古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆中国江南とつながる南九州

2016年08月23日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 北部九州や山陰を中心とする倭国が中国華北とつながっていたことは先に書いた。それに対して南部九州は中国江南と深くつながっていたと言ってもいいだろう。南部九州と江南の関係についてもう少し見ていく。

■免田式土器
 熊本県を中心に九州中南部の各地で出土する「免田式土器」という弥生式土器がある。大正7年(1918年)、熊本県の人吉盆地中央部、球磨郡免田町で畑を水田にする地下げ工事中に多くの重孤文土器が出土した。その地名から免田式土器と呼ばれているが、人吉盆地は球磨の中枢、のちの熊襲の地であることから「熊襲の土器」とも呼ばれた。この土器は全国150ヶ所で発掘されているが、熊本県はそのうち95ヶ所を占める。特に球磨・人吉では30ヶ所を数え、免田式土器の本場であることが推定される。
 形状は、胴部はそろばん玉の形、やや開き気味に上にのびた長頸をもち、胴部の上半に重弧文や鋸歯紋などが描かれている。弥生時代後期から古墳時代初期のものとされ、その優美なシルエットは気品に溢れ、最も秀逸な弥生式土器と呼ばれた。その洗練された技術は中国の銅ふく(煮炊き用の鍋のような器具)を模倣したものとして、その起源は大陸にあるともいわれる。免田式土器は沖縄などでも出土していることから、東シナ海を通じた中国江南地方とのつながりを想起させる。

■才園古墳
 免田式土器が発見されたのと同じ免田町内で1938年、公民館の建設中に6世紀初めの「才園(さいぞん)古墳」が発見された。この古墳の横穴式石室から刀剣、馬具、鋏、玉類とともに舶載の流金鏡が出土した。43文字の銘文が刻まれた神獣鏡であった。「流金」とは金メッキが施されたもので、流金鏡の出土例は日本では福岡と岐阜を加えて僅か3例しかなく、精緻な画文帯神獣鏡はこの鏡のみであった。そしてこの鏡が3世紀頃の中国の江南地方で鋳造されたものであるとされた。免田式土器が発掘された同じ地域に流金鏡を伝えた民は江南からの渡来民であった可能性が高いと言えよう。

■呉の太伯
 熊襲の曽於の地と考えられる鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)に、もと官幣大社で大隅国一之宮の鹿児島神宮がある。主祭神は海幸山幸の弟の方であり神武天皇の祖父にあたる山幸彦の天津日高彦穂々出見尊(あまつひたかひこほほでみのみこと)であるが、相殿神として「句呉」の祖である太伯を祀る。句呉はのちに国名を呉と改めるが、現在の中国蘇州周辺を支配した春秋時代の国の1つであり、鹿児島神宮はこの句呉を建国した太伯を祀る国内で唯一の神社である。
 また、宮崎県の諸塚山には、句呉の太伯が生前に住んでいて死後に葬られたという伝承がある。その場所は宮崎県北部の東臼杵群諸塚村と西臼杵郡高千穂町の境界。古くから神山として信仰の対象となっていた山で、山頂に塚がたくさんあることから「諸塚山」と呼ばれ、さらに太伯の伝承から「太伯山(だいはくさん)」とも呼ばれている。
 句呉は紀元前12世紀の建国から紀元前473年まで続き、夫差王のときに越の勾践により滅ぼされ、さらに北方の漢民族に追われて人民は海に逃れたとされる。彼らは南九州に漂着して生き残り、その後、南九州の地で縄文の民と融合して弥生人となっていった。その民族としての記憶が鹿児島に祖国の建国の王を祀り、宮崎にその生死の伝承を残させた、と言えよう。
   
■九州中南部にあった狗奴国
 さらに想像を逞しくしてみよう。句呉の人である句人を狗人と考えて日本書紀の海幸山幸のくだりの一書(第二)をみると、兄の海幸彦は俳人(わざひと)として弟の山幸彦に仕えることになったとあり、この俳人は別伝によると狗人(いぬひと)であるとされている。それで海幸彦である火闌降命(ほすそりのみこと)の後裔である隼人たちは今に至るまで天皇の宮垣のそばを離れないで吠える犬の役で警護の任にあたっているという。このことから、江南の呉(句呉)から渡来した集団(句人=狗人)の後裔が隼人であると考えることができるのではないか。さらに「狗」の字から類推することで、この渡来集団による国(狗人の国)が魏志倭人伝にある狗奴国であり、狗奴国は隼人の祖先の国であったと考えることはできないだろうか。
 そして、筑紫(九州)の国にあって大和政権に服従しない熊襲と呼ばれていた民が後に制圧されて隼人と呼ばれるようになったと考えると、中国江南の呉(句呉)に由来する狗奴国は熊襲の国であったとも言えよう。つまり、熊襲・隼人が居住していたと言われる球磨や曽於を中心とする九州中南部の地がまさに狗奴国であったと考えることができる。逆に言うと、九州中南部にあった狗奴国は中国江南の流れを汲む国であった。

 狗奴国が熊襲の国であることについては内藤湖南、津田左右吉、井上光貞らの先人が既に説いている。また、森浩一は考古学の視点から、免田式土器は熊襲文化圏によって生み出されたものではないかと考察している。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆古代の製鉄

2016年08月22日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 次に古代の製鉄について考えてみる。一般的に製鉄方法には直接製鉄法と間接製鉄法の2つの方法がある。直接製鉄法は塊錬鉄製鉄法とも言われ、鉄鉱石や砂鉄などを比較的低い温度で加熱、溶かさずに半溶融状態のまま還元して得られる海綿状の鉄や鉄塊を再度加熱して製錬、鍛造し、不純物を搾り出すとともに炭素量も調整して強靭な鋼を得る方法であり、日本のたたら製鉄がこれにあたる。もう一方の間接製鉄法は溶融銑鉄製鉄法と言われ、鉄鉱石を高温に加熱、鉱石を溶融しながら還元して鉄を得る。このとき、高温のために鉄は大量の炭素を吸って脆い銑鉄となる。この銑鉄を再度加熱溶融し、銑鉄に含まれる炭素を燃やして炭素量を調整して強靭な鋼を得る。現代の製鉄法である。

 愛媛大学の村上恭通教授によるとアジアの製鉄は次のように変遷した。世界史における製鉄技術の起源は古代ヒッタイト帝国にあると言われ、紀元前2000年頃のヒッタイトの遺跡から製錬された鉄が発見されている。ヒッタイトはこの鉄器によりオリエントを制したと言われているが、このときの製鉄法は塊錬鉄製鉄法であった。紀元前12世紀頃、ヒッタイトが滅亡するとこの製鉄技術が四方へ伝播し、紀元前9世紀には中国に伝わった。
 中国では伝来当初は塊錬鉄製鉄法であったが、華北地方では紀元前15世紀頃から始まった銅精錬と製陶技術を応用して鋳鉄製造が早くに始まった。当時の製陶においては1280℃の高温を得ることができたことから、1200℃を越える製錬温度で溶融銑鉄を製錬する間接製鉄法が発達した。春秋戦国時代には製錬炉で溶融銑鉄を撹拌脱炭して効率的に鋼ができるようになり、漢の時代には間接法による製鉄技術がほぼ完成されることとなる。
 一方、江南地方ではオリエントやインドからの伝播と思われる海綿鉄の直接製鉄法が発達したことにより、紀元前後(日本における弥生時代中期の終わり頃)、広大な中国大陸では華北では間接法、江南では直接法という具合に2つの製鉄法が並立することとなった。

■日本における製鉄
 さて、日本における製鉄の状況はどうであったろうか。日立金属株式会社のWebサイトを見ると「広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどから、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われる」となっている。しかし、平成2年から平成4年に発掘調査がなされた広島県三原市八幡町の小丸遺跡はこれまでの学説を根本からひっくり返すものであった。ここの製鉄炉は3世紀のものであることがわかり、これにより日本国内の製鉄は弥生時代後期から開始されていたことが明らかになったのである。
 しかしながら、これらはあくまで製鉄炉跡の確認をもって製鉄があったとみなしているのであって、直接法による場合は鉄塊を取り出す際に炉を破壊する必要があるため炉跡が残らないのが通常である。よって炉跡が発見されていないからといって製鉄がなかったということにはならない。むしろ各地の弥生時代後期以前の遺跡からは数多くの鉄器とともに製鉄段階で発生する鉄塊や銑鉄の鉄滓などが遺物として発見されていることから弥生後期以前より製鉄が行われていたと考えるほうが自然である。

■九州南部における製鉄
 九州南部における製鉄の状況はどうだったであろうか。言わずもがな、製鉄には鉄鉱石や砂鉄などの原料とそれを製錬するための炉、そして直接法の場合は鍛冶道具などが必要となる。九州南部での鉄の原料は何であったろうか。おそらく砂鉄もしくは褐鉄鉱であったと考えられる。というのも先に見たとおり、この地は大陸の江南の人々が流れ着いた場所である。その江南地方における製鉄は直接法によるものであった。しかし当時の技術としては鉄鉱石を溶融させるだけの高温を得ることができなかったため、製鉄の原料としては容易に採取ができ、かつ比較的低い温度で溶融可能な砂鉄もしくは褐鉄鉱を用いた、と考えたい。九州火山帯が走るこの地域の岩石は鉱物が豊富に含まれる。風化したり川底を転がって粉砕された結果として岩から剥離した磁鉄鉱が砂鉄となって川を下って海岸へ流れ込み、波によって砂とともに打ち寄せられる。鹿児島の薩摩半島南端にある頴娃(えい)町の海岸では昔から良質な砂鉄が採取できるらしい。また、大隅半島西部の山ノ口遺跡は昭和33年に民間企業による砂鉄採掘作業で発見された遺跡であり、このあたりでは今の時代においても海岸で砂鉄を採取している。褐鉄鉱の採取や製鉄炉、鍛冶道具については宮崎市上北方にお住いの日高祥氏の活動を参考にしたい。

 日高祥氏の活動について、翻訳家の大地舜氏のブログをもとに紹介したい。この日高祥氏は不動産業を営む傍ら古代史に多大な関心をもち、平成8年に宮崎市瓜生野地区柏田の変電所裏の小山が人工的に作られた巨大な墳丘墓であることを発見した。古来、「笠置山(かさごやま)」と呼ばれ、大正時代には宮崎市によって史跡として認定されている場所であったが、周辺の開発が進むとともに史跡は破壊されるのを待つ状況にあった。氏は並々ならぬ情熱をもってその周辺の調査を続け、墳丘墓周辺で見つけた庄内式土器の破片などは2世紀後半から3世紀中頃のものである可能性が出てきた。そのほか、土壙墓に収められた祭祀土器や鉄剣、鉄鏃類、大量の石鏃、ガラス玉、さらにはたたら製鉄の炉跡まで発見、周辺からは大量の炉片や鍛冶道具である金床石なども採取された。さらに付近を流れる大淀川支流の五十鈴川では容易に褐鉄鉱が採取できるらしく、氏は採取したそれらを自宅に大量に保管しているという。この地では褐鉄鉱を原料に直接法である原始たたら製鉄によって様々な鉄器が製作されていたと考えられ、氏はこれらの活動をもとに「史上最大級の遺跡―日向神話再発見の日録」という書を著している。

 さて、それではこの時代に砂鉄や褐鉄鉱を原料に原始たたら、すなわち直接法で鉄を生産することが本当に可能だったのだろうか。これについては百瀬高子氏がその著書「御柱祭・火と鉄と神と」において自身による製鉄実験結果を記している。褐鉄鉱の粉末と炭を45cm高の土器で6時間の送風加熱をした結果、半溶解の多数の鉄滓の中に大豆ほどの鉄粒が出来たとしている。この時の推定温度を約400度と記している。縄文土器の焼成は800度を4時間以上必要としたことから、製鉄に必要な条件は十分に満たしているという。また、縄文中期の円筒埴輪や朝顔型埴輪が明治初期のキューポラ(鋳物炉)に酷似している事実を指摘して、製鉄が行われていた証明にほかならないとしている。

 以上見てきたように南九州では弥生時代後期には砂鉄や褐鉄鉱を原料とした直接法による製鉄が行われていたと考えて間違いなさそうである。これはまさに江南地方から伝わった製鉄技術そのものである。


御柱祭 火と鉄と神と―縄文時代を科学する
百瀬高子
彩流社


鉄の古代史―弥生時代
奥野正男
白水社




↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆大陸と南九州のつながり

2016年08月21日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 これまで朝鮮半島あるいは中国華北と北部九州・山陰とのつながりを見てきたが、次に大陸と南九州のつながりについて少し詳しく見て行きたい。

 まず、稲作伝播について九州中南部と大陸江南地方、あるいは揚子江流域とのつながりを考える。江南とは長江(揚子江)の南側一帯を指し、紀元前5000年頃から河姆渡(かぼと)文化や馬家浜(ばかほう)文化、良渚(りょうしょう)文化など、中国文明の中心地である黄河流域とは違った独自の文化が形成されていた。
 1973年に上海の南で発見された河姆渡遺跡では紀元前5000年の地層から稲籾とわら束が大量に発見され、その膨大な量から他の地域から運ばれたものではなく、明らかにこの地で栽培されたものであることがわかった。これは世界で最も古い稲栽培の例とされている。これらの稲は野生種ではなく、日本の縄文時代におそらくは焼き畑で栽培されていたと思われている熱帯ジャポニカと同じものであることを静岡大学の佐藤洋一郎氏が証明した。また、これは日本の弥生時代の遺跡でも多数確認されている。さらに遺跡からは栽培の元になった野生稲である「ルフィポゴン」という野生種も見つかったことから、ここが稲の栽培源流地であることがほぼ確定したと言われている。
 稲作は一般的には朝鮮半島を経由して伝播したと考えらえているが、佐藤氏によると、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分かり、このことは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になるという。すなわち、稲作技術を携えた人々が種籾を持って江南地方から東シナ海を渡ってやってきたと考えるのが最も合理的であるということだ。

 次の図は中国から日本へ稲作が直接伝来した裏付けとなる「RM1-b 遺伝子の分布と伝播」のようす。日本の各所に点在するRM1-b遺伝子について、中国で90品種を調べた結果、61品種にRM1-b遺伝子を持つ稲が見つかったが、朝鮮半島では55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見つからなかったという。
   
   出典 佐藤洋一郎氏「DNAが語る稲作文明」


 河姆渡遺跡からは稲作を裏付ける遺物のほか、干欄式建築(日本で言う高床式建物)が数多く発見されている。また木製の柄のついた肩甲骨製の鍬や刀、銛、弓矢、紡錘や針など大量の紡織用の道具、骨でできた笛や木の太鼓、さらには中国国内では最古の漆器も発見された。陶器は黒陶、紅陶、紅灰陶など1000度前後の比較的高い温度で焼いたものが見られる。幾何学模様や植物紋、縄文などが刻まれており、中には人頭をかたどったものや船をかたどった土器もあるという。
 河姆渡文化と同様に馬家浜文化においても米を栽培していたことがわかっており、草鞋山(そうあいさん)遺跡では田の跡が発見されている。またヒスイなどによる装飾品や比較的高い温度で焼いた紅陶、衣服の繊維なども発見されている。
 稲作技術、農具や煮炊具の製作技術、高床式の木造建築技術、紡織技術、高温焼成技術、さらには土器からの推測ではあるが造船の技術など、江南地方の各遺跡の発掘結果はこの一帯の文化が数千年前から相当に高度な技術的水準をもっていたことを示している。

 稲作にとどまらないこれらの高度な技術を持った江南あるいは揚子江流域の人々が東シナ海を渡って日本列島へやってきたと考えることができるが、船を漕ぎ出す江南地方と日本列島の位置関係、海流や偏西風などの自然条件などを考慮すると、東シナ海へ漕ぎ出した船は九州の中部、西部、南部あたりに漂着する可能性が最も高いと言えよう。古代の九州中南部地方は先進的な文化をもった江南地方と同様、日本列島における先進地域であったと考えることができるのではないだろうか。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆中国華北とつながる倭国

2016年08月20日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 北部九州から山陰にかけての日本海沿岸諸国は朝鮮半島文化の影響を大きく受けた地域であったと同時に、半島経由で中国王朝に朝貢することでその政治的な影響を受けていた地域である。魏志倭人伝によると弥生時代後期、日本列島には女王卑弥呼が統治する連合国家倭国が成立し、その倭国は魏に朝貢し、さらには狗奴国との戦いにおいて魏に支援を求めるほどに強い関係にあった。
 さらにさかのぼって考えてみると、古来より戦乱を逃れて朝鮮半島を経由して列島にやってきた人々は大陸のどのあたりからやってきたのだろうか。おそらく、魏のお膝元であり最も戦乱の激しかったであろう中原、すなわち華北平原あたりではないだろうか。華北からの人々が朝鮮半島を通って対馬海峡や日本海を渡って北九州や山陰に土着する縄文人と結びついて弥生人となっていった。そしてこれによって人口が大きく増加することとなった。このことは倭国を構成する国々のうち少なくとも北九州や山陰にある国の人々は朝鮮半島あるいは華北地方の血が混じった人種がかなりの割合を占めていたと言えるだろう。おそらく弥生時代後期における倭国連合の大部分は人種的には華北や朝鮮半島と似かよった状況にあったのではないだろうか。このことが倭国が自らの意思で魏との結びつきを求め、それを後ろ盾にしようとした本質的な理由であったろう。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆朝鮮半島と日本海沿岸とのつながり

2016年08月19日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 大陸と日本列島が最も接近しているところが対馬海峡を挟んだ九州北部と朝鮮半島である。戦乱による大陸からの逃亡のみならず、古くから朝鮮半島と北九州あるいは山陰地方各地の間では人の往来が盛んに行われていたことが各地の遺跡や出土物、あるいは中国側の史書に書かれた内容からわかっている。

■遺跡・遺物から
 対馬海峡を挟んだ九州北部と朝鮮半島には7000年前の縄文前期の頃より、朝鮮半島沿岸から九州西岸にかけて回遊魚を追って移動生活を送っていた海洋漁撈民がいた。朝鮮半島の南海岸や島嶼部からは縄文土器が、対馬や壱岐、九州北部の沿岸部からは朝鮮半島の新石器時代の土器である櫛目文土器が見つかっている。また、長崎県平戸市付近から福岡県糸島平野にかけての玄界灘沿岸地域では前10世紀頃の朝鮮半島の墓制である支石墓が多く見つかっている。
 弥生時代の中期に入ると福岡市の吉武高木遺跡などにみられるように、朝鮮半島の鏡や青銅製武器が玄界灘沿岸地域の有力者の墓に副葬品として納められるようになる。さらに朝鮮半島南部における前4世紀から後2世紀にかけての遺跡で弥生土器が次々と見つかった。その遺跡の数はなんと30以上になるという。たとえば、前2世紀の蔚山市達川遺跡は初期鉄器時代の鉄鉱石採掘場が見つかった遺跡で、甕だけでなく壺や高坏など弥生土器がセットで出土した。また、慶南の勒島(ヌクト)遺跡でも前2~後1世紀中頃に比定される須玖Ⅱ式土器が大量に見つかった。
 このように縄文時代から弥生時代にかけて朝鮮半島南部、九州北部沿岸部のいずれにおいても双方の交流を示す遺跡や遺物が多数見つかっている。(以上は藤尾慎一郎氏「弥生時代の歴史」を参照した。)

 次に朝鮮半島と山陰地方のつながりはどうであったろうか。島根半島の日本海に面する鹿島町にある古浦砂丘遺跡は弥生時代前期から中期にかけての遺跡で昭和30年代を中心に発掘調査が行われ、朝鮮半島でみられる松菊里系土器が見つかるとともに埋葬遺跡であることが判明した。しかも埋葬されていた約60体の人骨は縄文人とは明らかに異なる特徴を持っていて、朝鮮半島から渡来した人々の流れを汲む弥生人と断定された。
 また、出雲市の山持(ざんもち)遺跡は弥生時代から江戸時代にかけての大規模集落遺跡であるが、平成21年の調査で縄文時代から弥生時代後期の遺物を含む砂礫層から朝鮮半島北部で製作された楽浪土器が出土した。同じく出雲市大社町の原山遺跡では朝鮮系無紋土器が見つかっている。ほかにも出雲市の矢野遺跡、山陰を代表する弥生時代の集落遺跡である松江市の西川津遺跡などから半島の粘土帯土器が出土している。

■中国史書から
 「漢書地理志」に「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見伝(楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す、歳時を以って来たりて献見すと云う)」とある。紀元前1世紀、倭にはまだ統一国家がなく百余りの国に分かれていた。その一部の国が朝鮮半島にある漢の出先機関であった楽浪郡に定期的に来ていたという。その国は「後漢書東夷伝」に登場する奴国であったかもしれない。
 「後漢書東夷伝」には「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬、安帝永初元年倭国王帥升等獻生口百六十人願請見(建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界也。光武、賜ふに印綬を以ってす。安帝永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う)」とある。有名な金印授受のくだりである。江戸時代に博多湾の志賀島で発見された金印には「漢委奴国王」と刻印されおり、子供のころに習った読み方は「漢の倭の奴の国王」であり、当時はそれが一般的であったと思うが、「倭」ではなく「委」であったために「漢の委奴国の王」として奴国ではなく伊都国とする説もある。いずれにしても紀元57年に倭のいずれかの国の王が朝貢して光武帝より金印を賜った。その国は倭の最南端にあるという。また、紀元107年、安帝のときに倭国王の帥升が160人の奴隷を献上した、とあり、この頃には帥升という王が倭国を統治していたことがわかる。
 「魏志倭人伝」の対馬国のくだりでは「有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴(千余戸あり、良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す)」とあり、対馬の住民は漁撈に従事して北の朝鮮半島や南の九州へ出かけて物々交換による交易を行っていたことがわかる。さらに倭人伝は単なる人々の往来だけでなく倭国と帯方郡の使者の往来が何カ所にも記述されている。たとえば伊都国のくだりで「郡使往来常所駐(郡使の往来、常に駐まる所なり)」とある。さらには「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天使朝獻(景初二年六月、倭の女王、大夫難升米らを遣わし郡に送り、天使に詣りて朝献せんことを求む)」ともある。
 これら中国の史書によると少なくとも紀元前100年頃から継続的に日本側の使いが朝鮮半島の楽浪郡や帯方郡へ出向いている事実が確認できる。また魏志倭人伝では中国側の使者が帯方郡から朝鮮半島を経由して北九州へやってきている事実も記載されている。 

 以上のように北九州や山陰各地および朝鮮半島南部の遺跡や遺物からは縄文時代晩期から弥生時代にかけての両地域間の一般住民の交流や交易の様子が確認でき、中国の史書からは弥生時代中期からの国家レベルでの外交のための往来が継続的にあったことがわかる。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆中国からの人口流入

2016年08月18日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 中国は古来、戦乱の絶えない国である。黄河中流域の中原とよばれる地域に殷(あるいは夏)が国家として成立して以降、数千年のあいだに何度も何度も政権国家が交代した。また国家として統一されずに分裂状態が続くことも珍しくなく、中国の歴史は戦乱の歴史そのものであり、民衆はその戦乱に翻弄され続けた。
 中国では秦の時代以降に戸籍が整備されたため、おおよその人口動態の把握が可能である。それによると前漢末期の西暦2年に約6000万人であった人口が「王莽の乱」を経て後漢が始まったばかりの37年には1500万人まで激減したことがわかっている。また、その120年後の157年に約5600万人まで回復したものの、「黄巾の乱」を経て三国時代に突入した263年には十分の一以下の530万人にまで減った。
 これは戦乱による死亡だけでは説明ができないほどの人口減である。伝染病の蔓延や火山噴火などの大規模災害が起こった形跡や記録がないのでそれらの要因ではないとすれば、大量の人民が戦乱を逃れて四方の国外に逃亡したということしか考えられない。そして、逃亡者達が逃亡先で生きながらえて生活するためには少人数では不可能である。少人数の場合、逃亡先においてよそ者として追い出されたり、死に至らしめられたり、十分な食料が獲得できずに餓死したり、生きていくことがままならない状態に陥ることは明白である。生きていく為には集団生活を維持することが必要条件であった。したがって、家族単位などではなく集落あるいは部族単位で国外へ脱出したものと考えられる。
 北の山岳地帯へ向かった一族、西の砂漠地帯へ逃げた一族、南に逃れた一族、東の沿岸部から脱出した一族、朝鮮半島を経由して海を渡った一族などが多数存在したことは容易に想像できる。現代においてもシリア内戦を逃れてヨーロッパを目指して地中海へ漕ぎ出すボートピープルが後を絶たない状況があるが、その10倍以上の規模の難民が国外へ流出し続けた。
 朝鮮半島経由で日本海を渡った一族の多くは対馬や壱岐を含む九州北部の日本海沿岸の各地、対馬海流に乗って山陰地方や北陸地方の各地に漂着したと考えられる。そもそも北九州をはじめとする西日本の日本海沿岸地域は朝鮮半島と交流あるいは交易が行われていたことから、そのルートに乗っかってきた集団も多かったことだろう。
 一方で大陸沿岸部から東シナ海に漕ぎ出した集団は、対馬海流に乗って日本海に流れていったり、南西諸島から九州中南部へ流れ着いたり、また黒潮に乗って日本列島の太平洋沿岸部へ漂着したり、西日本の各地に辿り着いたことだろう。中にはどこにも辿りつかずに海の藻屑となった集団が多数存在したことも容易に想像できる。

 静岡県立大学学長の鬼頭宏氏による日本列島における人口推移データによると、縄文時代末期に8万人程度であった日本列島の人口は約1000年後の弥生時代には59万人と7倍以上に増加、さらに約500年後の725年には450万人にまで増加したことを示している。人口爆発とも言える人口増大の最大要因は大陸や朝鮮半島から大量の人の流入があったこと、および彼らが稲作や製鉄技術を始めとする様々な先進技術を持ち込んだことで生活の安定化が進み、その結果さらに人口が増加するという循環につながっていったということであろう。
 もともと日本列島に居住していた縄文人と、戦乱を逃れて大陸や朝鮮半島を脱出して様々なルートで日本列島に辿りついた数えきれない集団が次第に融合して弥生人になっていった。縄文人から弥生人へ、縄文文化から弥生文化へ、この移り変わりは大陸や朝鮮半島などからやってきた大量の移民によって成し遂げられたことは既に多くの方々が論じられている通りである。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆正史としての「日本書紀」

2016年08月17日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 古事記のあと720年に完成した日本書紀は天武天皇が自らの皇統の正当性を明確にするために正史として編纂を命じた。その意味においては古事記の編纂も同様であったろう。古事記が存在するにもかかわらず日本書紀を編纂させた目的は次の2点ではないか。
 1点目は、壬申の乱など皇位継承の争いがあったとはいえ、天皇家は神武天皇から脈々と続く万世一系の正当な血筋であることを明確に示そうとしたこと。古事記においてもその目的は果たされているが、古事記は推古天皇までの記述であったので、その後の天武天皇自身を含む系譜が必要であった。加えて、古来、女性皇族は日本建国に中心的な役割を果たしており、天武の後、編纂事業を引き継いだ持統天皇も同様であることを世に知らしめようとした。
 2点目は、上記のことを漢文で記して日本国の正史とし、それを中国向けに発信しようとしたこと。これにより、中国に対しては従来の朝貢外交ではなく由緒ある正当な国家として対等な付き合いをしようとしたことである。そして、日本書紀が正史として編纂された結果、古事記は天皇家の私的文書のような扱いとなり、天皇家あるいは国家にとってあまり重要視されなくなったであろう。

 天武天皇は編纂途中で崩御したが持統天皇が編纂事業を受け継いだ。神代から持統天皇までの事象を対象として編年体で記述され、720年に完成した日本書紀は先に完成していた古事記をもとに編纂されたと考えて差し支えないだろう。そして編纂期に政権最大の実力者となっていた藤原不比等はこの機会を利用して蘇我氏を貶め、藤原氏の権威を高めることを作為した。加えて、天武朝成立に功績があったその他の氏族についても藤原氏よりも格下ながらもその功績を称えてバランスを取ろうとした。また、敗者となった氏族も決して歴史から抹殺したり粗末な扱いをしなかった。
 日本書紀と古事記の最大の違いは、日本書紀が編年体、古事記が紀伝体であるということ以外に、日本書紀は「一書曰(あるふみにいわく)」という形で異伝、異説を併記していることである。各氏族の持つ帝紀・旧辞に書かれた内容に相違があったり、あるいは日本書紀よりも先に完成した古事記をみて「ここに書かれた内容は事実(自分たちが語り継いできた話)と少し違う」と言って陳情をしてきた氏族があったかもしれない。本編は天皇家や藤原氏に都合のいい話にしたものの、他の氏族の伝承などを無視できない場合にこの手法を用いたのではないだろうか。こういった手法も含めて、全ての氏族が天皇家を支える国家体制、天皇家を頂点とする中央集権体制の確立を国内外に向けて明確に示そうとしたのである。

 以上を念頭に日本書紀を読み解けば真実が見えてくるとの考えに立ち、古事記を参考にしつつ日本書紀をベースに古代史の謎に臨みたい。また、神話として語られている神代巻においても全く根拠の無いデタラメが書かれているわけではなく、記紀編纂当時において過去より語り継がれてきた伝承や何らかの事象をもとに書かれたものと考え、その奥底にある事実を読み取ることが必要であろう。日本書紀を中心とする日本の史書、魏志倭人伝を中心とする中国史書、そしてこれまでに発掘された各地の遺跡や遺物などの考古学の知見、この3つの整合がはかられ、もっとも合理的に説明が可能となる「古代日本国成立の物語」を考えてみたい。


↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆天皇記・国記

2016年08月16日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 帝紀・旧辞以前の史書としては、聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる「天皇記」と「国記」がある。日本書紀には、推古天皇28年(620年)に聖徳太子と馬子が天皇記・国記を編纂して献上した、と記載されている。このことから、天皇記・国記の記述も帝紀・旧辞同様に推古天皇までであったと考えられる。そもそも天皇記・国記は当時の最大権力者であった蘇我馬子自身が編纂に関わったことから、蘇我氏に都合のいいように書かれていた、あるいは都合の悪いことは書かれなかった、ということは容易に想像できる。つまり、各氏族が持つ帝紀・旧辞の中には天皇記・国記が編纂されたあとに、それらを自分たちにとって都合のいいように書き換えてあたかも自分たちの伝承としたものがあったと考えることができるのではないか。
 天皇記・国記は乙巳の変のときに「天皇記」が焼失、「国記」は焼け残って天智天皇に献上された、との記述が日本書紀にあることから、「天皇記」は焼失により存在しないのでその内容はわからない、「国記」は焼け残ったものの現存しないために内容不明、ということになっている。しかし、そもそもこれらは天皇が一人で読むために編纂されたのではなく、蘇我氏や天皇家の権威を世の中に知らしめるために編纂されたと考えると、推古天皇に献上された原本しか存在しなかったと考えるのがそもそも間違っている。当然、写本がいくつも作成されて各氏族の閲覧に供された、あるいは各氏族に配布されたと考えられる。各氏族はそれを利用して自らの系譜を正当化するためにそれを書き換えていったのだろう。また、それをもとに独自の伝承を作り上げて行ったとも考えられる。いずれにしても各氏族は蘇我氏や天皇家がやったことと同じことをやったまでのことだが、そうして生まれたのが帝紀・旧辞である。これらの結果、天武時代に存在した帝紀・旧辞は何が真実で何が虚偽であるかの判別がつかなくなっていた。
 一方で、蘇我氏にとって都合のいいことが記述されている天皇記・国記あるいは帝紀・旧辞は記紀編纂当時の最大権力者であった藤原不比等にとっては逆に都合の悪い存在であった。蘇我蝦夷・入鹿の父子を殺害した中臣鎌足の子息である藤原不比等は、父親のこの行為を正当化するため、記紀において蘇我氏を悪者扱いし、殺害されるのも致しかたなしという状況を作り出そうとした。この事情は天皇家にとっても同様であった。蘇我氏殺害という乙巳の変のもう一人の当事者が中大兄皇子、後の天智天皇、すなわち天武天皇の兄であった。天皇家にとってもこの乙巳の変を正当化しなければならなかった。これが古事記序文にある「朕聞く、諸家の持てる帝紀と本辞は既に正実に違ひ、多に虚偽を加ふ」「帝紀を撰録し旧辞を討覈して偽りを削り実を定めて後葉に流へむと欲ふ」という記述の本当の意味である。


↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆古事記と帝紀・旧辞

2016年08月15日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 古事記は天武天皇の命で稗田阿礼が誦習していた「帝皇日継」(天皇の系譜)と「先代旧辞」(古い伝承)を太安万侶が書き記して編纂し、712年に元明天皇に献上された。その序文に「天武天皇が『朕聞く、諸家の持てる帝紀と本辞は既に正実に違ひ、多に虚偽を加ふ』と言った」と書かれていることから、「帝紀・本辞(旧辞のことと思われる)」は多くの氏族が持っていて、それぞれに虚偽が加えられて既に正しいものではなかったことがわかる。すなわち、各氏族が自分たちに都合のいいように書き換えていた。あるいは「帝紀・本辞」には真実が書かれていたとしても、それが皇室にとって都合のよくない事実であった場合は「正実に違い」とか「虚偽を加ふ」と決めつけたケースもあったと考えられる。
 さらに序文には「帝紀を撰録し旧辞を討覈(とうかく)して偽りを削り実を定めて後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ」「稗田阿礼が誦める勅語の旧辞を撰録して献上せよ」とあり、帝紀・旧辞に対して「撰」という表現が使われている。すなわち、各氏族の持つ帝紀・旧辞から正しいもの(=皇室にとって都合のいいもの)を選べ、と言っている。このことは、古事記の元ネタは各氏族が都合よく書き換えた、あるいは皇室にとって都合の悪い事実が書かれた帝紀・旧辞であったことがわかる。その元ネタから天皇家にとって都合のいい部分を選び、都合の悪い部分を削除し、また都合よく書き換えたものが古事記である。その古事記は神代から推古天皇(628年没)までの事象が紀伝体で記述されていることから、元ネタである帝紀・旧辞も推古天皇までの事象が書かれていたと思われる。



↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆プロローグ

2016年08月14日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 小学6年のときに社会の授業で邪馬台国を習い、将来は考古学者になりたいと思うほどに興味を持った。中学、高校においてもその興味は薄れなかったものの、大学でその道を選択することはなかった。いい大学、いい会社、という小さい頃からの親の刷り込みを打ち消すほどに強い思いではなかった、ということだ。そうして親が敷いたレールを走ることになった。それでも邪馬台国や古代史に対する興味が失せることはなく、関連する本を読み続けた。大学のときに読んだ古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」と安本美典氏の「邪馬台国への道」は大きな刺激だった。また、邪馬台国を題材にした推理小説を探し求めた。親の敷いたレールながら、自らの意思で走り続けて30年以上が経過し、否が応でも第二の人生を意識する歳になったこともあり、童心に返って興味の赴くままに古代史に向き合ってみようと思うようになった。ここで自分の考えを発信していくのだけど、邪馬台国はその所在地について百家争鳴の状況。でも、ほかの人の考えや説を否定、反論するつもりは全くない。その代わり、自分の考えはかなりの我田引水になるかもしれない。でも、自分のためにやろうとすることなので、それでかまわないと思う。
 この「古代日本国成立の物語」は日本書紀の記述をベースにして魏志倭人伝などの中国史書や考古学の視点を組み合わせて、ひとまず神武王朝成立あたりまでを論証しながら進めようと思うが、書き始める現時点で物語は完成しておらず、原稿は途中までしかできていない。だからどんな経過をたどってどんな結末になるのか、私自身にもわからない。そんな未熟な作品であるが最後まで読んでいただけると幸いである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする