古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

西都原古墳群・西都原考古博物館(宮崎実地踏査の旅 No.4)

2018年08月15日 | 実地踏査・古代史旅
 2018年7月20日、都萬神社をあとにして向かった先が西都原古墳群および西都原考古博物館。ここに来るのは3回目になるのですが、過去2回は古墳群を中心に見て回ったので博物館があまり記憶に残っていませんでした。そして、学芸員の勉強をするようになって機会があれば博物館をきちんと見たいと思ってたところへの今回の宮崎出張。このチャンスを活かさない手はないと思って今回のツアーを企画することになったわけです。

 西都原古墳群は宮崎県西都市にある古墳群で国の特別史跡に指定されています。一ツ瀬川を挟んで新田原古墳群と反対側の洪積台地上に広がる日本最大級の古墳群で、前方後円墳31基、円墳279基、方墳1基、地下式横穴墓11基、横穴墓12基もの多くの古墳が集まっていて、3世紀前半から7世紀前半にかけての築造と推定されています。その古墳群のいちばん奥まったところに西都原考古博物館が建っています。遺跡に併設する博物館をサイトミュージアムというのですが、ここはその代表的な博物館だと思います。

都萬神社を出て5分とかからず台地を登る坂道に差しかかり、坂を上りきったところにこの石碑。


今にも雨が降りそうな天気の中、左右に古墳を見ながら博物館へまっしぐら。

ついに3回目、やって来たぞ、とワクワクしながら入口へ。

入館料は何と無料。ありがたい。

この雰囲気は古墳の石室に向かう羨道をイメージしているのだろうか。

旧石器時代から順に展示と解説が展開されます。


この西都原でも鹿児島の上野原遺跡と同様に、南九州の古代を理解するための基本知識である霧島火山帯の活動の話から始まります。

西都原や新田原の「原」は「ばる」と読みます。九州には「原」を「ばる」とか「はる」と読む地名がたくさんあります。理由は諸説あるようですが、ここでは火山の噴火による火砕流や火山灰が積もって台地上になったところを「原(はる)」と説明しています。これはわかりやすい。

これまで見た博物館では石器や土器は必ずと言っていいほど展示ケースに展示されていたのですが、ここではほとんどが露出展示です。


触っていいものがどうか迷っていると、隣で団体さんに説明しているボランティア説明員が「どうぞ触ってみてください」と言っている。本当にいいのかな、と半信半疑の気持ちでおそるおそる触ってみた。

展示ケースがないので土器の中まで見ることができる。これも嬉しい。



そして、通常は個々の展示資料ごとに基本情報を記したキャプションがあるのに、ここでは展示コーナーごとにまとめて一覧形式で整理されていて、しかも自由に手に取って見ることができる。露出展示やこの方式のキャプション展示は初めての経験です。


これは宮崎県串間市王之山から出土した玉璧(ぎょくへき)。直径約33センチ、重さ1.6kg。


日向の地に絶大な権力者集団が存在したことの証とされている。この博物館に展示されいるとは知らなかった。

地下式横穴墓の説明。

妻入りと平入りの2つの方式があることを初めて知りました。

現代の研ぎ師が磨き上げた出土鉄剣。

これも初めてです。錆びついた状態で出土した鉄剣からは感じることができないリアリティ。古墳時代に作られた剣が現代の日本刀と変わらない輝きを持っていたことを実感します。当然、切れ味も遜色ないのでしょう。

隼人族の楯。


写真で何度も見ていたけれど、これもこの博物館にあったのか。楯に描かれた渦の模様は、潮の流れや渦潮を表していて、この楯を使っていた隼人族が海洋民族であったことがわかります。中国の江南地方から南九州にやってきた集団が隼人族と結びついて大きな勢力を持つようになり、やがて神武天皇を出現させた、そしてその国が魏志倭人伝に記される狗奴国であった、というのが私の考えです。そしてこの隼人族は瀬戸内海の最大勢力であった吉備一族とつながっていた、とも考えています。

西都原古墳群で最大の男狭穂塚(おさほづか)、女狭穂塚(めさほづか)の説明のためのセット。

男狭穂塚は全長175メートルで日本最大の帆立貝形古墳。女狭穂塚は全長180メートルで九州最大の前方後円墳。いずれも宮内庁陵墓参考地になっているので柵で囲われて近づくことができません。

西都原古墳群の説明のためのセット。

これだけの規模のセットが2つもあるのは初めて。

収蔵庫を展示室として活用した収蔵展示室。


上の写真の右側が舟型埴輪で左側が子持家型埴輪。いずれも女狭穂塚の陪塚とされる170号墳から出土したもので、実物は東京の国立博物館に展示されています。つまりこちらはレプリカ(複製)ということになります。

実は2年ほど前に東海大学の公開講座でこの西都原考古博物館の研究員の方がこんなことをおっしゃってました。「国立博物館に展示されている舟型埴輪は実は一部が欠けている部分があって、その部分を修復して展示しています。」考古資料は一部が後世の修復であっても他の部分が実物であれば、その資料は実物として扱われます。土器の修復で破片が欠けている部分を白い石膏で修復している場合がありますが、それでも他の破片が実物であればその修復された土器は実物とされるわけです。「実は170号墳を再調査したときに舟型埴輪の欠損部分が出てきたので、これを国立博物館展示の修復部分と取り換えれれば完全な実物ということなるのですが、西都原考古博物館はこの小さな破片をもとに埴輪全体を復元しました。小さな破片であっても実物なので、こちらの修復埴輪も実物ということになり、同じ埴輪の実物資料がふたつ存在することになります。こちらがそれを主張すればどうなるのだろう。話がややこしくなるのであえて言ってませんが、こちらはこちらで実物として扱っています。」 おそらく、そのときに聴いた復元埴輪がここに展示されているものだと思うのです。

展示室内にある学習のためのスペース。


大学の研究室をイメージした学習コーナーです。豊富な蔵書、資料解説、PC環境など、勉強がはかどりそうな場所になっています。入館が無料なので近くに住んでいれば毎日のように来てしまいそう、と思いました。

博物館最上階からの古墳群の眺め。

3時間くらい見学していたと思うのですが、いつのまにか雨が降っていました。このあと、古墳を見て回る時間は無かったものの、博物館の勉強のためにここだけは、というところに行きました。

地下式横穴墓を発掘時のまま保存した西都原古墳群遺構保存覆屋です。



酒元ノ上横穴墓群を保存処理して建屋で覆い、その後の調査や見学に利用するために設けられた施設です。下に降りて横穴を覗いてきました

博物館学ではこのような遺構も考古資料として扱います。ちなみに、遺跡は遺構と遺物から構成され、遺構は動かせないもの、遺物は動かせるもの、と考えればわかりやすいです。遺構を博物館資料として展示するには、このように保存処理して建屋で覆う、あるいは遺構の上に博物館を建ててしまう、という方法があります。福岡県の須玖岡本遺跡や鳥取県の妻木晩田遺跡、鹿児島県の上野原遺跡など、重要な遺跡の多くで同様の施設を見てきました。

以上が西都原考古博物館のレポートとなりますが、この博物館ではたくさんのことを学びました。博物館のあり方、展示や解説の方法、学習支援活動などの学芸員としての学びはもちろんのこと、古代史に関しての学びもありました。3回目にもかかわらず、もう一度、次は丸一日かけて古墳群も含めてゆっくり見学したいと思いました。

さて、次の訪問地はは2回目の訪問となる生目古墳群と併設の博物館「生目の杜遊古館」です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする