卑弥呼の鬼道は道教ではない、という結論になったのですが、それでは卑弥呼の鬼道は何だったのでしょうか。今さらですが、卑弥呼の鬼道についてWikipediaを見ると、幾つかの説があることがわかりました。
①卑弥呼はシャーマンであり、男子の政治を霊媒者として助ける形態とする説
②道教あるいは初期道教と関係があるとする説
③道教ではなく「邪術」であるとする説
④神道であるとする説
⑤単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという説
いずれの説もそれを主張されている専門家の論文や書籍を詳しく調べたわけではないので、以下、いい加減な話になってしまうことをご了承ください。
卑弥呼には各クニの首長が持ち得ない何らかの力が備わっていたはずで、だからこそ王となることができたのです。その何らかの力とは何だったのか。②の道教は違う、という結論になりました。
①については、霊媒者としての力、すなわち、超自然的存在と人間とを直接に媒介することができる力で、神や祖霊と対話する能力とでも言えばいいのでしょうか。井上光貞著「日本の歴史1神話から歴史へ」には「もともと呪術宗教的な権威が幅をきかす社会であったから、このような大きな変革の時代には、女子の霊媒的機能が大きくものをいった」「その結果として卑弥呼のような族長一族のシャーマンが統合の要と仰がれたのであろう」と書かれていますが、わかったようなわからない話です。
③については、超自然的な存在に訴えることによって、病気治療、降雨、豊作、豊漁などの望ましいことの実現を目ざした行為を呪術というのに対して、人を苦しめたり呪い殺したり、相手に災厄を与えるものを邪術というのですが、卑弥呼が相手に災厄を与える邪術を使って女王に共立されたとは思えません。この説を唱える謝銘仁氏の論文や書籍を読んでいないのですが、邪術ではなく呪術と解すれば納得がいきます。
④についてWikipediaによれば「神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念であることから、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている」となっており、神道を日本固有の宗教的な概念として捉えているようです。
⑤をWikipediaで見ると「当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法があることから、呪術ではなく、単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味する」となっています。これだと「事鬼道、能惑衆」の意味がよくわからなくなります。
魏志倭人伝には「事鬼道、能惑衆」と記されますが、この部分が後漢書では「事鬼神道、能以妖惑衆」となっています。「鬼道」ではなく「鬼神道」です。これは後漢書の作者である范曄が先に書かれていた倭人伝を参照した際にわかりやすい表現に変更したことによるとされます。中国では「鬼」は「死者の霊魂」のことを言い、孔子は「論語」において「鬼神」を祖先の霊、あるいは祖先以外も含む死者の霊という意味で使っています。春秋時代の「国語」魯語では「鬼道」が「人道」と並列的に使われ、前漢時代の「説苑」では「鬼道を以て聞こゆ」とされた客人が耦土人(どぐう=泥人形)と木梗人(もっこうじん=桃木の木偶)の会話を聞き取ることがき、それが神の啓示の役割を果たしたという内容が記され、ここでは「人事」に対して「鬼道」が使われています。
司馬遷の「史記」封禅書にも「鬼道」が登場します。方士の謬忌(びゅうき)が言った言葉に「天神の貴き者は太一なり、太一の佐を五帝と曰う。古は天子、春秋を以て太一を東海の郊に祭り、太牢を用う、七日、壇を為り、八通の鬼道を開く」というのがあります。太一は天の中心にある北極星を神格化した天神で、ここで使われている「鬼道」は、天神である太一をも含めた鬼神たちのやってくる道(道路)という意味です。「東海の郊に祭り」からは神仙界が想定されます。
ここまでの「鬼道」という言葉には、死者の霊と通じる、霊魂と対話する、死者の霊を迎える、というようなニュアンスが読み取れ、さらには神仙思想の要素が含まれているように感じます。
「道教とは(前方後円墳の考察⑨)」で書いた通り、五斗米道を興した張陵の孫に張魯がいます。「後漢書」劉焉伝には、この張魯の母親が息子の張魯の出世のために上司である劉焉をたぶらかす目的で「鬼道」を操る様子が記されます。さらに「三国志」魏書公孫陶四張伝には、張魯は出世させてもらった劉焉に抗い、子である劉璋にも従わず、その結果、母親が殺されたとあります。張魯はさらにその後に師君と名乗って「鬼道」を民衆に教えたとも記されます。
「鬼道」を利己的な目的で使うとか、一般民衆に教えるとか、それ以前のものと何かイメージが違ってきているように感じます。やはり卑弥呼の「鬼道」は道教ではないと考えます。
「鬼」「鬼道」について、「前方後円墳の出現と日本国家の起源」に収録される大形徹氏の論を参照して整理しましたが、私の考えを結論的に言うと、卑弥呼は、人々から禍を取り除き、福を招き入れる能力や、人々を不老長生に導く力を持った「方士」ではなかったか、ということになります。方士とは道教が成立する以前の修行者で、祈祷、卜占、呪術、占星術、煉丹術、医術などの神仙方術の使い手です。私は、この神仙方術が卑弥呼の「鬼道」であったと考えます。
倭国に神仙思想が伝わったのが秦の時代で、徐福および徐福が連れてきたであろう多くの方士が各地に留まって神仙思想や神仙方術を伝えました。卑弥呼は彼らの末裔ではないでしょうか。
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①卑弥呼はシャーマンであり、男子の政治を霊媒者として助ける形態とする説
②道教あるいは初期道教と関係があるとする説
③道教ではなく「邪術」であるとする説
④神道であるとする説
⑤単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという説
いずれの説もそれを主張されている専門家の論文や書籍を詳しく調べたわけではないので、以下、いい加減な話になってしまうことをご了承ください。
卑弥呼には各クニの首長が持ち得ない何らかの力が備わっていたはずで、だからこそ王となることができたのです。その何らかの力とは何だったのか。②の道教は違う、という結論になりました。
①については、霊媒者としての力、すなわち、超自然的存在と人間とを直接に媒介することができる力で、神や祖霊と対話する能力とでも言えばいいのでしょうか。井上光貞著「日本の歴史1神話から歴史へ」には「もともと呪術宗教的な権威が幅をきかす社会であったから、このような大きな変革の時代には、女子の霊媒的機能が大きくものをいった」「その結果として卑弥呼のような族長一族のシャーマンが統合の要と仰がれたのであろう」と書かれていますが、わかったようなわからない話です。
③については、超自然的な存在に訴えることによって、病気治療、降雨、豊作、豊漁などの望ましいことの実現を目ざした行為を呪術というのに対して、人を苦しめたり呪い殺したり、相手に災厄を与えるものを邪術というのですが、卑弥呼が相手に災厄を与える邪術を使って女王に共立されたとは思えません。この説を唱える謝銘仁氏の論文や書籍を読んでいないのですが、邪術ではなく呪術と解すれば納得がいきます。
④についてWikipediaによれば「神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念であることから、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている」となっており、神道を日本固有の宗教的な概念として捉えているようです。
⑤をWikipediaで見ると「当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法があることから、呪術ではなく、単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味する」となっています。これだと「事鬼道、能惑衆」の意味がよくわからなくなります。
魏志倭人伝には「事鬼道、能惑衆」と記されますが、この部分が後漢書では「事鬼神道、能以妖惑衆」となっています。「鬼道」ではなく「鬼神道」です。これは後漢書の作者である范曄が先に書かれていた倭人伝を参照した際にわかりやすい表現に変更したことによるとされます。中国では「鬼」は「死者の霊魂」のことを言い、孔子は「論語」において「鬼神」を祖先の霊、あるいは祖先以外も含む死者の霊という意味で使っています。春秋時代の「国語」魯語では「鬼道」が「人道」と並列的に使われ、前漢時代の「説苑」では「鬼道を以て聞こゆ」とされた客人が耦土人(どぐう=泥人形)と木梗人(もっこうじん=桃木の木偶)の会話を聞き取ることがき、それが神の啓示の役割を果たしたという内容が記され、ここでは「人事」に対して「鬼道」が使われています。
司馬遷の「史記」封禅書にも「鬼道」が登場します。方士の謬忌(びゅうき)が言った言葉に「天神の貴き者は太一なり、太一の佐を五帝と曰う。古は天子、春秋を以て太一を東海の郊に祭り、太牢を用う、七日、壇を為り、八通の鬼道を開く」というのがあります。太一は天の中心にある北極星を神格化した天神で、ここで使われている「鬼道」は、天神である太一をも含めた鬼神たちのやってくる道(道路)という意味です。「東海の郊に祭り」からは神仙界が想定されます。
ここまでの「鬼道」という言葉には、死者の霊と通じる、霊魂と対話する、死者の霊を迎える、というようなニュアンスが読み取れ、さらには神仙思想の要素が含まれているように感じます。
「道教とは(前方後円墳の考察⑨)」で書いた通り、五斗米道を興した張陵の孫に張魯がいます。「後漢書」劉焉伝には、この張魯の母親が息子の張魯の出世のために上司である劉焉をたぶらかす目的で「鬼道」を操る様子が記されます。さらに「三国志」魏書公孫陶四張伝には、張魯は出世させてもらった劉焉に抗い、子である劉璋にも従わず、その結果、母親が殺されたとあります。張魯はさらにその後に師君と名乗って「鬼道」を民衆に教えたとも記されます。
「鬼道」を利己的な目的で使うとか、一般民衆に教えるとか、それ以前のものと何かイメージが違ってきているように感じます。やはり卑弥呼の「鬼道」は道教ではないと考えます。
「鬼」「鬼道」について、「前方後円墳の出現と日本国家の起源」に収録される大形徹氏の論を参照して整理しましたが、私の考えを結論的に言うと、卑弥呼は、人々から禍を取り除き、福を招き入れる能力や、人々を不老長生に導く力を持った「方士」ではなかったか、ということになります。方士とは道教が成立する以前の修行者で、祈祷、卜占、呪術、占星術、煉丹術、医術などの神仙方術の使い手です。私は、この神仙方術が卑弥呼の「鬼道」であったと考えます。
倭国に神仙思想が伝わったのが秦の時代で、徐福および徐福が連れてきたであろう多くの方士が各地に留まって神仙思想や神仙方術を伝えました。卑弥呼は彼らの末裔ではないでしょうか。
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