継体天皇については4年前に以下のような8回シリーズで考察を試みた。
① 三王朝交替説
➁ 継体天皇の出自
③ 継体天皇の母系系譜1
④ 継体天皇の母系系譜2
⑤ 継体天皇の父系系譜1
⑥ 継体天皇の父系系譜2
⑦ 越前における伝承1
⑧ 越前における伝承2
その後、今年2024年7月に継体天皇の足跡を辿って近江・越前へのツアーを催行したことから、再び継体天皇への興味が湧いたので前回の続編という位置付けで、継体天皇が男大迹王として越前にいたときのことについて考えてみることにした。
継体天皇は幼少期を過ごした近江の地で父である彦主人王を亡くし、幼年で母の振媛とともに彼女の実家のある越前に移り住んだ。その後、大和では武烈天皇崩御後に皇統が途絶えかねない事態に陥ったため、大伴金村以下の重臣は越前の男大迹王を皇室に迎え入れることを決定し、男大迹王は58歳にして第26代継体天皇として即位することとなった。西暦508年のことである。58歳で即位したということは越前で過ごした時間はなんと半世紀に及ぶことになる。ただし『古事記』ではその崩御の歳を43歳としているので、その年齢に大きなズレがあるが、ここでは『日本書紀』の記述に従って考えていきたい。
西暦2007年(平成19年)、福井県や滋賀県では継体天皇即位1500年を祝う様々なイベントが開催された。そして継体天皇にまつわる様々な伝承が広く一般に知られるようになった。とくに越前における男大迹王の伝承としては大きく①越前平野の治水・国土開発と産業奨励にまつわる伝承、②潜龍していた味真野にまつわる伝承、の2つに分けることができ、各々の内容として次のようなものがある。
①越前平野の治水・国土開発と産業奨励にまつわる伝承
■大規模な治水事業を行い、九頭竜川・足羽川・日野川の三大河川を開拓して湿原の干拓に成功した。この結果、越前平野は実り豊かな土地となって人々が定住できるようになった。
■三国に港を開いて水運を発展させ、稲作、養蚕、採石、製紙、製鉄などを奨励し、様々な産業を発展させる基礎を作った。
■男大迹王が河和田の郷へ視察した際に冠を壊してしまった。片山村の漆塗り職人がこれを修理して献上したところ、大変喜んで「片山椀」と命名して産業として奨励し、これが今日の越前漆器に発展した。
■足羽山の笏谷石は越前青石とも呼ばれ、男大迹王が産業として奨励した伝承に基づき、近年まで足羽山で採掘されてきた。
■男大迹皇子は古代製鉄技術を駆使して鉄製農具や今までにない鉄製道具を量産し、それを使って農業振興や治水事業を推進した。
②潜龍していた味真野にまつわる伝承
■鯖江市上河内町の山中に自立するエドヒガンの古木は男大迹王が如来谷と呼ばれる山中に植えた薄墨桜の孫桜と伝わる。
■男大迹王が上京する際に、岡太神社の桜を形見とするよう言い残したが、上京後は花の色が次第に薄黒くなり、いつの頃ともなく薄墨桜と呼ばれるようになった。
■男大迹王が味真野に住んでいた頃、九頭竜・足羽・日野の三川を開く治水事業を行った際に建角身命・国挟槌尊・大己貴命の三柱をこの地に奉祀して岡太神社を創建した。
■男大迹王が味真野郷に住んでいた頃、当地の守りとして刀那坂の峠に木戸をもうけ、守護神として「建御雷之男命」を祀った神社を建てた。これが刀那神社の始まりである。
■男大迹王が味真野に住んでいた頃、学問所を建てて勉強をしていた。地名も文室と呼ばれ、ここに宮殿を建て応神天皇から男大迹王の父、彦主人王までの五皇を祀ったのが五皇神社である。
■勾の里は第1皇子である勾大兄皇子(第27代安閑天皇)の誕生の地で、男大迹王が月見の時に腰を掛けた月見の石が残されている。すぐ近くの桧隈の里は第2皇子の桧隈皇子(第28代宣化天皇)の生誕地と伝えられる。
■花筐公園の一角にある皇子ケ池は勾大兄皇子と桧隈皇子がこの地で誕生した時に産湯に使った池と伝えられる。
これらの伝承は『記紀』や継体天皇にまつわる系譜が記される『上宮記(逸文)』などには全く記されないために、前回は他の研究者の考察を参考にして考えるに留まったが、今回は前回のときに得た情報をもとに『足羽社記略』の抄本と世阿弥の著した謡曲『花筐』のシナリオを読むところから手をつけていくことにする。
『足羽社記略』は足羽神社の神主である足羽敬明が享保2年(1717年)に著した書で、越前国の地誌とでも呼べばいいのだろうか、越前国内各地の地名由来や地理について、とくに継体天皇を中心とした大王家系譜とのつながりや足羽神社を始めとする神社との関係を軸に書かれている。ただし、実際のところは史実と認めがたいことや、無理のあるこじつけが随所に見られることから、継体天皇やその一族を利用して神社の権威を高めて隆盛を図ることが目的であったとされている。
(「福井県文書館 デジタルアーカイブ福井」より)
享保17年(1732年)に著された抄本(足羽敬明自身による抄本)が福井県文書館に所蔵され、デジタルアーカイブ福井によって公開されている。そこには越前国内の敦賀郡、丹生郡、今立郡、足羽郡、大野郡、坂井郡にある計55の管郷、個別の場所として計67カ所、国名、郡名を合わせた全部で128の地名についての由来や地理的な説明が書かれている。郡ごとに内訳を見ると、敦賀郡(管郷6郷、地名3カ所)、丹生郡(管郷9郷、地名11カ所)、今立郡(管郷9郷、地名6カ所)、足羽郡(管郷10郷、地名23カ所)、大野郡(管郷9郷、地名4カ所)、坂井郡(管郷12郷、地名20カ所)となっている。
また著者は、これらを説明するにあたって多くの文献を参照、あるいは引用している。『古事記』『日本書紀』のほか、『続日本紀』『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』などの六国史、ほかに『先代旧事本紀』『日本紀略』『延喜式』『倭名類聚抄』『類聚三代格』『新撰姓氏録』『公望私記』『万葉集』などで、これらの文献にかなり精通していたことが窺え、その知識の上に著者の逞しい想像力を加えて書かれた書という印象である。次稿より内容を確認していく。
(つづく)
<参考文献等>
「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「古代日本国成立の物語」 小嶋浩毅
① 三王朝交替説
➁ 継体天皇の出自
③ 継体天皇の母系系譜1
④ 継体天皇の母系系譜2
⑤ 継体天皇の父系系譜1
⑥ 継体天皇の父系系譜2
⑦ 越前における伝承1
⑧ 越前における伝承2
その後、今年2024年7月に継体天皇の足跡を辿って近江・越前へのツアーを催行したことから、再び継体天皇への興味が湧いたので前回の続編という位置付けで、継体天皇が男大迹王として越前にいたときのことについて考えてみることにした。
継体天皇は幼少期を過ごした近江の地で父である彦主人王を亡くし、幼年で母の振媛とともに彼女の実家のある越前に移り住んだ。その後、大和では武烈天皇崩御後に皇統が途絶えかねない事態に陥ったため、大伴金村以下の重臣は越前の男大迹王を皇室に迎え入れることを決定し、男大迹王は58歳にして第26代継体天皇として即位することとなった。西暦508年のことである。58歳で即位したということは越前で過ごした時間はなんと半世紀に及ぶことになる。ただし『古事記』ではその崩御の歳を43歳としているので、その年齢に大きなズレがあるが、ここでは『日本書紀』の記述に従って考えていきたい。
西暦2007年(平成19年)、福井県や滋賀県では継体天皇即位1500年を祝う様々なイベントが開催された。そして継体天皇にまつわる様々な伝承が広く一般に知られるようになった。とくに越前における男大迹王の伝承としては大きく①越前平野の治水・国土開発と産業奨励にまつわる伝承、②潜龍していた味真野にまつわる伝承、の2つに分けることができ、各々の内容として次のようなものがある。
①越前平野の治水・国土開発と産業奨励にまつわる伝承
■大規模な治水事業を行い、九頭竜川・足羽川・日野川の三大河川を開拓して湿原の干拓に成功した。この結果、越前平野は実り豊かな土地となって人々が定住できるようになった。
■三国に港を開いて水運を発展させ、稲作、養蚕、採石、製紙、製鉄などを奨励し、様々な産業を発展させる基礎を作った。
■男大迹王が河和田の郷へ視察した際に冠を壊してしまった。片山村の漆塗り職人がこれを修理して献上したところ、大変喜んで「片山椀」と命名して産業として奨励し、これが今日の越前漆器に発展した。
■足羽山の笏谷石は越前青石とも呼ばれ、男大迹王が産業として奨励した伝承に基づき、近年まで足羽山で採掘されてきた。
■男大迹皇子は古代製鉄技術を駆使して鉄製農具や今までにない鉄製道具を量産し、それを使って農業振興や治水事業を推進した。
②潜龍していた味真野にまつわる伝承
■鯖江市上河内町の山中に自立するエドヒガンの古木は男大迹王が如来谷と呼ばれる山中に植えた薄墨桜の孫桜と伝わる。
■男大迹王が上京する際に、岡太神社の桜を形見とするよう言い残したが、上京後は花の色が次第に薄黒くなり、いつの頃ともなく薄墨桜と呼ばれるようになった。
■男大迹王が味真野に住んでいた頃、九頭竜・足羽・日野の三川を開く治水事業を行った際に建角身命・国挟槌尊・大己貴命の三柱をこの地に奉祀して岡太神社を創建した。
■男大迹王が味真野郷に住んでいた頃、当地の守りとして刀那坂の峠に木戸をもうけ、守護神として「建御雷之男命」を祀った神社を建てた。これが刀那神社の始まりである。
■男大迹王が味真野に住んでいた頃、学問所を建てて勉強をしていた。地名も文室と呼ばれ、ここに宮殿を建て応神天皇から男大迹王の父、彦主人王までの五皇を祀ったのが五皇神社である。
■勾の里は第1皇子である勾大兄皇子(第27代安閑天皇)の誕生の地で、男大迹王が月見の時に腰を掛けた月見の石が残されている。すぐ近くの桧隈の里は第2皇子の桧隈皇子(第28代宣化天皇)の生誕地と伝えられる。
■花筐公園の一角にある皇子ケ池は勾大兄皇子と桧隈皇子がこの地で誕生した時に産湯に使った池と伝えられる。
これらの伝承は『記紀』や継体天皇にまつわる系譜が記される『上宮記(逸文)』などには全く記されないために、前回は他の研究者の考察を参考にして考えるに留まったが、今回は前回のときに得た情報をもとに『足羽社記略』の抄本と世阿弥の著した謡曲『花筐』のシナリオを読むところから手をつけていくことにする。
『足羽社記略』は足羽神社の神主である足羽敬明が享保2年(1717年)に著した書で、越前国の地誌とでも呼べばいいのだろうか、越前国内各地の地名由来や地理について、とくに継体天皇を中心とした大王家系譜とのつながりや足羽神社を始めとする神社との関係を軸に書かれている。ただし、実際のところは史実と認めがたいことや、無理のあるこじつけが随所に見られることから、継体天皇やその一族を利用して神社の権威を高めて隆盛を図ることが目的であったとされている。
(「福井県文書館 デジタルアーカイブ福井」より)
享保17年(1732年)に著された抄本(足羽敬明自身による抄本)が福井県文書館に所蔵され、デジタルアーカイブ福井によって公開されている。そこには越前国内の敦賀郡、丹生郡、今立郡、足羽郡、大野郡、坂井郡にある計55の管郷、個別の場所として計67カ所、国名、郡名を合わせた全部で128の地名についての由来や地理的な説明が書かれている。郡ごとに内訳を見ると、敦賀郡(管郷6郷、地名3カ所)、丹生郡(管郷9郷、地名11カ所)、今立郡(管郷9郷、地名6カ所)、足羽郡(管郷10郷、地名23カ所)、大野郡(管郷9郷、地名4カ所)、坂井郡(管郷12郷、地名20カ所)となっている。
また著者は、これらを説明するにあたって多くの文献を参照、あるいは引用している。『古事記』『日本書紀』のほか、『続日本紀』『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』などの六国史、ほかに『先代旧事本紀』『日本紀略』『延喜式』『倭名類聚抄』『類聚三代格』『新撰姓氏録』『公望私記』『万葉集』などで、これらの文献にかなり精通していたことが窺え、その知識の上に著者の逞しい想像力を加えて書かれた書という印象である。次稿より内容を確認していく。
(つづく)
<参考文献等>
「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「古代日本国成立の物語」 小嶋浩毅