安芸のあとは吉備に寄港する。目的は書紀に記載されていることを素直に読んで理解するのがよいだろう。「吉備国に入り、行館(=仮宮)を作って滞在した。これを高島宮という。3年滞在している間に船を揃え、兵食を備え、ひとたび兵を挙げて天下を平定しよう」とある。滞在期間は古事記では8年となっている。3年あるいは8年という長期滞在は船を造るためだ。すでに出来上がった船を調達するのではなく、木を伐採するところから始める造船に3年を費やしたということだ。ここまでの長旅による修理も必要であったろう。武器も砂鉄の精錬から始めただろう。兵士も大幅に増員したであろう。水・食料も大量に必要となる。いよいよこれから畿内へ侵攻、ここから先は同盟国に頼れない。この吉備で万全の準備をしておくことが必要であった。
さて、神武が滞在した高島宮とはどこにあったのだろうか。一般的には現在の岡山市南区宮浦、児島湾に浮かぶ高島と言われている。ここには高島宮とされる跡地に創祀されたという高島神社もある。また、島の南嶺の頂上に磐座や古墳時代の祭祀跡があり、古代において神聖な島であったことがわかる。しかし、前述のような兵站を整えるにはあまりに小さな島である。また、高島神社の対岸にある児島も当時は文字通り島であった。大量の木材の伐採、砂鉄の採取、造船や製鉄のための広大な敷地の確保などを考えると、本土(現在の岡山市や倉敷市あたり)に拠点があったと考えざるを得ない。船団が逗留したことから海岸近く(ただし島ではない)か大きな河川沿いであろう。さらに伐採後の木材を運搬する必要があることを考えると大きな河川の存在は必須となる。尾道市から岡山市にかけて高島宮跡と伝えられる地は数多くあるが、先の条件を満たし、なおかつその後の吉備の発展を考えたときに最も相応しい候補地は、JR岡山駅から北東10キロ足らずの龍ノ口山の南西麓にある高島神社であろう。当時の海岸線はこの近くまで来ていたであろうし、鳥取県との県境あたりを源流とする旭川がすぐそばを流れている。ここから西へ20キロ足らずで備前国一之宮である吉備津彦神社と備中国一之宮の吉備津神社、さらには弥生後期の重要遺跡である楯築遺跡、そして築造の時代は少し下るが、全長360m、全国第4位の規模を誇る前方後円墳である造山古墳、同じく第9位の作山古墳も目と鼻の先にある。同盟国である吉備の首長が拠点を構えるこの地に立ち寄り、彼の協力の下で畿内侵攻の準備を整えた、と考えたい。
ところでここでひとつ気が付いたことがある。神武は日向を出た後、宇佐、筑紫、安芸、吉備と立ち寄ってきたが、書紀によると宇佐・安芸・吉備においてはそれぞれ一柱騰宮・埃宮・高島宮という具合に宮を設けている。もともとあったのか寄港時に新たに作ったのかは別にして。一方で筑紫においては宮を設けたことが書かれていない(古事記では岡田宮と記されているが)。このことは宮を設けた宇佐、安芸、吉備が神武と関係のある国であり、筑紫はそうではなかったことの傍証になるのではないだろうか。
吉備をもう少し詳しく見てみよう。神武東征の後、吉備が書紀に現われるのは第7代孝霊天皇のときである。別名を吉備津彦命とする彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)が孝霊天皇の子として登場し、第10代崇神天皇の時に四道将軍の一人として西道(山陽道)に派遣されて吉備を平定したという。その派遣に際して、第8代孝元天皇の皇子である武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)とその妻の吾田媛が謀反を起こしたことが発覚し、彦五十狭芹彦命が吾田媛の軍を、北陸に派遣された大彦が武埴安彦命を討った。この話には2つの興味がわく。ひとつ目は、なぜ崇神は神武王朝の同盟国であるはずの吉備を討ったのかということ、もうひとつは謀反を起こした武埴安彦命の妻の名に吾田がついているということ。吾田は阿多であり、武埴安彦命は天皇家の出身地である阿多から妻を娶っていたことが伺われる。同盟国を討ち、さらには自身の先祖のお里でもあるはずの阿多の女性とその夫であり第8代孝元天皇の皇子である武埴安彦命を殺害した崇神はやはり神武王朝の後継天皇であったとは考えにくい。
また書紀によると、同じく孝霊天皇の子であり彦五十狭芹彦命の異母弟である稚武彦命(わかたけひこのみこと)は吉備臣の遠祖とされている。
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