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古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆素戔嗚尊と出雲

2016年09月28日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 天の岩屋事件の後に高天原から追放された素戔嗚尊は根の国に行く途中、出雲の簸の川に降りた。素戔嗚尊は高天原から出雲に降臨したのだ。これは天照大神の孫である瓊々杵尊が高天原から日向の高千穂の峯に降臨したことと対比でみるべきである。天孫降臨のところでも書くが、高天原は日本列島の外、すなわち中国大陸や朝鮮半島を暗示している。天孫族は大陸の江南の地から日向の地にやってきた。一方の素戔嗚尊は朝鮮半島から出雲へやってきた。なぜ朝鮮半島かというと、書紀の一書(第4)に高天原を追放されて新羅の国に降りたことが記されているからである。しかし素戔嗚尊は新羅の地が気に入らず自ら舟を作って脱出し、その後に出雲の簸の川の上流にある鳥上の山についた、となっている。さらに一緒に降臨した子の五十猛神(いたけるのかみ)は持っていた多くの木の種を韓の地には植えずに全てを持ち帰って大八洲国に蒔いたので日本に青々としていない山は無い、ともある。 また、一書(第5)では素戔嗚尊が「韓鄕の島には金銀がある。わが子が治める国に船がなければ困るだろう。」と言っていることから朝鮮半島の事情に詳しいことがわかる。
 さらに出雲国風土記によれば、最初にできた出雲国が小さく作られたので、出雲の神である八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が遠くの「志羅紀(新羅)」「北門佐岐(隠岐道前)」「北門裏波(隠岐道後)」「高志(越)」の余った土地を裂き、引き寄せて縫い合わせてできた土地が現在の島根半島である、と記されている。この逸話からも出雲と朝鮮半島(新羅)の関係を想定せざるを得ない。素戔嗚尊は朝鮮半島(おそらく新羅)からやってきて出雲に定着した集団のリーダーと言えるだろう。

 素戔嗚尊は出雲に降りたあと、脚摩乳(あしなづち)、手摩乳(てなづち)という土着の夫婦とその娘の奇稲田姫(くしいなだひめ)と出会い、八岐大蛇(やまたのおろち)に立ち向かうことになる。八岐大蛇が何物を表しているかについてはいろいろな説がある。島根・鳥取県境の船通山(素戔嗚尊がたどり着いた鳥上の山)系を源とする日野川、斐伊川、飯梨川、江の川、伯太川などの川、およびその支流を頭が八つある大蛇に見立てたとする説、中国山地の幾重にも重なる山並みや分岐する尾根を八つの頭や尾に例えたとする説、古事記では高志之八俣遠呂知と記されていることや、出雲国風土記で大穴持命(おおあなもちのみこと)が越の八口を平らげたという記載があり、この八口が八岐を想起させることから高志(越)の豪族であるという説などである。
 私は、この大蛇の背には松や柏が生え、八つの山、八つの谷の間にいっぱいに広がったという書紀の記述は出雲の土地そのものを表していて、脚摩乳・手摩乳の八人の娘が毎年一人ずつこの大蛇に呑まれてしまったとあるのは、娘をこの土地の支配者に差し出していたことを表しているのではないかと考える。ただ、実際の子供を差し出していたわけではなく、奇稲田姫の名にあるとおり「稲」、すなわち毎年の収穫を供出していたという意味であろう。
 つまり、素戔嗚尊よりも先に出雲を支配する一族がいて、その一族は出雲の民に毎年の収穫を納めさせていた、ということだ。そして朝鮮半島から出雲にやって来た素戔嗚尊はその支配者を退け、これが八岐大蛇の話になったと考える。素戔嗚尊が大蛇の尾を斬ったときに剣(草薙剣)が出てきたという話から、この支配者は剣を象徴とする一族であったと考えられる。剣を祀り、稲作を定着させていたこの先住支配族もまた朝鮮半島から渡ってきた一族であったのだろうか。
 大蛇を退治した(先住支配族を退けた)素戔嗚尊は夫婦の娘である奇稲田姫と結婚する。この名前にある「奇」は奇御魂(くしみたま)の「奇」と同じ使い方であり古神道でいう一霊四魂の「奇」、すなわち「不思議な力をもって物事を成就させる」という意味がある。また「稲田」は読んで字の如く「稲の実る田」を表している。奇稲田姫は「水田一面に稲穂を実らせる力をもった姫」という意味になろうか、この姫は豊穣の神であった。素戔嗚尊と奇稲田姫の結婚は、素戔嗚尊が豊かな出雲の地を手に入れたことを表している。



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◆天照大神と素戔嗚尊

2016年09月27日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 天照大神、月読尊(つくよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の三柱の神を古事記では三貴子(みはしらのうずのみこ)という。書紀の本編では伊弉諾尊と伊弉冉尊が大八洲国と山川草木を生んだあと、天下を治める者として生んだ神々である。古事記では、伊弉冉尊の死後に黄泉の国を訪れて彼女の遺体を見てしまった伊弉諾尊が命からがら帰還、その穢れを拭って身体を清めるために禊ぎをしたときにその身体から生まれた神々となっている。書紀の一書(第6)にも同じ話が記されており、左目から日の神、右目から月の神、鼻から素戔嗚尊がそれぞれ生まれた。日の神が天照大神であり、月の神が月読尊である。
 天照大神は体が光輝いて天地を照らす霊力の強い子だったので、伊弉諾尊・伊弉冉尊は天照大神をこの国に長く置いておくわけにはいかないと考え、天に挙げて天上のことを教え込むことにした。また、月読尊が放つ光は日の神の次に明るく、日に添えて天を治めることが出来ると考えて、同じように天に送った。素戔嗚尊は勇敢だったが我慢ができず、いつも泣き喚いていた。そのため国の人々は死んでしまい、青い山々は枯れ果てた。伊弉諾尊・伊弉冉尊は、素戔嗚尊は道に外れており天下に君たることは出来ない、と言って遠い根の国へ追放した。

 天照大神と素戔嗚尊は記紀ともに様々なシーンで登場するが、月読尊はほとんど登場しない。役割のない月読尊がここに登場するのは、日(太陽)と月の対比という意味がありそうだが、それなら逆に素戔嗚尊の存在が不要となる。記紀では中国で聖数とされる奇数の「三」を用いて、神様が三人セットで登場することが多い。国常立尊・国狭槌尊・豊斟淳尊の三人、天御中主尊・高皇産霊尊・神皇産霊尊の三人、火闌降命(ほすそりのみこと=海幸彦)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=山幸彦)・火明命(ほあかりのみこと)の三人、などである。本来であれば天照大神と素戔嗚尊だけでよかったのだろうが、三人にする必要から月読尊を登場させた。また古事記においては、月読尊の存在がないとすれば素戔嗚尊が右目から生まれることになり天照大神と対等になってしまう。月読尊を右目にすることで素戔嗚尊は鼻から生まれたことにできるので、それによって一段下に位置づけようとした。月読尊を登場させた意味はそれくらいの理解でいいと思う。

 天照大神は生まれてすぐに天上界に送られ、そのあとは常に高天原に居てその役割を担っている。一方の素戔嗚尊は根の国に行く前に高天原に行こうとしたり、天照大神に誓約を仕掛けたり、出雲に降り立ったり、乱暴狼藉を働いたり。大胆で行動的ではあるが、少し大げさに言うと運命に動かされている感がある。
 また、天照大神と素戔嗚尊の話はどう考えても対立の図式になっている。素戔嗚尊が根の国に行く前に高天原の天照大神に会いに行く場面では、天照大神は自分の国を奪いに来たと思い込み、武装して臨戦態勢を敷き、来訪の理由を問い詰める。一方の素戔嗚尊は邪心はないといって誓約での勝負を挑む。誓約で勝った素戔嗚尊は春になると天照大神が持つ田に対して種を蒔いた上に重ねて種を蒔いたり、畦を壊したりした。秋には田に馬を放して邪魔をしたり、新嘗祭を見て神殿で大便をしたり、天照大神のいる機殿(はたどの)に馬の皮を剥いで投げ入れたり、と狼藉の限りを尽くす。ついに天照大神は怒ってしまい、天岩屋に入って岩戸を閉じて隠れてしまった。八十万神の努力によって天照大神は岩屋を出ることができたが、その後、神々は素戔嗚尊の罪を責め、罰を与えた。沢山の奉げものを供えさせ、髪を抜いて手足の爪まで抜いてその罪をあがなわせた。 そしてついに素戔嗚尊は高天原から追放されてしまう。
 このあたりの記述は古事記も似たり寄ったりであり、二人の神は常に対立し、互いに争っている状態にあることが読み取れる。どう考えても同じ親を持つ血のつながった関係には思えない。天照大神は高天原の神、素戔嗚尊は根の国の神であり、この二人、あるいはこの二人を代表とする2つの集団が対立関係にあった、という考えのもとで先に進みたい。

 二人の誓約の結果はこうだ。天照大神が素戔嗚尊の十拳剣を受け取り、これを三段に折って天眞名井の水ですすいで清めて、噛んで砕いて生まれたのが、田心姫(たごりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵嶋姫(いちきしまひめ)の三姉妹、すなわち宗像三女神。次に素戔嗚尊が天照大神が身に着けていた八坂瓊の500個の御統(みすまる=玉飾り)を受け取って、天眞名井の水ですすいで噛んで噴き出した息が霧となって生まれた神が、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)、天穗日命(あめのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、ほか二柱を加えた計五柱の男神。そして天照大神は「三女神は素戔嗚尊の剣から生まれたから素戔嗚尊の子、五柱の男神は自分の御統から生まれたから自分の子である」と言った。このことは、三女神は素戔嗚尊グループに属し、天孫降臨につながる正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊ら五人は天照グループに属する、ということだ。宗像三女神が素戔嗚尊から生まれたということから、筑紫と出雲のつながりが考えられよう。



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◆国生み(大八洲各国の比定)

2016年09月24日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 伊弉諾尊と伊弉冉尊が生んだ国々について、書紀では本編と一書を含めて6通りの組み合わせが記されており、古事記と合わせると全部で7通りの組み合わせがある。表にまとめると下のようになる。古事記の吉備児嶋以降の6つの嶋は大八嶋国を生んだ後に追加で生んだ国である。



 淡路の重要性については先述したが、淡路以外の国についても重要な国であったからこそ、あるいは当時の天皇家に意味があったからこそ、ここに登場させたのだと思う。一書を含めた書紀においては、淡路洲=淡路、大日本豊秋津洲=大和(または畿内)、伊予二名洲=四国、筑紫洲=九州、億岐洲(億岐三子洲)=隠岐、佐度洲=佐渡、越洲=越、吉備子洲(子洲)=吉備児島、壹岐洲=壱岐、對馬洲=対馬、と大半が無理なくその国を特定できるが、大洲だけがどうも不明である。周防の大島(屋代島)とするのが通説であるが、周防大島を登場させる意味があるとするとただひとつ、瀬戸内海の西端にある島であるということ。東端に淡路島、それとの対比で西端の周防大島。付近の潮が速いのは淡路と同じだから、瀬戸内海の西の要衝であることには違いない。しかし、淡路島はそれ以上に天皇家にとって大きな意味があった。すなわち、領有地を持ち、海人族を住まわせ、兵器生産を行っていた、ということだ。周防大島にはそういうものがない。だから私は周防大島ではないと思う。

 あらためて列挙された国を眺めてみると、重要な国がひとつ抜けていることに気がつく。それは「出雲」だ。先に書いたとおり、私の考えでは出雲は第10代崇神天皇の故郷である。また魏志倭人伝に5万余戸の規模を誇る「投馬国」と記された国である。記紀神話においても素戔嗚尊が高天原から追放されて向かった国であり、葦原中国平定の最終局面である国譲りの場面で登場する重要な国である。それが国生みに出てこないのはおかしい。いや、国生みに登場しているからこそ、素戔嗚尊の向かう国としても、国譲りの対象としても登場させることができるのだ。そう考えると「大洲」は「出雲」であると考えるのが最も合理的だと思う。「洲=国」と考えると「大洲=大国」となり、大国主命の名もここに由来しているのかも知れない。中国山地を挟んで山陽側に吉備の小島(児島)、山陰側に出雲の大島、という対比で描いたとも言えるだろう。

 島根半島は今でこそ出雲平野で本州とつながる半島になっているが、その昔は出雲平野はなく沖合に浮かぶ島であった。中国山地から流れる斐伊川や神門川が運ぶ土砂が出雲平野を形成した。とくに斐伊川流域では古代より鉄穴(かんな)流しによる砂鉄採取とたたら製鉄が盛んに行われ、それに伴う排土が平野を急速に拡大させた。その結果、本州と沖合の島がつながって現在の島根半島になった。島根県出雲市の出雲大社にほど近いところに大島町というところがある。島根半島が島であった頃の名残りなのかもしれない。



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◆国生み(「洲」の意味)

2016年09月22日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 国生みの話でもうひとつ考えておきたい点がある。それは書紀で表記される「洲」の意味である。一般的に「シマ」と読んで「島」と同意であると考えられている。古事記では「嶋」と表記されているから「シマ」で問題ないようにも思うが、通説で言われるように「大日本豊秋津洲」を本州島と捉えるのは少し範囲が広すぎないだろうか。また、「越洲」は越前・越中・越後の「越」であるとされているが、ここは島ではない。その一方で、淡路洲は明らかに淡路島であり、吉備子洲は吉備の児島であろう。
 私は「洲」は「州」の意味で使われていると思う。「州」はまとまった地域や行政の単位を意味する言葉である。たとえば律令時代の「国」、江戸時代の「藩」、現代の「都道府県」などがこれにあたる。「越洲」は「越の国」であり、淡路洲は「淡路の国」である(たまたま島と国の範囲が一致している)。さらに、これらの地域をいくつかまとめて一括りにする場合も「州」を使う。東北地方を奥州と呼んだり、九つの国が集まっているから九州と呼ぶのがそれにあたる。したがって、伊予二名洲や筑紫洲はまさに後者の用例にあたり、そのことは古事記の以下の記述をみればわかる。

伊予之二名嶋は体一つに顔が四つあります。
顔にはそれぞれに名前があります。
伊予国は愛比売(えひめ)といいます。  
讃岐国は飯依比古(いひよりひこ)といいます。
阿波国は大宜都比売(おおげつひめ)といいます。
土佐国は建依別(たけよりわけ)といいます。

筑紫嶋も体が一つで顔が四つあります。
それぞれの顔に名前があります。
筑紫国を白日別(しらひわけ)といいます。
豊国を豊日別(とよひわけ)といいます。
肥国を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といいます。
熊曾国を建日別(たけひわけ)といいます。

 そう考えると大日本豊秋津洲は本州島という大きな島を指すのではなく、その中のあるまとまった地域を指すと考えるのが妥当ではないか。そしてそれは当時の日本の中心であり首都とも言える「大和の国」、あるいは首都圏のようにもう少し広く捉えて「畿内」を指すのではないだろうか。神武王朝第6代の孝安天皇が宮を置いたのが室秋津嶋宮であり、奈良盆地南西部の葛城地方を秋津嶋と呼んでいたことがわかる。奈良盆地南西部の神武王朝と東部の崇神王朝を統一した応神王朝以降、「秋津洲」は大和あるいは畿内を指すようになったと考えたい。



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◆国生み(淡路洲の誕生)

2016年09月21日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 伊弉諾尊と伊弉冉尊は夫婦となって国生みを始める。淡路洲、大日本豊秋津洲、伊予の二名洲、筑紫洲、億岐洲と佐度洲、越洲、大洲、吉備子洲の順に生み、あわせて大八洲国という。一書の第1・第6・第7・第8・第9においても同様の話が記されるが、これらの記述において気が付いたことがある。
 書紀の記述では一書(第1)を除くすべてで淡路洲が一番目の誕生となっている。古事記においても「淡道之穂之狭別嶋」として淡路が一番目だ。一番になっていない書紀の一書(第1)においても大日本豊秋津洲に次ぐ二番目である。これは天皇家にとって淡路島が余程重要な位置づけであったということではないか。
 瀬戸内海を西から東に向かったときに、淡路島は畿内に入る手前で瀬戸内海を塞ぐように横たわる島である。潮の流れの速い明石海峡か鳴門海峡を越えなければ畿内へ入れない。その意味で淡路島は瀬戸内海航路の要衝と言える。九州を出て瀬戸内海を通って東征してきた神武天皇は自らの経験からそのことを十二分に理解していたので、神武自らが、あるいはその後裔が早い段階でこの島を押さえたのではないだろうか。それ以来、神武後裔の天皇家の実質的な領有地になったと推測する。書紀の応神天皇から允恭天皇までの記述を見ると、天皇家が淡路に海人族を擁していたことや淡路に狩場を持っていたことがわかる。

 淡路島の北部、西側の海岸線から3キロほど入った丘陵地に五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡がある。弥生時代後期の鉄器製造施設跡23棟から成っており、うち12棟から鉄を加工した炉跡の遺構が確認された。遺物として鉄鏃、鉄片、鏨(たがね)、切断された鉄細片など75点が出土した。また石槌や鉄床石、砥石など、鉄を加工するための石製工具も数多く出土した。1棟の中に10基の鍛冶炉がある建物跡も発見され、これまでに発見された弥生時代の鉄器製造遺跡としては最大規模で、住居は少なく、鉄器の製造に特化した特異な遺跡である。神武王朝は淡路を支配下に置き、この五斗長垣内に鉄器製造工場を設けたのだ。九州での倭国との戦闘において証明された高い鉄器製造能力はここでも活かされたということだ。

 この遺跡から南西に10キロほどのところに淡路国一之宮の伊弉諾神宮がある。祭神はもちろん伊弉諾尊と伊弉冉尊である。天皇家の祖先神とも言える伊弉諾尊は淡路に幽宮を設けて人生の終盤を過ごした。おそらくその終焉の地と考えられるところに神宮が設けられたのだろう。伊弉諾尊は神武王朝において淡路を統治し、兵器の製造と供給を司る人物を投影した神ではないだろうか。晩年を過ごし、かつ終焉を迎えた地が兵器製造基地の目と鼻の先であったということに加えて、国生みの後の一書(第6)によると、火の神である軻遇突智(かぐつち)を生んだ伊弉冉尊がその火で死んでしまったため、伊弉諾尊が剣で軻遇突智を斬ったところ、経津主神(ふつぬしのかみ)や武甕槌神(たけみかづちのかみ)の祖先が生まれたとある。この二人の神は出雲の国譲りの場面で十握剣を使って大己貴神に国譲りを迫る役割を担う。伊弉諾尊自身と伊弉諾尊から生まれた二人の神がいずれも剣の使い手として描かれていることもそのことを暗示しているように思える。



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◆天地開闢と神々の誕生

2016年09月20日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀におけるいわゆる天地開闢の段において、まず三柱の神が生まれた。国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、豊斟淳尊(とよくむぬのみこと)の三神である。次に、泥土煮尊(ういじにのみこと)と沙土煮尊(すいじにのみこと)、その次に、大戸之道尊(おおとのじのみこと)と大苫邊尊(おおとまべのみこと)、さらに、面足尊(おもだるのみこと)と惶根尊(かしこねのみこと)、そして、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の八柱の神が誕生した。国常立尊から伊弉諾尊・伊弉冉尊までを神世七代と呼ぶ。

