることがわかる。ただし、瀛津世襲なる人物、あるいはその後裔の話はこれ以降の記紀に登場しないので、あくまで尾張氏が古くから天皇家の外戚であったことを主張するためだけの記述であると考えられる。以上のことから少なくとも尾張氏は天孫族の後裔であり、天皇家外戚という重要な氏族であったことがわかる。
 そのうえで私は古事記の①に「尾張丹羽臣」の名が見えることに注目したい。通説では愛知県に拠点をもつ丹羽(にわ)氏を指すとされているが、丹羽=丹波と考えて「にわ」ではなく「たにわ」あるいは「たんば」と読んで、尾張氏と丹波の関係を表していると考えたい。また、古事記の③にある「意富阿麻比売」の存在も重要だ。書紀においても崇神天皇の妃として「尾張大海媛」の名で登場するが、この大海媛が尾張氏の祖先であるという。次に尾張氏と丹波の関係、尾張氏と大海氏の関係を考えてみたい。



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◆熊野に上陸

2016年11月11日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 神武は名草に椎根津彦を残してさらに海岸沿いに南進し、紀伊半島を回って狹野(新宮市佐野)を越えて熊野の神邑(みわむら、新宮市三輪崎)に到着。そこで天磐盾(あめのいわたて、新宮市熊野速玉神社の神倉山か)に登り、さらに軍を率いて進んだ。この神倉山には磐座とされるゴトビキ岩を神体とする神倉神社がある。主祭神は天照大神と高倉下命(たかくらじのみこと)となっている。私はここを参拝したことがあり、油断すると転げ落ちそうな急な石段によって祠までは登ることが出来たが、そこに祀られるご神体であるゴトビキ岩はとても登れる岩ではなかった。神武がこの岩に登ったというのは磐座信仰に擬して神武の神性を主張しようとしたのかもしれない。ただ、山の中腹にあるこの大きな岩は沖を行く船からも見えるはずで、航海の目印になっただろうと思う。
 その後、一行はその海域で暴風雨に遭った。神武の兄である稲飯命(いないのみこと)、三毛入野命(みけいりののみこと)は続いて海に入ったという。船団はここで遭難し、二人の兄が命を落とした。本来の目的地は伊勢であったが一行はこの熊野の地で上陸を余儀なくされた。五瀬命を含めて3人の兄を失ったことは神武による大和進攻の困難さを象徴し、相応の犠牲を払ったことを現したかったのだろう。荒坂津(別名を丹敷浦)に上陸した一行はその地の首長である丹敷戸畔(にしきとべ)と一戦を交えて勝利したものの神の毒気で全員が気絶してしまう。この毒気は水銀を精製する時に出る有毒ガスのことで丹敷戸畔はそれを武器として使ったという説もあるが、私は丹敷戸畔との戦いが皆が立ち上がれなくなるほどの激戦であり、全員が倒れるほどの薄氷の勝利であったことを表している、と理解しておきたい。それくらい丹敷戸畔が強敵であったと思われる。
 このとき、高倉下という人物がいて、夢に見たとおりに武甕槌神が天から蔵に下ろした布都御魂の剣を手にとり、臥せっていた神武に献上したところ、神武以下の全員が覚醒したという。この高倉下が何者かは記紀に記されていないが、その高倉下が布都御魂を管理していたということだ。布都御魂の「フツ」は物を断ち切る音を表すことから刀剣を神格化したものと言われており、この布都御魂がさらに神格化(人格化と言ったほうがわかりやすいが)されたのが経津主神と言われている。出雲の国譲りにおいては武甕槌神と経津主神の二人の神が大己貴神(大国主神)に国譲りを迫ったのだが、これは武甕槌神が布都御魂の剣を携えていったと解するのがよいだろう。そして、名草戸畔との戦いで椎根津彦が登場したのと同様に、この丹敷戸畔との戦いで高倉下をヒーローとして登場させたのだろう。高倉下は神武一行が熊野に漂着したときにすでに熊野にいたのではなく、日向出発時点から神武一行に加わっていたメンバーではないだろうか。

