古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆第四の寄港地「吉備の高島宮」

2016年11月08日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 安芸のあとは吉備に寄港する。目的は書紀に記載されていることを素直に読んで理解するのがよいだろう。「吉備国に入り、行館(=仮宮)を作って滞在した。これを高島宮という。3年滞在している間に船を揃え、兵食を備え、ひとたび兵を挙げて天下を平定しよう」とある。滞在期間は古事記では8年となっている。3年あるいは8年という長期滞在は船を造るためだ。すでに出来上がった船を調達するのではなく、木を伐採するところから始める造船に3年を費やしたということだ。ここまでの長旅による修理も必要であったろう。武器も砂鉄の精錬から始めただろう。兵士も大幅に増員したであろう。水・食料も大量に必要となる。いよいよこれから畿内へ侵攻、ここから先は同盟国に頼れない。この吉備で万全の準備をしておくことが必要であった。
 さて、神武が滞在した高島宮とはどこにあったのだろうか。一般的には現在の岡山市南区宮浦、児島湾に浮かぶ高島と言われている。ここには高島宮とされる跡地に創祀されたという高島神社もある。また、島の南嶺の頂上に磐座や古墳時代の祭祀跡があり、古代において神聖な島であったことがわかる。しかし、前述のような兵站を整えるにはあまりに小さな島である。また、高島神社の対岸にある児島も当時は文字通り島であった。大量の木材の伐採、砂鉄の採取、造船や製鉄のための広大な敷地の確保などを考えると、本土(現在の岡山市や倉敷市あたり)に拠点があったと考えざるを得ない。船団が逗留したことから海岸近く(ただし島ではない)か大きな河川沿いであろう。さらに伐採後の木材を運搬する必要があることを考えると大きな河川の存在は必須となる。尾道市から岡山市にかけて高島宮跡と伝えられる地は数多くあるが、先の条件を満たし、なおかつその後の吉備の発展を考えたときに最も相応しい候補地は、JR岡山駅から北東10キロ足らずの龍ノ口山の南西麓にある高島神社であろう。当時の海岸線はこの近くまで来ていたであろうし、鳥取県との県境あたりを源流とする旭川がすぐそばを流れている。ここから西へ20キロ足らずで備前国一之宮である吉備津彦神社と備中国一之宮の吉備津神社、さらには弥生後期の重要遺跡である楯築遺跡、そして築造の時代は少し下るが、全長360m、全国第4位の規模を誇る前方後円墳である造山古墳、同じく第9位の作山古墳も目と鼻の先にある。同盟国である吉備の首長が拠点を構えるこの地に立ち寄り、彼の協力の下で畿内侵攻の準備を整えた、と考えたい。
 ところでここでひとつ気が付いたことがある。神武は日向を出た後、宇佐、筑紫、安芸、吉備と立ち寄ってきたが、書紀によると宇佐・安芸・吉備においてはそれぞれ一柱騰宮・埃宮・高島宮という具合に宮を設けている。もともとあったのか寄港時に新たに作ったのかは別にして。一方で筑紫においては宮を設けたことが書かれていない(古事記では岡田宮と記されているが)。このことは宮を設けた宇佐、安芸、吉備が神武と関係のある国であり、筑紫はそうではなかったことの傍証になるのではないだろうか。
 吉備をもう少し詳しく見てみよう。神武東征の後、吉備が書紀に現われるのは第7代孝霊天皇のときである。別名を吉備津彦命とする彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)が孝霊天皇の子として登場し、第10代崇神天皇の時に四道将軍の一人として西道(山陽道)に派遣されて吉備を平定したという。その派遣に際して、第8代孝元天皇の皇子である武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)とその妻の吾田媛が謀反を起こしたことが発覚し、彦五十狭芹彦命が吾田媛の軍を、北陸に派遣された大彦が武埴安彦命を討った。この話には2つの興味がわく。ひとつ目は、なぜ崇神は神武王朝の同盟国であるはずの吉備を討ったのかということ、もうひとつは謀反を起こした武埴安彦命の妻の名に吾田がついているということ。吾田は阿多であり、武埴安彦命は天皇家の出身地である阿多から妻を娶っていたことが伺われる。同盟国を討ち、さらには自身の先祖のお里でもあるはずの阿多の女性とその夫であり第8代孝元天皇の皇子である武埴安彦命を殺害した崇神はやはり神武王朝の後継天皇であったとは考えにくい。
 また書紀によると、同じく孝霊天皇の子であり彦五十狭芹彦命の異母弟である稚武彦命(わかたけひこのみこと)は吉備臣の遠祖とされている。



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◆第三の寄港地「安芸の埃宮」

2016年11月06日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀によると岡の水門(不弥国)を出た神武は安芸の埃宮(えのみや)に到着し、しばらく滞在した。埃宮は古事記では多祁理宮(たけりのみや)となっている。広島県安芸郡府中町にある多家神社とされているが、この神社は曰く付きの神社である。主祭神は神武天皇と安芸国の開祖神である安芸津彦命であり、神社の公式サイトなどをもとに由緒を整理すると次のようになる。「記紀に記される多祁理宮あるいは埃宮が後に多家神社となった。平安時代には延喜式に安芸国の名神大社三社の1つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社(厳島神社)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられたが、その後、武士の抗争により社運が衰えて歴史上から姿を消した。江戸時代になると松崎八幡別宮境内の『たけい社』が埃宮であるとする南氏子と、安芸国内の神々を合祀した総社であるとする北氏子が激しい論争を展開した。広島県は斡旋に乗り出し、明治4年に松崎八幡と総社とを共に廃止して、別に新たに一社を設けることとした。旧両社の中間地点であり神武天皇の埃宮旧跡の伝承をもつ府中町上宮町の誰曾廼森(たれそのもり)に多家神社を造営し、中央に神武天皇を勧請し、松崎八幡と総社の神体をことごとく相殿に祭って一村の氏神と定めた。松崎八幡の境内には神武天皇が東征時に腰をかけたとされる御腰掛岩があり、神武ゆかりの宮であることを思わせるが、府中町のサイトによると松崎八幡は京都石清水八幡宮の別宮として平安末から鎌倉初めの創建とされている」。このように多家神社はその縁起が曖昧であり、神武がここに宮を置いた事実を素直に認めることができない。

 一方の速谷神社であるが、少し長くなるが神社公式サイトをもとに由緒などを概説すると「主祭神の飽速玉男命は古代、安芸国を開かれた大神で、成務天皇の時代に安芸国造を賜り、広く国土を開拓し、産業の道を進め、交通の便を開き、安芸国の礎をつくり固められた安芸建国の祖神である。歴史は非常に古く、鎮座の年代は明らかではないが創祀千八百年とも言われる。平安時代には中国九州地方では唯一の官幣大社として朝廷から特別に篤い崇敬を受けた。『延喜式神名帳』には『安芸国佐伯郡速谷神社名神大月次新嘗』と記載されて名神大社に列し、国家鎮護の神社として毎年月次祭、祈年祭、新嘗祭の三祭に神祇官の奉幣に預かった。延喜式所載の安芸国三社(速谷神社、厳島神社、多家神社)の中では速谷神社だけがこの殊遇をうけ、安芸・備後国はもとより、山陽道でも最高の社格を誇った。古くは安芸国一之宮であったとされるが、厳島神社が平氏に崇敬されるにつれて当社は厳島神社の摂社に数えられ、安芸国二之宮と称されるようになった。それでも平成の世になってからも天皇は三度、幣饌料を奉納している」ということだ。そして、東広島市西条にある三ツ城古墳は古代安芸地方を治めた阿岐国造の墓に推定されている。神社の由緒、歴史、天皇家による崇敬などを考えるとこちらの方が神武が宮をおいた場所として相応しいように思う。

 さらにもうひとつの厳島神社。ここは宗像三女神が主祭神であり、創建は推古天皇元年(593年)とされる。この地の有力豪族である佐伯鞍職(さひきのくらもと)が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に市杵島姫命を祀る社殿を創建したことに始まるとされ、神武の時代を大きく下ることになり、埃宮には該当しないが、ここには摂社として厳島神社よりも前に創建された大元神社がある。国常立尊、大山祇神、保食神(うけもちのかみ)、さらに厳島神社の初代神主である佐伯鞍職を祀っている。天地開闢の際に出現した最初の神である国常立尊、瓊々杵尊の義父である大山祇神などを祀っていることから神武のゆかりを感じさせる。

 私は、神武が埃宮をおいたのは速谷神社か大元神社であろうと考えるが、いずれの場合であっても神武がこの地に寄ったのは、船・兵士・武器・食料・水などの調達が目的だったのではないだろうか。書紀では3ケ月ほど、古事記では7年もの滞在期間が記されているが、戦闘も無くこれだけの期間を過ごすのはそれ以外の理由を考えにくい。



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◆第二の寄港地「岡水門」

2016年11月05日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 宇佐を出た神武一行がその次に向かったのは筑紫の岡水門(おかのみなと)である。書紀では「岡水門についた」と記されるだけである。遠賀川の河口近く、福岡県遠賀郡芦屋町に岡湊神社があり古代より良港として栄えた。縄文時代には遠賀川下流域は古遠賀潟と呼ばれ入り江が大きく広がっていたことは不弥国のところで書いた。万葉集にも「天霧らひ日方吹くらし水茎の岡の水門に波立ちわたる(あまぎらひ ひかたふくらし みずくきの おかのみなとに なみたちわたる。空一面に霧がかかり東風が吹いて来るらしい、岡の水門に波が立っている)」と詠まれ、このあたり一帯に水面が広がっていたことがわかる。また、遠賀川の「遠賀」は書紀にある「岡県」「崗之水門」や万葉集の「岡の水門」などが由来と考えられ、「おか」が「おんが」に変化したと考えられている。
 古事記によると神武一行は「筑紫の岡田宮に一年とどまった」ことになっており、書紀とは微妙に違いがある。北九州市八幡西区岡田町の黒埼にはこの「岡田宮」とされる「岡田神社」がある。黒崎は洞海湾に近く、洞海(くきのうみ)はかつて東西に広がる遠浅の湾で古遠賀潟によって遠賀川の河口と水路がつながっていた。いずれにしても神武一行は遠賀川河口あたりへやって来たことは間違いない。岡田宮に一年とどまったかどうかは定かではないが明らかに不弥国を目指してきたのであろう。遠賀川をさかのぼった福岡県飯塚市の立岩遺跡周辺にあった不弥国である。
 
 さて、神武はなぜこの不弥国へやってきたのか。不弥国は北九州倭国の東端の国であるが、関門海峡を経て北九州に侵攻してきた神武にとっては東端にある不弥国は北九州倭国への入り口となり、また不弥国が北九州における要衝の地であることは先に見た通りである。さらにこの地は東の投馬国、邪馬台国へ向かう拠点でもある。神武はこの地をどうしても押さえておく必要があった。前線で北九州倭国を破った神武はこの不弥国を統治下においてその勝利を確固たるものにしておきたかっただろう。神武はこの不弥国で北九州倭国との講和条約の締結に臨んだのではないだろうか。太平洋戦争に勝利したアメリカが日本を占領統治したのと同じ状況だ。

 こうして北九州倭国を押さえた神武はいよいよ畿内の邪馬台国へ軍を進めることになる。北九州の不弥国を出た神武は再び瀬戸内海にもどり安芸と吉備に寄港している。いずれの地においても記紀ともに戦闘の記述がない。加えて、それぞれで宮を設けて長期間滞在したことが認められる。宇佐と同様に安芸、吉備の地は神武の同盟国であったのだろう。この同盟関係、同族関係については後に触れるが、ひとまず神武東征を先に進めよう。


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◆宇佐神宮

2016年11月04日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 この宇佐神宮についてもう少し触れておこう。官幣大社で豊前国一之宮、主祭神は一之御殿に八幡大神(応神天皇)、二之御殿に比売大神(玉依姫あるいは宗像三女神といわれている)、三之御殿に神功皇后となっている。全国8万以上の神社の半数ほどを占めるといわれる八幡宮の総本山であり、皇室も伊勢神宮につぐ第二の宗廟として崇敬している。
 宇佐神宮が繁栄を謳歌するのは応神天皇が祀られるようになった以降、特に8世紀に入ってからである。旧記や古伝を集めた八幡宇佐宮託宣集によれば「571年に宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひぎ)が祈ると三才童児となり、『我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩』と託宣があった」とある。725年に八幡大神を祀る一之御殿が造営され、その後、740年の藤原広嗣の乱の際には官軍の大将軍である大野東人が戦勝を祈願した。また、743年の東大寺大仏建立の際に宮司等が託宣を携えて上京するとともに建立費を支援したことから中央との結びつきを強めた。そして769年の道鏡・和気清麻呂による宇佐八幡宮神託事件では皇位の継承にまで関与するなど、皇室の宗廟として伊勢神宮を凌ぐ程に大いに繁栄した。

 宇佐神宮の東南方向にある御許山の山頂付近に宇佐神宮の奥宮と言われる大元神社があり、3つの巨石が祀られている。御許山は古来、神が降臨する神奈備山として崇敬され、頂上にある巨石を神の降臨地とする磐座信仰が古代宇佐における最初の信仰であったと言われている。ここに新羅系渡来氏族である辛嶋氏が比売大神信仰を持ち込み、中央から派遣された大神氏が八幡信仰を興し、その後の発展へつながっていくこととなった。神武東征の際には素朴な信仰の地であった宇佐が、書紀が編纂される頃には国家権力を左右するまでの地位になっていたのは大変興味深いところである。いや、だからこそ書紀に宇佐を登場させたのだ。中臣氏(藤原氏)の祖とともに。



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◆第一の寄港地「宇佐」

2016年11月03日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 阿蘇山の北部、現在の大分県・福岡県・熊本県の県境あたりが狗奴国と倭国の戦場であったことは既に書いた通りであるが、宇佐はこの前線に供給する鉄製兵器を製造する拠点ではなかったろうか。宇佐は精錬から鉄器製造までの一貫プロセスを持つ地域であったと考えられる。宇佐のすぐ隣の国東半島東岸沿いの砂浜は砂鉄の宝庫であった。昭和29年に中沢次郎氏・丸山修氏が行ったこのあたりの砂鉄鉱床についての調査報告書によると、調査した昭和29年時点においても12ケ所の砂鉄鉱山が稼動していたという。国東半島はその中心にある両子火山の噴出物で形成されており、大半が安山岩である。この安山岩は磁鉄鉱を含んでおり、四方に流れ落ちる急峻な河川により岩が砕かれ砂鉄となって下流に流れていく。結果、河口付近の砂浜に堆積した浜砂鉄、波に打ち上げられた打上砂鉄が豊富に蓄積されていく。先に薩摩半島や大隅半島で見たのと同じ状況が実はここ国東半島にもあった。

