古代日本国成立の物語

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前方後方墳の考察⑭(前方後方墳の終焉)

2024年07月27日 | 前方後方墳
3世紀初めに円形由来ならびに方形由来の壺形古墳が登場し、3世紀後半の箸墓古墳の築造によって始まった古墳時代は7世紀初めまでの350~400年ほど続いたわけですが、その間、終末期を除いて継続的に築造された前方後円墳と違って、前方後方墳は意外に早く終焉を迎えます。植田文雄氏の著書『前方後方墳の謎』をもとにその様子を追ってみます。

出現地と考えられる近江では早くも4世紀中頃になると前方後方墳が造られなくなり、流域単位の主な古墳は前方後円墳になり、湖南地方では首長墓が円墳や帆立貝式古墳となります。濃尾地方では逆に4世紀に入って河川の中・上流域に拡大するものの、5世紀に入ると急激に姿を消します。伊勢では4世紀前半にはピークを終え、三河・遠江でもその築造時期は4世紀中頃までとみられます。北陸では、富山で4世紀代はしっかり前方後方墳世界となりますが5世紀に入ると円墳が拡大します。北陸の他の地域でも4世紀後半から前方後円墳が導入され始めます。

関東では、相模で4世紀のうちに前方後円墳に代わっていき、3世紀中頃に関東地方最古級の前方後方墳である高部30・32号墳を築いた上総でも4世紀後半には姿を消します。上・下侍塚古墳を始めとして前方後方墳のメッカである下野でも4世紀末を最後に前方後方墳が見られなくなり、上野でも4世紀後半に前方後円墳の時代を迎えます。同様に武蔵においても4世紀後半には前方後円墳が導入されます。東北では、3世紀後半に前方後方墳を受け入れた会津では4世紀前半まで、4世紀中頃以降に前方後方墳を導入した中通り地域や4世紀前半の仙台のいずれもが5世紀代には前方後円墳の時代になります。

以上のように近江より東の地域では遅くとも5世紀に入ると前方後方墳が造られなくなります。一方、西日本の状況はどうかと言うと、吉備では4世紀前半代は非常に多かった前方後方墳が4世紀後半に入ると全く造られなくなります。北部九州でも3世紀後半の吉野ヶ里遺跡など前方後方墳から始まるものの、4世紀中頃には前方後円墳となります。これらに対して出雲は特異な地域で、古墳時代中期以後も宮山1号墳や後期では山城二子塚古墳など前方後方墳が継続します。松江市南部の岡田山古墳は6世紀後半の築造です。このように出雲は列島で最後まで前方後方墳を造り続けた地域で、弥生時代の四隅突出型墳丘墓から古墳時代後期の前方後方墳や方墳まで、方形墓の伝統を堅持した地域と言えます。

また、3世紀後半に前方後円墳を採用した大王家の本拠地である大和においても意外に遅くまで前方後方墳が残り、新山古墳が4世紀中頃、列島最大の西山古墳は4世紀後半の築造と位置づけられます。いずれも100mを大きく上回りますが、規模では同時代の崇神陵に治定される行燈山古墳(242m)、垂仁陵に治定される宝来山古墳(227m)、景行陵に治定される渋谷向山古墳(300m)などには遠く及びません。以上のように西日本では6世紀まで続いた出雲を除き、東日本同様に5世紀には前方後方墳の築造が終わります。

3世紀初頭に前方後円墳とほぼ同じ頃に出現した前方後方墳が、出雲を除く全国各地において5世紀に終わりを告げるのはどうしてでしょうか。また逆に出雲において5世紀以降も造られ続けたのはどうしてでしょうか。5世紀といえば畿内において大和の大和・柳本古墳群および佐紀古墳群から河内の百舌鳥・古市古墳群に大王家の墓域が移った時期にあたり、このタイミングで応神陵に治定される誉田御廟山古墳(425m)や仁徳陵に治定される大仙古墳(525m)など4世紀までの大王墓である前方後円墳とは一線を画す破格の規模となりました。また、墓域の移動が大和から河内への政権の移動を示しているとする説もあります。

ここにふたつの可能性が考えられそうです。ひとつは大王墓の規模が突然に大規模になったことから、方形に強いこだわりを持つ出雲を除く各地の首長たちの円形由来の壺形古墳への憧憬がより一層強くなり、自然と前方後方墳が造られなくなったのではないか、ということ。もうひとつは、この時期に政権の移動があったとの前提で、河内の新政権が前方後方墳の築造を禁止し、政権に属する首長の墓は前方後円墳に限ると通達した可能性。この考えによるならば、前方後方墳を造り続けた出雲は政権に属さない敵対勢力であったということになり、このときの対立関係が『記紀』の出雲神話に反映された可能性まで考えられます。戦後に水野祐氏が唱えた三王朝交代説を支持するわたしとしてはこの後者の可能性を想定したいと思いますが、ここから先は機会を改めて考えることにします。


ここまで14回にわたって前方後方墳の由来や前方後円墳との関係、さらには前方後方墳も壺形古墳と言えるのか、というもともとの課題について論じてきましたが、わたしなりの一定の結論に辿り着くことができたので、このあたりで終わりにしたいと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


(おわり)


<主な参考文献>
「前方後方墳の謎」 植田文雄





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