 書紀には本編とは別に一書(あるふみ)が別伝として併記されているが、その記載も含めて気になる点がある。書紀本編に登場する最初の神である国常立尊、国狭槌尊、豊斟淳尊の三神はこの天地開闢以降はどこにも登場していない。登場しない神、いわば役割のない神をなぜ冒頭で登場させたのか。そして、一書(第4)で高天原にいる神として天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)、神皇産霊尊(かむむすびのみこと)が登場するが、この三柱の神は古事記においては真っ先に登場する神、すなわちすべての根源となる神として描かれている。なぜ書紀は本編でそうしなかったのか、なぜ本編ではなく別伝としたのか。さらに、それにも関わらず書紀では、特に高皇産霊尊は国譲りや天孫降臨、神武東征など重要な場面で登場するという不整合が見られるが、これはどういうことだろうか。
 天御中主尊、高皇産霊尊、神皇産霊尊の三神は高天原の神、つまり天照大神(あまてらすおおみかみ)や瓊々杵尊(ににぎのみこと)、神武天皇の祖先である。古事記ではこの三柱の神がこの世の最初の神であることを明確に示すことができたが、正史である書紀ではそれができない事情があった。それは高天原の天孫族系ではない氏族への配慮からではないか。この世はどの一族の系譜にもつながらない中立の神から始まった、そうしておくことで非天孫族の反発を押さえる必要があったのではないだろうか。国常立尊、国狭槌尊、豊斟淳尊の三神はそのためだけに登場した神であり、その後に登場させる必要はなかったのだ。そして実際のところは高天原の神を活躍させることが必要だった。ただし、活躍した神は高皇産霊尊のみであり、天御中主尊と神皇産霊尊は天地開闢以降に登場シーンはない。中国で聖数とされる奇数の「三」に合わせるためにこの二柱の神を加えたのではないだろうか。天御中主尊や神皇産霊尊はいかにも中立的な呼称である。



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◆日本書紀に記された神話

2016年09月19日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 さてここからは日本書紀をもとに歴史を紐解いていくことにする。あらためて書紀の神代巻について順を追って見ていきたい。神武東征までの大まかな流れを確認しておくと次のようになる。

① 天地開闢と神々の誕生
② 国生み
③ 天照大神と素戔男尊
④ 葦原中国の平定と国譲り
⑤ 天孫降臨
⑥ 山幸彦と海幸彦
⑦ 神武東征

 なお、私は書紀や古事記などに記された神話は何らかの史実、事実に基づいて書かれていると考える立場である。もちろん全てが事実であり真実であるとは考えていないが、何らかの事実をモチーフに作られており、書かれている内容には何らかの意味が込められていると考え、それを自分なりに解釈していこうと思う。


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◆邪馬台国=崇神王朝

2016年09月17日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 魏志倭人伝に記された邪馬台国は大和の纒向にあった。そして日本の史書である記紀によれば、古代にこの纒向付近に宮を置いた天皇がいることがわかる。崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の3人である。書紀では、崇神天皇は「磯城の瑞籬宮」に、垂仁天皇は「纒向の珠城宮」に、景行天皇は「纒向の日代宮」にそれぞれ宮を設けたとなっている。古事記ではそれぞれ「師木水垣宮」「師木珠垣宮」「纒向之日代宮」とされている。崇神天皇は第10代天皇とされているが、その崩御年をみると書紀では「辛卯」となっており該当しそうな西暦年に置き換えると211年、271年、331年のいずれかになる。古事記では「戊寅」となっており同様に西暦にあてはめると198年、258年、318年のいずれかとなり、一般的には318年であると考えられている。いずれの場合をとっても崇神天皇は弥生時代後期あるいは末期の天皇ということになり、纒向遺跡の繁栄した時代と見事に重なる。すなわち、崇神天皇は邪馬台国の王であったと考えられる。そして倭人伝において邪馬台国は投馬国(出雲)の次の国となっていることからも、崇神天皇は出雲から大和にやってきた王であったと考えたい。
 しかし、魏志倭人伝では邪馬台国の王は女王であった。とすると、崇神天皇は倭人伝では何者とされているのか。卑弥呼が共立された場面で「年已長大無夫婿有男弟佐治國(年すでに長大なるも夫婿なく、男弟あり、佐けて国を治む)」と記述されているが、崇神はここに登場する「男弟」ではないかと考える。鬼道を用いた卑弥呼はいわゆるシャーマンとして神託を司り、それを受けて実際に政治を行なったのが男弟の崇神だったのではないか。そして女王卑弥呼の死後、この男弟である崇神が王(天皇)になったが残念ながら倭国をまとめることができずに混乱をきたした。

(このあと、神武王朝、崇神王朝という呼び方をするが、神武王朝は初代神武天皇から第9代開化天皇まで、崇神王朝は第10代崇神天皇から第15代仲哀天皇までを指すこととする。同様に、応神王朝を第16代応神天皇から第25代武烈天皇までとする。)

 崇神王朝と神武王朝は奈良盆地で睨み合う状態、すなわち両王朝が並立する状態に陥ったことは先に書いたが、記紀によると崇神天皇は第10代天皇であり、初代が神武天皇である。これはどういうことだろうか。私はこのように考えている。記紀の編纂を指示した天武天皇は大陸江南の流れを汲む一族の系列、すなわち神武一族の後裔であったので、天武は自らの祖先である神武を天皇家の開祖として初代天皇に仕立てた。同時に崇神天皇およびその後の天皇(垂仁、景行、成務、仲哀)も倭国の王として存在し、その存在を消すことができなかったため、実際は並立していた神武王朝と崇神王朝を万世一系の考えに従って神武王朝→崇神王朝と順番に成立したことにした。これが、神武、崇神ともに「ハツクニシラススメラノミコト」と呼ばれる所以である。さらに言えば、この神武王朝と崇神王朝を統合したのが応神天皇であった。
 卑弥呼の死後、神の宣託を告げる巫女を失った崇神はいったん自らがその役割をも担おうとして「王」となったが、やはり各国がそれを許さなかったため、あらためて台与に巫女役を担わせることにし、自分は政治に専念するようにしたところ、うまく回りだした。結果として大和に入ってからの神武はなかなか崇神を倒すことができず、しばらく両王朝が並立する形になった。書紀では崇神王朝のときに四道将軍の派遣、熊襲征伐、日本武尊の活躍などが記されている。四道将軍の派遣先である吉備や丹波は神武と同盟関係にあった国(これについては後に触れる)であり、熊襲にいたっては神武の故郷である。九州での戦いで敗れ、大和では女王卑弥呼を死に追いやられた邪馬台国崇神王朝は狗奴国神武王朝に対して反撃に出たのだ。



