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古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

崇神天皇(その6)

2017年01月18日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
崇神天皇の事跡を続ける。

即位10年10月 群臣に対して次のように話した。
       「畿内の反抗者は皆服した。残るは畿外の暴君どもだ。
        四道将軍よ、すぐに出発せよ」
即位11年11月 四道将軍は地方の敵を平らげた様子を報告した。
       この年、異民族がたくさん従うようになった。
即位12年 3月 次のように詔をした。
        ・疫病や災いに対しては神祇を敬い、反抗する者を討ち破った。
        ・宮は廃れることなく、教えが広がり、民は生活を謳歌している。
        ・異民族が何度もやってきて、海外の人も帰化をする。
        ・このときに戸籍調査をして課役を課すことにしよう。
即位12年 9月 初めて戸籍調査をして課税を行うと国が栄えて天下泰平となり、
       天皇は御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)と呼ばれた。

<考察>
 崇神天皇による天下統一の話である。即位10年10月の詔から、やはり大和で反乱が起こっていたことがわかる。先に見たとおり、神武王朝によるものである。畿外においても同様で、神武王朝に近しい国々が同調して反乱を起こしていたのだ。崇神天皇はそれらを制圧して日本を統一した、つまり、神武王朝は崇神王朝に敗れたということだ。

 また、11年11月と12年3月の記事を見ると、ともに異民族(異俗)や海外が登場する。即位7年に神浅茅原で大物主神が倭迹々日百襲姫命に授けた神託に「大田田根子に自分を祀らせれば世の中が治まり、海外の国も降伏するだろう」というくだりがあった。すでに日本海の向こう、朝鮮半島を経由して大陸から人が来ていたのだ。それらの中には魏の遣いもいたであろう。魏志倭人伝によると、次のように倭と魏は帯方郡を介して交流(実際は倭国による朝貢)が行われている。少々長くなるが、倭人伝の訳文を記載する。卑弥呼が「親魏倭王」の印綬を受けたくだりからだ。

---------------<ここから魏志倭人伝>---------------
・景初二年(景初三年の誤記として239年)六月、倭の女王が大夫の難升米らを派遣して帯方郡に詣でて、天子(魏の皇帝)に詣でて朝献することを求めた。
・太守の劉夏は役人を遣わし、彼らに随行して都に詣でさせた。
・その年の十二月、詔書を以て倭の女王に報いて次のように伝えた。
 「親魏倭王卑彌呼に申し伝える。帯方郡太守の劉夏は使者を派遣し、汝の大夫の難升米、次使の都市牛利を送り、汝が献ずる男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布二匹二丈を奉って届けてきた。汝の存する場所は余りにも遠いが、遣使を以て貢献してきた、これは汝の忠孝の意の表れであり、我は甚だうれしく思う。今、汝を親魏倭王として称え、金印紫綬を封印して帯方郡太守に預け、汝に授ける。それを人々に示して人民を服従させなさい。汝の使者の難升米、牛利は遠路はるばる来訪し、道中の労を勤めた。今、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を授け、引見して労をねぎらい、倭に還すことにする。今、絳地の交龍錦(龍が交わる絵柄の錦織)を五匹、絳地の縐(ちりめん)粟罽(縮みの毛織物)十張、蒨絳(茜色と深紅)五十匹、紺と青五十匹、これらを以って汝が献じたものへの返礼とする。また、特に汝には紺地の句文(区切り文様)錦三匹、細班華(細かい花模様を斑にした)毛織物五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。いずれも包装して難升米、牛利に託することとする。帰還したら目録を受けとるがよい。(それらの)すべてを汝は国中の人々に顕示し、魏国が汝に情を寄せていることを知らしめよ、それ故に鄭重に汝によき品々を下賜したのである

・正治元年(240年)、帯方郡太守の弓遵は建中校尉の梯雋らを派遣し、詔書、印綬を奉じて倭国を訪れ、倭王に拝受させ、并わせて詔によって齎(もたら)された金、帛(しろぎぬ)、錦、毛織物、刀、鏡、采(色彩鮮やかな)物を賜る。
・倭王は使者に上表文を渡して、詔勅に対する謝恩の答礼を上表した。
・その四年(243年)、倭王は再び大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を遣使として奴隷、倭錦、絳青縑(深紅と青の色調の薄絹)、綿衣、帛布、丹、木弣(弓柄)、短い弓矢を献上した。
・掖邪狗らは一同に率善中郎将の印綬を拝受した。
・その六年(245年)、詔を以て倭の難升米に黄幢(黄旗。高官の証)を賜り、帯方郡に付託して授けた。
・その八年(247年)、(帯方郡)太守の王頎が(洛陽の)官府に到着した。

・倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は元より仲が悪かった。倭は載斯、烏越らを派遣して、(帯方)郡に詣でて攻防戦の状況を説明した。
・(帯方郡は)長城守備隊の曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を作って激励した。

・卑彌呼は既に死去しており、大きな墓を作る。直径は百余歩、殉葬するは百余人。
・ほどなく男の王を立てるが、国中がこの王に服さず、更に戦いが続いて、当時は千余人を殺した。
・続いて卑彌呼の宗女「壹與」を王として立てた。十三歳で王となると、ようやく国中が治まった。
・張政らは檄文を以て壹與を激励し、壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らが魏へ帰るのを送り届け、そして臺(皇帝の居場所)に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔青大句珠(孔の開いた大きな勾玉)二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。
---------------<ここまで>---------------

 このように卑弥呼のときから台与の時代にいたるまで倭国と魏の間で往来があったことがよくわかる。この様子が「異民族(異俗)の訪問」や「海外からの帰化」ということに表れたのではないだろうか。日本の正史である日本書紀は間違っても魏に対して朝貢していたことを伺わせることは書かない。むしろ逆に向こうからやってきた、という表現になった。大物主神による神託においても「海外の国が降伏するだろう」と主客逆転の表現を使っている。

 崇神天皇の治世を描いた日本書紀の崇神紀と魏志倭人伝の記述と比較すると見事に対応していると言える。

 それにしても冒頭の崇神天皇は本当に晴々しく立派な姿として描かれている。治世の前半、国が乱れて不安定になったころのダメ天皇の姿とエライ違いだ。それもこれも神の力を利用することに成功し、祭政一致の政治スタイルを確立することができたからであろう。ここに卑弥呼や台与の姿を思い浮かべずにはおられない。


 さて、ここに二人目の「ハツクニシラススメラノミコト」が登場することとなった。一人目が「始馭天下之天皇」である神武天皇、そして二人目が「御肇國天皇」である崇神天皇である。神武天皇は初めて大和の国を治めた天皇として、崇神天皇は畿外も含めて初めて日本を治めた天皇として、それぞれ「初めて国を治めた天皇」」と呼ばれることになった、と考えれば二人の「ハツクニシラススメラノミコト」の存在が理解できる。しかも順番が「神武→崇神」、すなわち「大和→日本」なので筋が通っており、天皇家が万世一系であることも演出できている。ただし厳密に言えば、神武王朝と崇神王朝は並立していたので、神武天皇が大和を統一したわけでないのはこれまで述べてきたとおりである。


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