 大分空港のすぐ北、国東町重藤にある重藤遺跡ではその製造時期が何と紀元前695±40年とされるとてつもなく古い鉄剣が出土した。さらに国東半島一帯には2万トンとも3万トンとも言われる鉄滓があるという。鉄剣の製造年代の真偽はさておき、古代より精錬製鉄が行われていた証左となろう。また、大分空港を挟んで南側には宇佐神宮に祭られている比売大神の前住地とされる奈多八幡宮が隣接しており、宇佐と鉄のつながりを類推させる事実として興味深い。
 この重藤遺跡の北側、国東港わきに流れ込む田深川の下流域右岸にある安国寺遺跡は弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡で、低湿地帯であったために保存状態がよく、鍬や田下駄などの木製農具や高床倉庫あるいは住居の建築部材、杭や矢板、300以上の柱穴、炭化米、植物の種や実、花粉などが出土したことから「西の登呂」と呼ばれてきた。二重口縁壺に特殊な櫛目模様を付けたこの地方独特の土器も見つかり、遺跡名にちなんで安国寺式土器と命名された。稲作を行っていたであろうこの集落は製鉄に従事した人々が暮らす村だったのではないだろうか。

 宇佐と接する国東半島はこのように一大製鉄産地であった。書紀によると、日向を出た神武一行はこの宇佐の地で宇佐国造の祖である菟狭津彦(うさつひこ)・菟狭津媛(うさつひめ)の歓待を受けた。菟狭津彦・菟狭津媛は古くから宇佐に住む土豪と考えられ、書紀には神武一行を歓待する為に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を宇佐川の川上に設けたとなっている。この宇佐川は現在の駅館川とされており、その下流右岸、宇佐神宮の北西3キロほど行ったところの台地上に川部・高森古墳群があり、前方後円墳6基、円墳120基など3世紀から6世紀にかけての古墳が密集している。これは九州では西都原古墳群につぐ規模である。なかでも全長57.5mの赤塚古墳は3世紀末の築造で九州最古の前方後円墳とも言われ、三角縁神獣鏡4面、三角縁神竜虎鏡1面、管玉3個、鉄刀片3個、鉄斧1個などが出土し、この地の有力者の墓であることは間違いない。また、他の5つの前方後円墳は以下のように時の経過とともに築造されている。免ケ平古墳(4世紀、全長50m)、福勝寺古墳(5世紀、全長80m)、車坂古墳(5世紀、全長60m)、角房古墳(5世紀、全長46m)、鶴見古墳(6世紀、全長31m)という具合だ。このことから、これら6基の前方後円墳は有力者一族の代々の墓が継続的に築造されたと考えられる。そしてその有力者一族とは宇佐国造の祖である宇佐族、いわゆる宇佐氏であろう。この川部・高森古墳群から駅館川を上っていくと右岸には環濠集落である東上田遺跡、野口遺跡、上原遺跡、小向野遺跡、左岸には別府遺跡と弥生時代の遺跡が密集している。宇佐一族を長として栄えた一帯であったと考えられる。また、この一帯と目と鼻の先のところに現在に至るまで絶大な力を保持し続ける宇佐神宮(宇佐八幡宮)がある。

 ともかく、古代の宇佐はそういう地であった。果たして神武は何の目的でここに立ち寄ったのだろうか。書紀の記述には戦闘の記述はなく、逆に首長が嬉々として一行を歓迎している様子が描かれている。また、浜砂鉄を原料とする製鉄一貫プロセスの技術はまさに南九州のそれと同じである。宇佐の地は神武の勢力範囲、同盟国ではなかったろうか。北九州倭国との戦闘に兵器や兵士を供給する兵站基地としての役割を果たしたのではなかろうか。宇佐から国境地帯に出陣すれば背後から挟み撃ちにすることが可能となる。宇佐の存在が国境戦における狗奴国の勝利を確定的にしたとも言えるだろう。神武は宇佐の首長をねぎらうため、さらには宇佐との関係性をより強固なものにするためにこの地を訪問したのだろう。
 書紀には「菟狭津媛を神武の家臣である天種子命(あめのたねこのみこと)に娶らせた。 天種子命は中臣氏の遠い祖先である」と書かれている。乙巳の変の立役者である中臣鎌足や書紀が完成する頃に絶大な力を持っていた藤原不比等につながる中臣氏の祖を登場させたということは、その後の政権と宇佐との関係性を予見させ、さらには中臣氏が祭祀を司る氏族であったことがその後の宇佐神宮の繁栄につながったということを想像させるに十分な効果があろう。



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◆神武東征

2016年11月02日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 神代巻が終わり、いよいよ神武天皇紀に入る。ここからは神武東征を順に考えていくことにする。まず、神武天皇が東征するにいたった状況を書記に見てみよう。彼は45歳になったときに兄弟や子供にこう言った。「昔、高皇産霊尊と天照大神がこの豊葦原瑞穗国を祖先の瓊々杵尊に授けた。瓊々杵尊は天の戸を押し開き、雲路をかき分け、先払いを走らせてから地上に降りた。そのとき世は太古の時代でまだ明るさも十分でなかった。その暗い世の中にありながら正しい道を開き、この西のほとりの土地を治めた。代々の父祖の神々は祝い事や尊敬されるような事を重ねて多くの年月を経た。天孫が降臨してから179万2470余年になる。しかし、遠いところの国ではまだ天津神の恩恵を得られず、その地の国には王がいて、村には長がいて、境界を設けて互いに争っている。 ところで塩土老翁に聞くと、東に良い国があり、青い山に囲まれている。その中に天磐船に乗って飛んで降りた者がいるという。思うにその土地は必ず大業を広め、天下を治めるに相応しい場所だろう。きっとこの国の中心となるだろう。その飛び降りた者とは饒速日(にぎはやひ)だろう。その土地へ行って都にしようではないか」
 瓊々杵尊が降臨して治めたのが西のほとりの土地、日本列島の西のドン詰まり、すなわち九州南部である。そこから離れたところでは国々が境界を定めて争っているという。倭国大乱の状況を記したのだろうか。そして東には四方を青い山々に囲まれた良い国があり、天津神と同様に天から降りた饒速日がいる。この地はまさしく畿内の大和であり、その地を治める饒速日がいることを知りながらそこに都を作ろうという。これはまさしく饒速日に取って代わって王になろうという意思表示である。

 さて、北九州倭国と狗奴国の国境線における戦闘では、前線で武器を生産して供給を続けることができる狗奴国が常に優勢であったと考えられる。狗奴国は前線での勝利をほぼ手中にしていた。そのタイミングで狗奴国王は自らの指揮のもと、北九州倭国を統治し、さらに倭国の本丸である畿内の邪馬台国を制圧する目的で狗奴国を発った。狗奴国王とは倭人伝にある卑弥弓呼であり、書紀にある神日本磐余彦尊(のちに即位して神武天皇となるが、便宜上、以降は神武天皇あるいは神武と記すこととする)のことである。
 もともと東シナ海を航海できるほどの海洋技術を備えていた狗奴国の王である神武は自ら舟軍を率いて、海路にて瀬戸内海を経て畿内を目指そうとした。その出発の地は阿蘇の東南、現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町あたりではなかっただろうか。ここには高千穂神社があり、祭神として高千穂皇神、すなわち日向三代と称される皇祖神とその配偶神全てを祀っている。国境戦の大本営として、あるいは狗奴国北進後の北の都として機能した拠点だったと考える。
 大本営の高千穂を出発した神武一行は五ヶ瀬川を船で下り、現在の延岡市から日向灘へ漕ぎ出した。この出航の地について、古事記には日向の名を記しているが書紀には記述がない。現在の日向市の南、耳川の河口に美々津という所がある。ここは神武東征出発に関する伝承が多く残っている。一行の出発が急遽早まったため、早朝に里人を起こして回ったとする伝承から「起きよ祭り」という祭りがある。また、美々津には「つき入れ餅」という餅があるが、一行の出発にあたり、餅の餡を包んでいる時間が無かったため小豆と餅を一緒につき込んで渡したことから名づけられたという。しかし、高千穂を出発したと考えれば出航の地は五ヶ瀬川河口とするのがよいだろう。ちなみにこの五ヶ瀬川の上流には西臼杵郡五ヶ瀬町があり、神武の長兄である五瀬命との関連を想起させる。五ヶ瀬川から日向灘へ出た神武一行の第一の寄港地は宇佐であった。なぜこの宇佐に上陸する必要があったのだろうか。



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◆日本神話の源流

2016年10月28日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 さて、書紀における海幸山幸の説話は本編のほかに一書が第1から第4まである。それぞれに内容がしっかりと書かれていて全部合わせるとかなりのボリュームになり、神代巻の中では出雲神話に次ぐ文量である。このことは海幸山幸神話が神代巻の中でも特に重要な意味を含んでいるということだ。

 文化人類学者の後藤明氏によると、海幸山幸神話には釣針喪失譚、異境探訪譚、大鰐に乗る話、異類婚のモチーフなどが見られ、これらのモチーフは東南アジアや南太平洋にその源流が認められるという。後藤氏が雑誌「Seven Seas」に投稿された記事をもとに少し確認しておきたい。
 海幸山幸神話は弟の山幸彦が兄の海幸彦の釣針を失くしてしまうことが発端になる。これと同じような発端を持つ神話はスラウェン(旧セレベス島)の北端のミナハッサ地方に伝わる話など、インドネシア付近に多く、さらに釣針を失くして探しに行く話は同じくインドネシアのチモール島、ケイ島、メラネシアのソロモン諸島、あるいはミクロネシアのパラウ諸島など南太平洋に連綿と見いだせるという。
 次に大鰐に乗る話。海幸山幸神話の一書(第1)や一書(第3)では山幸彦が海神の宮から戻るときに鰐に乗って戻ったとあり、また一書(第4)では海神の宮に行くときに鰐に乗っている。鰐は古事記の因幡の白兎にも登場する。この鰐は鮫であると言われているが、中国の揚子江流域には淡水性の鰐がおり、東南アジアのマレー鰐もかつては中国南部海岸にまで棲息していた可能性があるらしい。鰐が日本に棲息していたかどうかはわからないが、中国から鰐の知識が持ち込まれて鮫のイメージと融合して定着した可能性があるという。そして鰐のような大きな水棲動物に乗って海上を移動する話はマレー半島をはじめとする東南アジアに多く見つけられる。
 山幸彦は海神の娘の豊玉姫と結婚したが、この豊玉姫は鰐であった。このように人間と動物との結婚は異類婚と呼ばれる。ベトナム、ミャンマー、カンボジアなど東南アジアの王権起源の神話にはこの異類婚が多く、人間の男が動物の女と結婚して息子を作り、その子が新たな王国をつくるというストーリーが一般的だという。

 これに対して、学習院大学の名誉教授で芸能史学者の諏訪春雄氏の説を見てみたい。諏訪氏によると、記紀の天孫降臨神話は朝鮮半島から内陸アジア地域にかけて広く分布する祖神の天降り神話に由来するという定説に対して、南方の長江流域の少数民族社会にも祖先が穀物を持って天から下ったという神話や伝説が流布していることから、天孫降臨神話は北方諸民族の山上降臨型神話によってその骨格が形成され、これに天から穀物をもたらし地上の人類の祖先となる南方農耕民族の神話が融合して誕生した、と唱えた。出雲の根の国神話についてもその由来を長江流域の少数民族の神話や伝説に求めることができるという。さらに諏訪氏は、東南アジアの兄妹始祖洪水伝説の系列に属するとされていた記紀の国生み神話が、実は長江流域に数多く発見される洪水神話に基づくことを論証し、東南アジアで発見される洪水神話もその分布状況から判断して中国から伝播したものである、つまり洪水神話はその源流は長江流域であるとしている。そしてこれと同じ理屈で、海幸山幸神話の原型も長江流域の伝承が取り込まれたのだと主張する。

 諏訪氏によると、海幸山幸神話のみならず日本神話の源流を東南アジアに求める傾向があり、その理由を2つ挙げている。第1の理由は、中国神話の調査が不十分だったということ。中国は幾度も王朝が交替したが、そのたびに新しい歴史が作り直され、前王朝の遺制が破壊されて体系的な神話や伝承が後世に残されなかったということ。第二の理由は、それに比べて東南アジアの研究がはるかに進んでいたということ。しかもその研究のほとんどは欧米の学者によるものだという。欧米の研究者による東南アジア研究が先行し、中国少数民族社会の研究は文献資料を欠くために著しく立ち遅れていた。これによって日本神話の原型を東南アジアに求める傾向が強くなったという。
 
 海幸山幸神話は東南アジアから来たものか、それとも中国長江流域からのものか。東南アジアに由来するとする考えが通説のようであるが、私は諏訪氏の主張に一票を投じたい。神話の源流地とはその神話を書かせた当事者の源流地に他ならないと考えるからである。これまで何度も書いてきたように、記紀編纂を命じた天武天皇の源流は中国江南の地である、とするのが私の考えであるから。



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◆海幸彦・山幸彦

2016年10月27日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 天孫降臨に続いて瓊々杵尊の子の話はさらに続く。いわゆる海幸彦・山幸彦の説話である。瓊々杵尊と鹿葦津姫の間に生まれた三人の子のうち、長男の火闌降命が海幸彦、次男の彦火火出見尊が山幸彦である。
 兄の火闌降命には海で魚を採る「海の幸」があり、弟の彦火火出見尊には山で鳥や獣を採る「山の幸」があった。 二人は互いの「幸」を交換してみたが、弟のは兄の「幸」である釣り針を失くしてしまった。弟は困って刀を壊して新しい釣り針を造ってカゴ一杯に盛って渡そうとしたが兄は「いくらたくさんの針であってももとの釣り針でなければ受け取らない」と怒って言った。この場面では弟の彦火火出見尊は製鉄の技術を持っていたということがわかる。刀を作ること、刀を溶融して釣り針に作り替えることができたのだ。大陸から南九州へやってきた一族が製鉄技術を持っていたことはすでに書いたが、この一文からもそのことが読み取れる。
 その後、途方に暮れた山幸彦を助けたのが塩土老翁(しおつちのおじ)である。塩土老翁は継ぎ目の無い細かい籠に山幸彦を乗せて海神の宮殿に送り出した。天孫降臨において日向の高千穂の峯に天降った瓊々杵尊が笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)が登場し、瓊々杵尊に自分の国を奉っているが、一書(第4)によるとこの事勝因勝長狭神の別名が塩土老翁で、伊弉諾尊の子であるとしている。
 山幸彦は海神の宮殿で海神の娘である豊玉姫を娶って3年を過ごすこととなったが、3年後に山幸彦が海神の宮から戻りたいと申し出たとき、海神は山幸彦に潮満瓊(しおみつたま)と潮涸瓊(しおひのたま)を持たせた。これは潮の満ち引きを自由にコントロールできる玉で、彦火火出見尊はこの玉を使って兄の火闌降命を平伏させ、火闌降命が「今後、私はお前の俳優(わざおさ)の民となって仕えるので、どうか許してくれ」と言ったので容赦したという。ここから2つのことが読み取れる。1つは彦火火出見尊は潮の干満を操る玉を手にしたことから、潮の干満や潮流を見極める術に長けた海洋族であったのだろうということ。もう1つは大和政権において隼人の舞を踊る民、律令制下での隼人司の起源がここにあり、俳優の民として描かれていることである。海幸彦の苦しむ姿が隼人の舞を表しているとも言われる。書紀には火闌降命は隼人らの始祖であると記されている。

 山幸彦の彦火火出見尊は製鉄技術を擁した海洋族であったこと、海幸彦の火闌降命は隼人の始祖であったこと、そしてこの2人が兄弟として描かれていること、などから江南海洋族と九州南部に居住していた隼人の始祖と呼ばれるようになる先住集団が近しい関係にあったということが書紀編纂当時の認識であったことが認められる。さらに、山幸彦が海幸彦を従えたという結末は、海洋族がこの先住集団を取り込んだことを表している。その結果、両者が一体化して隼人族と呼ばれるようになったのだろう。

 天孫族直系の系譜は瓊々杵尊、彦火火出見尊、盧茲草葺不合尊と続いたあと、初代天皇の神武天皇に至る。この神武天皇は瓊々杵尊と同様に日向国吾田邑出身の吾平津媛(あひらつひめ)を妃としていることから神武は隼人の地で隼人族を従えたということが言えると思う。隼人に天孫の血が入っていることは当時の誰もが否定できない事実であったと先に書いたが、逆に天皇家が隼人族の出身であることもまた否定の出来ない事実になっていたのではなかろうか。



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◆天孫降臨(大山祇神と隼人)

2016年10月25日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 瓊々杵尊の后である鹿葦津姫は別名を木花開耶姫、さらには神吾田津姫(かむあたつひめ)という別名も持つ。つまり、大陸江南から日本列島にやってきた瓊々杵尊は地元「吾田」の娘と結ばれた。そして、この娘は自らを「天神が大山祇神を娶って生んだ子である」と言った。

 大山祇神は別名を和多志大神(わたしのおおかみ)といい、海神(わたつみ)につながることから山の神のみならず海の神でもある。瀬戸内海の大三島にある全国の山祇神社の総本山である大山祇神社に訪れたことがある。まず大三島そのものは東西軸では関門海峡から明石海峡にいたる瀬戸内海の真ん中に位置し、南北軸は四国の愛媛県今治市から大島、伯方島を経由して大三島、そして生口島、因島、向島を経て本州の広島県尾道市につながるいわゆる「しまなみ海道」のちょうど中間地点にあたり、まさに瀬戸内海の中心に居座る島である。大山祇神社はその大三島の西側の湾になったところの真ん中あたり、海岸から程近いところにあり、実際に行ってみると山の神というよりもまさに海の神という印象が強烈である。大山祇神は瀬戸内海航路を押さえていた海洋系一族の首長ではないだろうか。天孫降臨の段で瀬戸内海を押さえる大山祇を登場させておいて、その後の神武東征とその時の宇佐や安芸、吉備との関係を語りやすくしているような気がする。

 鹿葦津姫が産んだ三人は、第一子が隼人の祖とされる火闌降命、第二子が彦火火出見尊、第三子が尾張連の祖である火明命である。天孫の瓊々杵尊と吾田の娘である鹿葦津姫の子が隼人の祖になっている。まさに阿多隼人である。これは隼人族に天孫の血が入っていることを伝えている。隼人は5世紀以降に畿内に移住して近習隼人として履中天皇や雄略天皇の傍に仕えたり、「隼人司」として6年交代で宮中の警護に当たったりしただけでなく、彼らの犬の吠え声を真似た儀礼が魔除けの力をもつと信じられた。また、隼人の首長には新しい姓も授与された。685年に畿内在住の豪族11氏に忌寸姓が賜与されているが、その中に「大隅直」が入っていることから推察できる。大隅直は大隅半島の隼人族と考えられ、その一部がこの時期までに畿内に移住して隼人集団を率いて朝廷に従っていたとみられるからである。このように大和政権における隼人は決して辺境の蛮族として冷遇されたわけではなく、むしろ天皇家を支える役割を担い、天皇家にとって近しい存在であったと考えられる。天武天皇崩御のときに大隅および阿多の隼人が諸氏とともに誄(しのびごと)をした(弔辞を述べた)ことが何よりの証左となろう。当時、天皇家が隼人の地から来たことが周知であったため、その隼人に天孫の血が入っていることを誰も否定することはできなかった。火明命の尾張氏も同様である。尾張氏は壬申の乱で吉野を脱出した天武天皇(当時は大海人皇子)に援助の手を差し伸べるなど書紀編纂を命じた天武天皇にとって最も重要な氏族であったので、この神話の段階で天孫の血統であることを伝えた記述を他の氏族は否定することができなかった。



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◆天孫降臨(薩摩半島の野間岬)

2016年10月24日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 それにしても、天孫が降臨する場所がなぜ南九州であったのか。記紀編纂時、政権は大和にあった。そうであれば直接大和に降臨させても良かったのに、何故そうしなかったのか。大陸を出た天皇家の祖先が南九州に流れ着いたという伝承が消すに消せないものになっていたのだ。
 また書紀では、降臨した瓊々杵尊はその後、大山祇神(おおやまつみのかみ)の子である鹿葦津姫(かしつひめ)を娶る。姫は一夜で身蘢り、瓊々杵尊に国津神の子ではないかと疑われたため、その疑いを晴らそうと産屋に火をつけて火の中で三人の子を産んだという。この話は桜島、霧島、阿蘇など南九州の火を噴く火山を連想させ、天孫降臨の地がこの一帯であったことを暗示しているのではないか。
 瓊々杵尊は降臨のあと、「笠狭碕(かささのみさき)」に向かった。薩摩半島の野間岬と考えられているが、「笠狭碕」の場所は降臨の場所よりも重要である。先述したように、もともと大陸から海を渡ってやってきたとは言えないから天から峯に降りたことにしたので、降臨した場所はそもそも架空の場所である。しかし「笠狭碕」は実際に海を渡って到着した場所を表しているのではないだろうか。そして一般的には薩摩半島の野間岬であると言われている。江南地方から最も近い九州島の地が薩摩半島である。

 野間岬の南に坊津町がある。8世紀に入って新羅との関係が悪化したことから遣唐使船が朝鮮半島を経由しないルート(南路および南島路)を取るようになったが、この南島路の拠点が坊津であった。753年、鑑真和上が5度の渡航失敗の末にたどりついた場所でもある。この九州の南のはずれをわざわざ拠点にしたのは、当時すでに東シナ海を渡るための港がここにあったからであろう。また、この坊津は室町時代には倭寇や遣明船の寄港地となり、大陸をはじめ琉球や南方諸国との貿易拠点にもなった。鎖国時代には密貿易の拠点にもなったようだ。坊津のすぐ近くにはカツオの水揚げが全国有数規模を誇る枕崎の港もある。このあたりは古代より東シナ海を往来するときの一大拠点であった。
 また、野間岬の北、南さつま市金峰町に高橋貝塚がある。縄文晩期から弥生前期の遺跡で、牡蠣類の貝殻のほか、石器・土器・鉄製品に混じって貝製品が出土している。南島産のゴホウラ貝を加工した貝輪もあり南島との交流が伺われる。さらに北へ行くと市来貝塚がある。縄文時代後期を主とする貝塚で、南九州の縄文後期を代表する「市来式土器」の標式遺跡である。市来式土器は南は沖縄県から九州全域で出土し、地域間の文化交流を示す重要な土器型式となっているが、この交流も船を使って行われた。
 要するに薩摩半島、とくに西側の野間岬の近辺は海を舞台に活動する海洋民族の拠点であったと言うことだ。そしてこの薩摩半島一帯に居住していた集団が薩摩隼人または阿多隼人と呼ばれた隼人族である。隼人は海洋民族であった。江南の地を離れ、東シナ海を集団で渡ってくる航海技術をもっていたのだから当然といえば当然であった。この一帯は8世紀に薩摩国が設置される以前、アタ(阿多又は吾田と表記される)と呼ばれていた。そして書紀には「吾田国の長屋の笠狭碕」と記されている。


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◆天孫降臨(日向の高千穂峯)

2016年10月23日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 さて、出雲神話のあとはいよいよ天孫降臨である。書紀本編によると天孫である瓊々杵尊は「日向の襲の高千穂の峯に降った」となっている。この高千穂の場所についての議論が盛んである。古事記に「筑紫の日向」と書かれており、筑紫とあるから宮崎の日向ではなく福岡の日向(ひなた)であるという論が出されているが、「筑紫」の文字が入っていない書紀本編を素直に読めば、現在の宮崎・鹿児島の県境、霧島連峰にある高千穂峯と考えるのが妥当であろう。「襲」は熊襲の襲である。また、古事記には「韓国に向かい」という記述があるが、これは「唐国」として中国であると解することができる。また「空国」として人々の住んでいない土地、あるいは自分たちが逃れてきたため空になった土地、すなわち大陸江南の地、と解することも可能である。稗田阿礼が「カラクニ」と暗誦するのを太安万侶が「韓国」と記載したのであろう。いずれにしても書紀にない記述なので固執するところではない。
 ちなみに、記紀に記された降臨のシーンは以下のようになっている。「筑紫の日向」としているのは書紀の一書(第1)と古事記の2例のみである。

  
 

 高千穂峯の麓には霧島神宮があり主祭神として瓊々杵尊が祀られ、相殿神として木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)、盧茲草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、玉依姫尊(たまよりひめのみこと)、神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)が祀られている。日向三代とそれぞれの配偶神、さらに神武天皇を加えた計7柱が祭神となっている。記紀編纂の前、6世紀の欽明天皇の時代に慶胤(けいいん)という名の僧侶に命じて高千穂峰と御鉢(おはち)の間に社殿が造られたのが始まりとされているので、古くからの神奈備信仰に天孫降臨説話が結びついたものと考えられる。あるいは記紀編者が意図的にこの神奈備信仰に天孫降臨を合わせたのかもしれない。
 しかし、瓊々杵尊が高天原から高千穂の峯に降り立ったということは、天皇家の祖先が日本列島の外からやってきたことを比喩的に表しているのは明らかである。まさか正史に「天皇家は中国大陸から船に乗ってやってきた」とは書けないのでこのように表したまでのことだ。そう考えると降り立った場所は阿蘇山や桜島、薩摩半島の開聞岳でもよかったが、南九州でもっとも霊験ありそうな山である高千穂峯を選んだということだ。ちなみに「峯」は「峰」と同じであり、神域とみなした山に対して用いる文字である。「高千穂峯」は「山」でもなく「岳」でもなく「峯」の字が使われ、しかも現在でも呼称として続いていることに重要な意味を認めたい。



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◆葦原中国の平定(国譲り・第三段階②)

2016年10月22日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 高皇産霊尊は再び神々を集めて次は誰を派遣すればいいかを問うたところ、経津主神がいいということになった。ところがそれを聞いた武甕槌神は経津主神だけが丈夫(ますらお=勇気のある強い男)ではない、自分も丈夫である、と言って一緒に葦原中国に行くことになった。二人して大己貴神に対して国譲りを迫った。しかし大己貴神は「わが子に相談したい」と答えた。そしてその相談したかった子が事代主神である。前回で書いたように事代主神は葛城の神である。二人の丈夫が降り立ったところが出雲の五十田狭之小汀であり、事代主神が釣りをしていた場所も同じく出雲の三穂之碕であるので、いかにも出雲での出来事のように考えてしまうが、よく考えてみると国譲り第一段階において既に出雲の支配権は高天原一族の手に渡っているのである。また、第二段階の話は出雲ではなく葛城の話であった。とすると、この国譲り第三段階の場も出雲ではないと考えられる。出雲の地名になっているのはあくまで書紀の読者には出雲での出来事と思わせたいという意図が見える。
 ではこの国譲り第三段階は出雲でなければどこで行われたのだろうか。私はその場所を大和の纏向であったと考える。大己貴神はその幸魂奇魂が三輪山に祀られている。高天原一族はその三輪山の大己貴神に対して纏向の地を譲れと迫った。三輪山の祭祀権をよこせとも迫ったであろう。

 そうか! 国譲り第一段階で出雲の支配権を手に入れたのは高天原一族ではなく、崇神王朝だ! 書紀はそれを高天原一族の事蹟としたのだ。とすると、これは邪馬台国が倭国を統治したことの投影ということになりはしないか。
 そして第二段階では、日向から大和に入った高天原一族(=神武王朝=狗奴国)が大和で葛城を手に入れて基盤を築いた。あとで触れることになるが、葛城の味耜高彦根神や事代主神は鴨族の神である。そして鴨一族は神武と同じく江南系の海洋族であった。神武は葛城を支配したわけではなく、同族として相互支援の関係を構築した。そして神武王朝は出雲の支配権を手に入れた崇神王朝に対して決戦を挑んだ。これが国譲り第三段階の真相ではないだろうか。九州において北九州倭国と戦った狗奴国(=神武王朝)はこの大和の地で倭国大本営である邪馬台国(=崇神王朝)と決戦することになった。しかし、天皇家が自ら編纂を手がけた記紀において、万世一系であるはずの天皇家どうしが戦ったとは決して書けない。だからこそ、設定上の出雲を舞台に、敵を大己貴神として描いた。実際の舞台は邪馬台国、すなわち三輪山の麓の纏向で敵は崇神王朝であった。これで事代主神が登場する理由も納得がいく。舞台は大和、事代主神は葛城の神で神武側の神である。彼は託宣の神であり、彼が言うことは神のお告げとして為政者はそれに従うのが常である。だからここに事代主神が登場したのだ。

 ここで古事記における国譲りを見ておきたい。古事記と書紀を比較すると、第一段階、第二段階においては概ね同様の内容となっているが、第三段階において少し相違が見られる。古事記では、葦原中国に派遣された建御雷神(建御甕神)に帯同したのは経津主神ではなく、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)となっている。経津主神は後に完成した書紀にのみ登場するので、登場させたい何らかの意図があったものと考えられる。神武東征で神武軍が熊野に上陸して土地の首長と戦った後、神の毒気にやられて全員が気絶してしまったときに武甕槌神が神武軍を助けるために天から刀剣をおろした。その刀剣を布都御魂(ふつのみたま)といい、それが神格化したものが経津主神であると言われている。神武東征で再度登場させるために国譲りで威厳を高めておいたのか。また、千葉県の香取神宮には経津主神が主祭神として祀られている。常総の地は書紀編纂当事に絶大な力を誇っていた藤原氏の本拠地であったことから藤原氏への配慮があったのか。
 記紀の相違がもうひとつ。書紀において大己貴神は国譲りの返答を子である事代主神にのみ委ねたが、古事記ではさらにもう一人の子である建御名方神にも答えさせている。建御名方神は国譲りを受け入れることができずに戦うことを選択した。しかしその結果、建御名方神は敗れて信濃の諏訪湖まで逃げることになった。この話は神武王朝が信濃の国をも支配下においたことを伺わせるが、何らかの理由で書紀では省かれることになった。

 ここまで国譲りを考えてきたが、最初は三段階の全てが高天原一族、すなわち日向一族(=神武系)による葦原中国の段階的制覇であるとして書いてきたが、ここに至って、第一段階はそうではなかったと考えるようになった。第一段階は大和の纒向にある崇神王朝、すなわち邪馬台国による出雲(投馬国)制圧の話であった。そのように考えたときに、さらに合点がいくことがある。崇神王朝は出雲から大和にやってきた少彦名命が開祖である。少彦名命と大己貴神は出雲において国造りで共に苦労してきた仲間である。しかし少彦名命はその仲間である大己貴神と袂を分かって大和へきた。二人は対立関係になり、そしてついには少彦名命が大己貴神に勝利したのである。この一大決戦のあと、大己貴神を弔う社が出雲に建てられた。それが出雲大社である。
 ここに国譲りは完結する。神武王朝は崇神王朝に勝利してようやく大和をおさえ、葦原中国を平定することになる。大己貴神と少彦名命が苦労して作り上げた出雲と大和纒向も、結局最後は日向一族である神武王朝が総取りすることになったのだ。

 出雲神話の最後に少しだけ付け足しの話を。古事記の出雲神話にある「稲羽之素兎(因幡の白兎)」の話は書紀には記載がない。また、大国主神の兄弟である八十神による数々の試練の中に出てくる「伯岐国之手間山(伯耆の国の手間の山)」の話も書紀にはない。それぞれの話の内容は割愛するが、伯耆には妻木晩田遺跡、因幡には青谷上寺地遺跡がある。さらに伯耆にも因幡にも四隅突出型墳丘墓がある。古事記における出雲神話は書紀よりも実態を反映したものであったのかもしれない。



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◆葦原中国の平定(国譲り・第三段階①)

2016年10月21日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 いよいよ国譲りの第三段階であるが、これを考える前に私がここまで書いてきた、あるいはこれから書こうとしている物語における重要なポイントを箇条書きにして確認しておきたい。

●日本列島における縄文時代から弥生時代への変化は大陸からやってきた人々によってもたらされた。
●大きくいえば、中国江南から東シナ海を渡ってきた人々と中国中原あたりから朝鮮半島をわたってきた人々によるものであった。
●前者は南部九州から中部九州を中心に文化を発展させていき、北部九州を侵食しながら瀬戸内、そして畿内へと勢力を拡大しつつあった。(この南部九州から中部九州を勢力範囲とする国が魏志倭人伝にいう狗奴国である)
●後者は北部九州から日本海沿岸の山陰各地域にかけて小国による衝突を繰り返しながら出雲を中心に次第にまとまりつつあった。(これら小国の連合体が魏志倭人伝にいう倭国である) 
●この2つの勢力はそれぞれに紆余曲折を経ながらも、いずれも列島外からやってきた天津神集団として日本国の骨格を形成していく。
●そして大和の地において、前者は神武天皇に始まる神武王朝を、後者は崇神天皇に始まる崇神王朝を成立させる。(この崇神王朝こそが魏志倭人伝にいう邪馬台国である)
●記紀には神武王朝に続いて崇神王朝が成立したとあるが、実際は両王朝が並立してにらみ合いつつ、崇神王朝が優勢な状況であった。
●その崇神王朝を倒して政権の座に就いたのが応神王朝で、さらに継体王朝を経て天武王朝へとつながる。
●記紀編纂を命じた天武王朝は神武王朝と同系統、すなわち中国江南の流れを受け継ぐ集団であった。

 後半部分の論証はまだできていないが、大まかに言えばこういうことになる。
 そして、この考えの下で記紀を何度も読んでいるうちに、もう一つの考えが浮かんできた。記紀では、神武王朝のあとに崇神王朝という順に書かれているが、実際のところは並立していたと私は考えている。ということは記紀において崇神王朝の事績として描かれていることであっても、それは神武王朝の後のこととは限らない。神武王朝よりも前に起こっていたことかもしれない。そして私は、崇神王朝の事績でありながら神武王朝よりも前に起こったことを神代巻、特に出雲神話の中に表現したのではないかと考えた。神武王朝よりも先にあった崇神王朝の事績を神話の中に神の事績として書き、その後の崇神紀には崇神の事績としてより具体的に書いた。だから神代巻と崇神紀は次のようによく似た話が出てくる。

 たとえば八岐大蛇の話。素戔鳴尊が大蛇の尾を斬ったときに剣が出てきたが、この剣は三種の神器のひとつの草薙剣であり、素戔鳴尊はこれを天津神に献上したという。一方、崇神紀では出雲の神宝を矢田部造(やたべのみやつこ)の遠祖にあたる武諸隅(たけもろすみ)を派遣して献上させようとした、とある。出雲の神宝が剣であったかどうかわからないが、神器を取り上げるという点でよく似た話である。
 同じく八岐大蛇の話。古事記では高志之八俣遠呂知とされ、また出雲国風土記にある大己貴神による「越の八口」の平定話とあわせて素戔鳴尊が越を平定したことの表れとされるが、崇神天皇は越を平定するために四道将軍の一人として大彦命を派遣している。(ただし、私は「八岐大蛇=越」という考えはとらず、四隅突出墳丘墓の分布と変遷から素戔鳴尊のときに出雲が越に進出して支配権を確立した、と考えていることは先に書いた。)
 国造りのあと、大己貴神は海を照らしてやってきた自らの幸魂奇魂を大和の三諸山(三輪山)に祀った。そして崇神天皇は、疫病や農民流浪による国民の疲弊を治めようと大田田根子をして三輪山に大物主神を祀らせた。神話の世界は神の事績が書かれているという点で問題ないが、ここでは神(大己貴神)が神(自分の幸魂奇魂)を祀るという不自然なことになってしまっている。実際は三輪山に神を祀ったのは神ではなくヒトであった。それを無理やりに神話の世界に押し込めたためにこのようなことになった。そのヒトとは、先に書いたとおり崇神一族であっただろう。
 素戔鳴尊は自分の子孫の国に浮宝(船)がなければ困るだろう、と言って杉と檜を船の材料に定めたが、崇神天皇は、船が無くて困っている人民を見て諸国に船舶を造らせた。

 これらのことは、神武王朝と崇神王朝が並立していた、あるいは崇神王朝のほうが少し早く成立していたことの傍証になるのではないかと思っている。そしていよいよ国譲りの最終段階、日本書紀神代巻のクライマックスに入る。



