古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆大己貴神と三輪山

2016年10月18日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 日本書紀第8段の一書(第6)はさらに続く。少彦名命と別れた大己貴神はまだ未完成であった国を一人で回り、出雲の国に辿り着いたとき「葦原中国は元々は荒れ果てていた。岩から草木まで何もかも荒々しかった。しかし私が砕き伏せて従わないものはいなくなった」と言った。そしてさらに続けた。「今、この国を治めるのは私だけである。私と共に天下を治めるものが果たしているだろうか」と。その時、神々しい光が海を照らして忽然と浮かんで来る神があり「もし、私がいなければ、おまえはどうしてこの国を平定することができたと云えようか。私がいたからこそ、おまえはその大きな功績を立てることができたのだ」と言った。大己貴神が「それならばあなたは誰ですか」と尋ねると「私はおまえの幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である」と答えた。大己貴神が「そのとおりです。判りました。あなたは私の幸魂奇魂です。今からどこに住むおつもりですか」と尋ねると、「私は日本国の三諸山に住もうと思う」と答えた。そこで宮をその地に造り、そこに坐しまされた。これが大三輪之神である。
 このシーンによって大己貴神が二人に分割されることになる。一人は出雲に残って国譲りを迫られる神で、もう一人は幸魂奇魂として三輪山に移り住んだ神。前者は自らが国譲りの条件とした通りに出雲大社に祀られ、後者はこれまた自らの希望通りに三輪山に遷り住んだ。これは明らかに別の神をあたかも同一であるかのように装った話である。ここまでの流れから、出雲大社に祀られているのが素戔嗚尊の後裔で出雲の王であった本物の大己貴神であろう。とすると、三輪山に祀られているのは大己貴神ではない別の神ということになる。書紀には大三輪之神とされているので、大三輪氏が祀っていた神のことであろう。もともと三輪山には大三輪氏が祀っていた神がいて、それを大己貴神(幸魂奇魂)に置き換える意図があった。出雲からきた集団(崇神一族)が三輪の地(纒向)を支配するための手段として三輪山信仰を利用したのではないだろうか。書紀編纂を企てた天武天皇は崇神の対立勢力であった神武の系列であり、その立場からすると三輪山に出雲の神が祀られていることなど書く必要のないことであったが、書紀編纂時にその事実は周知となっていた、すなわち、三輪山は出雲の神の山と考えられるようになっていた。

 古事記の同じシーンを見ると少し趣が違っている。少彦名命が常世の国に去ってしまったあと、大国主神は「どうして一人で国を作れようか。誰か一緒に作ってくれないだろうか」と気弱なところを見せる。そのときに海を照らしてやってきた神が「私をきちんと祀れば私が一緒に国を作ろう」「大和を囲む山々の東の山に祀りなさい」と言った。そして書紀では「おまえの幸魂奇魂」と名乗った神は古事記では自ら名乗ることはなく、御諸山にいる神と記されるのみである。

 さて、大三輪氏あるいは三輪氏は何者であろうか。書紀の一書(第6)では、三諸山(三輪山)に住もうと言った大三輪之神の子として、甘茂君、大三輪君、姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)が挙げられている。さらに崇神天皇のとき、疫病で人民の多くが亡くなり、農民の流浪が絶えない状況になった理由を占ったときに、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)に憑いた大物主神の言葉に従って大田田根子に大物主神を祀らせたが、この大田田根子は大物主神の子であり、三輪君の始祖となっている。これらにより書紀では「大物主神(大三輪之神)→大田田根子→三輪君(大三輪君)」というつながりがわかる。
 古事記ではどうであろうか。書紀と同様、崇神天皇のときに疫病が流行した際に意富多々泥古(おおたたねこ)に大三輪大神を祀らせようとしたが、このときに意富多々泥古は大物主大神の4世孫であると答えている。書紀と世代数は違うものの、意富多々泥古は大物主大神の直系であるとされている。また、この場面では、大物主大神が夢に出て意富多々泥古に自分を祀らせよと言ったが、意富多々泥古は大三輪大神を祀ったとなっており、神武天皇の段では「美和の大物主神」と書かれていることからも大物主大神と大三輪大神は同一神であることがわかる。さらには、三輪の由来を記した場面では「意富多々泥古命は神君(みわのきみ)、鴨君の祖である」とされている。以上より古事記においては「大物主神(大三輪大神)→(3世代)→意富多々泥古→神君(三輪君)」ということになる。

 記紀によれば、大三輪氏(三輪氏)は大物主神の子孫である、ということだ。では、この大物主神は何者だろうか。一般的には大物主神と大国主神は同一であると言われており、書紀一書(第6)には明示的に書かれているが、書紀本編や古事記には書かれていない。また、出雲国風土記においては大国主神が「天の下造らしし大神」や「大穴持命」として頻繁に登場する一方で、大物主神は一度たりとも登場していない。崇神天皇が祀るほどの神で大国主神と同じ神であるなら出雲国風土記が触れないはずがない。やはり大物主神は大国主神とは同一ではなく出雲の神でもなかったと考えるのが妥当であろう。
 三輪山(御諸山、美和山、三諸岳ともいう)は大神神社のご神体で、大神神社の公式サイトによれば、祭神は大物主大神であり大己貴神と少彦名命が配祀されており、神社の古い縁起書によると、頂上の磐座に大物主大神、中腹の磐座に大己貴神、麓の磐座に少彦名命が鎮まる、とされている、とある。大物主大神と大己貴神が明らかに別の神として祀られているのである。大己貴神は出雲の神であるが、大物主神は出雲の神ではなく、それ以前から三輪山で祀られていた土着の神であった。だからこそ、頂上に祀られているのである。


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◆大己貴神と少彦名命

2016年10月17日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀の出雲神話もいよいよ終盤に入る。素戔嗚尊は八岐大蛇を退治したあと、奇稲田姫との生活の場を探し「清」というところに到った。四隅突出型墳丘墓のところですでに触れておいた清神社の場所であろうか。あるいは島根県雲南市にある須我神社であろうか。須我神社は素戔嗚尊が八岐大蛇退治の後に建てた宮殿が神社になったものと伝え、「日本初之宮(にほんはつのみや)」と通称されている。神社の公式サイトによると主祭神は「須佐之男命、稲田比売命、御子神の清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)、6代の後の大国主命」となっている。いずれにしてもその「清」の地に宮殿を建て、大己貴神(おおなむちのかみ)が生まれた。そして遂に素戔嗚尊は根の国に行ったという。「根の国」がどこを指すのかについては議論があるが私は素直に「素戔嗚尊は出雲の国で亡くなった」と理解したい。

 書紀第8段の本編はここで出雲神話が終わるが、一書(第6)に大己貴神と少彦名命(すくなひこなのみこと)による国造りの話が記されている。大己貴神は少彦名命に「自分たちが作った国は良くなったと言えるだろうか?」と問いかけたところ、少彦名命は「あるところは良くなったが、あるところは良くなっていない」と答えた。そして「是談也、蓋有幽深之致焉」という不可解な文が記載される。「この会話には非常に深い意味があるだろう」という。素戔嗚尊およびその後裔である大己貴神は少彦名命の協力を得て葦原中国を制圧(国造り)した。その範囲は四隅突出型墳丘墓のある地域、すなわち石見・出雲・伯耆・因幡・越と広範囲にわたる日本海沿岸の国々である。しかし、残念なことに丹後だけは支配できなかった。少彦名命はそのことを指摘して責めたのではないだろうか。大己貴神と少彦名命は国造りの苦労を共にしてきた仲間であったが、このシーンは仲間割れの雰囲気が漂う。そのことを指して「深い意味」と記されたのではないだろうか。二人の間に何があったのかはわからないが最後の最後に対立することになり、少彦名命は熊野の御崎(出雲国一之宮の熊野大社か)から常世郷に行ってしまった。別伝によると淡嶋へ行って粟の茎に昇ったら、はじかれて常世の国へ行ってしまったとも。
 二人の対立を示す話が播磨国風土記の神前(かんざき)郡の条にも残っている。大己貴神と少彦名命が「ハニ(赤土)の荷を担いで遠く行くのと、屎(大便)をしないで遠く行くのと、どちらが勝つだろうか」と言い争った。大己貴神は「私は屎をしないで行こう」と言い、少彦名命は「私はハニの荷を持って行こう」と言った。争って歩き始めて数日後、大己貴神は「もう我慢できない」とその場で屎をした。その時、少彦名命は笑って「私も苦しかった」と、ハニの荷を岡に投げつけた。それでここを「埴岡(はにおか)」と名付けた。
 さらに伊予国風土記の逸文にも。大己貴神が見て悔い恥じて、少彦名命を生き返らせようと、大分の別府温泉の湯を道後温泉まで引いてきて少彦名命を湯に浸からせると、しばらくして生き返り、何もなかったように辺りを眺めて「よく寝たことよ」と言ったという。文脈からすると大己貴神が少彦名命に重傷を負わせたことが推察され、それを悔いた行為であると読み取れる。

 実は、少彦名命は出雲大社に祀られていない。それはなぜだろうか。大国主神の父あるいは祖先である素戔嗚尊は、記紀では天照大神と姉弟関係にあって天津神となっているが、その実態は朝鮮半島からきた一族のリーダーであり、天津神である高天原一族からすると敵対勢力であった。高天原一族はその敵対勢力の国を制圧した(国譲りをさせた)からこそ、その祟りを恐れて大国主神を祀る出雲大社を建てた。少彦名命は主祭神である大国主神と共に国造りを果たした人物であるにも関わらず、さらに神皇産霊神あるいは高皇産霊神の御子神とされる神にも関わらず、摂社を含めて出雲大社のどこにも祀られていない。何故か。それは祀る必要がなかった、すなわち祟りを恐れる必要がなかったからだ。さらに言えば高天原にとって敵対勢力ではなかったのだ。少彦名命は船に乗って海を渡ってやって来たという記紀の記述から朝鮮半島出身であると考えられ、素戔嗚尊や大国主神と同郷の一族であったが、国造りの過程において何らかの理由で大国主神と袂を分かった。それが先に見た仲間割れ、対立のシーンであり、それが原因で少彦名命は常世の国へ行くことになった。そう考えると常世の国というのは大国主神の立ち位置と反対側、国譲りを迫る側と解することができないだろうか。だからこそ古事記では神皇産霊神の子、日本書紀では高皇産霊神の子、すなわち高天原の一族とされたのではないだろうか。

 大己貴神が生まれた後に素戔嗚尊が根の国に行ったという一文を「根の国である出雲で亡くなった」と理解したい、と先述した。私は、素戔嗚尊の「根の国」が出雲であるなら、少彦名命が向かった「常世の国」は素戔嗚尊や大国主神(大己貴神)と敵対する国であり、それは大和ではなかったか、と考えている。そして私の想像はここで終わらない。出雲から大和に遷った人物と言えば誰であったか。纒向に都を開いた崇神天皇である。少彦名命は崇神天皇自身もしくは崇神につながる一族のリーダーではないだろうか。
 また、少彦名命は高皇産霊尊が生んだ1500人ほどの神でただ一人、いたずらで教えに従わない神であったとされているが、この高皇産霊尊の言葉には少し深い意味が感じられる。これは少彦名命が天津神の中でも異端であったということを表しているのではないか。すなわち崇神天皇の系列(崇神王朝)は主流派ではないということ、さらに言えば書紀編纂を命じた天武王朝につながると考える神武王朝とは別の一族であることを暗に匂わしているのではないだろうか。


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◆日向と丹後のつながり

2016年10月11日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 中国江南から大陸を離れて東シナ海に漕ぎ出し、黒潮に乗って南九州に漂着、製鉄や稲作などの高い技術力を持って国土開発を行い、土着の民と融合して形成された国が狗奴国であることは「中国江南とつながる南九州」のところで書いた。また、詳しくは後述するが、記紀で高天原と記される場所は大陸の江南であり、そこから日向に降臨した(渡来した)のが天照大神系列の天孫族である、ということにも触れておいた。その考えのもとで、次に日向と丹後のつながりも見ておく。日向を介して江南と丹後がつながっていたことの傍証になると思うからである。

 京都府福知山市に広峯古墳群がある。福知山の市街地を一望のもとに見渡すことのできる丘に古墳時代初頭(西暦300年頃)から中期(550年頃)にかけて約40基の古墳が造られた丹波地方屈指の古墳群である。丘陵の最高所に築かれた15号墳は全長40m、後円部径25mの前方後円墳で4世紀末のものと推定される。この古墳から「景初四年」銘入り斜縁盤龍鏡(しゃえんばんりゅうきょう)が見つかった。「景初」は三年までしかないため「四年」の意味はわからないが、まさに卑弥呼の時代の鏡であることには違いない。そしてこの同笵鏡が宮崎県児湯郡高鍋町の持田古墳群(4~6世紀)からも見つかった。「景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人□之位至三公母人□之保子宜孫寿如金石兮(□は言べんに名という字)」という銘文から製作者が陳という人物であることがわかる。この陳なる人物は江南人であるらしい。
 このほかにも丹後と日向のつながりを想定できることとして、双方から準構造船の形をした舟形埴輪が出土していること、日向の海幸山幸伝説と丹後の浦島太郎伝説が類似していること、ともに徐福上陸伝説があること、などがあげられる。

 ところで、これまで私は「丹後」という言い方をしているが、これは現代の丹後地方を指すのではなく、律令制下における丹波国・丹後国・但馬国を合わせた地域(律令以前はこの3つを合わせて「丹波」と呼んだ)に、さらに福井県の若狭国も加えた広い地域を指している。若狭を加えるのは丹後地方に隣接することから文化的なつながりがあっただろうと考えるからである。丹後と同様に若狭にも四隅突出型墳丘墓が存在していない。
 歴史学者の門脇禎二が1983年、現在の京丹後市の峰山盆地を中心とした地域に弥生時代から古墳時代にかけて地域国家が存在したという、いわゆる「丹後王国論」を提唱した。現在では古代丹波歴史研究所の伴とし子氏が「大丹波王国」として積極的に発信しておられる。私も基本的に同様の考えであるが、その地域的広がりは上述の通り、「丹波+丹後+但馬+若狭」であったとしたい。ただし呼称については、これらの地域の中心地として丹後を位置づけていることもあり、これまで通り「丹後」としておきたい。



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◆丹後と中国江南のつながり

2016年10月10日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 記紀の出雲神話は出雲と越の関係を示唆する一方で出雲と越の間にある丹後には全く触れていないこと、山陰や越に多数確認されている四隅突出型墳丘墓が丹後にないこと、などから、丹後は出雲・越とは一線を画す別の集団が支配する国であったと考え、中国の江南方面から渡来した集団が形成した国ではないかと書いた。丹後と江南のつながりを示す痕跡はないものかと調べてみたところ、大浦半島の西端、京都府舞鶴市千歳にある浦入(うらにゅう)遺跡で発見された 「けつ状耳飾り(※)」と呼ばれる大型の土製耳飾りがあることがわかった。

※「けつ」は王へんに夬と書く。中国の河姆渡文化や紅山(こうざん)文化などでみられる玉器のことで、この玉器の「けつ」の形に似ていることから「けつ状耳飾り」と名付けられた。

 浦入遺跡は縄文時代から平安時代にわたる複合遺跡で、集落遺構や製塩遺構、古墳の存在などが判明しているが、この遺跡を有名にしたのは約5300年前の地層から発見された丸木舟である。全長8m、幅0.8m、舟底の厚さ5cmの大きさで、縄文時代の丸木舟としては最大級で、舞鶴湾の入り口近くで発見されたことから外洋航行に使用されたと推測されている。遺跡からは各地の縄文前期の土器が多数発見されており、当時相当広い範囲に渡って交流があった事が窺える。また、桟橋の杭のあとや錨として使ったと思われる大石など、当時の船着場と思われる遺構も出ており、この遺跡は日本海沿岸の交易拠点の一つであったと考えられる。
 その丸木舟と同時代の遺跡から見つかったのが「けつ状耳飾り」である。直径が6.5cmもあり、中国江南の河姆渡遺跡から出土したものに酷似していて、遠く大陸との交流の可能性が想定される。河姆渡遺跡は、1973年に上海の南で発見された遺跡で、紀元前5000年(約7000年前)の地層から稲籾とわら束が大量に発見され、分析の結果、この地が稲の栽培源流地であることがほぼ確定したと言われている。この稲が日本の縄文時代や弥生時代の遺跡からも多数確認されており、日本の稲作は江南から伝わるルートがあったことがわかっている。大きな耳飾りをつけた人々が稲作技術を携えて江南を出て、ここ丹後の浦入へやって来たのだ。



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◆出雲による越の支配

2016年10月09日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 このあたりで出雲が越を支配した状況を見ておきたい。
 素戔嗚尊は朝鮮半島の新羅からやってきた集団のリーダーであり、先に出雲を支配していた集団を退けて出雲の王となった。書紀の八岐大蛇説話はそのことを表している、すなわち「八岐大蛇=出雲の先住支配者集団」と考えていることは何度も触れてきた。一方で、古事記によると「高志之八俣遠呂知」となっていることや、出雲国風土記の意宇郡母里郷(現在の島根県安来市)の地名説話で「大穴持命、越の八口を平げ賜ひて還り坐す」という記載があり、この八口が八岐を想起させることなどから、八岐大蛇は高志(越)の豪族であるという説があることにも触れておいた。私は「八岐大蛇=越」という考えはとらないが、先に書いたとおり、四隅突出墳丘墓の分布と変遷から出雲が越に進出してその独自の墓制を広めた、すなわち出雲が越の地で支配権を確立したと考えている。

 古事記には、八千矛神(やちほこのかみ=大国主神)が高志国の沼河に住む沼河比売(ぬなかわひめ)を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠み、沼河比売はそれに応じる歌を返した結果、翌日の夜に二神は結婚した、ということが書かれている。新潟県糸魚川市に残る伝承においては、大国主神と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神(たけみなかたのかみ)で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったと言われている。姫川の下流にある糸魚川は八千矛神が求婚した沼河比売がいたところである。(沼河比売の名が姫川の名の由来であるという。) 八千矛神すなわち大国主神と越の沼河比売との婚姻の話はまさに出雲の王が越を従えたことを反映した話であろう。
 さらに、新潟県の伝承と似たような話として古事記の葦原中国平定(国譲り)の場面で、大国主神の御子神の一人として建御名方神が登場する。建御名方神は国譲りを拒否して建御雷神と戦ったが敗北を喫し、諏訪湖まで敗走したことが描かれている。出雲と信濃の諏訪地方とのつながりが想定される場面であるが、越の糸魚川から姫川を遡り、糸魚川静岡構造線に沿っていけば諏訪湖に到達する。出雲と越がつながっていたからこそ、諏訪まで行くことができたと言える。
 また、出雲国風土記を見ると、神門郡の条に古志郷の名の由来が記されている。「伊弉冉命の時に日淵川を利用して池を築いた。そのとき、古志国の人々がやってきて堤を造った。そのとき彼らが宿としていた処である。だから古志という。」とある。また、狭結(さよう)駅の由来として「古志国の佐与布(さよう)という人が来て住んでいた。だから、最邑(さよう)という。〔神亀三年に字を狭結と改めた。この人が来て住んだわけは、古志郷の説明に同じ。〕」ともある。古志は越のことを指すのであろう、その越から池の堤を造るために大勢の人がやってきたという。出雲が越を支配下においていたからこそ大勢の人民を土木作業員として連れてくることができたのだと思う。



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◆神原神社古墳

2016年10月08日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 素戔嗚尊一族の時代の出雲を見てきた。倭国大乱の中、一度は先住支配族に勝利して出雲や越の支配権を握った素戔嗚尊一族であったが、弥生時代の終わりとともに結局は新しい勢力の支配下に入ることとなった様子についても四隅突出型墳丘墓の変遷をもとに書いた。その新勢力とは大和の纏向にある邪馬台国であり、支配される出雲は投馬国である。ちょうど弥生時代から古墳時代に変わるタイミングで支配勢力が変わった。いや、逆に支配勢力が変わったことによって古墳時代に移行したと言うほうが妥当かも知れない。まさに魏志倭人伝に描かれた倭国の時代の話である。

 先に2011年3月の出雲出張の折に荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡に加え、この神原神社古墳を訪れたことを書いた。加茂岩倉遺跡から東南に車で数分のところ、島根県雲南市加茂町大字神原の地、斐伊川水系の赤川の右岸すぐの神原神社の隣に4世紀中頃に築造された一辺が約30mの方墳である神原神社古墳がある。現在の姿は赤川改修のための堤防建設に伴って神原神社と共に移設された後のものであり、石室が復元されて自由に見学ができる。もともとは現在地から北東へ50mほどのところにあり、古墳の上に神原神社が建てられていたために発掘ができなかったが、神社移設の際に発掘調査が行われ、竪穴式石室から魏の「景初三年(239年)」の銘が鋳出された三角縁神獣鏡が見つかったことで名が知れることとなった。この三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏から下賜された銅鏡とも言われている鏡であり、景初三年の銘がある三角縁神獣鏡はこれまで大阪の和泉黄金塚古墳とここからしか出土していない。邪馬台国や卑弥呼と出雲のつながりを考えさせる鏡である。また、古墳の上にあった神原神社は出雲国風土記に「神原社」として記されており、祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)、磐筒男命(いわつつのおのみこと)、磐筒女命(いわつつのめのみこと)の三柱である。大国主命は書紀では素戔嗚尊の子、古事記では六世孫となっている。この古墳の上にあった神原神社が大国主命を祀っているということは、古墳の被葬者が大国主命本人であるか、あるいはそれと近しい素戔嗚尊の後裔と関係する人物であることは否定できないだろう。ましてや、景初三年の三角縁神獣鏡が出たとあっては邪馬台国や卑弥呼との関係を考えざるを得ない。


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◆四隅突出型墳丘墓

2016年10月07日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 ここからは、素戔嗚尊をリーダーとする集団が先住支配集団を退けて出雲に進出した様子を四隅突出型墳丘墓を手がかりに追ってみたい。まず四隅突出型墳丘墓について確認しておく。

 四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期以降に安芸や備後、山陰、北陸などの各地方で行われた墓制で、全国で約100基が確認されている。方形墳丘墓の四隅を引っ張って伸ばしたような特異な形をしており、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。弥生時代中期後半に広島県三次市周辺で初めて出現する。最初は規模も小さく突出部もあまり目立たない形であったが、弥生時代後期になると、妻木晩田遺跡を皮切りにして伯耆地方を中心に一気に分布を広げ、規模も少しずつ大きなものが造られるようになり突出部も急速に発達していった。弥生時代後期後半になると分布の中心を出雲地方に移して墳丘の一層の大型化が進むとともに、分布範囲を北陸地方にも広げていった。しかし、弥生時代の終わりとともに忽然とその姿を消してしまった。
 
四隅突出型墳丘墓の分布 (出雲市教育委員会)

 

四隅突出型墳丘墓の変遷  (鳥取県埋蔵文化財センター)


 四隅突出方墳丘墓の始まりは島根県を流れる江の川の上流、広島県の三次盆地である。書紀の素戔嗚尊の段の一書(第2)には「素戔嗚尊は安芸国の可愛川の上流に降りた」とあり、この可愛川は現在の江の川であるといわれている。一書(第2)に具体的な地名が書かれているわけではないが、この素戔嗚尊降臨の場所と四隅突出方墳丘墓発祥の地がともに江の川上流ということで一致しているのは偶然だろうか。江の川をさらに遡って安芸高田市に入ると、主祭神として素戔嗚尊を、相殿神として脚摩乳命、手摩乳命、稲田姫命を祀っている「清(すが)神社」がある。
 素戔嗚尊をリーダーとする渡来集団は四隅突出型墳丘墓という独自の墓制を持つ集団であった。朝鮮半島から渡来するとき、その先遣隊が石見に漂着、江の川を遡って三次盆地や江の川水系の周辺地に定着して四隅突出型墳丘墓を築いた。その後、集団本体が伯耆に渡来して妻木晩田に落ち着いて勢力基盤を整え、そこでも四隅突出型墳丘墓を築いた。そして東は因幡の青谷上寺地を制圧して支配域に加え、さらに越にも進出してこの墓制を広めた。また西においては、出雲の先住支配者集団であり、北部九州とつながりを持つ青銅祭祀集団を制圧して出雲の王となった。そして斐伊川の下流域左岸にある西谷地域に代々の王の墓として弥生時代最大級規模の四隅突出型墳丘墓を築くまでに勢力を拡大した。西谷地域には6基の四隅突出型墳丘墓を含む32基の墳墓が確認されている西谷墳墓群がある。
 書紀ではこの過程を省略して最初から出雲に降りて出雲や越を支配したように書かれている。その後、四隅突出型墳丘墓は築かれなくなって古墳時代に突入するのであるが、この素戔嗚尊一族も新たな勢力に制圧されたことを意味するのだと思う。
 
 以上のように、四隅突出型墳丘墓の分布や変遷と合わせて考えてみても矛盾なく説明ができていると思う。



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◆素戔嗚尊の出雲進出

2016年10月06日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 八岐大蛇の話からここまで展開してきたが、このあたりで一度整理しておこう。素戔嗚尊よりも先に出雲を支配していた集団がいて、素戔嗚尊をリーダーとする集団がその先住集団を退けた。それが八岐大蛇の話であった。この先住支配集団は出雲においては荒神谷や加茂岩倉で青銅祭器を埋納した集団であり、因幡においては青谷上寺地の集団であった。そして朝鮮半島から渡来して伯耆の妻木晩田に勢力基盤を築いた集団こそが素戔嗚尊をリーダーとする集団であった。素戔嗚尊は伯耆や出雲の先住支配集団を退けた後、出雲に進出してこの地の雄となった。

 素戔嗚尊は出雲で銅剣や銅矛を祀っていた集団を制圧した。そして荒神谷遺跡のところで見たように、この銅剣・銅矛は北部九州とのつながりを想起させる。子供の頃に学んだ銅剣・銅矛文化圏である。そしてここで思い出すのが素戔嗚尊と天照大神による誓約の話である。天照大神は素戔嗚尊が持つ十拳剣を三段に折って天眞名井の水ですすいで清め、噛んで砕いて息を吹いた。その息から生まれたのが田心姫、湍津姫、市杵嶋姫の三姉妹、すなわち宗像三女神である。天照大神は「三女神は素戔嗚尊の剣から生まれたから素戔嗚尊の子である」と言った。これは宗像三女神が素戔嗚尊グループに属していることの現われであり、北部九州と出雲のつながりを想起させることを先に書いた。宗像一族は北部九州にあって朝鮮半島や大陸との航路を押さえていた海洋族であり、彼らはさらに北部九州と出雲をつなぐ航路をも押さえていたと考えられる。
 魏志倭人伝には不弥国の次に投馬国への道程が記されており、私は不弥国を福岡県飯塚市の立岩遺跡群に比定し、投馬国を出雲に比定している。飯塚市は宗像一族の本拠地である宗像地方にほど近く、また古代においては天然の海洋基地である遠賀潟を抱えていた。もしかすると宗像一族の拠点であり、不弥国王の後裔が宗像氏になっていったのかもしれない。いずれにしても倭人伝に記された不弥国と投馬国のつながりはそのまま宗像と出雲のつながりになり、両者をつなげるものが銅剣や銅矛を祭器とする祭祀であったと考える。
 そしてここに割って入ったのが素戔嗚尊である。素戔嗚尊は不弥国(宗像)とつながっていた投馬国(出雲)を制圧した。これによって素戔嗚尊は結果的に宗像一族をもその影響下に置くことになった。これが天照大神との誓約の結果に反映されているのではないかと考える。

 そして、銅鐸について大きな疑問が残ることになる。銅鐸は近畿を中心に各地に広まり、いわゆる銅鐸文化圏が形成されていったと考えられているが、この考えに基づけば銅鐸が加茂岩倉や荒神谷で出土したということは銅鐸を祭器とする文化が出雲にまで伝わっていたことになる。しかし、同じ青銅器である銅剣・銅矛ついては鉄製の剣や矛を作る能力があったからこそ、それ以前の武器である銅剣・銅矛は自らの意志で祭器として製作・利用し、そして自らの意志で埋納した。とすると、銅鐸についても同じ発想をする方が納得がいく。すなわち、銅鐸は他の地域から与えられたものではなく、自ら製作して祭器としていたのではないか、と。そう考えると、銅鐸は出雲が発祥の地かも知れない、ということになる。記紀で全く触れられることのない銅鐸については別の機会に詳しく考えたいと思う。



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◆妻木晩田と青谷上寺地の盛衰

2016年10月05日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 妻木晩田遺跡は鳥取県の西側すなわち伯耆国にあり、青谷上寺地遺跡は鳥取県の東側である因幡国にある。鳥取県教育委員会のサイトなどをもとに妻木晩田遺跡と青谷上寺地遺跡を確認したが、その発展と衰退を整理すると次のようになる。
 
   

 青谷上寺地遺跡は弥生前期後半に出現し、中期後半に繁栄の時期を迎えるが、後期に入ると倭国大乱に巻き込まれて多数の住民が殺傷され、その後すぐ、古墳時代前期に衰退することとなる。      
 妻木晩田は遅れて弥生中期後半に出現、後期に入って権力者が四隅突出型墳丘墓を築くようになって繁栄を始め、後期後半に青谷上寺地で多数の殺傷があった時期に呼応して最盛期を迎える。しかし集落の最盛期は長く続かず、古墳時代前半には衰退する。
 この2つの遺跡の盛衰の状況は何をあらわしているのだろうか。私は青谷上寺地を滅亡に導いたのが妻木晩田の勢力ではなかったと考えている。出雲(荒神谷や加茂岩倉)や因幡(青谷上寺地)に遅れて弥生時代中期に日本列島へ渡来してきた彼らは両者の勢力が及んでいない伯耆の地(妻木晩田)に勢力基盤を築いた。さらに彼らは渡来当初から戦闘を意識して高台に拠点を築いていったのだ。四隅突出型墳丘墓を築くリーダーは統率力に長けていた。そして弥生時代後期に入り、青谷上寺地は妻木晩田勢力の攻撃を受けて滅亡した。しかし、勝利した妻木晩田の集落がなぜ同時期に衰退することになるのか。これは村が滅亡したのではなく、集団ごと移動したのである。移動した先は出雲であった。



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◆青谷上寺地遺跡

2016年10月04日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 次に因幡にある青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡。この遺跡も妻木晩田遺跡同様に鳥取県教育委員会のサイトなどを参考にまとめてみる。

 青谷上寺地遺跡は鳥取市青谷町の西側を流れる勝部川と東側を流れる日置川の合流地点南側に位置する弥生時代を中心とする集落遺跡で、国道および県道の建設に先駆けて発掘調査が行われた。典型的な低湿地遺跡であったため遺物の保存状態が良好で「地下の弥生博物館」と呼ばれている。
 弥生時代前期後半、潟湖(ラグーン)のほとりの低湿地帯に集落として姿を現し、中期後半に著しい拡大が見られる。集落の中心域の周囲を排水用の大きな溝で囲み、その溝は徐々に東に拡張されていく。この溝には260cm×70cmという大きな矢板(過去に発掘された弥生時代の板材の中では最大のもの)を数枚並べて杭で固定した護岸施設が設けられていた。弥生後期になると地形の高い範囲を取り囲むように溝をめぐらせて矢板列を幾重にも打ち込み、人々が活動した中心部と水田などの周辺の低地を区画していた。
 遺跡の東側の溝からは100人分をこえる約5300点の人骨が発見されている。それらのうち110点には殺傷痕が認められ、銅鏃がささったままの骨盤や額に刃物の傷をもつ頭蓋骨などがあった。さらに驚くべきことに3人の弥生人の脳が奇跡的に残っていた。これは世界でも6例しかない貴重な資料と言える。
 北陸や近畿、山陽地方の土器が出土、さらに鳥取では産出しないヒスイやサヌカイトなどが出土したことからも広範囲に交流をはかっていたことがわかる。また、500点をこえる鉄製品は中国・朝鮮半島・北部九州の特徴を持ったものが見られ、古代中国の鏡や「貸泉」も出土したことから、日本海を舞台にして中国や朝鮮半島をも含んだ広範囲の交流、交易があったことが伺える。また、海と山に囲まれたこの遺跡は稲作だけでなく、漁撈や狩猟を盛んに行っていたことも様々な道具類や獣骨などの出土物からわかっている。ラグーンのほとりに位置し、天然の良港として漁撈活動や対外交易を行い、航海技術に長けた人々が住んでいたと考えられ、モノや技術が行き交う港湾拠点として機能したと推測されている。
 これほど発展した集落であったが、古墳時代前期初頭に突如として姿を消すことになった。殺傷痕を持つ多数の人骨が関係しているのかもしれない。

 弥生時代後期における多数の殺傷痕をもった人骨。しかも兵士である男性に限らず、女性や子供にまで及んでいるという。また、そのあとに村が突如として終焉を迎えたという。これは明らかに戦乱による村の滅亡を物語っている。弥生後期といえば魏志倭人伝にある「倭国大乱」と重なる。青谷上寺地は倭国大乱で敗北を喫して滅んだ国、と考えてよいのではないか。



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◆妻木晩田遺跡

2016年10月03日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 出雲にある荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡に続いて、鳥取県(伯耆および因幡)にある2つの遺跡を見てみる。まずは伯耆の妻木晩田(むきばんだ)遺跡について鳥取県教育委員会のサイトなどを参考に確認したい。

 妻木晩田遺跡は中国地方最高峰である大山のふもと、鳥取県西伯郡大山町から米子市淀江町にかけて広がる約170haにもおよぶ国内最大級の弥生集落遺跡で、京阪グループ主導によるゴルフ場建設を初めとする大規模リゾート開発計画に伴う発掘調査が行われた際に発見された。島根半島東側にある美保湾を一望できる標高90m~150mの尾根上に設けられた高地性集落で、竪穴式住居跡が420棟以上、掘立柱建物跡が500棟以上と他に例を見ない数の建物跡が検出された。さらに四隅突出型墳丘墓13基を含む34基の墳墓が確認されている。
 集落は弥生時代中期後葉(紀元前1世紀頃)から形成され始め、居住域が次第に広がり、後期後葉(2世紀後半)に最盛期を迎え、古墳時代前期初頭(3世紀前半)までの約300年間続いた。集落は概ね東側が居住地区、西側の丘陵先端が首長の墓域といった構成になっている。居住区の発展状況をみると、弥生後期初頭には洞ノ原地区の西側丘陵に環壕が設けられるとともに、遺跡の最盛期である弥生後期後葉には鍛冶、玉造り、土器焼成などの活動が認められる。更に最高所に位置する松尾頭地区では祭殿と推定される両側に庇のついた大型建物跡が確認されるとともに、同地区の大型竪穴住居跡からは中国製銅鏡の破片が検出されたことから首長の住居ではないかと考えられている。しかし、古墳時代初頭に入ると住居跡がほとんど見られず、遺跡が終焉を迎えることとなる。
 一方で、墓域の変遷状況をみると、1世紀後半に洞ノ原地区に四隅突出方墳丘墓11基を含む25基の墳墓が築かれ、2世紀に入ると仙谷地区に墓域が移り、さらに3世紀前半には松尾頭地区に移っている。そして仙谷地区に唯一の石棺を持った遺跡最大規模の墳丘墓が築かれた後、集落は突如として終焉を迎えることになった。この石棺からは人骨の一部が見つかっている。
また、この遺跡では400点を越える小型工具などの鉄器が出土しているが、集落全体に偏りなく鉄製品が行き渡っていたと考えられている。
 
 
 (筆者撮影)
 

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◆出雲先住支配集団の敗北

2016年10月02日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 弥生時代後期のある時期、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で大量の青銅祭器がなぜ埋められたのだろうか。出雲観光協会のサイトによると次のような説が唱えられているとのこと。

 ●祭祀説
  雨乞い、収穫、地鎮などの豊穣の祈りを大地に捧げる祭祀
 ●保管説
  祀りの儀式で取り出して使用するため、普段は土中に保管
 ●隠匿説
  大切な宝である青銅器を奪われないように隠した
 ●廃棄説
  時代の変化により青銅器が不要になったため破棄された
 ●境界埋納説
  共同体間の抗争の緊張から生まれた境界意識の反映

 それぞれの説にはそれなりの理由があり、それが正しいとも間違っているともわからないので紹介に留めておきたい。私は祭器を埋めたということはそれらを用いた祭祀をやめてしまったのだろうと考えている。埋められた場所が辺鄙な山の中であり、しかも斜面中腹であることを考えると、一度埋めたものを再利用するためには次の利用機会まで盗まれないよう、あるいは豪雨などで斜面が崩れて流されないよう、監視を続けなければならないので現実的ではない。また、再利用しないとすれば次の機会に改めて358本もの剣を製作しなければならず、これも現実的でない。だから、次に使うことを考えずに埋めてしまってそれで終わり、二度と同じ祭祀は行わないという意思が現われた行為であろうと思う。この集団は伝統的な祭祀を止めざるを得ない事態に陥ったのだ。それは別の集団によって土地や人民の支配権や祭祀権を奪われたからである。そして神聖な祭器が破壊や破棄される前に、自らの支配が及ぶ各地のリーダーが祀る祭器を荒神谷と加茂岩倉に集め、自らの意思で土中に埋納することにした。あたかも死者を埋葬して弔うように丁寧に埋納したのだ。



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◆加茂岩倉遺跡

2016年10月01日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 前述の荒神谷遺跡同様にいくつかのサイトをもとに加茂岩倉遺跡を整理すると、この遺跡は荒神谷遺跡から南東に直線距離で3.3kmの島根県雲南市加茂町岩倉にあり、1996年に農道工事中に銅鐸が発見されたために発掘調査が行われた。結果、出土した銅鐸の総数は39個で1ヵ所からの出土としては全国最多となった。39個の銅鐸の内訳は、高さ45cm前後の中型銅鐸が20個、高さ30cm前後の小型銅鐸が19個で、文様は袈裟襷文が30個で流水文が9個であった。それぞれの銅鐸は鰭を上下に立てるように並べられ、長辺2m・短辺1mのちょうど畳1畳分くらいの穴の中にきちんと並べて埋められていた。また大きい方の銅鐸の中に小さな銅鐸を入れた「入れ子」状態で埋められていたものが13組26個あった。この「入れ子」による銅鐸埋納が発掘調査によって明らかになったのは加茂岩倉遺跡が初めてである。さらに、15組26個の同笵関係が明らかになっている。
 これらの銅鐸の製作時期は弥生中期から後期にわたると考えられ、その製作地については兄弟銅鐸の存在や文様などから近畿地方で製作されたものや、絵画表現の独自性や荒神谷遺跡出土銅剣の線刻との類似から出雲で製作されたものがあるとも考えられているが、確かなことはわかっていない。荒神谷遺跡出土銅剣の線刻の類似とは、358本の銅剣のうち344本について、その茎(なかご=刀剣の柄の部分)に「×」印が刻まれており、同様の線刻が加茂岩倉遺跡出土銅鐸の14個の鈕の部分に見られることを指している。

 遺跡を訪ねての第一印象は、荒神谷遺跡と同様、こんな辺鄙な山の中に何故、ということだった。しかも銅鐸が埋まっていた場所は斜面を少し登ったところなので銅鐸を運び上げる必要がある。荒神谷遺跡以上に「わざわざ」という印象を受けた。また、道路工事の専門的なことはわからないけれども、道路工事のために斜面のこんな高いところを重機で掘る必要があったのだろうか、という疑問がわいたことと合わせて、この遺跡の発見は限りなく偶然の賜物、という思いを強く持った。

 ここの銅鐸は荒神谷遺跡の銅鐸より製作時期が少し後と考えられるが、山あいの斜面に埋納されていたこと、埋納の状況、「×」印の線刻があること、などいくつもの類似性により、荒神谷遺跡同様に、銅鐸を祭祀に用いる集団が何らかの理由でそれらをまとめて埋納したと考えられる。荒神谷集団の分派のような集団であったのかもしれない。同じ時期に同じ理由で運命を共にしたのではないだろうか。



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◆荒神谷遺跡

2016年09月30日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 2011年3月、まだ少し雪の残る時期であったが取引先の工場を訪問するために出雲に出張の機会を得た。午後からの用件であったので午前中の時間を利用して、出雲空港からタクシーで荒神谷(こうじんだに)遺跡、加茂岩倉遺跡、神原(かんばら)神社古墳の3箇所を訪れた。ここでは荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡について、そのときの印象をまじえて確認しておきたい。

 まず荒神谷遺跡であるが、荒神谷博物館出雲観光協会などのサイトをもとに整理すると、この遺跡は島根県出雲市斐川町神庭西谷にあり、1983年に広域農道(出雲ロマン街道)の建設に伴う遺跡分布調査が行われた際に須恵器の破片が見つかったことから発掘が開始され、1984年に山あいの斜面から358本もの銅剣が出土した。さらに翌年にはその地点からわずか7m離れた同じ斜面から銅鐸6個と銅矛16本が出土した。
 銅剣はいずれも長さが50cm前後、重さが500g余りの中細形c類で、製作時期は弥生時代中期後半と考えられている。鋳型が見つかっていないため製作地は不明であるが、形式がすべて同じなので同一地域で製作された可能性が高く、出雲製の可能性も否定できない。銅鐸は6個とも高さが20cm前後、国内最古の型式のものが1個あるほか、それよりもやや新しい型式のものが1個あり、製作時期は弥生前期末から中期中頃と考えられている。製作地は近くの加茂岩倉遺跡出土の銅鐸との関連性などから北部九州製の可能性が高いといわれている。銅矛は中広形14本と中細形2本に分けられる。製作時期は銅剣とほぼ同じか若干後の時期と考えられている。その形態や北部九州で出土する銅矛にみられる綾杉状の文様があることなどから、16本とも北部九州で製作されたものとみられる。
 銅剣358本は丘陵の南向き斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に刃を起こした状態で4列に整然と並べて埋められていた。銅鐸は鰭(ひれ)を立てて寝かせた状態で埋納坑中央に対して鈕を向かい合わせる形で交互に2列に並べられていた。銅矛は銅鐸と同じ埋納坑の向かって右側に16本とも刃を起こし、矛先が交互になるように揃えて寝かせた状態で埋められていた。銅剣、銅鐸、銅矛のいずれもが祭祀の道具として利用されていたが、ある時期に何らかの理由でここに埋納されたと考えられている。
 

(筆者撮影)

 それまでの通説であった北九州を中心とする銅剣・銅矛文化圏、近畿を中心とする銅鐸文化圏という考え方を覆す世紀の大発見ということであるが、そもそも考古学とはそんなもので、これまでもこれからも新しい発見の積み重ねで解き明かされていくものである。それはさておき、現地ではレプリカによって発掘時の状態がかなりリアルに再現されていた。第一印象は、なぜこんな辺鄙な山あいに重要な祭器がこれほど大量に埋められていたのか、ここで何が起こったのか、という疑問だった。そしてこの場で盛大な儀式が行われた映像が頭に浮かばず、ひとりのリーダーと数人の側近者がひっそりと、そして粛々と祭器を並べて埋めていく様子が浮かんだ。とくに銅剣358本が4列に隙間なくびっしりと並べられている状態を目の当たりにしたとき、銅剣がよほど重要なものであり、1本1本を手に取りながら慎重に丁寧に並べていく姿が思い浮かんだ。
 あらためてそれぞれの製作時期を見ると次のようになる。

  銅剣・・・弥生時代 中期後半
  銅鐸・・・弥生時代 前期末~中期中頃
  銅矛・・・弥生時代 中期後半(銅剣とほぼ同じか若干後)

 銅鐸については、その内面の突帯の磨耗状態から長期に使用されたことがわかるという見解があり、これをもとにその使用時期を中期後半頃までと想定すると、銅剣、銅鐸、銅矛ともに製作時期あるいは使用時期として弥生中期後半という一致が見出せる。とすると、これらが埋納された時期として弥生時代後期前半という考えが成り立つのではないか。
 出雲では弥生前期から中期末あるいは後期前半にかけて銅剣、銅鐸、銅矛といった青銅器を祭祀に用いる集団がいた。銅鐸および銅矛の製作地から考えて、この集団は北部九州とのつながりを持っていた。しかしその集団は、弥生後期に何らかの理由でそれらの祭器をまとめて埋納してその祭祀を止めてしまった、と考えられる。

 ここでもうひとつ確認しておくことがある。彼らが祭器として用いた青銅器、とくに銅剣や銅矛はいずれも初期段階においては実用的なもの、すなわち実戦で用いる武器であったはずだ。それがなぜ武器としての用途を捨てて祭器専用となったのか。
 これについてはいずれ専門家の考えを調べようと思うが、今のところ私は次のように考えている。これらの青銅武器は他者を制圧するためのものであり、すなわち力の象徴であった。当初は武器として用いながら、一方でその力を持ち続けることを神に祈るための用具、すなわち祭器として用いた。初期の祈り方としては戦いの場で剣や矛をかざして「頼むぞ!」という感じだろうか。それが徐々に戦勝祈願の儀式になり、そのための祭器として用いられるようになったのだろう。
 しかし製鉄技術が一般的になり、より殺傷力のある鉄製の武器が普及するようになると銅製の武器は実戦用途を失い、祭器としての用途のみで使われることとなった。結果として銅矛などはまったく実戦で使えないような大型で幅広なものになっていった。荒神谷において青銅器を埋納した集団は製鉄技術に長け、鉄製武器を保有していたはずだ。そうであるからこそ、大量の銅剣や銅矛に武器としての価値を認めず、埋めることに躊躇はなかった。



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◆対馬海流

2016年09月29日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 さて、素戔嗚尊よりも先に出雲を支配していた集団はどこからやってきたのか。また、出雲と越との関係はどうなのか。朝鮮半島や大陸と日本海沿岸地域のつながりについて改めて確認しておきたい。
 「朝鮮半島と日本海沿岸とのつながり」のところで書いたように、日本海沿岸部、とりわけ出雲には縄文時代以来の朝鮮半島との交流の痕跡が多く残っている。松江市鹿島町の古浦砂丘遺跡からは朝鮮半島で見られる松菊里系土器とともに約60体の朝鮮半島系渡来人の人骨が見つかった。また、出雲市の山持遺跡からは縄文時代から弥生時代後期の遺物を含む砂礫層から朝鮮半島北部で製作された楽浪土器が出土した。同じく出雲市大社町の原山遺跡では朝鮮系無紋土器が、出雲市の矢野遺跡、松江市の西川津遺跡などからは朝鮮半島の粘土帯土器が出土している。
 朝鮮半島から日本海沿岸には対馬海流を利用してやってくることになる。しかし、この対馬海流に乗ってやってくるのは朝鮮半島からばかりではなく、大陸の沿岸部から出た場合もこの流れに乗れば九州の西を通って対馬海峡を越え、日本海に入ってくることが考えられる。日本海沿岸部には朝鮮半島から渡来した人々が圧倒的に多かったであろうが、江南地方などから渡来した人々もいたことはすでに「中国華北とつながる倭国」の中で触れておいた。

 日本海学推進機構のWebサイトによると「対馬海流は黒潮の一部が対馬海峡から日本海に入り、日本列島の沿岸を北に向かって流れ、その一部は間宮海峡をこえてさらに北に向かい、シベリア大陸の沿岸を流れる」とあり、私が小学校で習ったのと違いはない。また、公益財団法人である日本海事協会のサイトには「対馬海流は沖縄の近くで黒潮からわかれ、対馬海峡をとおって日本海へ入り、山陰沖、能登沖で大きくうねりながら、一部は津軽海峡をぬけて太平洋へ出ていく」とある。

 (日本海学推進機構のサイトより)


 さらに、海上保安庁のサイトを見ると、その対馬海流の流路については三分枝説と蛇行説があるという。蛇行説は日本海事協会の説明に近いものだと思うが、これに拠った場合、出雲および丹後から越にかけての一帯で海流が日本列島に大きく近づくことになり、このあたりで日本列島に漂着する可能性が非常に高いことになる。私は出雲と越は朝鮮半島から渡来した集団が形成した国、丹後は江南方面から渡来した集団が形成した国、と考えている。日本列島、とりわけ日本海沿岸地域の古代史は対馬海流によって作られたと言っても過言ではない。

 (海上保安庁のサイトより)
  

 素戔嗚尊よりも先に出雲を支配していた集団や素戔嗚尊をリーダーとする集団とはどんな集団で、出雲と越はどんな関係にあったのか、その頃の山陰地方では何が起こっていたのか、といった問題を考えるにあたって、このあたりの重要な遺跡を確認しておきたい。



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