古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆倭国と狗奴国の戦い

2016年09月07日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 魏志倭人伝をなぞって邪馬台国までやってきたがここで話を九州に戻そう。南九州から北上しながら領土拡大を進めてきた狗奴国であるが、阿蘇山周辺まで進出したことで必要とした製鉄原料である褐鉄鉱を十分に手に入れることができた。したがって狗奴国はそれ以上の領土拡大の必要はなくなったわけだ。しかし、ふと気がつけば女王国連合の国々が勢力をもつ北部九州(北九州倭国)まで目と鼻の先、まさにその裏庭に迫っていた。強大な国力を誇る狗奴国にその背後を突かれる形となった北九州倭国は大きな危機感を持ち、その大いなる危機感は狗奴国との戦いへと急がせた。これが魏志倭人伝に記される倭国と狗奴国の戦いの発端である。 
 末盧国や伊都国、奴国、不弥国など倭人伝に記された約30ケ国は互いに争った倭国大乱の後に邪馬台国の女王卑弥呼のもとで連合国家としてまとまった。しかし、南九州の狗奴国はこの連合国に属するどころか連合国と戦わなければならない関係にあったようだが、それはどうしてだろうか。

 倭国は大陸の華北平原あたりから戦乱を逃れてやってきた人々や、交易のため、あるいは逃亡者として朝鮮半島からやってきた人々が土着の縄文人とつながることによって弥生人である倭人となって各地で建国した国々の連合国家である。言い換えれば、これらの国は華北や朝鮮半島を祖国とする民族で成り立っており、その結果として魏を後ろ盾とすることとなった。
 一方、狗奴国は同じ大陸でも江南地方からやってきた人々が南九州土着の縄文人と交わって弥生人となって建国した国である。つまり、狗奴国は江南を祖国とする民族による国であると言える。江南の地は春秋時代には呉(句呉)が建ち、その後、戦国時代に楚の領土となり、秦、漢(前漢・後漢)と続いた後、三国時代には再び呉が建国された。春秋時代の呉とはまったく関係のない国であるが、倭国が魏とつながっていたように狗奴国はこの呉とつながっていたのかもしれない。
 
 この通り、狗奴国が女王に属さなかった理由は「互いに違う民族であった」ということである。しかも当時は三国時代、それぞれの祖国の地は大陸の覇権を争うライバル国であった。狗奴国は倭国と戦いこそすれ互いに手を取り合うことは決してなかった。



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◆纒向型前方後円墳と箸墓古墳

2016年09月06日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 纒向遺跡には前方後円墳の原型となった纒向型前方後円墳と言われる古墳がある。一般的な前方後円墳に比べて前方部の長さが短いホタテ貝型で後円部の高さが低いことが特徴である。その一つに纒向石塚古墳がある。全長が93m、後円部の径が60m、前方部の長さが33mの前方後円墳である。幅が20mもある周濠の最下層から出土したヒノキの板材の年代を調べると残存最外年輪の暦年は西暦177年との測定結果が出た。これについて年輪年代学の光谷拓実氏は、残存の辺材部の平均年代幅をもとに推計し「その伐採年はどうみても200年を下ることはない」と結論づけている。したがって周濠の年代は年代幅を最大限に見積もっても2世紀第4四半世紀(175年~199年)の造営とみなすことができるという。一方で石野氏は出土した土器の編年から210年頃の築造とする。そして周濠からは他に弧文円板や赤い色が付けられた鶏型の木製品、さらに根元だけが残った柱が立ったままの状態出土したことから、3世紀初頭の段階で被葬者を葬るときに木製葬具を用いた葬送儀礼が行われていたことが確認されたと指摘している。

 同じく纒向型前方後円墳にホケノ山古墳がある。卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳の東250mのところにある。全長約80m、後円部径約60m、後円部高約8.5m、前方部長約20m、前方部高約3.5mの規模である。橿原考古学研究所と桜井市教育委員会の調査によって積石木槨が現れ、幅2.7m、長さ7mという規模の大きい板囲いのなかに組合式のU字底木棺が納められていた。その板囲いを押さえる6本の柱とは別に4本柱と棟持柱ふうの長軸上の2本の柱穴が検出された。まさに埋葬施設を覆うような切妻造りの建物が墳丘の中に設けられており、これまでに見たことのない構造を持った埋葬施設であることがわかった。さらに画文帯神獣鏡、銅鏃、鉄鏃、刀剣類などが副葬されていた。放射性炭素年代測定では、出土炭化物から55年~235年の数値が得られたという。
 私はこのホケノ山古墳が卑弥呼の墓だと考える。鬼道を使う女王を埋葬するに相応しい埋葬施設を持っていること、卑弥呼が死去した時期に近い炭化物が出ていること、その大きさが魏志倭人伝にある「徑百余歩」と考えられること、がその理由である。後円部の径が60mであることから小さい歩幅ならちょうど百歩ほどとなる。

 先述の纒向石塚古墳にほど近いところにある纒向勝山古墳も203年~211年という年代が得られており、纒向にあるこれらの纒向型前方後円墳が2世紀後葉から3世紀前半に築造されたことがわかっている。そして纒向型前方後円墳に続く初期の前方後円墳として卑弥呼の墓と言われている箸墓古墳がある。石野氏はその築造年代を3世紀後半、280~290年と考えている。箸墓は陵墓参考地として宮内庁に管理されているため詳しい発掘調査ができないのが残念であるが、ホケノ山古墳を卑弥呼の墓と考える私はこの箸墓は台与の墓と考える。

 このように纒向の地ではちょうど卑弥呼の時代の墓にふさわしい古墳が築かれていることがわかる。



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◆纒向遺跡の特徴

2016年09月05日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 2008年の第162次調査以降、3世紀前半に建てられた4棟の大型建物跡が検出され纒向遺跡の居館域にあたると考えられているが、この4棟が東西に全軸をそろえて一直線に並んでいることがわかった。中心的な位置を占める大型の掘立柱建物は4間(約19.2m)×4間(約12.4m)の規模に復元できるもので、当時としては国内最大の規模である。第168次調査では建物群の廃絶時に掘削されたとみられる4.3m×2.2mの大型土坑が検出され、意図的に壊された多くの土器や木製品のほか、多量の動植物の遺存体などが出土しており、王権中枢部における祭祀の様相を鮮明にするものとして注目されているという。要するにこの4棟の建物群は祭祀を行う場、すなわち祭殿であり、鬼道を使う卑弥呼の宮殿であったと考えられる。

 纒向遺跡から出土した土器には日本各地の土器(外来系土器)が混じっており、その比率が弥生時代の他の遺跡と比べて非常に高いことがわかっている。調査地点によって違いがあるが少なくとも15%、多い地点では30%を占めている。近くの唐古・鍵遺跡では3~5%と推定されていることと比較するとその比率の高さがわかる。そして時代的に見ると210年頃から280年~290年にかけての時期が外来系土器が最も多くなっている。卑弥呼・台与の時期に他の地域との交流あるいは交易がもっとも盛んであったことを示しており、倭国の各地域と都との間で人や物が行き交った様子が想像できる。
 その各地域とはどこであったか。東は静岡県の駿河、東海道沿いでは静岡から愛知、三重の各県、日本海沿岸では北陸の富山県から石川県、西へ行けば山陰の鳥取県から島根県出雲地方、瀬戸内海沿岸では山陽と四国北部の各県、さらには福岡県まで及ぶ。畿内では河内、丹後、播磨などの土器も纒向に来ていることがわかっている。外来系土器の地域別の比率は以下の通り。
     東海     49%
     山陰・北陸  17%
     河内     10%
     吉備      7%
     関東      5%
     近江      5%
     西部瀬戸内   3%
     播磨      3%
     紀伊      1%

 ほぼ半数が東海地方の土器であることが特徴と言えるが、石野氏は纒向遺跡が邪馬台国であるとすると狗奴国の有力候補地が尾張・伊勢であろうとして、その地域の土器が大量に纒向に入ってきていることを新たな課題として捉えている。狗奴国との戦争の結果をどう考えるか、という示唆であろう。私は邪馬台国が纒向にあり、狗奴国が南九州にあったと考えているのであるが、その立場からこの問題を考える必要性を感じているものの現時点ではその過程に至っていない。



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◆政治都市「纒向」の成立

2016年09月04日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 ここからは石野博信氏の「邪馬台国の候補地 纒向遺跡」を参考に纒向遺跡について見ていきたい。

 纒向遺跡は奈良県桜井市にあり、奈良盆地の東南、三輪山の麓から大和川にかけて東西2キロ、南北2キロに広がる地域で180年頃に突然に現れ、350年頃に突然に消滅したと考えられている。石野氏は「自然発生の集落ではなく人工的に造られた政治都市である」と指摘している。また纒向遺跡の発生時期は魏志倭人伝にあるいわゆる倭国大乱の時期と重なっている。後漢書によると倭国大乱は桓霊の間(桓帝・霊帝の治世の間)つまり146年~ 189年、また梁書ではさらに時代が絞られ、後漢の霊帝の光和年間、つまり178年~184年となっている。魏志倭人伝は、倭国の各国は卑弥呼を共立することでこの大乱を収めたとしている。このことから卑弥呼は190年前後に王となったと考えられる。また倭人伝は卑弥呼の死についても触れている。247年に狗奴国との戦闘を報告し、魏から激励されたあとに「卑弥呼以死」と記されており、卑弥呼は250年前後に死去したと考えられる。つまり卑弥呼の時代は180年代から250年頃ということになる。
 卑弥呼の死後、男王が立ったものの国中がこの王に服さず、更に戦いが続いた。卑弥呼の宗女「台与」を王として立てるとようやく国中が治まったという。つまり2世紀末から3世紀は卑弥呼・台与の時代であり、纒向は女王卑弥呼、その後の台与の都として建設された政治都市であると考えられる。



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◆投馬国から邪馬台国への道程

2016年09月03日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 投馬国から邪馬台国への道程について倭人伝は「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。(南へ行けば邪馬台国に至る。女王の都があるところである。水行で十日、陸行でひと月である。)」と記している。投馬国を出雲として出雲から南方向、これまでと同様に30~90度ずらして東南東から東と読み替える。そしてまず水行、すなわち船で出航する。出雲を出て日本海を東へ向かうということである。その後にどこかで上陸してひと月の陸行となる。不弥国から投馬国までの水行を20日間で300~400kmと試算したので10日間ではこの半分と考えて150~200kmとすると、上陸地点は丹後半島の手前、現在の兵庫県の日本海沿岸のどこか、あるいは兵庫県まで行かずに鳥取県の東端、現在の鳥取市あたりかも知れない。いずれにしても上陸地点からは邪馬台国まで陸行でひと月を要した。仮に上陸地点を鳥取市とすると纒向までは250kmほどとなり、ひと月も要するのかと思うが、現代のような整備された道路ではなく、しかも銅鏡100枚など重い荷物を大量に運ぶのである。休息を取りながら、あるいは食料調達のために時間を要しながら、などと考えると、ひと月を要したとしても何ら不思議ではない。このように投馬国を出雲としたときに水行十日、陸行一月を要する先にある女王の都として纒向の地が相応しいと考える。

 ところで、水行の際にどうして丹後半島まで行かなかったのだろうか。できるだけ水行で進むのが楽なはずである。さらに言えば丹後半島を越えて敦賀あたりまで行って上陸し、琵琶湖を利用して瀬田川を下り巨椋池から木津川に入って大和を目指すのが最も楽な行程ではなかろうか。これについては改めて詳しく考えようと思うが丹後という地域の特殊性によるもの、つまり丹後が倭国に属していなかった、あるいは出雲と対立していたということではないかと考えている。



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◆邪馬台国の位置

2016年09月02日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 投馬国の次はいよいよ邪馬台国である。邪馬台国の位置については九州説、畿内説、その他もろもろ、それこそ百家争鳴の様相である。畿内説は纒向遺跡がその都であるということでほぼ一致している一方で、九州説については様々な場所が比定されている。魏志倭人伝に記された邪馬台国に至る道程にある末盧国、伊都国、奴国、不弥国の各国が九州内でほぼ確定されている、方角や距離を考えると九州を出て本州に向かうことは考えにくい、とくに北九州にはそれと思しき遺跡が豊富にあり比定がしやすい、などの理由で候補地が多くあり畿内説のように1つにまとまっているわけではない。

 小学6年で邪馬台国や卑弥呼を初めて習ったときに大いに興味を覚えた。邪馬台国がどんな国で卑弥呼がどんな人物であるかではなく、それが謎に包まれていることに興味を持った。もともと謎解きが好きな子供であったので、いつかは邪馬台国や卑弥呼を自分で解き明かしたいと思った記憶がある。そんな私が考えている邪馬台国の場所は「大和の纒向」である。あまりに普通すぎるのだが、その主な理由は、倭人伝における方角のズレを考慮するとその位置に矛盾が生じないこと、投馬国(出雲)から水行と陸行の両方が必要なこと、纒向遺跡が2世紀後半から4世紀前半の遺跡であり卑弥呼の時代に符合すること、鬼道を使う場所として相応しい神殿のような建物跡が検出されたこと、外来系土器の出土状況から西日本各地との交流や交易の様子が確認できること、ホケノ山古墳や箸墓古墳など卑弥呼の時代に合う初期の古墳が付近にあること、などである。
 しかし、これらの理由以上に何よりも現地に行ってみて直感的に「ここだ」と感じたことが最も大きな理由かもしれない。



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◆投馬国の位置

2016年09月01日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 さて、次に投馬国と邪馬台国であるが、結論を先に言うと私は投馬国は出雲に、邪馬台国は畿内の大和にあったと考えている。特に邪馬台国については纒向遺跡をその中心地として比定している。まず投馬国を考える。

 不弥国に続いて「南至投馬國、水行二十日(南に水行二十日で投馬国に至る)」とある。不弥国である福岡県飯塚市から(南を90度ずらして)東に船で進んで20日で投馬国に到着する、ということだ。ここで問題となるのは次の2点である。1点目は、当時、船で20日というのは具体的にどれくらいの距離を進むことができたのかということ。2点目は、東方面となると瀬戸内海を航行したと考えるのが自然であるが、本当にそうだったのか。日本海を進んだ可能性はないのか。

 まず1点目の水行20日を考えてみる。古来、対馬海峡を縦横に行き交う人々がいたことを先に見た。また、埴輪や土器などに刻まれた線刻画をもとに海峡横断に利用された船を復元する様々な試みがなされている。
 
  
 
 上の左側の写真は東京国立博物館所蔵の宮崎県西都原古墳群から出土した舟形埴輪、右側は大阪市立博物館所蔵の足付舟形埴輪である。1975年にこの西都原出土の埴輪をモデルに製作された野生号という復元船で対馬海峡を渡る実験が行われた。その結果は、漕ぎ手が14人で平均1.7ノット(時速3.7km)のスピードだったという。

 また、次の2つの写真からもわかるように帆船と思われる船を描いた土器片が見つかっている。左は奈良県天理市の古墳時代前期の東殿塚古墳から出土した土器に描かれた船の線刻画、右は岐阜県大垣市の荒尾南遺跡の弥生時代の方形周溝墓の溝から出土した広口壺に線刻されていた絵画である。前述の復元船がこれらのように帆船であったとしたらもう少し速度が出ていただろう。
 
  
 
 時代は下るが古墳時代には帆船を描いた線刻画などが各地の古墳から見つかっている。下の左は鳥取市青谷町の古墳時代後期と思われる阿古山22号墳の石室側壁に描かれた帆船の線刻画である。右は熊本県不知火町の古墳時代後期の桂原古墳の玄室に描かれた線刻画で、いずれも明らかに帆船が描かれていることがわかる。
 
  
 
 次に、三重県松阪市宝塚町の5世紀初頭の宝塚1号墳からは国内最大の船型埴輪が出土した上から見ると船央に帆柱用の穴があり、帆船で あったことがわかる。まさに先の西都原の埴輪に似ており、このモデルとなった船にも帆があった可能性が高いことを示している。
 
  
 
 先の野生号は平均時速3.7kmであったが、帯方郡の使いが乗った船は積荷や漕ぎ手でない人の荷重を考えると平均時速は3km程度か。ただし、帆船であった可能性が高いこと、日本海を東に進む場合は対馬海流の流れがあること、などを考慮すれば実質的には5kmほどであったと推定する。1日の航海時間は太陽が出ている間の10時間、但し、漕ぎ手の体力を考慮して1日あたりの漕ぐ時間は半分の5時間、残りは帆を利用して風の力と潮流のみで推進。このように考えると1日に進む距離はざっと35kmと考えて差し支えないだろう。以上の水行を20日間、1日も休むことなく続けると航行距離は700kmとなる。天候や波の状況、漕ぎ手の体力など、様々な要因により実質的に進んだ距離は半分の300~400km程度ではなかっただろうか。
 不弥国から遠賀川を下って響灘に出たあと、関門海峡を通過して瀬戸内海に入り300~400kmの航行で到着する国として吉備が想定できる。一方、響灘へ出た後、日本海を東方面へ同じ距離を進んだとすれば出雲が候補としてあがってくる。どちらに妥当性があるか。 

 次に2点目であるが、朝鮮半島と北九州、朝鮮半島と山陰地方の交流の状況を先に確認したが、北九州と山陰の間にも同様の交流があったことは自ずとわかる。朝鮮半島、北九州、山陰は同じ文化圏にあったと言っても過言ではない。帯方郡の使者が通るルートとして、あるいは実際に行かなかったとしても本国に報告するルートとしては仲間が暮らす国々がある山陰ルートを報告するのではないだろうか。対馬、一支、末盧、奴、伊都、不弥とここまでがそうであったことを考えると山陰ルートを選択するのが自然である。また、朝鮮半島の人々にとって山陰沿岸は太古より往来した海であり取り扱いを熟知した海であった。一方で、瀬戸内海が内海で波も穏やかで航行し易かったから帯方の使者がこちらを選んだであろう、というのはあまりに固定概念に引きずられていると言える。瀬戸内海は確かに内海であるが実は船の航行にとってかなりの難所である。瀬戸内海の両端と真ん中にある関門海峡、来島海峡、鳴門海峡は日本の三大急潮と呼ばれるくらいに潮の流れが速いところである。そしてこの潮の流れは西から東へ、東から西へ6時間おきに反転する。時代が下って瀬戸内航路が整備される過程においては鞆の浦をはじめとした潮待ち港があちこちに作られたが、弥生時代においてそれはなかった。帯方の使者にとって不慣れで難所の瀬戸内海と自らの庭のように熟知した日本海のどちらを選んで航行したかは自ずと答えが出よう。よって投馬国は出雲にあったと考えたい。出雲については改めて詳しく考えることにして先に進める。



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◆不弥国の位置

2016年08月31日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 魏志倭人伝に基づいて対馬国、壱岐国、末盧国、伊都国、奴国まで定説となっている位置を順に見てきたが、倭人伝にはそれに続いて不弥国、投馬国、邪馬台国への道程が記されている。不弥国については「フミ」という音と奴国の東へ百里と記されていることから、その位置を福岡市宇美町に比定する説が有力であるが、伊都国や奴国ほどに定説として定まっていない。まずこの不弥国に触れたあと、投馬国および邪馬台国について詳しく考えてみたい。

 奴国の記述に続いて「東行至不彌國百里(東に百里行けば不彌国に至る)」とある。放射説が成り立たないことは先述の通りなので、ここは素直に「奴国から東に百里で不弥国に至る」と読む。そして方角は「東」を30~90度ずらして奴国を起点に東北東から北方向の範囲と読み替え、距離は百里程度、すなわち伊都国から奴国までと同じくらいの距離に収まる地域となる。不弥国を比定するための要件がもう一つある。それは不弥国の次の投馬国には水行二十日となっていることから不弥国には港があることが想定される。沿岸部もしくは船が航行できるくらいの川沿いということになる。方角、距離ともに合致する遺跡として福岡県飯塚市の立岩遺跡がある。近くを遠賀川が流れていてその下流域は縄文時代には古遠賀潟と呼ばれ、現在の直方あたりまで入り江が入り込んでいたこともあり、船の航行に不都合がなかったと思われる。この地は北と南は遠賀川流域平野として開かれているが、東は関の山、西は三郡山地等に囲まれて盆地を形成しており、江戸時代には長崎街道の要地であり、現在でも北九州市、福岡市、久留米市など四方の都市からの交通の結節点として機能する要衝の地である。
 飯塚市には紀元前後の遺跡が多数見つかっており、これらを総称して立岩遺跡あるいは立岩遺跡群と呼んでいる。その中でも中心となるのは飯塚市中心部の小高い丘陵地にある弥生時代中期後半の立岩堀田遺跡で、1963年から1964年に調査が行われ、甕棺墓43基、貯蔵穴26基などが見つかっている。特に10号甕棺からは一度に6面の前漢鏡が見つかるなど全部で10面の前漢鏡、鉄剣や銅矛、琉球でしか採れないというゴホウラ貝の腕輪、さらには絹などが見つかった。この地の王の墓であることは間違いないと考え、ここを不弥国としたい。

 これで不弥国までの比定ができた。これまで見てきた対馬・壱岐・末盧・伊都・奴・不弥の6ケ国はすべて九州北部にあり、各国までの道程、官吏の名称、戸数、国内の様子などが倭人伝に詳しく記されるほど魏にとっては重要な国であり、同時に先進的な国であった。この6ケ国があった地域を便宜上、まとめて「北九州倭国」と呼びたい。



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◆倭人伝における狗奴国の位置

2016年08月30日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 これまで書いてきた通り、狗奴国は九州中南部一帯に展開するほどの広大な国土をもち、先端技術を駆使して倭国と互角かそれ以上に戦えるだけの国力ある国であると考えるが、その狗奴国の位置について倭人伝には「此女王境界所盡、其南有狗奴國(此れ女王の境界の尽くる所なり、その南に狗奴国あり)」と記載されるのみである。この記述は狗奴国が九州中南部にあることと矛盾しないのであろうか。
 この倭人伝の記述は「女王国境界」ではなく「女王境界」となっているが、倭人伝では「女王」という表現と「女王国」という表現が使い分けられている。「女王国」については「自郡至女王国萬二千余里」や「自女王国以北」にあるように、女王国=邪馬台国と解するのが妥当と思われるが、「女王」については「倭女王(倭の女王)」というように卑弥呼そのものを指す場合のほか、先の「女王境界(女王の境界)」や「不属女王(女王に属さず)」のような場合は、邪馬台国そのものを指すのではなく、女王国である邪馬台国を盟主とする女王国連合、すなわち倭国の代名詞として使用したと考えることができるのではないか。そうすると「女王国連合の境界の南に狗奴国がある」と解することができる。
 
 邪馬台国がどこにあるかにかかわらず北九州にある末盧国、伊都国、奴国、不弥国などは邪馬台国の女王が統治する女王国連合に属しており、狗奴国がこれらの国々から見て「南」を30~90度ずらした方角、すなわち南南東から東の範囲に収まっていることが確認できれば倭人伝の記述と実際の狗奴国の位置に矛盾がないことになる。
 方角についてはどこ(起点)からどこ(終点)を見るかによって変わるものであるが、ここでは北九州女王国連合の中心地と考えられる伊都国を起点とし、もう一方は狗奴国の最終目的地であった阿蘇周辺、ここでは仮に阿蘇山そのものを終点としてみる。すると次の図のような位置関係となり、狗奴国は女王国連合からみて南東の方角にあたる。仮に起点や終点を変えてみたとしても大まかな位置関係は南から東北東くらいの間に収まってくる。つまり、倭人伝の記述は狗奴国の位置を正しく表していると言ってよいだろう。
 
 
 (筆者作成)



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◆無理がある放射説

2016年08月29日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 倭人伝の記述と実際の方角がズレていることを確認したが、この方角のズレを前提に倭人伝を読むと、奴国の次の不弥国については「東行至不彌國百里(東へ百里で不弥国に至る)」とあるのを30~90度ずらして考えれば、奴国の東ではなく東北東から北方向の範囲で百里のところにある、と解することができる。仮に放射説(※)に従うとすれば、不弥国の位置は起点となる伊都国の東北東から北方向の範囲で百里のところ、ということになる。奴国は伊都国の東にあることから、不弥国と奴国の位置関係は伊都国からの距離が同じで、不弥国が奴国よりも北寄りとなる。しかし、奴国の北側には博多湾が迫っており、しかも当時の海岸線は現在よりも手前にあったと考えられることから、奴国と不弥国がほぼ近接することになってしまうため、放射説で読み解くには無理があることになってしまう。

(※)放射説とは榎一雄氏が提唱した説で、伊都国までの行程は連続的に解釈し、その先は伊都国を起点に距離を修正しながら伊都国から奴国、伊都国から不弥国、伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国と解釈する。

 さらに「南至投馬國、水行二十日(南へ水行20日で投馬国に至る)」の記述も「南南東から東方向の範囲で水行20日」となり、「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月(南へ水行10日、陸行ひと月で女王の都である邪馬台国に至る)」についても投馬国と同様に「南」ではなく「南南東から東方向の範囲」となる。
 従来から邪馬台国畿内論者は「南」は「東」の間違いである、という苦しい説明をしてきたが、このように考えれば投馬国も邪馬台国も伊都国や不弥国のある北九州から東方面にあることがさほど無理なく説明できる。不弥国、投馬国、邪馬台国の位置を考える前にまず狗奴国の位置を考えてみたい。



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◆魏志倭人伝に記された国々の位置

2016年08月28日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 魏志倭人伝に記載された内容をもとに狗奴国が九州中南部に存在したことの妥当性について考えてみたい。倭人伝には「北」「南」「東」「南北」「東南」など方角の表現が多く見られる。邪馬台国論争においては当初より畿内説論者は「南至邪馬壹國(南に行けば邪馬台国に至る)」の南を東の間違いであるとして論を展開してきた。また一方で、対海国、一大国、末蘆国、伊都国、奴国の5ケ国については九州論者、畿内論者に関わらず次の通り、その場所が通説としてほぼ確定している。これ以外に多くの比定地があるのは承知しているが、ここではこの5ケ国の位置を頼りにして方角について考えてみる。

■対海国
 対海国(対馬国)について魏志倭人伝には、朝鮮半島南端部にあると考えられている狗耶韓国を出発し「始度一海千餘里、至對海國(初めて一海を渡って千余里で對海國に至る)」と記載されている。この記載にある通り、朝鮮半島から初めて海を渡って到着する島が対馬とすることは疑いようがない。2000年、対馬西側の入り江の奥にある峰町で弥生時代前期から後期の大規模な集落跡である三根遺跡が発見された。対馬で初めて発掘された大規模集落跡で、朝鮮半島との交易を想定させる土器の出土もあり、対馬国の拠点集落であったと考えられている。

■一大国
 一大国については対馬国のあと「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國(また南へ一海を渡って千余里、名を瀚海という、一大國に至る)」とある。他の中国史書では一大国ではなく一支国と記載されており、これを「いきこく」と読んで壱岐とするのが通説。対馬からさらに海を渡って到着するのは壱岐であることから、これも異論はない。ここには原の辻遺跡があり、1993年に長崎県教育委員会がここを一支国の跡であると発表したことが話題になった。壱岐島の東南部にあり、島内で唯一と言っていい平野部に築かれた環濠集落で、入り江から川をのぼった集落の入り口に船着き場と考えられる遺構が見つかったのが特徴的である。

■末盧国
 末盧国については一大国のあと「又渡一海、千餘里至末盧國(また一海を渡って千余里で末盧國に至る)」と記載されており、これも通説通りに解して、その位置を松浦半島付近(旧肥前国松浦郡)とする。このあたりには、佐賀県唐津市に菜畑遺跡、松浦川や半田川、宇木川の流域に桜馬場遺跡や宇木汲田遺跡などの重要な遺跡がある。

■伊都国
 伊都国については末蘆国の記述に続いて「東南陸行五百里、到伊都國(末蘆国から東南へ陸路で五百里行くと伊都国に到る)」との記載があり、これも通説に従い、その位置を福岡県糸島市および福岡市西区(旧筑前国怡土郡)付近、糸島半島の付け根あたりに比定することでよいと思う。このあたりには三雲南小路遺跡、平原遺跡、井原鑓溝遺跡などの遺跡がある。

■奴国
 奴国については伊都国のあとに「東南至奴國百里(伊都国から東南に百里で奴国に至る)」と記載。通説によれば奴国の位置は古代より那の津と呼ばれていた博多湾一帯から那珂川流域あたりとされる。このあたりにも板付遺跡や須玖岡本遺跡などの重要な遺跡がある。

 これら5つの国はすべて九州北部に位置するが、これらの国の中心地、いわゆる首都にあたる遺跡を仮に、対馬国=三根遺跡、一大国=原の辻遺跡、末蘆国=宇木汲田遺跡、伊都国=三雲南小路遺跡、奴国=須玖岡本遺跡と比定して、これを実際の地図上にプロットしてみたのが次の図である。
 
 
 (筆者作成)
 
 これら5ケ国間の方角について、倭人伝に記載されている方角と地図から読み取れる方角を比較すると次のようになり、両者はだいたい30~90度のズレがある。

 
 
 一方で倭人伝においてこれらの記述の直前、つまり帯方郡から倭国までの道程については「倭人在帶方東南大海之中(倭人は帯方郡の東南の大海の中にある)」および「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國(帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を経て、南へ行ったり東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到る)」となっており、いずれの方角も文字通りに読むことで問題ないとされている。これらの倭人伝の記載から、当時の中国の人々にとって倭国内の方角の認識が実際とずれていたと考えることができる。
 実際に魏から倭国へやってきた人々は太陽や星座の位置、あるいは山などを目印にすることによって進むべき方向(方角ではない)を認識していたはずで、倭国に入った途端にその方向を間違うということは決してなかったはずであるが、太陽や星座の位置は季節によって変化する上に海上では潮に流されながら進むため、方向は誤らないものの方角は今ひとつ明確に認識できなかったのかもしれない。



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◆南九州の古墳群

2016年08月27日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 南九州の縄文遺跡と主に製鉄の痕跡を残す弥生遺跡を見たのに続いて、宮崎県にある2つの古墳群を確認しておく。

■西都原古墳群
 南九州で最も名高い古墳群に西都原古墳群がある。宮崎県のほぼ中央に位置する西都市の西方を南北に走る標高70m程度の洪積層の丘陵上に形成されている日本最大級の古墳群である。魏志倭人伝に記された卑弥呼の時代に重なる3世紀前半ないし3世紀半ばから7世紀前半にかけてのものと推定されており、311基の古墳が現存する。内訳は前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基であるが、他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている。日本最大の帆立貝型古墳である男狭穂塚(おさほづか、175m)、九州最大の前方後円墳である女狭穂塚(めさほづか、180m)がある。また、170号墳からは舟形埴輪が出土している。艪(とも)と舳(へさき)がかなり反り上がったゴンドラの形をしていて、舳艪の上には上下二段の貫(ぬき)を通し、船腹には波よけの細長い突起がある。西都原の王は外海を航海できる準構造船を持っていたと考えられる。170号墳からはこのほかに全国的に見ても例のない子持家形埴輪と呼ばれる特殊な埴輪が出土している。中心の母屋にあたる大きな入母屋作りの埴輪の前後に、平床様式で入母屋造りの家型埴輪がならび、両側に切妻造りの家型埴輪が付着している。この埴輪の中央の大きな建物は大室屋(おおむろや)と思われ、多くの人々が集まって何らかの信仰的儀礼が行われた場所と考えられている。このように弥生期以降の西都原では大規模古墳を築造し、地下式横穴墓というこの地方特有の埋葬方法とともに独自の信仰方式を持ち、さらには造船や航海の技術を駆使する大きな権力が存在した。

 西都原古墳群を訪れたことがあるが、広大な台地の上に大小さまざまな古墳が所狭しと並び、その一番奥まったところに最も大きな女狭穂塚と男狭穂塚が隣り合わせに存在する様子は圧巻で、強大な権力を持った王家一族の代々の聖地であることに疑問を挟む余地は無かった。

■生目古墳群
 また、同じく宮崎県の大淀川右岸に位置する標高25mほどの台地上に、古墳時代前期としては九州地方最大の古墳群と言われる生目(いきめ)古墳群がある。3世紀後半ないし4世紀前半頃から古墳の築造が始まったとされているが、西都原よりも時代がさかのぼる可能性があるとも言われている。51基の古墳のほか、西都原同様に南九州特有の地下式横穴墓が36基、ほかに土坑墓49基、円形周溝墓3基が確認されている。とくに3号墳は当古墳群最大であり、九州でも西都原の女狭穂塚、男狭穂塚に次いで3番目の大きさである。

 この生目古墳群にも行ってみた。規模では西都原に及ばないが、内容では決して劣っていない。たとえば、前方後円墳である7号墳では後円部に設けられた地下式横穴墓が埋葬主体になっており、全国でも非常に珍しい埋葬方式が採用されている。

 西都原や生目はあくまで古墳群であり、集落跡などが発掘されていないが、これだけの大規模古墳群が存在する以上、大きな権力を持った王のもとで大規模な集落が営まれたことは疑いようがなく、たまたまそれに該当する遺跡が見つかっていないだけである。鹿児島の曽於地方から太平洋側に出て宮崎の生目や西都原の周辺に定住する大規模な集団があったはずだ。先に見た宮崎市瓜生野の笠置山もこの一帯に含まれる。

 ここまでで縄文・弥生の遺跡と古墳群を整理したが、南九州においては縄文時代から集団で定住生活を始め、その後に大陸江南からの渡来人が持ち込んだ稲作や製鉄技術を駆使して国土開発が続けられた。そしてその過程で狗奴国の王とも言える権力者が現れ、その一族も含めて何世代にもわたって巨大な古墳を築くほどの繁栄を謳歌したことが想定されよう。



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◆南九州の遺跡

2016年08月26日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 南九州から北上して阿蘇山周辺まで領土拡大を果たした狗奴国であるが、その繁栄を考古学の視点から確認してみたい。まずは縄文時代の集落遺跡を見てみる。

■上野原遺跡
 上野原遺跡は鹿児島県霧島市にある縄文時代早期から中世にかけての複合遺跡で、1986年に国分市(現霧島市)における工業団地の造成中に発見された。約9500年前の2条の道路とともに発見された52軒の竪穴式住居群や調理施設とされる集石遺構と連穴遺構などは九州南部地域における定住化初期の様相を示す集落跡である。さらに約7500年前の地層から見つかった一対の壺型式土器や土偶、耳飾り、異形石器などの多彩な出土品は縄文文化がいち早く開花した九州南部の特色を示すものとして注目されている。
 上野原遺跡は発見当時において日本最古の集落跡で、縄文文化は青森県の三内丸山遺跡などがある東日本で栄え、西日本では低調であったという常識に疑問を呈する遺跡ともなった。次の掃除山遺跡とともにこのあたりには縄文時代の早くから定住生活を始める多くの集団がいたことの表れである。

■掃除山遺跡
 鹿児島市内谷山地区の台地上に広がる縄文早期の遺跡。1990年の県道路建設に伴う発掘調査の結果、住居跡、煙道付炉穴、舟形配石炉、集石炉などの遺構のほか、細石核、細石刃、隆帯文土器などが検出された。住居跡は北風を避けるために南斜面に建てるなど、移動を前提とした生活と異なり、一カ所で長期間住む定住生活を始めたことがわかるという点で全国的にも重要な遺跡である。

 次に弥生時代の製鉄の痕跡を残す遺跡を確認する。

■向原遺跡
 都城盆地底に展開する一万城扇状地のほぼ中央、都城市と三股町の市境に広がる遺跡が向原(むこうばる)遺跡である。1989年、2005年、2008年に大学や店舗の建設に伴う発掘調査が実施された結果、住居・土坑・溝などからなる弥生時代中期から後期の集落遺跡であることがわかった。谷に面した扇状地面の端部に形成されており、第1遺跡3号住居跡からは台石や砥石が出土し、床には焼けた小さな鉄片が散乱していたことから、鍛冶工房跡と考えられている。

■王子遺跡
 王子遺跡は鹿児島県の笠之原台地西端に位置する鹿屋市王子町にある弥生時代中期末から後期にかけての南九州における最大規模の集落跡である。発掘の結果、竪穴式住居跡27基、堀立柱建物跡14基と多数の石器にまじって槍鉋(やりがんな)・刀子・鉄滓などの鉄製品の出土があった。槍鉋は鉋が出現する前の大工道具の一つである。また、鉄の加工技術を持っていたことを示す鍛冶滓も出土している。

■沢目遺跡
 鹿児島県の志布志湾岸に沿って形成された砂丘地帯の黒色土層内に所在する遺跡。民間の行う砂採取事業により、厚さ約3~5mの砂丘下の黒色土層から多量の土器や石器類が出土し、平成11年に砂採取計画地内での約1500㎡について本調査を実施した。弥生時代中期と弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけての遺物・遺構が発見された。砥石、凹石、敲石などの中には大型のものも多く、砥石や凹石としての複数の用途を兼ね備えている。特に砥石は多く出土し、竪穴住居跡で出土した鉄斧片をはじめとする鉄製品との関係を示唆するものと考えられている。そのほか、軽石への穿孔や刻み込みなどの加工を施したものが出土し、中には舟を模した形態がはっきりしているものもある。
           
■堂園遺跡B地点
 南九州市川辺町、万之瀬川と神殿川とに挟まれた標高110mから140m の細長い台地中央部の北西端に位置する弥生時代後期末から古墳時代前期の遺跡である。25軒の竪穴住居跡の内、12軒から鍛冶関連資料が出土している。特に20号竪穴住居跡からは三角形状鉄片や棒状・微小鉄片が出土している。これらの遺物について報告者である八木澤氏は「これらの一連の遺構・遺物がセットで発見されたことは、鉄片を用いた最終加工を住居内で行ったことを明瞭に示す県内初の確認事例」と報告している。 

■高橋貝塚
 薩摩半島西側の南さつま市にある玉手神社境内に1962年、1963年の発掘調査による弥生前期のものとされる高橋貝塚がある。籾痕のついた土器や大陸系石器等が発掘され、この地で約2300年前には稲作が行われていたことが窺われるとともに、日本最古と言われる鉄器も出土した。

 以上のように鹿児島県や宮崎県南部の弥生時代の遺跡からは鉄器や鉄片、鍛冶関連遺構などが多数出土していることから、このあたりを中心とした南九州では少なくとも弥生時代には鉄の加工が行われていたことが裏づけられる。残念ながらこれらの遺跡において製鉄炉跡が発見されていないという現実がある中で安易な結論は避けるべきところではあるが、直接法による製鉄は最後に炉を破壊しなければならないために炉跡が残りにくいということ、考古学における製鉄の研究は比較的新しい分野であり過去の発掘において必ずしも十分な検討がなされたとはいえない可能性があること(※)、その一方で、先に見たように日高祥氏の活動の成果として宮崎県笠置山の周辺では製鉄炉跡やその破片と思われる遺物が多数出ていること、などの状況から考えると弥生時代において南九州一帯では褐鉄鉱あるいは砂鉄を原料とする直接法による製鉄が広く行われていた、と考えて問題ないように思う。

(※)東京工業大学名誉教授であった故飯田賢一氏は「古代日本製鉄技術考」の中で「製鉄址の発掘にさいし、生産の場である以上鉱滓や炉壁部分が出土することは当然あっても、生活の場でなければ土器が判出することはまれである。つまり生産遺跡の場合、土器編年にかわる自然科学的・工学的手法がもっと開発されないと考古学研究の妙味にとぼしく、その意味で古代製鉄技術の歴史的研究はまだほとんど未開拓のままといってよい。」と書かれている。1980年の発表で少し古いが少なくともそれ以前の発掘においてはそのような状況であったことが読み取れる。また、鹿児島県における古代鍛冶遺構について研究をされている川口雅之氏によると、鹿児島県で鉄器生産に関わる遺構群の詳細が明らかになった調査例が少なく、特に鍛冶炉の形態については不明な点が多いと指摘し、その原因として、鍛冶炉に対する認識が低いこと、過去の調査事例が整理されていないこと、などをあげている。



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古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋浩毅
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◆狗奴国の繁栄と領土拡大

2016年08月25日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 ここまでで九州中南部と大陸江南地方との間につながりがあることがわかった。そして、大陸江南地方から東シナ海を渡ってきた民は九州中南部に定住し、土着の縄文人と融合して弥生人となり、魏志倭人伝に記される狗奴国を建設したと考え、さらにはその狗奴国は日本書紀に記された熊襲であり隼人であった、と発想した。狗奴国(熊襲・隼人)は江南地方同様に稲作技術、農具を含む各種道具類の製作技術、建築技術、紡織技術、高温焼成技術、造船技術、製鉄技術など高度な技術を持つ先進地域であったと考えられる。次にこの狗奴国の繁栄について考えてみる。

 大陸を脱出した江南地方の人々が最初に流れ着いた南九州という地方は北東から南西に細長く延びた日本列島の一方のドン詰まりであり、北側には阿蘇や霧島を含む九州山地、東西および南の三方には東シナ海や太平洋、と四方を山と海に囲まれた狭隘な地域であり、平野部が少なくしかも火山灰が積もったシラス台地が広がり、稲作など農耕に不向きな痩せた土地である。その地域に大陸からどんどん人が押し寄せてくる。彼らは高度な製鉄技術や農耕技術を持っているため、痩せた土地ながらも農耕の生産性は飛躍的に高まり食料供給力が大幅にアップしていった。しかし、結果としてそのことがさらに人口を増加させ、ついには新たな土地が必要となった。そこで彼らは九州南部から中部を経て北九州方面への領土拡大を画策したということが想像される。
 静岡県立大学学長の鬼頭宏氏による古代の地域別推定人口によると、紀元前900年の時点で北九州3000人、南九州3300人とほぼ同数であった人口が紀元200年になると、北九州が13.5倍の40500人、南九州が19.6倍の64600人に増加しており、特に南九州において人口増加が顕著であった。
 
 領土拡大のもうひとつの理由として南九州における製鉄原料の不足が考えられる。農耕の生産性をあげるためには大量の鉄製農具が欠かせない。彼らは製鉄の原料となる褐鉄鉱や砂鉄を採取し続け、ついにはそれらが枯渇する状況に至ったのではないか。その結果、鉄資源を求めて北上せざるを得なくなった。現在で言うと、鹿児島県および熊本・宮崎両県の南部を起点として北上を開始した。九州の西側では球磨地方から球磨川沿いに八代へ出て熊本平野を北上、東側では曽於地方から宮崎へ出て宮崎平野を北上、九州山地を避ける形で東西2つのルートを経由して阿蘇山あたりまで領土拡大を進めたのではないかと想像する。
 阿蘇山周辺は阿蘇黄土と呼ばれる良質の褐鉄鉱が産出される地域であり、太平洋戦争のときには鉄鉱石の代替として八幡製鉄所(現・新日鉄住金株式会社八幡製鉄所)に運ばれた。現在でも阿蘇に本社工場を置く株式会社日本リモナイトはここで採取される褐鉄鉱を様々な製品に加工して出荷している(「リモナイト」は褐鉄鉱の別名である)。このあたりで良質な褐鉄鉱が産出される理由は阿蘇山の噴火と関係がある。阿蘇山は、30万年前、15万年前、9万年前と大噴火があり、これらの噴火により阿蘇山と外輪山との間に大きな火口湖ができたといわれている。水中に含まれる豊富な鉄分は次第に湖底に沈殿し、また火口湖もやがて干上がって大きなカルデラとなったが、沈殿した鉄成分はそのまま地層となって残ることとなった。これが現在でも産出される阿蘇黄土、すなわちリモナイトである。(株式会社日本リモナイトのホームページを参照した。)

 南から北上してきた狗奴国は肥沃な熊本平野や宮崎平野を手に入れ、さらには阿蘇で良質な褐鉄鉱も手に入れることができた。狗奴国の領土拡大作戦はここで一段落を迎えることになるはずだった。



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◆熊襲と隼人

2016年08月24日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 Wikipediaによると「熊襲とは、日本の記紀神話に登場する九州南部に本拠地を構えヤマト王権に抵抗したとされる人々で、また地域名を意味するとされる語である。古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。肥後国球磨郡(現熊本県人吉市周辺、球磨川上流域)から大隅国贈於郡(現鹿児島県霧島市周辺、現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族とされる」とある。
 人吉盆地を中心とする球磨地方、鹿児島県霧島の曽於地方から宮崎南部にかけての地域の独自性や先進性については既に見てきたとおりであり、熊襲は北部九州一帯とは一線を画す文化を持った民族であったことがわかる。そして魏志倭人伝においては倭人あるいは倭国と一線を画して戦った一族が狗奴国であった。

 同様にWikipediaによると「隼人とは、古代日本において薩摩・大隅(現在の鹿児島県)に居住した人々。『はやひと(はやびと)』、『はいと』とも呼ばれ『隼(はやぶさ)のような人」の形容とも方位の象徴となる四神に関する言葉のなかから、南を示す『鳥隼』の『隼』の字によって名付けられたとも。風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。やがてヤマト王権の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職のひとつとなった。兵部省の被官、隼人司に属した。百官名のひとつとなり、東百官には、隼人助(はやとのすけ)がある」とある。さらに「古く熊襲と呼ばれた人々と同じといわれるが、『熊襲』という言葉は日本書紀の日本武尊物語などの伝説的記録に現れるのに対し、『隼人』は平安時代初頭までの歴史記録に多数現れる。熊襲が反抗的に描かれるのに対し、隼人は仁徳紀には、天皇や王子の近習であったと早くから記されている」とあり、まつろわぬ熊襲が政権に取り込まれてのちに隼人と呼ばれるようになった、と考えられている。
 大和政権による支配云々はひとまずおいておき、ここで重要なのは熊襲と隼人が同族であるとされていることだ。



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