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◆葦原中国の平定(国譲り・第二段階)

2016年10月20日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 次に第二段階の天稚彦。父は天国玉神(あまつくにたまのかみ)であり、親子共に名前に「天」がついているので天津神であることに疑いはないが、この第二段階は話が少しややこしい。高天原では天穂日命が戻ってこなかったので次に誰を派遣するかを話し合った結果、天稚彦にしようということになり、高皇産霊尊は天鹿兒弓(あまのかごゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)を持たせて送り込んだ。ところが天稚彦は大己貴神の娘の下照姫(したてるひめ)を娶って葦原中国に住み着いてしまった。そして自ら葦原中国を治めたいと言い、高天原への報告をしなくなった。葦原中国の王とも言える大己貴神の娘を娶ったということは、首尾よく敵を取り込んだということではないだろうか。逆に取り込まれたと考えられないわけではないが、その後の経過を見ると大己貴神がこの機に乗じて反撃してきたわけでもなく、天稚彦の行動が国譲りの障害になったわけでもないので、私はうまく事が進んだのだろうと考える。しかし、その後に天稚彦は死んでしまう。死の経緯については返し矢の話などの脚色が加わるが、そのことよりも重要なのは、天稚彦の葬儀で登場する味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)である。味耜高彦根神は天稚彦と仲がよくて顔がよく似ていた。高天原で行われた天稚彦の葬儀に参列したところ、あまりに似ていたために天稚彦の親族や妻子が間違えて、天稚彦は死んでいなかったのだと喜んだ。味耜高彦根神は死者と間違われたことで激怒して十拳剣で喪屋を切り倒してしまった。しかしよく考えてみると、いくら似ているとはいえ妻が亡くなった夫の顔を間違えることなど考えにくいことだ。それほど二人が似ていたと言いたかったのだろうが、それは味耜高彦根神が天稚彦の生き返りである、すなわち天津神と同等であることを主張したかったのではないだろうか。

 味耜高彦根神は葛城の高鴨神社の主祭神であり、別名を迦毛大御神という。この神は書紀においては国譲りで初めて登場する。書紀ではその出自はわからないが、古事記においては大国主神と宗像三女神の一人である多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)の子となっており、事代主神(ことしろぬしのかみ)や下照姫(天稚彦の妃)と兄弟であるとされている。出雲国風土記においても大国主神の子となっており、いかにも出雲の神のようになっているが、その出雲国風土記でさえ「葛城の賀茂の社に鎮座する神」としている。また、同じ大国主神の子であり味耜高彦根神の弟である事代主神にいたっては、国譲りの第三段階で非常に重要な役割を担う神であるにもかかわらず、出雲国風土記には一度たりとも登場しない上に、出雲には事代主神を主祭神として祀る神社がほとんどない。それにも関わらず葛城の鴨都波(かもつば)神社には主祭神として祀られている。私は味耜高彦根神も事代主神も出雲の神ではなく葛城の神であると考える。葛城の神として葛城の地を押さえていた味耜高彦根神が天稚彦の葬儀のために高天原へやってきたのだ。これらのことから、天稚彦が派遣された先は出雲ではなく葛城であったということがわかり、さらには葛城の地のリーダーであった味耜高彦根神が高天原に来たことから、彼が高天原一族に帰順する意思を示した、ということが言えるのではないか。だからこそ、顔が瓜二つであることにして天津神である天稚彦の生き返りということにした。かくして高天原一族による国譲り第二段階(葛城一族の取り込み)もうまく進んだ。

 実はこの第二段階で高天原一族(=日向族=神武系)が葛城を取り込む話は神武東征の最終局面である神武天皇の大和入りが下地になっているのではないかと思っている。神武は大和に入って葛城に拠点を設けた。それは神武王朝の宮がこのあたりを中心に設けられていることからわかる。



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◆葦原中国の平定(国譲り・第一段階)

2016年10月19日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀の出雲神話の終盤は、①大己貴神と少彦名命による国造りのあと、②少彦名命が常世の国に去り、③大己貴神(の幸魂奇魂)の三輪山への遷移があって、最後に、④天津神(高天原一族)による国譲り、という展開になっている。①は、朝鮮半島から出雲に渡ってきた素戔嗚尊をリーダーとする集団が丹後を除く日本海沿岸各国を支配した話で、一連の争いが魏志倭人伝でいう倭国大乱を指していると考えられる。②は、崇神王朝につながる人物である少彦名命が出雲の支配集団から抜けて大和へやってきた話、③は、出雲から大和の三輪(纒向)に入った②の集団が三輪の地を統治するために当地で古くから行われていた三輪山信仰(大物主信仰)を利用しようとして、出雲の偉大なる神である大己貴神(幸魂奇魂)を大物主神と同化させた話。そして④は、いよいよ出雲神話の締めくくりである。出雲神話のクロージングを考えてみよう。

 国譲りとは、天津神である高天原一族が葦原中国の支配権を国津神から奪ったことを指している。しかしここで注意しなければならないのは「葦原中国の支配権」であって、「出雲の国の支配権」を奪う話ではないということだ。その葦原中国における出雲の占めるウエイトはたいへん大きいものであったためにいかにも出雲での出来事のように書かれているが、その出雲から大和の三輪(纏向)にやってきた集団がいることは既述の通りであるし、同じ大和においても自陣に取り込むべき集団がほかにも存在したはずだ。そしてもうひとつ注意すべきことは、葦原中国の支配権を奪った天津神は高天原一族、すなわち日向から大和へやってきた勢力であるということ。国譲りの話は日向の一族が出雲を中心とする他の集団を順に支配下においていく様子が記されているのだ。書紀の国譲りの話は三段階に分かれている。第一段階が天穂日命(あめのほひのみこと)の話、第二段階が天稚彦(あめのわかひこ)の話、そして第三段階が経津主神と建甕槌神の話である。順に考えてみたい。

 まず第一段階の天穂日命。高天原にいる皇祖である高皇産霊尊は、自分の娘の栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)と天照大神の子である天押穂耳命の間に生まれた瓊々杵尊を葦原中国の君主にしようと思い、平定のために誰を派遣しようかと多くの神々に聞いたところ、天穂日命がいいということになった。高皇産霊尊は天穂日命を派遣したが、大己貴神におもねって3年たっても何の報告もしてこなかった。そこで高皇産霊尊は、天穂日命の子である大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)を遣わしたが、彼もまた父親に従って何も報告をしてこなかった。
 天穂日命は天照大神と素戔鳴尊の誓約の際に天照から生まれた神で天押穂耳命の弟である。名前に「天」がついていることからも高天原一族であることは間違いない。しかし一方で、天穂日命は出雲国造の祖であるとされている。天津神である天穂日命がなぜ出雲の国造の始祖なのか。答えは簡単だ。それは天穂日命が出雲の統治に成功したからである。だからこそ3年たっても高天原に戻ることはなかった。次いで派遣された子も出雲で父の後を継いだのだ。律令制下になって国造は廃止され、代わって国司・郡司による地方統治が行われるようになるが、出雲国造は廃止されず出雲大社の祭祀を担う氏族として連綿と受け継がれて現在に至っている。これは出雲国造が天津神の出身であったからではないだろうか。いずれにしても高天原一族は天穂日命によって国譲りの第一段階(出雲の国の支配権を手にすること)に成功したのだ。



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