 前述の通り、高倉下の出自などについて記紀には何も記されていないが物部氏の氏族伝承とされる「先代旧事本紀」によると、物部氏の祖神である饒速日命の子で尾張連の祖である天香語山命(あめのかごやまのみこと)のまたの名を高倉下命としている。この先代旧事本紀では饒速日命と天火明命(あめのほあかりのみこと)が同一人物ということになっている。また、京都府宮津市にある籠神社の社家である海部氏に伝わる「海部氏勘注系図」では海部氏の始祖の彦火明命の子である天香語山命が大屋津比賣命(おおやつひめのみこと)を娶って高倉下を生んだと記され、先代旧事本紀とは世代がひとつ違っている。一方で書紀では、火明命が尾張連の始祖であること、饒速日命が物部氏の先祖であること、を明らかにしているが二人の関係には触れていない。ただ、高倉下が布都御魂を手にすることになったのは、饒速日命を討とうとする神武の苦境を救うために天照大神と武甕雷神が相談した結果であることから、高倉下が饒速日命、すなわち物部氏の系列に属するとは考えにくい。尾張氏は壬申の乱で天武天皇を支えた最も重要な氏族であったことを考慮すると、ここで高倉下を登場させたのは尾張氏を賞賛する意図があったのではないだろうか。高倉下については、饒速日命すなわち物部氏と関連付けるのではなく、尾張氏との関連で捉えたい。高倉下が管理していた布都御魂がその後に物部氏が祭祀する石上神宮に祀られるようになったのは、神武が饒速日命に勝利して即位して以降の物部・尾張両氏の勢力関係や天皇家における物部氏の扱いなど、様々な要因が重なった結果によるものであったのだろう。書紀には垂仁天皇39年の段に物部氏が石上神宮の神宝を管理するようになった経緯が記されている。

 高倉下が属すると考えられる尾張氏は古代氏族の中でも謎が多いとされる。その本貫地については奈良盆地南部の葛城とする説、愛知の尾張地方とする説などがあるが、私は前者の考えに立ちたい。神武が大和に入って饒速日に勝利したあとに土蜘蛛を討つ場面で「高尾張邑の土蜘蛛を葛の網で捕えて討ったので葛城と名付けた」とある。これは葛城邑がもともと高尾張邑と呼ばれていたことを意味している。さらに、大和に入ってすぐに弟猾(おとうかし)の協力を得て兄猾(えうかし)を討ち、その後に宇陀の高倉山に登って国中を眺めたとき、あちこちに敵がいるので忌々しく思っていると、弟猾が「磯城邑には磯城の八十梟(やそたける)がいて、高尾張邑(或本では葛城邑という)には赤銅の八十梟がいる」と言って作戦を伝えたとある。これも高尾張邑と葛城邑が同一地域であることを意味している。よって、尾張氏はこの高尾張、すなわち葛城を本貫地としていたと考えるのである。先代旧事本紀では高倉下命は天香語山命の別名であるといい、海部氏勘注系図では高倉下は天香語山命の子であるという。いずれが真実かは定かではないが、高倉下と天香語山すなわち天香久山との近しい関係を伝えており、尾張氏は香久山に近いところ、つまり葛城が本貫地であることを表わしているのではないだろうか。
 尾張氏の祖先とされる高倉下が神武と共に日向から大和にやってきて饒速日命に勝利したあと、天香久山にほど近い葛城に定住したものと考える。記紀には高倉下と尾張氏との関係が記されていないが、高倉下の存在は明記されており、その高倉下は神武の一行に入っていたと考えられるので、神武が大和を治めた時に高倉下も大和に定住したと考えることに妥当性があると思う。



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◆難波から熊野へ

2016年11月10日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 吉備を出て難波に入った神武は河内国草香邑靑雲の白肩之津で上陸し、龍田から大和に入ろうと南へ進んだが、道が狭く険しくて進めないのでいったん引き返し、生駒越えで入ることにした。すると孔舍衞坂(くさえのさか、現在の近鉄線石切駅あたりか)で長髄彦(ながすねひこ)に待ち伏せされて意図せず戦うことになった。神武一行にとっては東征開始後、初めての戦闘である。不意打ちを喰った格好になり、残念ながら神武の兄の五瀬命が大きな傷を負ったため、上陸地点まで退却せざるを得なかった。この長髄彦は大和に降臨した饒速日命(にぎはやひのみこと)に仕える土着の豪族だったと思われる。初戦を制して神武の大和侵入を阻み、その後も神武を苦しめるが、最後は神武に従おうとする饒速日命に斬られることになる。饒速日命、長髄彦については後に詳しく述べることにして話を戻そう。
 神武は「日の神の子孫が日に向かって戦うのは天の道に逆らうことだ。日の神の勢いを背負って日陰が挿すように敵に襲いかかれば自ずと勝利することができるだろう。」と考えた。西からではなく東に回って太陽を背にして戦おうと船を進めて進路を南に取った。紀伊半島をぐるりと回って東の伊勢から大和を目指そうとしたのだろう。その途中、五瀬命は傷が悪化し、それが原因で亡くなったので紀伊国の竃山(かまやま)に葬られた。五瀬命の墓は和歌山市和田の竈山神社後背にある古墳「竈山墓」に比定されている。「紀伊続風土記」では墓の造営後直ちに神霊を奉斎したために墓と祠が一ケ所にあるとしている。
 その後、一行は竈山からすぐ近くの名草邑(和歌山市の名草山あたり)で、その地の首長と思われる名草戸畔(なくさとべ)という女首長を討った。この名草戸畔は地元では名草姫と呼ばれているが、その死後に代わって紀伊を治めたのが紀氏とも言われている。紀氏は自らの系図で名草戸畔を遠縁に位置づけることでその正当性を主張した。

 私は名草戸畔の死後にこの地を治めたのは神武に随行してきた人物であったと考える。この地は紀ノ川の河口にあたり、大和から大阪湾、瀬戸内海へ出る水運交通の要衝の地である。神武はこの地を自ら統治するために腹心の部下を残した。その人物が名草戸畔の後継者などこの地の有力者たちと関係を構築しながら統治に成功し、やがて紀氏となった。書紀によると、第8代孝元天皇の血を継ぐ屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)が景行天皇3年に紀直の遠祖である菟道彦(うじひこ、古事記では「宇豆比古」)の娘である影媛を娶って武内宿禰を生み、その武内宿禰が蘇我氏、平群氏、紀氏などの祖となった、とされている。この菟道彦こそが神武が残した部下であり、神武が日向を発って宇佐に着く前に速水之門で道案内として一行に加えた珍彦(うずひこ)、すなわち椎根津彦(しいねつひこ)ではなかったか。彼は紀ノ川河口の名草の地を押さえた後、紀ノ川を遡り、その後熊野を経て吉野に入った神武と合流、磯城の首長である兄磯城(えしき)との戦いに大きな貢献を果たした。そしてこれらの活躍が認められて神武即位後に倭国造に任じられた。紀直の先祖である椎根津彦が倭国造になったのである。

 このあと、神武一行は熊野を目指すことになるが、神武は本当に熊野へ行ったのだろうか。大和まで目と鼻の先まで来ているにも関わらず、そこから紀伊半島をぐるっと回って本当に熊野まで行ったのだろうか。わざわざ熊野を経由することが合理的ではないとして実際は紀ノ川を遡ったのだとする考えもあるが、私は熊野へ行ったと考えたい。難波で五瀬命が長髄彦に討たれたときに神武はこう言った。「日の神の子孫が日に向かって戦うのは天の道に逆らうことだ。日の神の勢いを背負って日陰が挿すように敵に襲いかかれば自ずと勝利することができるだろう」と。それで進路を南に取り、紀伊半島をぐるっと回って伊勢あたりから大和を目指そうとしたのだ。日向から難波まで航海を続けてきた海洋族である神武船団が難波から少し大回りして伊勢を目指すのはそれほどおかしな話とは思わない。ただし、船団は熊野を目指したのではなく、あくまで伊勢を目指した。それがたまたまの暴風雨で途中の熊野に上陸せざるを得なかったのだ。神や鬼の存在を信じ、神話を創り出した古代人の思考や行動を現代人の「合理性」で計るのは得策ではないと考える。したがって、書紀の記述をその通りに解することに大きな支障があるとは思わない。さらに言えば、もしも熊野上陸が作り話であるなら神武東征にわざわざ熊野を登場させる理由がよくわからない。太陽を背にして戦うために迂回したのであるから伊勢まで到達させればいい。そうなっていないのは神武一行が熊野から大和に入ったのが史実に基づく話であったからにほかならない。


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◆吉備の一族

2016年11月09日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 考古学の視点から吉備を考えたときに最も興味深いのは、岡山県倉敷市矢部の丘陵上にある弥生時代の双方中円型の「楯築墳丘墓」である。全長が72m、中円部の直径が43mで2世紀後半の築造と考えられ、当時としては日本最大の規模であったとされている。この双方中円墓はその後の前方後円墳の原型とも言われている。また、その形と規模だけでなく埋葬方法や出土物がたいへん特徴的である。木槨を丁寧に設け、底一面に水銀朱が敷き詰められた木棺をその木槨内に納めていること、通常は木棺内に納める副葬品である玉類が木棺の蓋の上に置かれていた可能性があること、埋葬後に木槨の上部にあたる墳丘頂上で火を使った何らかの儀礼が行われた形跡があることなど、独自の葬送儀礼を持っていたようだ。また出土物も興味深い。ベンガラによる丹塗りが施された吉備特有の土器といわれる特殊器台や特殊壺、木槨の腐敗による崩壊とともに埋葬空間に崩れ落ちたと思われる円礫堆から見つかった表面に弧帯文が描かれた石の破片、同じく円礫堆に混じって見つかった土製品の破片や鉄器類などである。順に見ていく。
 まず特殊器台・特殊壺であるが、これは弥生後期中頃から主に備中南部で製作が始まり、備前、美作、備後へと広がっていった。さらには出雲や畿内の箸墓などでも出ているが、その胎土の分析からこれらは備中南部で作られたものが人の手によって運ばれたことがわかっている。そしてこの土器がその後の円筒埴輪につながっていったとも言われている。畿内から全国に広がったと言われる前方後円墳とそこに並べられる埴輪のいずれもがその源流を吉備に求めることができるのである。さらに興味深いのは、前方後円墳の波及とともにこの特殊な土器は作られなくなるのである。
 次に弧帯文石。楯築墳丘墓の発掘で見つかったのは破壊された数百の破片群であるが、これらを接合して復元してみると全面に弧帯文が刻まれており、その上面部と思われる破片が黒色化して火に焼かれた痕跡を残していた。また、これと同じもので大型の弧帯文石が大正時代の初め頃まで墳丘上にあった楯築神社に代々伝世し、亀石と呼ばれるご神体として安置されていた。現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られており「伝世弧帯文石」と呼ばれる。この弧帯文は中央部に三角突起のある円穴の周りにS字状の帯が描かれており、この円穴と帯の図柄のセットが石の周囲を覆っている。後述する百間川原尾島遺跡出土の土器の文様と合わせて隼人の盾に描かれたS字文様に通じるものを感じる。
 
 このほか吉備では、弥生時代後期の津寺遺跡から黥面土偶と呼ばれる顔面に入墨のような線刻を施した土製品が、また、鹿田遺跡、倉敷市上東遺跡、総社市一倉遺跡などでは黥面を描いた土器が出土している。さらに百間川原尾島遺跡からは弥生時代後期の肩の部分にS字状の渦文4個があざやかに描かれた長頸壺が出土している。このS字状文様は龍を簡略化した文様と言われているが、私は先の隼人の盾や弧帯文も同様で、潮の流れ、あるいは渦を表したものではないかと考える。これらはこのあたりに住んでいた人々が海洋系民族であることを示唆しており、同じく海洋民族である隼人につながっていると思われる。吉備の地は瀬戸内海の真ん中にあり、瀬戸内海航路や山陽道などを押さえることができる要衝の地である。また、吉備は古代より製塩が盛んで、その生産量は自らの消費量をはるかに超えるものであったと言われている。さらには讃岐地方で産出される石器に用いたサヌカイトは四国を出て全国各地で見つかっている。吉備の塩も讃岐のサヌカイトも瀬戸内海を中心にその流通を一手に担ったのが吉備の一族ではなかったろうか。彼らは隼人の流れを汲む海洋民族であり、海洋流通を握った氏族であったと言えよう。だからこそ神武一行はこの地に3年間も滞在して畿内攻略の準備を整えることが出来たのだ。そして、吉備の首長が眠るのが楯築墳丘墓ではないだろうか。

  (吉備出土の土器)


  (隼人の盾)


  (接合された弧帯文石)


 ここで思い出すのが大三島に祀られている大山祇神である。神武一行はこの海域を何の問題も無く通過している。もしも大三島を含めて付近の島々や海岸沿いに敵国があったとしたら、何らかの戦闘の形跡が語られたであろうが、そうはなっていない。大山祇は先述の通り瀬戸内海航路を押さえていた海洋一族の首長であろうが、吉備氏と同様に神武すなわち隼人族に近しい一族であった。大山祇の子である鹿葦津姫(別名が木花開耶姫または神吾田津姫)は神武の祖母であったのだから。
 また、時代は少し下るが5世紀前葉に吉備平野に築かれた造山古墳の前方部にあった長持形石棺が熊本県宇土の鴨籠古墳と同様式であることも吉備と隼人の地である中南部九州とのつながりを想起させる。

 このように吉備は隼人とつながる海洋族であり神武の同盟国であったと考えているが、吉備独自の土器である特殊器台において大和纏向あるいは出雲との関連性が伺えるのはどうしてであろうか。瀬戸内海のど真ん中、中国地方のど真ん中、西日本のど真ん中に位置する吉備はしたたかな国であった。



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