古代日本国成立の物語

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前方後方墳の考察⑪(大和の円形周溝墓)

2024年07月18日 | 前方後方墳
壺形古墳が発祥した畿内では方形周溝墓が主たる墓制として隆盛していましたが、そんな状況でどうして壺形古墳の原型となった円形由来の墓が造られていたのかを考えてみたいと思います。

円形周溝墓はもともと讃岐、阿波、播磨といった東部瀬戸内地域で盛んに造られた墓ですが、播磨では遅くとも弥生中期前葉には小野市の河合中カケ田遺跡、赤穂市の東有年・沖田遺跡で出現し、その後は弥生後期から終末期にかけて有年原・田中1号墓のように大型化するものが現れます。瀬戸内東方では神戸市の深江北町遺跡、郡家遺跡、猪名川流域では伊丹市の口酒井遺跡、豊中市の豊島北遺跡、服部遺跡、さらに淀川水系を遡って北河内地域に入った茨木市の総持寺遺跡などで見られます。福永伸哉氏は、摂津地域は弥生中期までは方形周溝墓を普遍的に営んでいたものの、後期以降は東部瀬戸内方面からの影響で円丘系墳墓が見られるようになったとします。このように弥生後期以降の播磨から摂津にかけての一帯は円形周溝墓が優勢な地域であり、この地域にある服部遺跡において円形由来の壺形周溝墓が誕生したのは頷けます。

一方、纒向石塚古墳のある大和はもともと円形周溝墓のない地域でしたが、2016年に奈良県橿原市の瀬田遺跡で7mの通路部がついた全長26mの円形周溝墓が見つかったと発表されました。大和で初めての円形墓で、『奈良文化財研究所紀要』によれば庄内0式期または纒向1式期の造営が想定されています。新聞などでは2世紀中頃~後半と書かれていましたが、これまでの話と整合性を図るために植田文雄氏の土器編年表にある歴年代を当てはめると、纒向石塚古墳と同じ200年~220年となります。さて、円形墓のなかった大和に突然に出現した瀬田遺跡の円形周溝墓はどこから入ってきたのでしょうか。


纒向石塚古墳(纏向石塚古墳第9次調査配布資料より)


瀬田遺跡の円形周溝墓(現地説明会資料より)


瀬田遺跡の円形周溝墓(産経新聞2016年5月13日より)

上述した円形周溝墓の分布から考えると淀川から木津川を経て北側から奈良盆地に入ってきたルートが想定されますが、木津川から奈良盆地南部までの間に円形周溝墓が見あたりません。そうするともう一つ、大和川を経由する西側からのルートが想定されますが、福永氏によると大和川流域にあたる中河内・南河内地域は弥生後期から古墳時代初頭までは圧倒的な方丘墓地帯で、円丘墓をほぼ受け入れなかったそうですが、次のようにわずかながらも円形周溝墓が検出されているのです。

大阪市平野区の長原遺跡では4基の方形周溝墓とともに通路部のついた径11.5mの1基を含む3基の円形周溝墓が出ており、いずれも弥生時代末期から古墳時代初頭にかけてのものです。また隣接する八尾市の八尾南遺跡では弥生後期末から古墳時代初頭の30基前後の周溝墓の中に円形に近いものが見つかっています。同じく八尾市の郡川遺跡でも2基の方形周溝墓とともに2基の円形周溝墓が見つかっていて、うち1基は通路部が付いた径10m弱のものです。成法寺遺跡も八尾市にあって円形周溝墓1基のほか、前方後方形周溝墓1基、方形周溝墓3基が出ています。播磨から摂津、北河内へ、そして中河内から大和川を遡って円形墓が大和に伝播し、瀬田遺跡の円形周溝墓につながり、そこから着想を得て纒向石塚古墳が誕生したと考えることができそうです。

ちなみに、弥生中期以降、方形周溝墓が隆盛していた近江においても3世紀前半(庄内式併行期前半)に入ると突然に円形の墓が造られるようになります。長浜市の五村遺跡では9基の方形周溝墓に混じって全長28mの前方後円形周溝墓が出現します。同じく長浜市の鴨田遺跡では3基の方形周溝墓の隣りに全長19mの帆立貝形の前方後円形周溝墓が見つかっています。滋賀県教育委員会による『鴨田遺跡発掘調査概要』によれば、姉川右岸一帯は物部氏が掌握した地域であり、現在でも長浜市に物部の地名が残っています。たいへん興味深く示唆に富む事実です。そういえば、先に見た中河内地域、とりわけ八尾市は6世紀頃には物部氏の拠点となり、蘇我氏に討たれた物部守屋の別業があったところです。やはり、物部氏と前方後円墳のつながりを想定したくなります。


『長浜市の遺跡7 鴨田遺跡』より

3世紀の初め、畿内の摂津や大和で円形周溝墓をもとに前方後円形の壺形古墳が生み出され、それが瞬く間に伝播して各地で前方後円形の壺形古墳が造られるようになったわけですが、ほぼ同時に方形墓を造営していた地域においても同じ現象が発生しました。おそらく彼らは摂津や大和、さらには近江で円形墓をもとに生み出された壺形古墳を見て、それが神仙界を意味する壺であることを聴き、自分たちも同じ墓を造ろうとしたのでしょう。ただし、方形墓という伝統的な集団のアイデンティティを維持したままでの壺形古墳を生み出したのです。これが前方後方墳(前方後方形周溝墓)で、東海地域の廻間遺跡、河内(中河内)の久宝寺遺跡、近江の神郷亀塚古墳および法勝寺遺跡がその発祥となります。とくに近江では前方後円墳と前方後方墳がほぼ同時期に出現したことになります。


(つづく)


<主な参考文献>
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係」 福永伸哉
「ヤマト政権成立期における猪名川流域の重要性」 福永伸哉
「河内地域の庄内式期・布留式期の墳墓について」 杉本厚典
「長原遺跡(NG03-6次)発掘調査現地説明会資料」 (財)大阪市文化財協会 
「成法寺遺跡 第1次調査~第4次調査・第6次調査報告書」 (財)八尾市文化財調査研究会
「八尾・よろず考古通信 26号」 八尾市立埋蔵文化財調査センター
「若江北・亀井・長原(城山)遺跡」 大阪府教育委員会
「八尾市文化財調査研究会報告92 Ⅰ.郡川遺跡(第3次調査)」 (財)八尾市文化財調査研究会
「区画溝と周溝墓 -滋賀県五村遺跡の調査結果をもとに-」 植野浩三
「長浜市鴨田遺跡発掘調査概要」 滋賀県教育委員会
「鴨田遺跡 第28次調査報告書」 滋賀県長浜市教育委員会
「米原の弥生 -米作りがはじまったころ-」 米原市教育委員会
「奈良文化財研究所紀要2017」 奈良文化財研究所





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