古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

壺形古墳説で疑問は解消(前方後円墳の考察⑮)

2021年09月23日 | 前方後円墳
方形や双方中円形、四隅突出形などの各地の首長墓は3世紀以降、壺形に収斂していくことになるのですが、古墳時代に見られる古墳は前方後円墳だけではなく、ホタテ貝形前方後円墳、柄鏡形前方後円墳、前方後方墳、双方中円墳など、様々な形があります。また、出現期の前方後円墳は纒向型前方後円墳とも言われます。

様々な古墳の形も壺形説を採ればある程度の説明ができそうです。ホタテ貝形は頸の部分が短い壺、柄鏡形は頸が外側に向かって湾曲せずに真っすぐに立ち上がっている壺、双方中円墳は少し大きめの台付き壺。ただし、前方後方墳はなかなか難しい。胴部が四角い立方体をしている壺があれば問題なく説明できるのですが、残念ながらそのような壺はないようです。あえて言えば、胴部が四角く見える壺ということでどうでしょうか。

弥生時代の環濠集落遺跡である奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡からは大量の土器が出土しました。田原本町教育委員会が発行する「唐古・鍵遺跡考古資料Ⅱ 土器編2(弥生・搬入・特殊)」には、それらの土器の中でも特に重要と思われるものが収録、報告されています。ここに掲載されている壺形土器の写真を様々な古墳の形状に比定してみます。(各土器の写真を転載させていただきます。)



双方中円形は少しわかりにくいですが、たとえば、岐阜県大垣市の荒尾南遺跡から出た弥生中期の台付き壺形土器を見るとよくわかります。(写真転載がNGなのでリンクを貼ります)

前方後方形はさらにわかりにくい、というよりも無理がありますが、前方後方墳は四角い壺を墳形にしたというよりも、もともと方形の墳丘墓が造られていた地域で、それを発展させる形で壺のように見せるために前方後方形に形成された、と考えることができないでしょうか。壺形古墳説を支持する方で、前方後方墳に対する見解をお持ちの方のご意見を伺ってみたいと思います。

また、唐古・鍵遺跡の遺物には双円墳の形をした壺は見当たらなかったのですが、たとえば山形県最上郡の上竹野遺跡では弥生前期のこんな形の壺形土器が出ています。(こちらも写真転載がNGなのでリンクを貼ります。)

ここまで神仙思想や卑弥呼の鬼道まで視野を広げつつ壺形古墳説を深掘りしてきましたが、このあたりで前方後円墳に対して当初より抱いていた4つの疑問点(詳しくは「前方後円墳って。(前方後円墳の考察①)」に記載)を改めて確認しながら、壺形古墳の考えに基づいて順にみていきます。

疑問点①
出現期あるいは古墳時代前期前半の築造とされる前方後円墳が全国各地に存在するのはどうしてか。各地で同時多発的に発生したのか、それとも急速に全国に広まったのか。

2世紀後半に起こった倭国大乱を収めるために神仙方術の使い手である卑弥呼が女王となりました。それまで各地域では独自の墓制を展開していましたが、ひとたび神仙思想の象徴である壺形の墳墓が生み出されると、徐福以来、各地に神仙思想が広まっていたことが素地となって急速に広まっていくこととなりました。

疑問点②
前方後方墳はどのように位置づけることができるのか。前方後円墳とはまったく別物なのか、それとも同じ由来を持つのか。

この疑問についてはまだ十分な検討ができておらず、現時点では次のいずれかの考えを持っています。ひとつは、横から見ると胴部がぼてっとした形の広口壺を原形として生み出されたのが前方後方墳で、壺形古墳の異形タイプとする考えです。もうひとつは、もともと方形の墳丘墓が盛んに造られていた地域では単純に壺形古墳を取り入れるのではなく、伝統的な方墳をベースにして壺形に発展させた形、つまり前方後方形というユニークな墳形を生み出しました。方形の墳丘墓や方墳が多くみられる出雲ではその傾向が顕著に見られます。

疑問点③
後円部のみならず前方部に埋葬施設をもつ大型古墳(たとえば仁徳陵とされる大山古墳)がいくつも存在することをどう考えるべきか。

そもそも壺形古墳は墳丘全体が壺を表していることから、埋葬施設が墳丘のどこにあってもそれは壺の中、つまりは神仙世界にあると言えます。埋葬施設が設けられるのは主に円丘部であったと言えますが、それが前方部にあったとしても、また両方に設けられたとしても何らおかしくないことだと思います。

疑問点④
大型の前方後円墳は見せるための墳墓だと言われるが、本当にそうなのか。横からの姿を見せるのであれば前方後円という形に意味がない。

そもそも壺形古墳が造られ始めた当初は、壺形であることと、それが神仙世界を表していることに意味があるのであって、誰かに見せるためのものではなかったと考えます。その後、天皇家やその周囲にいる中央の豪族、さらには地方豪族が、一定の秩序のもとで古墳を巨大化させ、葺石などで装飾を施すようになっていく段階においては、それぞれに勢力を誇示しようとしました。すなわち「見せる」という要素が加わったと考えられます。

以上、疑問点②については確たる答に至っていませんが、それを除いて「前方後円墳は壺形古墳だった。さらには、古墳時代の様々な形状の古墳はすべて壺を原形としていた」という考えで納得が得られました。







↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする