古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

崇神天皇(その8)

2017年01月22日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
今回が崇神天皇の最終回である。

即位62年 7月 河内の狭山に池溝(うなで)を掘った
     10月 依網池(よさみのいけ)を造った
     11月 苅坂池(かりさかのいけ)・反折池(さかおりのいけ)を造った。
即位65年 7月 任那国が蘇那曷叱知(そなかしつ)を派遣して朝貢してきた。

<考察>
 河内の狭山とは現在の大阪府大阪狭山市であり、この池溝は私の自宅から歩いて30分ほどのところにある現在の狭山池のことを指している。日本最古のダム式ため池であるが、今なお周囲の田畑に用水を供給している現役のため池だ。余談になるが、1988年からの平成の大改修でダム部分や堤防が大幅に整備されて近隣の住民の憩いの場所になっている。隣接地に安藤忠雄氏が設計した狭山池博物館があり、田舎の町には分不相応な立派な建物であるが、展示内容はなかなかのもので一見の価値アリだ。ともかく、大阪の南部、南河内や泉州地方は瀬戸内式気候で雨が少ないうえに大きな河川がないため、いたるところにため池がある。次の依網池は現在の大阪市東住吉区のあたりとされており、この付近も江戸時代に大和川が付け替えられるまではため池が必要とされた。ちなみにこの依網池は現在はもう存在しない。苅坂池と反折池については場所がわかっていない。
 ところで、3世紀の崇神天皇の時代に本当にこんな大規模な工事が行われたのだろうか。狭山池については平成の大改修で検出された樋に使用された木材の伐採時期が年輪年代測定によって616年と判定されことから、少なくとも7世紀初めに存在したことが確認されたが、そこからさらに300年も遡ることがあるのだろうか(ちなみに地元では今年が狭山池築造1400年という触れ込みで宣伝されている)。崇神天皇は戸籍調査を行った上で課税していたこと、それを天神地祇に納めたところ様々な穀物がよく採れるようになり、皆が裕福になって人民が増えたこと、が書紀に記されているので、理屈上は大規模な公共工事ができるほどの財政基盤があったといえなくもないが、そもそも戸籍調査や課税についても果たして崇神のときに始まったのかどうか、怪しいと言わざるを得ない。治世の初期に徳の政治が上手くいかずに神託に頼っていた崇神であるが、いつしか徳を備えた立派な天皇になった、というハッピーエンドの演出であろう。

 即位65年に任那が朝貢してきたという。魏志倭人伝によれば任那のあった朝鮮半島の南端は狗邪韓国と境を接する倭国の領域であることが記されており、書紀の記述を裏付ける材料となろう。この蘇那曷叱知という人物は次の垂仁天皇の2年になって任那に帰りたいと申し出たが、天皇は彼にたくさんの賞(赤絹を百匹)を与えて帰らせたという。私はこの説話は日本と任那の朝貢関係ではなく、倭国と朝鮮半島を通じた魏との朝貢関係を表しているのではないかと考える。もちろん倭国が朝貢する立場である。したがって、天皇が蘇那曷叱知に持たせた賞は任那に対するものではなくて、魏に対する朝貢の品ではなかったか。これも書紀と倭人伝の対応を示している。

 これで崇神天皇の事蹟は終わり。祭政一致の始まり、崇神王朝と神武王朝の対立、神武王朝の敗北、出雲の制圧、魏志倭人伝との対応などが確認できた。第一部で描いた物語がひっくり返るかも知れないと思いつつ思考を巡らせてきたが、むしろ第一部を裏付けることができたと感じている。ただ、ここまで棚上げにしてきた大きな課題がある。それは卑弥呼である。卑弥呼は誰か、あるいは台与は誰か。思考の途中であり、まだ答は出ていないが、次回はその途中経過を書いてみる。


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