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◆連立方程式と仮説

2016年09月16日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 ここまで主に魏志倭人伝の記述内容と考古学の視点から弥生時代の日本列島西半分の状況を見てきた。簡単に振り返ってみる。

 弥生時代中期、日本列島は魏と朝貢関係にある朝鮮半島系の国々と、むしろ呉とのつながりが想定される大陸江南系の国々が各地に盤踞していた。2世紀後半、これらの国々が互いに争う内乱が勃発した。前者の国々は邪馬台国の卑弥呼を女王として共立することで同盟関係を構築して連合国家である倭国を形成し、中国魏との朝貢関係を背景に大和から山陰、北九州に及ぶ大きな勢力を誇った。一方で後者の国々は狗奴国を盟主とする同盟関係を構築し、製鉄や稲作など当時の先端技術をもって勢力拡大をはかった。弥生時代後期、この状況下において、狗奴国連合と邪馬台国連合は九州を舞台に一戦を交えることになった。この九州での戦いは兵器生産能力に勝る狗奴国がほぼ勝利を収めることとなり、この結果は卑弥呼を死に至らしめた。

 この話はいわば中国史書による文献史学と考古学の二元連立方程式を私なりに解いた結果である。つまり両者の整合をとりながらできるだけ合理的な説明を考えた結果である。

 さて、弥生時代後期のこの状況を日本側の史書である日本書紀と照らし合わせるとどうなるか。二元連立方程式に日本書紀など日本の文献という変数を加えた三元連立方程式を解かねばならない。古代日本における大和政権はどのようにして誕生したのか、さらに考えを進めていくことにするが、この段階においてなお物語の結末は見えていない。したがって変数が増えたことでこれまで出した解が変わる可能性があり、そのことはご容赦願いたい。このあと、日本書紀を順に見ていくのであるが、その前提として現時点で考えている仮説を記しておきたい。

 倭国大乱の中、狗奴国は男王卑弥弓呼が自ら指揮を執って南九州を出発、海路にて瀬戸内海を東進し、各地の国々と同盟を結びながら倭国の本丸に攻め入った。同盟関係になった国は「宇佐」「安芸」「吉備」「紀伊」などである。そして瀬戸内海の東端にある淡路島を抜けて大阪湾から畿内へ進出、紀伊の力を借りながら大和へ侵入した。奈良盆地の中央部には邪馬台国が建国される以前から栄えていた国があった。丹後から進出してきた一族の国である。狗奴国東征軍はこの国を制圧したのち、奈良盆地の南部に拠点をおき、女王卑弥呼がいる奈良盆地東南部の邪馬台国と対峙することとなった。九州の狗奴国本体は北九州倭国に勝利し、その勢いで東征軍は大和において卑弥呼を死に追いやった。卑弥呼の死後、男王が立ったが倭国の国々は承服せず国中が混乱に陥る。そして卑弥呼の宗女である台与を王として反撃に出るも形勢逆転には至らず、大和には九州から来た狗奴国と邪馬台国が睨み合う時代がしばらく続いた。
 九州から大和に遷った狗奴国の王である卑弥弓呼こそが日本書紀にある神日本磐余彦尊、つまり神武天皇であった。神武は倭人伝に登場していたのだ。さらに卑弥呼の死後に立った邪馬台国の男王は崇神天皇であった。邪馬台国は崇神天皇が出雲から進出して築いた国であり、崇神もまた倭人伝に登場していた。さらに、神武天皇が先に制圧した大和の国は丹後から来た饒速日命の国であった。神武は饒速日命を制圧した後に大和(=日本)の王を名乗った。一方で崇神も倭国の王であった。

 「天皇」という称号や「神武」「崇神」という天皇の諡号はこの時代には使われていなかったが、ここからは話をわかりやすくするためにこれらの用語を用いたい。また、ここから先は日本書紀をベースに物語を展開するが、記述を簡略化するために「書紀」と記すことにする。



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◆倭国大乱

2016年09月15日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 倭国の女王である卑弥呼は狗奴国の男王である卑弥弓呼と関係が悪く、互いに争う状況にあった。この戦いの結果は記されていないがこれまでに書いたとおり、狗奴国が勝利した可能性が高い。この出来事が3世紀半ばのことだ。倭人伝ではそれに先駆ける2世紀後半のこととして倭国の乱(倭国大乱)にも触れている。当時、中国の魏に朝貢する国(使訳通じる所)が30ケ国であったと記しているので、互いに争った倭国とはこの30ケ国のことを指していると考えるのが自然であり、だからこそ、それらの国の1つである邪馬台国の女王卑弥呼を共立することで戦乱を収束させることができたのであろうが、私はこの混乱の機に乗じて狗奴国を始めとする倭国に属さない国々も参戦したという可能性を考えたい。
 
 倭国大乱の痕跡として「高地性集落」がよく指摘される。高地性集落とは、弥生時代中・後期に標高100メートルを超える高地の山頂部や斜面に形成された集落である。集落遺跡の多くは平地や海を広く展望できる高い位置にあり、西方からの進入に備えたものであり、焼け土を伴うことが多いことから狼煙の跡とも推定されている。遺跡の発掘調査からは高地性集落が一時的なものではなく、かなり整備された定住型の集落であることがわかっている。また、狩猟用とは思えない大きさの石鏃も多く発見されている。以上のことから、高地性集落を山城のように軍事的性格の強い集落とする意見が主流を占めている。高地性集落の分布は、弥生中期には中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期には近畿とその周辺部にほぼ限定されている。集落の分布状況や、弥生中期~後期という時期に着目して倭国大乱との関連性を重視する意見がある。この意見によれば、瀬戸内海や大阪湾岸が倭国大乱の舞台になったと言えそうだ。
 倭国大乱は北九州各国や投馬国などの日本海沿岸国のみならず、瀬戸内海沿岸各国、大阪湾岸各国など当時の西日本全体を巻き込む広範囲にわたる争いであった。そう考えると、その範囲にあった国は魏と朝貢していた30ケ国だけでなく、狗奴国やその他の国も含まれていたと考えるのが自然であろう。
 そして魏と朝貢関係にあった国々は邪馬台国の卑弥呼を女王として共立することでまとまった。一方で狗奴国やその他の国々はこの邪馬台国連合に対抗する意味で同盟関係のような何らかのまとまりを形成したのではないかと思う。そのときに中心になったのは軍事力や技術力に秀でる狗奴国であったと考える。要するに倭国大乱が発展して「邪馬台国連合vs狗奴国連合」という構図ができあがったのである。九州における「倭国vs狗奴国」の戦いはこの状況下で勃発した。



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◆卑弥呼の死

2016年09月12日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 卑弥呼の死については様々な説がある。狗奴国との戦闘で戦死した、敗戦の責任を追及されて殺された、病死した、などなどである。京都学園大学教授であった岡本健一氏は倭人伝に記された「卑弥呼以死」の「以死」について中国史書における用例を調査し、「史記」に38例、「三国志」に33例、「新唐書」に56例など「二十五史」だけで761例あることを明らかにした。
 そしてそのすべての用例を検討した結果、「以死」がいわゆる自然死として使われた例がないことがわかった。つまり、刑死・戦死・自死・遭難・殉職・事故死など「非業の死を遂げた」場合の用例ばかりであったという。倭人伝には、倭の遣いである載斯烏越等によって狗奴国との戦闘の報告がもたらされ、魏が激励のために詔書・黄幢を難升米に拝仮したあとに卑弥呼の死が記されている。このことから、卑弥呼はこの戦争が原因で死去したと考えられる。そしてその死後に径百歩余りの大きな墓に葬られたのだ。



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◆途絶えた倭国による朝貢

2016年09月11日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 魏の後に成立した晋についても正史である「晋書」が書かれている。その晋書にある倭国に関する記述で特に魏の終末期以降の状況を見てみよう。

 まずは「晋書四夷伝(東夷条)」にある魏から晋に政権が代わるタイミングの記述。「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢(句読点は筆者による)」。当時の政治背景を含めて以下のように解釈できる。晋の初代皇帝である司馬炎(武帝)は建国後、晋の礎を築いた祖父の司馬懿を高祖宣帝と追号した。その宣帝である司馬懿は魏の時代、遼東を支配していた公孫氏を破った。公孫氏の影響を排除した結果、倭の女王は遣いを帯方郡に派遣して朝見を果たすことができた。以降、倭国は魏との朝貢を絶やさなかった。宣帝の子である文帝が魏の宰相となった後も倭国はたびたびやって来た。その後に晋が建国された泰始年間の初め(後述の武帝記の泰始2年の内容と同一と考える)、遣使が重ねて入貢してきた。
 魏の終末期に倭が朝貢を続けたことは倭人伝と整合がとれている。そして政権が晋に代わってすぐに朝貢してきたという。通説ではこの朝貢は台与によるものとされているが、少し詳しく考えてみたい。倭人伝の記述は張政の帰国に対して台与が掖邪狗らを随行させたところで終わっている。張政は来日した247年以降、卑弥呼の死、男王即位、内戦、台与即位の事態を経たあと、台与を激励して魏へ帰国した。台与即位の時期は247年の数年後といったところか。とすると泰始2年(266年)の朝貢まで10年以上が経過している。張政の帰国時において倭国と狗奴国の戦争状態は継続していたが、さすがに266年には終結していたであろう。そして「泰始初、遣使重譯入貢」の一文には「倭国」とも「倭国の王」とも「倭国の女王」とも書かれていない。このことから、泰始2年の朝貢は台与によるものと断定することはできず、むしろそうではない可能性が高いと言えよう。

 次に「晋書武帝記」の泰始2年(266年)の記述として「十一月己卯、倭人來獻方物」とあり、これは先の「晋書四夷伝(東夷条)」のことを指すと考えられるが、266年11月に倭人がやって来て産物を献上したことがわかる。ここでも倭人と書かれているだけで誰が誰を遣いとして送ったのかが書かれていない。いや、書かれていないどころか、その朝貢主体を倭国でもなく女王でもなく、ましてや邪馬台国でもない一般名称である「倭人」という表現にしている。その後の太康10年(289年)には「是歳、東夷絶遠三十餘國、西南二十餘國來獻」とあるが、この東夷絶遠の30余国を倭国と考える説もあるがここでは既に「倭人」の表現さえない。そしてこの後、倭、倭国、倭人など「倭」という語が登場するのは266年から数えると147年後、いわゆる空白の4世紀を経た義熙9年(413年)の次の記述となる。「是歳、高句麗、倭國及西南夷銅頭大師、並獻方物(この年、高句麗・倭国および西南夷・銅頭大師、並びて方物を献ぜり)」。ここでは「倭国」となっているが、相変わらずその倭国の王や遣使の名に触れることはない。

 以上の通り、晋書において「倭」は何度か登場するものの、その扱いは魏志倭人伝と比較にならないほど簡潔で内容が薄い。晋書は唐の太宗の命により648年に編纂された史書である。従来の史書はすでに誰かが書いた書物をベースに史書に仕立て直すという作業が行われたが、晋書においてはゼロからの書き起こしであった。それを前提に理解をしなければならない。つまり編纂時は過去の史実を全て把握した上でどうにでも話を作ることができたということである。当然、中国正統王朝である晋にとって都合の悪いことは書かれなかったはずである。魏の時代に狗奴国と戦っていた倭国が勝利し、晋の政権樹立に合わせて朝貢してきたとすれば、おそらくその事実は記録として残されたであろう。狗奴国を破って日本(少なくとも西日本)を統一した強国が朝貢してくるということは威信を示すには十分な事実である。逆に敗れていたとすれば威信を傷つけることになる。魏の時代に十分な応援をしただけに敗戦はなおさら伏せるべき事実であった。泰始2年に朝貢があったのは事実であろうが、それは倭国の王、すなわち台与によるものではなく、北九州倭国のいずれかの国が捲土重来を期すために晋の後ろ盾を得ようとしたのではないだろうか。しかし、晋にとっては敗戦国を支援することはもはや無意味であったろう。

 前漢、後漢、魏と続いてきた中国王朝と倭国の関係は狗奴国の勢力拡大による劣勢下で一気に冷え込むことになった。これが空白の4世紀の実態であったろう。この期間は日本側(倭国)からの朝貢が途絶え、中国王朝にとっても史書に記述するほどの価値がない国になってしまった。



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◆倭人伝に記されなかった倭国の勝利

2016年09月10日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 倭人伝からは倭国と狗奴国の戦いがあったことは読み取ることはできるが、その結果については何も触れられていない。倭人伝の最後の部分、卑弥呼が親魏倭王の称号を得て魏と朝貢外交を展開し、狗奴国との戦いを告げたくだりの直前から最終部分までの読み下し文を記載する。

 「その六年、詔して倭の難升米に黄憧を賜い、郡に付して仮授せしむ。その八年、太守王き(斤+頁)、官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄憧を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれを告喩す。卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径百余歩、殉葬する者、百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女台与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。政等、檄を以て台与を告喩す。台与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す。」

 行間を含めて内容を理解してみよう。景初3年(2年は間違いとの通説に従う)の239年、魏より親魏倭王の称号を得た卑弥呼はその後、魏に対して積極的な朝貢外交を展開し、魏もそれに応えた。その流れの中で正始6年(245年)に魏は倭の大夫である難升米に対して詔を以て黄幢を下賜し、帯方郡に託して授けた。その後、正始8年(247年)に帯方郡太守の王きが着任した。このとき倭国はおそらく狗奴国との戦いにおいて劣勢に陥っていたのであろう。倭国は魏の支援を得んがために載斯烏越等を帯方郡に送り、その窮状を訴えた。この派遣は卑弥呼によるものではなく北九州倭国が独断で行ったことかも知れない。いずれにしても訴えを聞いた魏側は張政らを倭国に派遣し、詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を作って激励した。2年前に帯方郡に託していた詔書・黄幢が張政によってようやく難升米の手元に渡った。(しかし、これらの詔書・黄幢あるいは檄文が卑弥呼のもとに届いたかどうかは不明である。)その後、大和にいる卑弥呼が死去したため墓を設けて手厚く葬った。おそらく、この卑弥呼の死をもって倭国の敗戦は濃厚となった。
 卑弥呼の死後、男王が立った。この男王に関する具体的な記述はないが、卑弥呼を補佐していた男弟が代理として王になったのではないだろうか。しかし、この王は倭国をまとめることができず倭国内が内戦状態に陥った。倭の各国は卑弥呼の宗女である台与を王に立てて改めて結束することができ、その結果、狗奴国に対して反撃に出たのではないか。魏の遣い張政らが台与を激励したことは完全な終戦に至っていなかったことを物語っている。台与は掖邪狗らを派遣し張政らが魏に帰るのに随行させた。そして掖邪狗らは皇帝の居場所である台に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔の開いた大きな勾玉を二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。台与は魏に対して継続的な支援を求めたのだろう。

 そして倭人伝の記述はここで終わっている。魏はその後265年に元帝が司馬炎に政権を譲って終焉を迎えた。そして魏に代わって晋が成立した。したがって三国志魏書は265年までの記述となるのだが倭人伝は247年で終わっている。248年から265年の17年間の事象は記述されていない。倭国と狗奴国との戦闘がどうなったのか、その後の日本列島で何が起こっていたのか。少なくとも倭国が狗奴国に勝利したとすればそのことは記録として残されるべき出来事であったはずだ。魏の属国である倭国がその敵国を退けたこと、そしてその勝利は魏の支援の結果であるのだから当然にそのことを喧伝しようとするはずだ。逆に倭国が負けたのであればその事実を伏せようとするだろう。魏の威信低下につながる話だから。このように考えると、倭国は狗奴国に敗れた、あるいはそれに近い状態になったと考えるのが蓋然性が高い。


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◆鉄器生産能力に勝る狗奴国の優勢

2016年09月09日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 弥生時代、北九州倭国においても朝鮮半島経由で入ってきた製鉄技術を利用して鉄器の生産が始まっていたが、北九州倭国は狗奴国と違って朝鮮半島経由で鉄そのものを輸入することができた。3世紀の朝鮮半島の情勢として「魏書東夷伝の弁辰条」に「(弁辰の)国々は鉄を産出する。韓・ワイ・倭がみな鉄を取っている。どの市場の売買でもみな鉄を用いていて、中国で銭を用いているのと同じである。そしてまた(楽浪・帯方の)二郡にも供給している。」と書かれている。当時、半島南部には馬韓、弁韓、辰韓の三韓があり、弁韓・辰韓では鉄資源の開発と鉄生産が隆盛し、楽浪・帯方二郡に供給するほどの一大製鉄拠点となっていた。倭国もこの鉄を入手していた。魏志倭人伝には「帯方郡より倭に至るには海岸に沿って水行し、韓国を経て、南へ行ったり東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到ること七千余里」とあり、倭の北岸である狗邪韓国が朝鮮半島にあったことがわかる。北九州倭国はこの狗邪韓国を経由して半島の鉄を手に入れることができた。半製品の鉄塊もあり完成品の鉄器もあった。
 北九州倭国はこの状況の中で自前での鉄器生産は狗奴国に遅れを取ることになったのではないだろうか。先述の愛媛大学の村上教授の「倭人と鉄の考古学」によると、弥生時代の鍛冶工房および鍛冶関連遺物の分布をみると九州北部よりも九州中部にその数が多いことが読み取れる。必要な時に必要なだけの輸入が叶うのであれば戦闘の最前線にどんどん兵器を供給できるが、自前での生産が不十分な状況下でひとたび輸入が停滞してしまうと戦場はたちまち窮地に陥ることになる。鉄器生産能力に勝る狗奴国が戦闘を有利に進めたことは間違いないだろう。



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◆倭国vs狗奴国 戦闘の様子

2016年09月08日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 先に見たように狗奴国はあくまで邪馬台国そのものではなく女王国連合、すなわち倭国の南で境界を接する国であったので、狗奴国の戦いの相手は邪馬台国ではなく、倭の国々であった。倭人伝の記述「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」は倭女王卑弥呼と狗奴国男王卑弥弓呼が対立していた状況を伝えており、このことからも戦闘の当事国は倭国と狗奴国であることがわかる。もちろんこの場合の倭国は北九州の国々、すなわち北九州倭国を指す。狗奴国と北九州倭国の境界あたりで両国の戦闘があったと考えられるので、次にその様子を見てみよう。

 次の図は、松本寿三郎氏、板楠和子氏、工藤敬一氏、猪飼隆明氏の共著による「熊本県の歴史」に掲載された弥生後期後半の鍛冶遺構の分布を示すものである。特に北九州倭国と狗奴国の境界に近い北方を中心に主な遺跡を順に示す。

      弥生時代後期後半における主な鍛冶遺構 (『熊本県の歴史』より)


■狩尾遺跡群
 阿蘇山北西部の外輪山の麓、熊本県阿蘇市に所在する湯の口遺跡、方無田(かたなた)遺跡、前田遺跡の総称である。湯の口遺跡からは縄文時代の土器片と石鏃、弥生時代の終わり頃から古填時代の始めにかけての竪穴住居跡45基が発見された。鉄器は鉄鏃55点など総数331点が出土、また鉄滓を除く鉄製品の出土した住居跡は34基で全住居跡の約8割を占める。また、13号住居跡は鍛冶工房の姿を如実に残しおり、これらの分析の結果、この遺跡内で鍛冶および鉄器生産がおこなれていたという結論になった。また、有力者の墓と思われる箱式石棺が横に並んで3基発見された。
 方無田遺跡からは弥生時代中期始めと弥生時代後期終わりの竪穴住居跡や墓穴が多く見つかった。特に、弥生時代中期の住居跡は阿蘇谷において弥生時代最古として注目されている。弥生時代後期の鉄器は鉄鏃11点を含め30点が出土した。
 前田遺跡では弥生時代終わりの竪穴住居跡13基と、同時期とみられる掘立柱建物が見つかった。遺構の時期や広がりの様子からみて西隣りの方無田遺跡と同じ弥生のムラの一部と思われる。鉄器は5点、また、3軒の住居跡からは直径約5ミリの濃青色のガラス玉が各1点ずつ、いずれも住居跡中央から出土した。6号住居跡には折れた柱が立った状態で出土した。柱が焼け炭化したために残ったもので、当時の家屋構造を知る上で貴重なものである。

■池田古園遺跡
 湯の口遺跡、方無田遺跡、前田遺跡から少し距離をおいているが狩尾遺跡群と一連の流れにある遺跡である。弥生時代中期の土器片、弥生時代後期の竪穴住居跡35基、周溝遺構5基が検出された。鉄器は、鉄鏃54点を含む161点が出土した。

■池田遺跡
 こちらも先の狩尾遺跡群の一角を占める遺跡である。弥生時代後期の竪穴住居跡9基が検出された。このうち鉄製品の加工を主体とした鍛冶施設とみられる6号住居跡では42点の大量の鉄製品と鉄滓の広がりを確認した。鉄製品の出土数は一住居跡としては狩尾遺跡群では群を抜く数である。

■下山西遺跡
 阿蘇山中央火口丘の先端、狩尾遺跡群からはカルデラを挟んで東方3.8kmのところに住置する。34基の竪穴のうち、古墳時代の1基と時期不明の2基を除いて弥生時代終末期のものである。さらに丘陵の最先端部に4基の石棺があり、このうち3基から鉄剣1本づつが出土し、1基からガラス玉が出土した。石棺の中には大量のベンガラが入れてあり、被葬者は阿蘇黄土を利用したベンガラの生産と関わりのある者であろうと推定される。また、152点の鉄器が出土し、特に鏃の占める割合が高い。白川・大野川流域の弥生後期の鉄器の総合的な分析によれば、この地域は鉄器生産と流通について地域的特長を示し、北九州地域とは異なる様相を示す。なお、下山西遺跡の西南約300mからは、大正4年(1900年)に中細銅戈1本が発見されている。おそらく下山西遺跡と関係あるものと思われることから、この下山西遺跡は阿蘇谷の弥生期の有力集落のひとつとみてよい。

■西弥護免遺跡
 熊本県菊池郡大津町にあり、総数214軒にのぼる弥生終末期の住居跡、198基の土壙墓群住居跡群を囲む環濠の総延長1キロ以上の大遺跡で、総数581点の鉄器が出土している。このうち298点の鉄器片は173号住居跡に集中して出土した。鍛冶工房とみられるこの住居跡出土の鉄器は、形のわかる鏃5点・やりがんな2点のほかはすべて針状か幾何学形の細片であり、再加工のための鉄素材という性格をもっていると思われる。

■方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡
 熊本県山鹿市方保田にあり、菊池川とその支流の方保田川にはさまれた台地上に広がる弥生時代後期から古墳時代前期に繁栄した環濠集落遺跡である。広さは35~40haと広大で吉野ヶ里遺跡(およそ50ha)に匹敵する。これまでの調査結果から住居跡80軒、埋葬施設21基のほか、幅8mの大溝や多数の溝が確認され、外敵から集落を守っていたことが分かっている。出土した鉄器は破片も含めると170点を超え、全国で唯一といわれる石包丁形鉄器が発見されるとともに、鉄器を作った鍛冶場と思われる住居跡も発見されている。巴形銅器をはじめとする数多くの青銅器も発掘されており、この地の権力者を中心に形成された集落であると考えられる。

■諏訪原(すわのはる)遺跡
 熊本県玉名郡和水町にあり、弥生後期~古墳時代初めの73軒の竪穴住居跡のうちに鍛冶工房とみられる焼土や鉄滓、鉄片を多数ともなう住居跡が調査されている。5号住居跡から鉄片118点、7号住居跡から鉄滓、39号住居跡から鉄片200余点が出土している。鉄片はいずれも細片で、製品の型どりをした後の鉄屑が、あるいは再加工のために工房に集められた回収品かとみられている。

 以上は熊本県教育委員会などによる各遺跡の報告書、奥野正男氏の「鉄の古代史 弥生時代」、菊池秀夫氏の「邪馬台国と狗奴国と鉄」などを参照したが、奥野氏はその著書で弥生時代の「後期後半から終末期にかけて、九州では熊本・大分両県に鉄鏃の増加が目立つ。その出土遺跡は熊本県玉名郡・菊池郡・山鹿市・阿蘇郡など、主に福岡・熊本県境の山間部に多い。山鹿市方保田遺跡、阿蘇町下山西遺跡、大津町西弥護面遺跡などからは、いずれも多数の鉄鏃を主とし、数百点の鉄器が出土している。筑紫平野や熊本平野などにみられる平地集落と比べ、けっして耕地に恵まれているとはいえないこれら山間部の集落に、多量の鉄鏃が集中しているのはなぜだろうか。私は、いま熊本・福岡の県境となっている大牟田、玉名、菊池にかけての山地は、三世紀頃も、邪馬台国と狗奴国との国境地帯だったと考え、当時この国境一帯のムラに、鉄鏃を集中させるような軍事的緊張がつづいていたものと想定している。」と述べている。私は基本的にこの考えに賛同する。ただし、氏が「邪馬台国」としている個所を「倭国」あるいは「北九州倭国」と読み替えておきたい。


鉄の古代史―弥生時代
奥野正男
白水社


邪馬台国と狗奴国と鉄
菊池秀夫
彩流社




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