神功摂政13年、誉田皇太子は武内宿禰とともに角鹿(敦賀)の笥飯大神に参った。越前国一之宮の気比神宮で、主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)である。書紀の本編では笥飯大神に参ったと記されるのみであるが、応神天皇紀の最初に別伝として「皇太子となったときに越国に行き、笥飯大神を参った。そのとき、大神と皇太子は名を交換した。それで大神を名づけて去来紗別神といい、皇太子を誉田別尊と名づけた」と記される。そして、これと同じ話が古事記にもある。皇太子と武内宿禰は禊をしようと近江と若狭を巡り、角鹿で仮宮を設けたところ、その地に鎮座する伊奢沙和気大神之命が皇太子の夢に現れたという。大神が皇太子と名前を交換したいと申し出たところ、皇太子は承諾した。すると翌朝、鼻が傷ついたイルカの大群が浜いっぱいに打ち寄せられていたという。皇太子が食する御食(みけ)を賜ったことからその神を御食大神と名付け、その神が今は気比大神と呼ばれている。
「垂仁天皇(その9 天日槍の神宝②)」でも触れたのだが、垂仁天皇の時に来日した天日槍が持参した神宝のなかにあった膽狭浅太刀(いささのたち)と伊奢沙別命の音の類似などの連想から、伊奢沙別命は天日槍であるという考えが本居宣長以来説かれているが、私もその蓋然性が高いと考える。つまり、気比神宮に祀られるのは丹波・近江連合勢力の祖とも言える天日槍であり、始祖が祀られるこの敦賀の地は丹波・近江連合勢力にとって聖地とも言える場所ということになる。その天日槍の後裔である神功皇后は仲哀天皇の居所である近江の高穴穂宮をすぐに放棄して敦賀の笥飯宮に移り、ここを起点に三韓征伐を成し遂げ、さらには香坂王・忍熊王を討って大和に入って宮を設けた。これは崇神王朝からの政権交代が成就したことを意味すると考える。そして今、神功皇后の子である誉田皇太子は生まれて初めてこの敦賀にやって来たのであるが、さしずめ始祖である天日槍への政権交代の報告と故郷へのお披露目、顔見世といったところか。また、この聖地において始祖からその名を授けられたということは、その系譜を継ぐ正当な資格を与えられたということを意味すると考えられ、これをもって実質的に応神王朝が成立したと考えてよいだろう。書紀で垂仁紀に記される天日槍の来日譚が古事記においては応神天皇の段に記される理由はここにある。
この一連の話の中で触れられるイルカが皇太子に献上される話は敦賀の地が天皇家に御食を献上する土地になったことを表しているが、これも応神王朝成立を背景とした説話である。延喜式や平城京跡から出土した木簡などから、若狭が海産物を献上する御食国(みけつくに)であったことがわかっている。
皇太子と武内宿禰は敦賀から大和に戻ったところ、皇太后が酒宴を開催し、盃を挙げて祝った。そして歌っていうのには「この酒は私だけの酒ではない。神酒の司で常世の国にいる少御神が祝いの言葉を述べながら歌って踊り狂って醸して献上した酒だ。さあ、残さず飲みなさい」と。武内宿禰が皇太子に代わって「この酒を醸した人は鼓を臼のように立てて歌いながら醸したからだろう。この酒のうまいことよ」と返歌を歌った。
どうしてここに少御神、すなわち少彦名命が登場するのだろうか。歌中では少御神は酒の神であるとなっているが、単に酒の神であるから酒の場面に登場させたのだろうか。そうではない。書紀第8段の一書、国造りの場面に登場する少彦名命は大己貴神(大国主命)とともに国造りを進めてきたものの、その最終段階で仲間割れを起こしたことから常世の国へ行ってしまう。この少彦名命は出雲から大和へやってきた崇神天皇、あるいは崇神につながる一族のリーダーを指しているということを当ブログ第一部の「大己貴神と少彦名命」で書いておいた。そしてこの酒宴は神功皇太后と皇太子、のちの応神天皇が崇神王朝を倒して政権交代を実現したことを祝う宴である。崇神王朝の開祖とも呼ぶべき少彦名命の酒を飲み干すことはそのことを喩えているのだ。歌の意味は「大和の少彦名命が創り、繁栄を謳歌した国を平らげてやったぞ。めでたいことだ。彼らの築いたものを全てわが手に収めよう」ということになろうか。
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「垂仁天皇(その9 天日槍の神宝②)」でも触れたのだが、垂仁天皇の時に来日した天日槍が持参した神宝のなかにあった膽狭浅太刀(いささのたち)と伊奢沙別命の音の類似などの連想から、伊奢沙別命は天日槍であるという考えが本居宣長以来説かれているが、私もその蓋然性が高いと考える。つまり、気比神宮に祀られるのは丹波・近江連合勢力の祖とも言える天日槍であり、始祖が祀られるこの敦賀の地は丹波・近江連合勢力にとって聖地とも言える場所ということになる。その天日槍の後裔である神功皇后は仲哀天皇の居所である近江の高穴穂宮をすぐに放棄して敦賀の笥飯宮に移り、ここを起点に三韓征伐を成し遂げ、さらには香坂王・忍熊王を討って大和に入って宮を設けた。これは崇神王朝からの政権交代が成就したことを意味すると考える。そして今、神功皇后の子である誉田皇太子は生まれて初めてこの敦賀にやって来たのであるが、さしずめ始祖である天日槍への政権交代の報告と故郷へのお披露目、顔見世といったところか。また、この聖地において始祖からその名を授けられたということは、その系譜を継ぐ正当な資格を与えられたということを意味すると考えられ、これをもって実質的に応神王朝が成立したと考えてよいだろう。書紀で垂仁紀に記される天日槍の来日譚が古事記においては応神天皇の段に記される理由はここにある。
この一連の話の中で触れられるイルカが皇太子に献上される話は敦賀の地が天皇家に御食を献上する土地になったことを表しているが、これも応神王朝成立を背景とした説話である。延喜式や平城京跡から出土した木簡などから、若狭が海産物を献上する御食国(みけつくに)であったことがわかっている。
皇太子と武内宿禰は敦賀から大和に戻ったところ、皇太后が酒宴を開催し、盃を挙げて祝った。そして歌っていうのには「この酒は私だけの酒ではない。神酒の司で常世の国にいる少御神が祝いの言葉を述べながら歌って踊り狂って醸して献上した酒だ。さあ、残さず飲みなさい」と。武内宿禰が皇太子に代わって「この酒を醸した人は鼓を臼のように立てて歌いながら醸したからだろう。この酒のうまいことよ」と返歌を歌った。
どうしてここに少御神、すなわち少彦名命が登場するのだろうか。歌中では少御神は酒の神であるとなっているが、単に酒の神であるから酒の場面に登場させたのだろうか。そうではない。書紀第8段の一書、国造りの場面に登場する少彦名命は大己貴神(大国主命)とともに国造りを進めてきたものの、その最終段階で仲間割れを起こしたことから常世の国へ行ってしまう。この少彦名命は出雲から大和へやってきた崇神天皇、あるいは崇神につながる一族のリーダーを指しているということを当ブログ第一部の「大己貴神と少彦名命」で書いておいた。そしてこの酒宴は神功皇太后と皇太子、のちの応神天皇が崇神王朝を倒して政権交代を実現したことを祝う宴である。崇神王朝の開祖とも呼ぶべき少彦名命の酒を飲み干すことはそのことを喩えているのだ。歌の意味は「大和の少彦名命が創り、繁栄を謳歌した国を平らげてやったぞ。めでたいことだ。彼らの築いたものを全てわが手に収めよう」ということになろうか。
新書704神社の起源と古代朝鮮 (平凡社新書) | |
岡谷公二 | |
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