古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

百間川遺跡群(吉備国実地踏査ツアーNo.16)

2019年07月04日 | 実地踏査・古代史旅

 2日間にわたる吉備国実地踏査の旅もいよいよ最後の踏査地、百間川遺跡群を残すのみとなりました。吉備高島宮跡からまっすぐ県道を南下して数分で到着です。

 遺跡群のある百間川は岡山平野のほぼ中央部を流れる旭川の放水路、つまり人工河川です。改修工事の際に中流域の河川敷で縄文時代から中世にかけての複合遺跡が発見され、1977年より発掘調査が行われました。このときに調査が行われた原尾島遺跡、沢田遺跡、兼基・今谷遺跡、米田遺跡を総称して百間川遺跡群と呼びます。

 調査の結果、弥生時代後期末には水田耕作がかなり広大に行われていたことがわかりました。また、部分的に稲株跡が見つかっており、株の大きさやその分布状況から「田植え」が行われていたことが想定されます。また、これらの古代遺跡のほか、旭川の氾濫から岡山城下を守るために造られた放水路や鎌倉時代から室町時代にかけての橋跡も発見されています。

 遺跡はすべて埋め戻されて、河川敷公園として野球場やサッカー場などが設けられています。そして、それぞれの遺跡から見つかった遺構は沢田橋の西側に移されて復元され、百間川緑地遺跡広場として開放されています。

竪穴式住居跡。原尾島遺跡で見つかった古墳時代前期のもの。

こちらは2本柱の竪穴式住居。沢田遺跡で発掘された古墳時代前期のもの。

 
こちらは何と8本柱。さらに内側にも6本の柱跡が。原尾島遺跡で見つかった弥生時代後期の大型竪穴住居跡です。
 
弥生時代の水田跡。
 
鎌倉時代から室町時代にかけての橋脚跡。

 

 この百間川遺跡群は河川敷に広がる広大な遺跡群であるものの、そのごく一部の遺構が復元されただけであり、しかも遺構が出た場所ではなくて一カ所に集められているので、残念ながらリアリティを感じることができませんでした。時間があるので4ヵ所の遺跡を回ろうかとも思ったのですが、ここに復元されたもの以外に遺跡であることを感じさせるものが何もない上に、直射日光を遮るものもなかったので、そそくさと退散しました。時刻は15時前ですが、二日間の吉備国実地踏査ツアーはこれにて終了です。

 予定よりも1時間半ほど早く岡山駅に到着したので、駅前の居酒屋で復習ミーティング。私にとっての今回の収穫は何と言っても特殊器台と特殊壺、それと楯築遺跡と弧帯文石でした。やはり実際に自分の眼で見るといろんな気づきがあります。フワッとした想像も確信に変わります。

 3人で行く実地踏査ツアー、三人三様の知見が蓄積されてきました。この次はその知見をもとにあらためて大和の纒向を訪ねることと合わせて、奈良盆地西南部の葛城地域を踏査しようということで決まりました。おそらく秋頃になると思いますので、乞うご期待!

 

 さて、16回にわたる吉備国実地踏査ツアー報告の最後に。

 事前学習も含めて今回の踏査ツアーで岡山県には古代の遺跡や由緒ある神社がたくさんあるということがわかりました。しかしながら、これらの文化財が全くと言っていいほど観光資源として活かされていないと感じました。楯築遺跡は古代史をかじった人なら誰もが訪れたいと思う遺跡だし、造山古墳や作山古墳などの墳丘に登れる巨大古墳は古墳マニアにはたまらないでしょう。なのに、そこに立てられたノボリに「桃太郎」とはどういうことか。また、大和政権の成立に大きな影響を与えたと考えられる古代吉備、その象徴である特殊器台・特殊壺はもっとアピールするべきです。観光を少なからず意識している鬼ノ城でさえ、途中の山道はバスが走れないような細い道。どこの遺跡に行っても色褪せた説明板が立っていて情報もアップデートされていません。県立博物館は時代錯誤も甚だしい撮影禁止。これでは岡山に人が集まりません。観光客の呼び込みに一役買っているのは吉備津彦神社と吉備津神社くらいでした。

 今回、遺跡や神社、博物館を巡ってわかったことは、これらの多くが岡山市内にあり、市外の場合でも倉敷市や総社市といったお隣になります。つまり、貴重で重要な文化遺産を効率的に見て回ることができるのです。これは大きなアドバンテージです。岡山の行政に携わる皆さん、そろそろ桃太郎頼みから脱却し、文化財行政と観光行政の連携によって岡山に人々を呼び込んでみてはいかがでしょうか。

 

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