倭国大乱を収めるために190年頃に共立された卑弥呼は、狗奴国との戦闘を続けていた250年頃に死去しました。つまり卑弥呼は60年の長きに渡って倭国を統治したことになります。卑弥呼が倭国を統治した弥生時代後期、各地で大型の墳丘墓が築かれました。
吉備では円丘部を挟んだ両側に方形の突出部を持つ全長が70mを超える双方中円形の楯築墳丘墓が造られました。墳丘各所から壺形土器や特殊壺の破片が見つかり、突出部分には朱塗りの壺形土器が配列されていたそうです。さらに出土した木棺の底には30㎏もの朱が厚く敷かれていました。2世紀後半~3世紀前半の築造とされます。
丹後では、底辺が南北39m・東西36mの方形をした赤坂今井墳丘墓が築かれました。墳頂部に6基、墳丘裾に19基の埋葬施設が確認されています。碧玉製管玉・ガラス製勾玉などで構成された頭飾りが出土したことで有名で、河内や讃岐・東海のものと思われる壺が見つかっています。ここでも棺の底部に朱が敷きつめられていました。弥生後期末、2世紀末から3世紀初頭の築造とされます。
出雲には9基の四隅突出型墳丘墓をもつ西谷墳墓群があります。3号墓は方形部が東西40m・南北30m、突出部を含めた全長は50m以上になります。朱塗りの土器や山陰の壺形土器などが大量に見つかり、吉備の特殊壺も出ています。ここでも木棺内に朱が敷きつめられていました。4号墓は方形部が東西32m・南北26mで、地元産の壺のほか、吉備の特殊壺も出土しています。いずれも弥生後期後葉の築造と推定されます。
2世紀末から3世紀にかけての時期、神仙思想でまとまった倭国の各クニの王はそれぞれ独自の墓制の中で神仙思想の要素を取り入れた葬送儀礼を展開しました。さらに、各地で他の地域の壺が見つかっていることから、王たちが他のクニの葬儀に参列するという交流があった形跡が認められます。互いに争った大乱を経て、卑弥呼の統治のもとで葬儀に参列しあう関係になっていたと考えられます。
前方後円形の墳丘墓が各地で見られるようになる古墳時代がすぐそこです。「前方後円墳は壺形古墳か?(前方後円墳の考察②)」において築造時期が4世紀に下らないことがほぼ確実な前方後円墳を挙げました。以下に再掲します。(これはあくまで3世紀築造とされる前方後円墳の一部であって全部ではありません。)
千葉県市原市の神門5号墳★(3世紀前半または中葉)
神奈川県海老名市の秋葉山3号墳(3世紀後半)
静岡県沼津市の高尾山古墳★(3世紀前半から半ば)
京都府木津川市の椿井大塚山古墳(3世紀末)
奈良県桜井市にある纒向石塚古墳★(3世紀前半または中頃)・纒向矢塚古墳(3世紀中頃より以前)・纒向勝山古墳★(3世紀前半から後半)・箸墓古墳(3世紀中頃から後期)
兵庫県姫路市の山戸4号墳★★(3世紀前半)
岡山県岡山市の矢藤治山古墳(3世紀半ば)・浦間茶臼山古墳(3世紀末)
徳島県鳴門市の萩原2号墓★★(3世紀前葉)
愛媛県西条市の大久保1号墳★★(3世紀前半)
福岡県福岡市の那珂八幡古墳(3世紀中葉)
大分県宇佐市の赤塚古墳(3世紀末)
★印は3世紀前半の築造の可能性があるもの、★★印が3世紀前半あるいは3世紀前葉とされるものです。全国にはこのほかにも3世紀前半の築造とされる前方後円墳がたくさんあります。卑弥呼の死去が250年頃なので、各地にある3世紀前半の前方後円墳は卑弥呼の存命中に誕生したことになります。
方形、四隅突出形、双方中円形など、各地で独自の形であった墳墓を卑弥呼の意思のもとに壺形に統一しようとしたのか、それとも自然発生的に各地に誕生したのか。3世紀前半において少なくとも各地の首長墓が壺形に統一されていたのであれば卑弥呼の号令があったと考えることができるでしょうが、残念ながらそういうことでもなさそうです。
墳墓の形を神仙思想の象徴である壺形にした首長はどこの首長だったのかはわかりませんが、各地の首長が神仙思想の観念に基づいて行った壺の供献や棺に朱を敷き詰める儀礼も同様で、おそらくどこかの首長が始めたことが口コミで次第に、いや、むしろ急速に全国に広まっていったと考えるのが自然ではないかと思います。先に見たように、首長どうしは互いの葬儀に参列しあう関係にありました。そのような機会を通じて半世紀ほどの間に全国に広まって定着したのではないでしょうか。
壺形古墳は、亡き首長の魂を安全に祖霊界に送り出し、神仙となって安らかに永遠に生き続けて現世の人々を守り、新しい首長のもとでのますますの繁栄を支えてもらうことを祈る舞台として、これ以上のものはないでしょう。亡骸を壺形古墳に埋葬するということは、最初から神仙世界そのものである壺の中に入るということ、そして朱が敷き詰められた棺に横たえられることは不老不死の仙薬を全身にまとって眠るのと同じ。そして亡骸のそばには神仙界が刻み込まれた鏡が置かれました。鏡は辟邪のために副葬されると言われていますが、一方で、神仙と会うための呪具であったともされます。(鏡については別の機会に詳しく考えようと思います。)
また、壺形古墳には周濠が巡らされていることがよくありますが、これも神仙思想の現れで、神仙界を浮かべる東海を表出しようという意図があったのではないかとされます。ただ、この周濠については壺形古墳を造る際の副産物のようなものだったのではないでしょうか。つまり、壺形に土を盛るために周囲を掘り下げた結果、「周壕」ができます。そこに水を張れば「周濠」になりますが、壺形古墳が築かれたのは必ずしも水が容易に引ける場所ばかりではないので、あくまで水が引けた場合に限ってのことだと思います。
このようにして神仙思想の観念が反映された壺形古墳が全国に広まった3世紀中頃に卑弥呼が亡くなります。神仙方術の力で倭国をまとめ、魏との外交を推進して「親魏倭王」の称号を得た女王卑弥呼の死です。各地の首長たちが集まって立派な壺形古墳を造営し、盛大な葬送儀礼が行われたことでしょう。
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吉備では円丘部を挟んだ両側に方形の突出部を持つ全長が70mを超える双方中円形の楯築墳丘墓が造られました。墳丘各所から壺形土器や特殊壺の破片が見つかり、突出部分には朱塗りの壺形土器が配列されていたそうです。さらに出土した木棺の底には30㎏もの朱が厚く敷かれていました。2世紀後半~3世紀前半の築造とされます。
丹後では、底辺が南北39m・東西36mの方形をした赤坂今井墳丘墓が築かれました。墳頂部に6基、墳丘裾に19基の埋葬施設が確認されています。碧玉製管玉・ガラス製勾玉などで構成された頭飾りが出土したことで有名で、河内や讃岐・東海のものと思われる壺が見つかっています。ここでも棺の底部に朱が敷きつめられていました。弥生後期末、2世紀末から3世紀初頭の築造とされます。
出雲には9基の四隅突出型墳丘墓をもつ西谷墳墓群があります。3号墓は方形部が東西40m・南北30m、突出部を含めた全長は50m以上になります。朱塗りの土器や山陰の壺形土器などが大量に見つかり、吉備の特殊壺も出ています。ここでも木棺内に朱が敷きつめられていました。4号墓は方形部が東西32m・南北26mで、地元産の壺のほか、吉備の特殊壺も出土しています。いずれも弥生後期後葉の築造と推定されます。
2世紀末から3世紀にかけての時期、神仙思想でまとまった倭国の各クニの王はそれぞれ独自の墓制の中で神仙思想の要素を取り入れた葬送儀礼を展開しました。さらに、各地で他の地域の壺が見つかっていることから、王たちが他のクニの葬儀に参列するという交流があった形跡が認められます。互いに争った大乱を経て、卑弥呼の統治のもとで葬儀に参列しあう関係になっていたと考えられます。
前方後円形の墳丘墓が各地で見られるようになる古墳時代がすぐそこです。「前方後円墳は壺形古墳か?(前方後円墳の考察②)」において築造時期が4世紀に下らないことがほぼ確実な前方後円墳を挙げました。以下に再掲します。(これはあくまで3世紀築造とされる前方後円墳の一部であって全部ではありません。)
千葉県市原市の神門5号墳★(3世紀前半または中葉)
神奈川県海老名市の秋葉山3号墳(3世紀後半)
静岡県沼津市の高尾山古墳★(3世紀前半から半ば)
京都府木津川市の椿井大塚山古墳(3世紀末)
奈良県桜井市にある纒向石塚古墳★(3世紀前半または中頃)・纒向矢塚古墳(3世紀中頃より以前)・纒向勝山古墳★(3世紀前半から後半)・箸墓古墳(3世紀中頃から後期)
兵庫県姫路市の山戸4号墳★★(3世紀前半)
岡山県岡山市の矢藤治山古墳(3世紀半ば)・浦間茶臼山古墳(3世紀末)
徳島県鳴門市の萩原2号墓★★(3世紀前葉)
愛媛県西条市の大久保1号墳★★(3世紀前半)
福岡県福岡市の那珂八幡古墳(3世紀中葉)
大分県宇佐市の赤塚古墳(3世紀末)
★印は3世紀前半の築造の可能性があるもの、★★印が3世紀前半あるいは3世紀前葉とされるものです。全国にはこのほかにも3世紀前半の築造とされる前方後円墳がたくさんあります。卑弥呼の死去が250年頃なので、各地にある3世紀前半の前方後円墳は卑弥呼の存命中に誕生したことになります。
方形、四隅突出形、双方中円形など、各地で独自の形であった墳墓を卑弥呼の意思のもとに壺形に統一しようとしたのか、それとも自然発生的に各地に誕生したのか。3世紀前半において少なくとも各地の首長墓が壺形に統一されていたのであれば卑弥呼の号令があったと考えることができるでしょうが、残念ながらそういうことでもなさそうです。
墳墓の形を神仙思想の象徴である壺形にした首長はどこの首長だったのかはわかりませんが、各地の首長が神仙思想の観念に基づいて行った壺の供献や棺に朱を敷き詰める儀礼も同様で、おそらくどこかの首長が始めたことが口コミで次第に、いや、むしろ急速に全国に広まっていったと考えるのが自然ではないかと思います。先に見たように、首長どうしは互いの葬儀に参列しあう関係にありました。そのような機会を通じて半世紀ほどの間に全国に広まって定着したのではないでしょうか。
壺形古墳は、亡き首長の魂を安全に祖霊界に送り出し、神仙となって安らかに永遠に生き続けて現世の人々を守り、新しい首長のもとでのますますの繁栄を支えてもらうことを祈る舞台として、これ以上のものはないでしょう。亡骸を壺形古墳に埋葬するということは、最初から神仙世界そのものである壺の中に入るということ、そして朱が敷き詰められた棺に横たえられることは不老不死の仙薬を全身にまとって眠るのと同じ。そして亡骸のそばには神仙界が刻み込まれた鏡が置かれました。鏡は辟邪のために副葬されると言われていますが、一方で、神仙と会うための呪具であったともされます。(鏡については別の機会に詳しく考えようと思います。)
また、壺形古墳には周濠が巡らされていることがよくありますが、これも神仙思想の現れで、神仙界を浮かべる東海を表出しようという意図があったのではないかとされます。ただ、この周濠については壺形古墳を造る際の副産物のようなものだったのではないでしょうか。つまり、壺形に土を盛るために周囲を掘り下げた結果、「周壕」ができます。そこに水を張れば「周濠」になりますが、壺形古墳が築かれたのは必ずしも水が容易に引ける場所ばかりではないので、あくまで水が引けた場合に限ってのことだと思います。
このようにして神仙思想の観念が反映された壺形古墳が全国に広まった3世紀中頃に卑弥呼が亡くなります。神仙方術の力で倭国をまとめ、魏との外交を推進して「親魏倭王」の称号を得た女王卑弥呼の死です。各地の首長たちが集まって立派な壺形古墳を造営し、盛大な葬送儀礼が行われたことでしょう。
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